映画「QUEER」に向けてウィリアム・バロウズを知ろう(番外編):名もなき者が路上で吠える~「名もなき者/A Complete Unknown」
はじめに
ルカ・グァダニーノ監督の映画「QUEER」公開にに向けて、原作者のウィリアム・S・バロウズ、そして彼とその仲間たち:ビート・ジェネレーションを知ろうと、勝手にいろいろ勉強しているシリーズの、今回は番外編。
前記事はコチラ↓
こんな感じでビート・ジェネレーションについて色々書いているときに、タイミングよく、彼らに影響を受けたと言われるボブ・ディランの映画「名もなき者/A Complete Unknown」が公開されたので、さっそく観に行きました。なにかしらビート・ジェネレーションが出てくるかな?と気にもなったので。
そしてアカデミー賞でティモシー・シャラメが主演男優賞にノミネートされてましたが、こちらは受賞できず…(受賞はブルータリストのエイドリアン・ブロディ)。早く書かなきゃ…と思いつつ、ケルアックの「On The Road」についての記事を書くのが大変すぎて遅々として筆が進まず…(まだ関連本読んでるぐらいだし😅)。
もう話題性も薄くなってきちゃってますが(昨日別の映画観に行ったらもう上映回数が激減してた😲)、とにかく自分の記録として書いておきます。
映画公開に合わせてボブ・ディランについての記事とか動画とかは多く見かけたのですが、ボブ・ディランとビート・ジェネレーションとの関係について言及したものはあまり見かけなかった。しかし私的にはタイムリーなので、少しだけ映画感想と共に触れてみたいと思います。
名もなき者/A Complete Unknown
オスカー受賞はならなかったけど、歌とギター、ハーモニカを自分でやってるのはスゴかったですね。時々見せてくれる半裸もミュージシャンっぽいだらしなさ、ユルさが(おヘソまわりに)あって、これも役の為の体作り?と思ったり😆。
ただティモシー自身はもう29歳(ビックリ!)。しかし、まだ顔にあどけなさというか、カワイイ感じのベビーフェイスだからか、ちょっと10代の子が老け役してるような違和感を個人的には微妙に感じました(既に老けてるボブ・ディランしか知らないから、若い時をリアルタイムで知ってる層にはしっくり来ていたのかもしれないけど)。これから30代に入って、年相応の役を上手く演じれるように進化できるか?気になるところです。とっつぁん坊や感が抜けきらず、役が制限されないとイイな~と。ただ彼はユダヤ系で、その方面からの強力なプッシュがある気がするので、いつかは獲れるんじゃないかな?ディカプリオよりほど時間はかからない気がする。
Prince of Jews
少し話が逸れるのですが、やはりハリウッドはユダヤ系が強いんですよね。元々ユダヤ系によって作られたと言われてます。
第一次大戦前のNYにあったユダヤ人地区から出てきた起業家たちが映画産業を生み出し、その次の世代たちがハリウッドに移って映画の町を作り上げていった。なので幹部、プロデューサー、監督、脚本家、そして役者と、ユダヤ人が多いのはそういう理由。
アメリカ全体のユダヤ人の割合は2020年で2.4%。
で、この記事によると
歴代監督賞を受賞した37%がユダヤ人と書かれている。
3.7%じゃないですよ37%ですよ。
今年のノミネート作や受賞作を見ていても、ユダヤ人、ユダヤ系(親の片方とか、祖父母とか)の出演者やユダヤ関連の作品が多かった。
気になったので、主要な賞でどれだけユダヤ関連の作品があったかの表を作ってみました。(赤字の部分がユダヤ関連作品です。wikiでパパっと調べた範囲なので、もっとあるかもしれませんが…)クリックで拡大🔎

作品賞9作品のうち5作品がユダヤ関連やユダヤ系俳優が主演など。
そして俳優賞4つの内3人が、ユダヤ人もしくは役がユダヤ人。
作品賞&監督賞のショーン・ベイカーはユダヤ系ではないですが、主演のマイキー・マディソンがユダヤ人なので、ユダヤ上げには十分貢献してる。日本アカデミー賞で、作品内容や監督が日本人でも、外国人俳優(通名使ってないルーツがわかる方)が主演賞獲った場合を考えたらわかりやすいですよね。
追記:「Conclave」のイザベラ・ロッセリーニも母親のイングリッド・バーグマンにユダヤの系統があった。デミ・ムーアも今はどうかわかりませんが、以前はカバラ(ユダヤ神秘主義)に傾倒していたのは憶えている。こういう感じで他にもコネクションがあるひともいる可能性はある。
それでここ5年ほど遡って見てみたのですが、「パラサイト 半地下の家族」の時はアジア人が強かったり、黒人勢が強い時、メキシコ勢の強い時、LGBTQ関連が強い時など、年によってプッシュするマイノリティの傾向があるので、いつもいつもユダヤ系が強いわけではない。こういう他のマイノリティにスポットライトが当たるようになったのは、ここ20年ぐらいかな?それまでは”白すぎるハリウッド”とか言われてたし(ユダヤ人はその”白”に含まれてましたけどね)、ハル・ベリーが2002年の映画「チョコレート(Monster's Ball)」で主演女優賞を獲った時は、「歴史が変わった」的に結構な事件扱いだったのを憶えています。
それでもユダヤ関連と女性(フェミニズム、女性権利向上や女性解放)は定番のジャンル。人種、LGBTQ等の話題がないと、大抵この二つがその枠を埋めてる。
西部劇とかが盛んな頃は知らないけど、80年代くらいからはホロコーストやナチスを扱う映画も毎年とは言はないけど、ほぼ毎年~2、3年に一作品ぐらいは絶対話題作が作られてるイメージがある。最近だと「関心領域」とか。
