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【プラトン全集第1巻『エウテュプロン』】エウテュプロン

〖はじめに〗

裁判所へ向かう道で、  
ソクラテスは一人の男に出会いました。

エウテュプロン。

彼は、自分は神々のことをよく知っている、  
と考えていた人物です。

人々から見れば、  
少し変わった預言者のような男でした。

一方のソクラテスは、  
まさにこれから「不敬神」の罪で訴えられようとしていました。

神々を正しく敬っていない。  
若者を堕落させている。  
新しい神的なものを持ち込んでいる。

そう疑われていたのです。

神々について知らないと言われるソクラテス。  
神々について知っていると言うエウテュプロン。

この二人が、裁判所の前で出会う。

ここで問われる「敬虔」とは、  
神々をどう敬い、  
何を正しいふるまいとするのか、ということです。

ここから、プラトンの対話篇『エウテュプロン』は始まります。

けれど、この話が面白いのは、  
ただ宗教について語るからではありません。

エウテュプロンは、普通の相談に来たのではありませんでした。

彼は、  
自分の父を訴えに来ていたのです。

① 父を訴えに来た男

エウテュプロンの話は、かなり重いものです。

彼の父は、ある使用人を捕らえました。

その使用人は、  
別の人間を殺したとされます。

そこで父は、その男を縛り、  
外の穴のような場所に放置しました。

役人に判断を仰ぐつもりでした。

しかし、その返答を待っているあいだに、  
拘束された男は死んでしまった。

だからエウテュプロンは言います。

父は人を死なせた。  
だから訴える。

ここで、周囲の人々は驚きます