で、話が逸れまくりましたが、そんなユダヤ人社会のハリウッドにとって、ティモシー・シャラメは猛プッシュしたくて仕方ない王子様、アイドル的存在なんだろうなと。ファッション・リーダーにもなってるし。
「君の名前で僕を呼んで」でもユダヤ人役で大ヒットを飛ばしてくれたわけですし、今回の「An Complete Unknown」も、映画ではチラッと手紙の宛名が出ただけでしたが、ボブ・ディランもユダヤ人なんですよね。本名はRobert Allen Zimmerman。
なので、これからも何度でもちょっとイイ感じの話題作に出たら、組織票の猛プッシュは受けれるはず。なにかよっぽどの悪評を買うとかしない限りは。
いや、なんだかこんな書き方したら彼に才能がないみたいに聞こえますね。彼には才能があると思うし、愛嬌もあるし、私は好きです。大ファンって程ではないですけど。カーダシアン家の人物と交際してても別にどうでもいいし(カニエ・ウエスト夫婦みたいにおかしなことしだしたら別だけど)、面白い作品を作ってくれたらそれでいい。
ただ彼が好もうが好まなかろうが、ユダヤ・コミュニティが勝手に応援するだろうなってことです。
イスラエルがガザで殺しまくってるのはさすがにドン引きですが、だからと言ってパトリシア・ハイスミスみたいにanti-semitic反ユダヤ主義って訳ではない。いいJewもいればヤバイJewもいる。今ハマって見てるYoutubeチャンネルは、アメリカのコメディアン、ジェシカ・カーソンのチャンネル。
見に来ている観客いじりが強烈で、最初はちょっと引いていたんだけど😅、ショート動画で何度か見ているうちにハマってしまった。彼女自身ユダヤ人で、レズビアンで、同性愛ネタ、下ネタ、人種ネタ、自分の過食症、メンタル問題なんかを、自虐的だったり攻撃的だったり、物凄い勢いで捲し立て続ける。頭の回転の速さの凄さに圧倒されます。分からないジョークもあるけど、特にゲイいじりが秀逸で、久々に大声上げて笑ってしまった。
ビートとの関係
映画に話を戻して、
映画の中でビート・ジェネレーションが出てきたかというと、一応「ビート」や「ビートニク」という言葉は出て来てました。しかしながらビート・ジェネレーションの作家たちとの交流なんかは全然なかった。もう少しボブ・ディランに影響を与えたとかいう話があるかな?と期待したんだけど…残念。
ただ代表曲の「風に吹かれて Blowin' in the Wind」や
「Like a rolling stone」は、
ケルアックの「On The Road」を凄く彷彿とさせる世界観の歌詞だな~と感じましたね。
(このサムネの若い時のディランを見ると、確かにティモシー・シャラメ味はあるな~と(逆か?シャラメにディラン味?)。ただディランの方がもっと尖がってる感じですね)
風に吹かれて、気の向くまま、転がる石のように、流れに任せて、旅をする、映画「On The Road」の挿入歌になっていてもおかしくない。
(映画「On The Road」の音楽はGustavo Santaolallaグスターボ・サンタオラヤ。「ブロークバック・マウンテン」も彼だった。あの切ない音楽が記憶に刻まれている。「モーターサイクル・ダイアリーズ」も。これは監督のWalter Sallesウォルター・サレスと再びタッグを組んでの起用)
ボブ・ディラン本人はどこまで意識していたのかはわからないけど、ビートの精神をよく表していると言われても全く違和感はない。映画の「On The Road」より原作の小説を読んでる方が、ボブ・ディランのこれらの曲が自然と脳裏で流れてくる感じ。彼のなんというかちょっとダルそうな歌声が、ビート=くたびれたと訳される感じととてもよく合ってるんですよね。
ところで、映画「Howl」ではBlowが”風に吹かれる”の意味と”Blow Job(フェラ)”の意味があるのでは?と、猥褻裁判で検察に問い詰められてたけど、ボブ・ディランの「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」のBlowin’もそんなダブルミーニングがあったりするのだろうか?…彼はストレートだからそれはないのかな😅。
ボブ・ディランとビート・ジェネレーション作家との関係ですが、特にアレン・ギンズバーグと親しかった様子。
ふたりでケルアックの墓参りに行ったりしている。
(これはディラン自身が監督したドキュメンタリー「Renaldo and Clara」(1978)からのシーンだそう。The rolling thunder tourの途中で訪れ、墓の前でケルアックの作品を朗読したそう)
「Subterranean Homesick Blues」のMVでは、ギンズバーグがカメオ出演している。(後ろの禿げた髭面の人物です)
ギンズバーグは詩人だから、同じく歌詞を書くディランとは共感する部分も多かったのかもしれない。まあケルアックは1969年には亡くなってしまうから、あまり交流を持てる機会もなかっただけなのかもしれないけど。
あと、ギンズバーグもユダヤ人なんですよね(ビートの他の二人は違う)。それに奇しくもディランの本名Robert Allen Zimmermanを見た時に、アッ、ボブ・ディランのミドルネームもアレンなの!?アレン・ギンズバーグと一緒じゃん!…となりました。そりゃ仲良くなってもおかしくない!?
ただギンズバーグ的にはビート精神を継ぐ継承者的に?可愛がってやってる感覚だったかもしれないけど、ディラン側からしたら、数多くいる影響を受けた一人でしかない…的な感じだったと、↓コチラの動画の教授が説明していました。この方、「ボブ・ディランとビート・ジェネレーション」というテーマで教えている先生だそう。今の私はムチャクチャ受講したい!w
雑誌「スクリーン」に載っていたエドワート・ノートンのインタビューで、彼が演じたピート・シーガーとボブ・ディランの関係を例えるのに、「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフとフロドの関係みたいだと言っていた。がっつり師弟関係というよりも、思想や想いを受けついで、彼らなりに自分のやり方で発展させてくれればいいよ…的な感じでしょうか?
ギンズバーグも最初は自分たちビートの後継者的に考えていたかもしれないけど、後年にはディランから刺激を貰ったりして、違う形で尊敬するようになったと。きっかけはどちらかだとしても、そこからお互いに刺激し合い高め合う、そういう関係はクリエイティブな分野では非常に大事ですよね。
***
先ほどの「Subterranean Homesick Blues」のSubterraneanというのは、ケルアックの「The Subterraneans(地下街の人々)」という小説から取っているんだそう。
この小説は「On The Road」(1957)の次、1958年に出したもので、これまたケルアックの半自伝的小説。NYに住む作家の自分とMardou Foxという黒人女性との恋の話らしいです。
そういえば「An Complete Unknown」の中でも、ボブ・ディランが一瞬だけ黒人女性と付き合ってる場面がありました。もしかして…この小説を真似して、ディランも付き合ったとか?🙄
あと、昔のドキュメンタリーか何かで、ディランが「On The Road」の文章をスラスラそらんじていた…という話もありました。
それほど好きだったのか…と思ったら、「On The Road again」という曲も1965年に出してました。ちゃんとwiki に「On The Road」からのインスピレーションと書かれています。
ただケルアックの「On The Road」からのインスピレーションはタイトルだけで、歌詞自体はMemphis Jug Bandというバンドの伝統的なブルース楽曲の歌詞に答えるようなものになってるんだそう。
確かにこういうのを知ると、いろんなところからのインスピレーションで、自分の作品として昇華していっているんだなというのがわかります。
映画の中でも、憧れの先輩歌手ウディ・ガスリーやジョーン・バエス、恋人のシルヴィなどからインスピレーション受けて貪欲に吸収して、チーン!!こんなん出ましたけど~!!みたいな感じでヒット作を生み出していってました。なんだか絶妙に、決して作品はパクリじゃないんだけど、アイデアは全くのオリジナルな発想でもない感じで、あ~なんでも海外からのアイデアを輸入し、改良して、よりよい商品作り上げてきた日本みたいな人なんだな~と思いましたw😁。
他にもコチラのRedditのスレッドの投稿によると
https://www.reddit.com/r/bobdylan/comments/1fgy8qv/beat_generation_influence_on_bob_dylan/
*「Gates of Eden」 (1965)→Wikiを見ましたが、特にビート作家に関する記述なし。ただ歌詞の内容がイギリスの画家兼詩人のウィリアム・ブレイクの「The Gates of Paradise」からインスピレーションを受けたものだそう。そして歌詞の中にマルクス主義の哲学に関することが書かれていたりもする。ギンズバーグもブレイクの詩を読んでいる時に神の啓示を受けたという話があったし、さらにマルクス主義だったはず。よってギンズバーグからの影響はありそう。
*ローリング・ストーンズ誌の創刊編集長だったデビッド・ダルトンによる「Who Is That Man」という著作に色々書いてあるだろうと。
調べてみたら、そもそもこのローリング・ストーンという雑誌名、発行人のJann Wennerは、A rolling stone gathers no moss(転石苔むさず)ということわざや、その他の歌や、そういう名前のバンド名の影響も言及しつつ、やはりボブ・ディランの曲「Like a rolling stone」から付けたと言っていたらしい(この歌のみの由来という人もいる)。
このA rolling stone gathers no mossということわざ(元々はイギリスのことわざ)、意味としては「一つの場所にも他の場所にも定着せず、常に動き回る人々は、責任や苦労から逃げている」というネガティブなものだったそう。それがアメリカに来て、意味も変化し、「(財産などもない)風来坊のイメージから、過剰な定着からの自由といった、より好意的なイメージへと分岐していった」んだそう。これって、まさに小説「On The Road」で語られていたテーマのひとつ。ビートの精神はボブ・ディランもだし、この有名な雑誌名にも影響していたんですね~。
*「Ballad of a Thin Man やせっぽちのバラッド」(1965)
この中に出てくるMr. Jones が当時しつこく質問してきたジャーナリストのことを歌ってるそうなんだけど、そのジャーナリストかどうかは分かりませんが、Al Aronowitzという音楽ジャーナリストがボブ・ディランにアレン・ギンズバーグを紹介し、のちにビートルズも彼によって紹介されたんだそう。(ビートルズにマリファナを教えたのも彼なんだとか)彼の著書「the blacklisted journalist」に色々書いてあるだろうと。
*こちらのサイトが紹介されていて、その中に5つのビート・ジェネレーションからの影響が記されている。
① ”’I read On the Road in maybe 1959. It changed my life like it changed everyone else’s”
「たしか1959年に「On The Road」を読んだんだ。あの小説がみんなの人生を変えたみたいに、ぼくの人生も変えたんだ」
とBobDylan.comに書かれている。←映画「An Complete Unknown」では、彼が1961年にNYに出てくるところから始まるので、この時には既にケルアックの「On The Road」を読んでいたということになる。
②「Desolation Row(廃墟の街)」について、Cass R. Sunsteinが書いた記事で、
”But it captures what Dylan cherishes in Jack Kerouac, who understood freedom in much the same way….”
「同じように自由を理解していたケルアックの中で大切にしていたものを、ディランもこの曲の中に取り入れています」と言うのがある。
ケルアックの小説「Desolation Angels」とスタイン・ベックの「Cannery Row」を合わせて付けた曲名だと言われている。
「廃墟の街」はどこにあるのか?とディランが尋ねられた時に
「そうだな、メキシコの国境を越えたところがそういう場所だ。コカ・コーラ工場があることで有名な。」と答えたそう。
レコーデイングでギターを担当したアル・クーパーは、「廃墟の街」を、「売春宿、いかがわしいバー、ポルノ・スーパーマーケットがはびこり、改修もできず、救済も不可能な地域」であるマンハッタン8番街の一帯を指していると示唆した」ともある。
これは「On The Road」の第4部、サルとディーンが旅するメキシコの様子とほぼ合致する。
ケルアックの小説「Desolation Angels」のwikiも読んでみましたが、「On The Road」が出版される前の1956~1957年辺りのケルアックの自伝的小説。禅や仏教への傾倒、母親との関係、ギンズバーグやバロウズなどのビート仲間たちへの複雑な想い(「Desolation Angels」のエンジェルたちはこの仲間たちのことらしい。荒廃していく友たちって感じ?)、割とポジティブなホモセクシュアルのキャラクターの登場…などが描かれているそう。
ワシントン州のDesolation Peakという山(←そこからタイトル取ってるのね)にある山小屋の火の見張り番として物語が始まり、そこで孤独な時間を過ごす(=これで禅や仏教に傾倒)。その後、SFでギンズバーグたちと会う(俗世間の俗まみれの連中と再び交流するべきか?そして仏教に傾倒したことで自身のキリスト教徒としての信仰の葛藤も生まれてくる)。そして1956年、舞台はメキシコに移る。そしてNY、バロウズがいたモロッコのタンジール、再びNY、カルフォルニア、メキシコと、かなり長い小説な模様。
ケルアックがドンドン精神的に孤立していく様が描かれるんでしょうか?晩年ドンドンアル中もひどくなり、荒廃していって早死にするのはケルアックの方だったことを考えると…なんとも皮肉な…。
③”Someone handed me Mexico City Blues in St. Paul in 1959,’ Dylan told him. ‘It blew my mind.’ It was the first poetry he’d read that spoke his own American language”
「1959年にセント・ポール(ディランの故郷ミネソタにある街)にいた時、ケルアックの「Mexico City Blues」を貰ったんだよ。まさにぶっ飛んだね。」それは彼自身が話すのと同じ言葉で書かれた最初の詩集だったんだ。
…とディランが言っていたとギンズバーグが言っていたと書かれた記事からの引用(ややこしい😅)。
この「Mexico City Blues」というのは、先ほどの「Desolation Angels」のなかで、メキシコ滞在していた時に書かれた詩節を集めたものだそう。
マリファナやモルヒネの影響下で書かれた部分が大半で、自発的散文のテクニックによって仏教信仰、精神状態、自身の創造性への失望なんかが書かれているらしい。
④Mark Polizzottiが書いた「ボブ・ディランが受けた文学的影響」によると、ボビーはまさにビート・ジェネレーションの産物。バロウズのカットアップ技法とこの頃の彼の歌(の作られ方?)はなぞることができるし、ケルアックの書き方との顕著な類似性も見られる。とくに「On The Road」や「Visions of Cody」に出てくるディーン・モリアーティのモデルとなったニール・キャサディの、聖愚者であり、また燃えるように恐ろしい天使のような人格と(自身を重ねていた可能性がある)。
「Visions of Cody」は、「On The Road」に入らなかったパートを独立させたような作品。なのでここでは ディーン・モリアーティではなくコディ・ポムレーという名前で、ニール・キャサディのことが書かれている。
ボブ・ディランがディーン・モリアーティみたいになりたかったのかはわかりませんが、「An Complete Unknown」の最後のコンサートのシーン。皆の反対を押し切って、エレキギターで自分のしたいことをやりきる様は、確かにディーン・モリアーティ的ビートな反抗精神はあったかもしれません。フォーク界の常識、慣習をブチ破ったわけですからね。
2015年の曲「Visions of Johanna」が「Visions of Cody」から来ているのでは?という意見もありました。
⑤ここは先ほど動画のギンズバーグと一緒にケルアックの墓を訪れたことが書かれている。
ここで興味深いのは、ケルアックの墓に刻まれた「He honored life」(彼は人生を大事にした=生き切った…というニュアンスかな?)という文字を見て、ギンズバーグが「君もこんなことを刻んでもらいたい?」と訊いたら、「いや、何も彫られていない墓のほうがいいな」と、当時34歳のディランは答えたそう。
まさに「A Complete Unknown」ならず「A Complete Unetched」(何も刻まれていない墓)。とにかく何かしらの型にはまる、はめられるのが嫌なんでしょうね。
コチラのスレッドにもいろいろ書き込まれている。
https://www.reddit.com/r/bobdylan/comments/18yaefy/references_to_the_beat_generation/
*2020年の曲「Key West (Philosopher Pirate)」の歌詞に
“like Ginsberg, Corso and Kerouac”という部分がある。
*1975年にリリースされたアルバム「The Basement Tapes」の中で、「See You Later Allen Ginsberg」という部分がある(楽曲というほど長くない)。
*バロウズが一番影響を与えたのではないか?彼のカットアップ技法について、1965年にディラン自身が説明しているインタビューがある。
または2005年に作られたマーティン・スコセッシによるボブ・ディランのドキュメンタリー「No Direction Home」の中でも、二つの道路標識を切って、実際に見せて説明しているらしい。
ディランが1964~1965年頃に書いた詩集「Tarantula タランチュラ」は、このカットアップの技法で書かれているそう。(バロウズの「裸のランチ」は1959年)
2000年以降のインタビューでは何回もこのことを話していて、おそらく今でもこの技法を使っているであろうと。
*ビート作家からの影響として、
Ginsberg: "eyeball kick". Burroughs: cut-ups. Kerouac: word vomit
と書かれていた。これがシンプルで一番わかりやすい説明かも?
バロウズの"cut-ups カットアップ技法"は、ひとつの作品、文章なんかをバラバラにして、その位置を入れ替え、適当に引っ付けて、そこから生まれる偶然の産物で別の文章や物語を再構築する手法。
画家の友人ブライオン・ガイシンとパリのビートホテルに滞在中、彼が絵によるカットアップのようなことをしていて、それを文章でやってみようとしたのが始まりらしい。
ギンズバーグの"eyeball kick アイボール・キック"とは、彼がハイになってセザンヌの絵を眺めている時、隣り合わせで塗られている反対色から思いついたそうで、それを言葉で置き換えてみた。目ん玉とキック、みたいに全く関連し無さそうな二つの言葉を並べてみる技法。
ディランの歌詞だと「Gates of Eden」の中の「motorcycle black Madonna two-wheeled gypsy queen」(バイクに乗った黒いマドンナ、二輪車のジプシークイーン)などだと。←当時だと黒人やジプシーの女性がバイクに乗るなんて考えられなかったんでしょうね。
ケルアックの"word vomit ワード・ヴォミット"とは、Word Vomit: (n) The words that come out of your mouth without any thought, often when you are drunk, embarrassed, angry, or given criticism in a social environment.と書かれている。
酔っぱらったり、恥じていたり、怒っていたり、社会的環境において批判を受けた時などに、よく考えずに、興奮して、咄嗟に口から出た言葉、うっかり言ってしまった言葉的な感じでしょうか?思いつくまま出てきた即興文。直訳したら”ゲロ言葉”。ゲロ吐くときにどうにも抑えられないあの感じ。あれを言葉で置き換えたということですね。
学のなかったニール・キャサディが(しかしIQは高かった)ケルアックに書いた手紙で、思いのたけをほとばしるように書き綴った様からインスパイアされ、ケルアックが作り上げたと言われている。インテリが作り上げてきたお上品でキレイな文章にはない生の感情や躍動のある文章。
映画「QUEER」でも、薬をした後に何か口から吐き出すようなシーンを見かけた。それはこの”ワード・ヴォミット”を表していたりするのか、確認したい。
これらのどのテクニックも、ボブ・ディランは絶妙に取り込んで自分の作品を作り上げてきた。
となると、彼がノーベル文学賞を受賞したのも、ある意味、問題児ばかりだったビート作家、ビート文学がようやく世界的に認められ、評価されたともいえる。そしてその授賞式に出席しなかったディラン。ウン、正しい。それこそ彼らへの正しい敬意の表し方(笑)。
能歌手ボブ・ディラン
ボブ・ディランとビート・ジェネレーションの関係は大体理解できたので、映画「A Complete Unknown」を観ての感想を書いておきます。
私にとってボブ・ディランという人物は、いままでどこかで聴いたことはあっても特別ハマったわけでもない。全然詳しくもない。ノーベル賞を受賞した時でさえ、特別その軌跡を追おうと思ったりもしなかった。
雑誌スクリーンに載ってた、シルヴィ役エル・ファニングのインタビューでは、キャメロン・クロウ監督の映画に出た時(「幸せへのキセキ(We Bought a Zoo)」の時なら13歳頃)に、現場でずっとボブ・ディランが流れていた。それでガッツリハマり、ディラン教の信者(←実際そう表現してる)になったと言っていました。部屋の壁にポスターは貼るし、手に彼の名前を何度も書いたりもしていたそう(←そこまで?😅)。
あと、日本で熱心なディラン教信者といえばみうらじゅん。
少し前に空耳アワーの安斎肇と全国各地を旅する「勝手に観光協会」の動画を観始めて止まらなくなり、UPされてるのを全県制覇したんです😆。
↓最新県は和歌山県。笑い祭りに行ってみたいw
それでディラン教ならず、みうらじゅん病に罹った私は他のみうらじゅん動画も観漁って、そのなかで彼がボブ・ディラン愛を語る動画もいくつか観たところでした。↓これとか。
とはいえ、私がディラン教に入信することはなく、また日々過ごしていたところで、教祖様の伝記映画「A Complete Unknown」が公開され、あ~なるほど、こうやって教祖様は誕生したんだな~と、当時の流れや社会の反応が垣間見れて、漸く教祖様のことを少し理解した…という感じ。とはいえ、まだ全然入信する気は起こっていないけど😅。
でも、昔多くの俳優がボブ・ディラン役をするということで話題になっていたコチラの映画、「I’m Not There」(2007)を今凄く観たいな~とは思っています。当時、話題になっていたけど興味がなくスルーしていた。しかし俳優が本当に豪華だし、ケイト・ブランシェットが演じるボブ・ディランは絶対観て面白そう。ティモシーと比較したい。
そして何と言っても監督が「キャロル」「May December」のトッド・ヘインズじゃないですか!?ゲイである監督がボブ・ディランをどう調理したのか?それも興味湧き湧きです。
で、教祖誕生映画を観たけども、では彼の人物像が理解できたかというと、それはなんというか、結局”よくわからない”んですよね。
コチラの解説動画の方が仰ってる通り、ボブ・ディランという人物の内面というか、感情、葛藤みたいなものの掘り下げがないので、結局「ボブ・ディランとは?」という疑問符は残り、何考えてるのか?どうしてそういう行動をするのか?そこはわからないまま。←まあ人間なんてそう簡単に説明なんてできませんけども。
うっすら感じたのは、二人の女性を弄んで(?)ボブ・ディランは中々なゲス野郎だなと😅。エル・ファニング演じる糟糠の彼女シルヴィ・ルッソが聴いてる前で「The Times They Are A-Changin’」を、モニカ・バルバロ演じる浮気相手のフォーク歌手ジョーン・バエズと一緒に歌う。
Changin’~♪と自分の心変わりを歌に乗せて伝える手法。イヤすぎる!!😱
そして一旦別れたのに、またバエズとの関係が行き詰まったら戻って来てよりを戻そうとする。しかしまた目の前で息の合ったデュエットを見せられる。これまたイヤすぎる!!😭 わかってやってるなら結構なサディスト。
そして先輩のウディー・ガスリー、ピート・シーガーに上手く取り入り、ジョーン・バエズの人気も利用し、自分が世に出て成り上がるために結構狡猾に立ち回っていたようにも見えた(←薄っすらそう感じるようには映画も作られていたと思う)。本人存命中にもかかわらず、そういう風に描かれていたということは、やはり当時からそういう見方をするネガティブな意見もあって、ずっとコントロバーシャル(物議を醸す)な存在だったんだろうなと。
それが自分の表現を追求するための求道者として、たまたまそうなったというならスッと流せるんですけど、やはりどこかズ~っと計算してるしたたかさみたいなものも感じて、観てて純粋に応援しにくいというか、何とも言えないモヤモヤ~も抱えながら、それを解消できる答えを探すも、答えは絶対に見せないし…という感じ。
実際、そういう部分がないと、ショービズ、エンタメの世界でこんなに長く続かないと思うわけで。当時からのミュージシャンの殆どはプレッシャーや才能枯渇で消えてしまってる中、時代と共に変化し、常に新しいものを取り入れて進化してきたというのはかなりの戦略家じゃないと無理な気がする。そしてそれはやはり凄いことで、それをし続けることも才能なんですよね。
ナチュラルに時代の空気を嗅ぎ取る才能、それを絶妙に作品に昇華できる才能も勿論あった。どこか吟遊詩人というか、大衆が望むものを感じ取り、先どって歌にする。「百年の孤独」で出てきたコロンビアの吟遊詩人バジェナートにも通ずるような才能もある気がする。
あと、先述したスコセッシのドキュメンタリー「No Direction Home」。
1:20辺りのシーンで仮面をつけて歌っている。
あと↓のサムネのように顔を白塗りしてる時もある。
これって、自分の正体を隠す行為ともいえる。
もちろん自分を曝け出すことが恥ずかしいとか、苦痛とかもあるかもしれない。しかし、これをすることの最も腑に落ちた理由が、この間やっていたNHKスペシャルで語られていて、コレだ!と思いました。
日本のボーカロイド文化が世界に広がっていき、熱狂を生んでいるという内容。
そこで、なぜ機械的な音声であるボーカロイドが支持されるのか?同じ声じゃないか?という意見に対してのひとつの答えを示してくれていました。
それは”没個性”。
例として日本の”能”をだして説明。
能は演者が変わっても、同じ仮面をつけることで観客はその役を理解する。あの無表情な女性の面や、表情があっても変わらない翁の面。しかし場面場面で、何か感情があるかのように見えてくる。それは、その時の自分の感情をそこに映し出して自分が見ているから。
演者の個性を限りなくそぎ落とすことで、見てる側の感情が最大限に引き出されることになる。
ガチャガチャ余計なことが映るスクリーンを前にしたら、その映像の影響を受けたり引っ張られたりするけど、全く何も映っていないスクリーンに対峙すると、自分の想像力でいろいろな世界が無限に広がる。
ボーカロイドもこれと同じ現象だという。無機質な声のおかげで、そこに余計な気持ちを向けることなく、純粋に歌詞の世界に埋没できる。また歌手の生々しい現実的な人間性や思想に振り回されたり幻滅したりすることがない。
そうなることで、より自分のことを歌ってくれてる、自分に向けて歌ってくれてるという自分本位な解釈がしやすくなる。
これは確かに教祖化するなぁ…と納得でした。
私は前々から”歌巫女”というのが人間社会の色んな文化であったと思ってるんですけど、例えば宇多田ヒカルとかは母親も歌手、その親も全国を旅しながら歌を歌ってきたというような話も聞いたことがある。そういう歌う民を遡ると、どこかの神社とかで歌ったり踊ったりしていた巫女に行く着くのではないかと。そういう彼女たちは、ある意味神聖な存在で、そこに生々しい人間味は要らない。神聖という名の無機質であればあるほどいい(だから衣装も白基調が多い)。神と民衆を繋げる依り代になってくれる存在であればいい。それで彼女らの歌や踊り、音楽の力などで、民衆側の気持ちが最大限に増幅され、トランス状態に陥る。民衆全ての、それぞれの想いを受け止める存在。または反射して返す鏡のような存在ともいえる?だから神器に鏡があるのかも?
宇多田ヒカルも、デビュー当時は藤圭子の娘というのは知られたけど、それ以外の情報は殆どなくて謎の存在だったことが神秘性を高めた。その後も「人間活動」といって休養したり、今もロンドン在住で、出来るだけ余計な人間味、人間臭さは曝け出さないようにしている。自分の神聖性についてよくわかっていて賢いなと思ってる。
先ほどのNHKスペシャルでも取り上げれれていたAdoも、顔を見せない覆面歌手だからこそ、聞く側は純粋に歌に没頭して楽しんでいる(Adoという名前も、狂言の「シテ」と「アド」が由来)。顔を隠したまま握手会をしようとするニュースで批判が多く出たのも、リスナーは中途半端に個性を出して貰いたくないから。そうなることで自分が歌に乗せたい、またはぶつけたい感情がキレイに返ってこず、Adoという人間の個性が邪魔し、変質してしまうから。それは望んでないんですよね。
この歌の”神秘性”を保ってくれている(必要最低限の情報以外は排除している)歌手は教祖化しやすい。
アメリカのDIVAとかも歌の女神的意味なので歌巫女に近い。
ただマライアにしてもホイットニーにしてもセリーヌにしても、私が没頭しやすかったのはデビューして少しした頃だった気がする。まだ彼女たちは歌が上手いという記号だけで、それ以上の情報を受け取らなくてよかったから。そこから彼女たちも人生を歩み、いろんな苦労も経験し、それはそれで歌に深みや味も出るんだけど、やはり歌自体への没入感は減少した。彼女たちの人生という人間味で彩られた鏡によって、私の感情がキレイに反射しなくなってしまったから。鏡の鏡面だったところに、彼女たちの人生を描いたカラフルな絵を描かれて、それを見せられてるような状態に変わってしまったという感じかな?それは美術鑑賞的な別のアクティビティになってしまうんですよね。
ボブ・ディランは歌巫女ではないけど歌神官?ソング・シャーマン?とにかく聴衆が自己を反映しやすいように、絶妙な加減で個性を消す、出さない。しかしちゃんと自己顕示欲もあって、映画の最後のシーンのエレキを使って演奏するシーンなんかはある意味”我”を突き通す。それも体制への反抗という”強さ”を打ち出すから心酔するものも出てくる。そしてそれは新しい時代の先取りという意味を持たしている。聴衆に新しい自己投影のカタチを提示して、見事に聴衆もそれに気づかされ、その新しいやり方を受け入れていく。
自己主張は最小限に抑えながら、それでも民衆を煽り、引導していく、このあたりはやはり神官、神職っぽさがある。
このバランスをずっと計算してやって来たなら、やはり天才だと思うし、逆に無意識にやり続けてきたんだとしても、それはそれで恐ろしい。
あとは、このまま謎を残して死ぬことを考えていると思う。死後も大衆が、ボブ・ディランはこうだったんだ、ああだったんだと議論し続けることができるように。神話になるための最終計画。果たしてどうするんだろう?別に異性関係なんかの多少の醜聞くらいは全然OK。逆に醜聞は神話への糧になる可能性もある。実際いままでそうしてきた。逆にみみっちい醜聞は残さないで欲しいかな。自分のポテトを孫に一本取られて殴ったとかw。
最後に
映画の星評価は…★7.5ぐらいでしょうか?
勉強にはなった。でも特別感情が揺さぶられたりすることがなかった。
淡々と時系列を追っていた感じだったので。
あと、ビートとボブ・ディランということでは、この方の動画もわかりやすかった。
バロウズの解説もわかりやすかった。これは「QUEER」を見るのにバロウズについて簡単に知るのに役立つ(私みたいに長々と書くんじゃなくて😅)。
ボブ・ディランが監督したドキュメンタリー「Renaldo & Clara」の前半。
スコセッシのドキュメンタリーも前半だけYoutubeに落ちてた。いろんな関係者、ギンズバーグのインタビューなんかも含まれていて、「A Complete Unknown」とは違ったアプローチでボブ・ディランを知ることができそう。
こちらはボブ・ディランがケルアックの「On The Road」を朗読してるという音声。サルとかニールとか言ってる。ラジオか何かの音声なのかな?
「A Complete Unknown」の監督は映画にも出てきたジョニー・キャッシュの映画「Walk The Line」を撮ったジェームズ・マンゴールド。
マンゴールドも調べたらハーフ・ジューイッシュ。母親がユダヤ人。
ホアキンも両親がセックスカルトに入っていたから忘れがちだけど、母親はNY出身のユダヤ人なんですよね。
ではジョニー・キャッシュもユダヤ人だったのかと調べたら、それはない様子。ただ祖母がネイティブ・アメリカンのチェロキーの血が入っていると言っていたのに、2021年に娘がルーツを探すという番組でDNAを調べたら、サハラ砂漠周辺のアフリカ人DNAが両親どちら側からも発見されたそう。
じゃあユダヤ人とは関係ないかと思ったら、イスラエルを「Holy Land」と呼んで何度も訪れたり、かなりのユダヤシンパだった模様。
ちゃんと深掘りしてないので間違っていたら申し訳ないのですが、敬虔なクリスチャンで、そこから旧約聖書、そしてさらにユダヤ教へと傾倒していった様子。
なんだか最後もユダヤ関係の話になってしまいました(;^_^A。
そう言えばルカ・グァダニーノ監督もユダヤ人っぽい顔だけど、どうなんだろう?とググったら、父親はイタリア人(特にユダヤ系という記述なし)母親がアルジェリア人。
ただユダヤ人じゃないなら、どうして「君の名前で僕を呼んで」の主人公エリオとオリバーはユダヤ人だったんだろう?
あれは原作のアンドレ・アシマンがユダヤ人だったんだっけ?と調べたらSephardic Jewsセファルディムというアフリカなどにいたユダヤ人の系譜らしい(いろいろあるのね)。
そして、なぜ二人がユダヤ人だったかという部分について議論しているスレッドがあったので読んでみると、ユダヤ迫害とゲイ迫害をオーバーラップさせているんだと。ハァ~なるほどねぇ~😲。うっすらとは意識してたけど、明確には考えてなかったので聞いて納得。舞台の80年代イタリアでどこまでユダヤ人差別が残っていたのかは分からないけど、マジョリティでない世界で出会ったゲイ同士+ユダヤ人同士。結ばれる絆もより強くなる…というわけですね。
人種という記号の裏にある文脈もちゃんと読み取れるような知識と知性があれば、より作品を深く楽しめるんだなぁ~と改めて考えさせられました。
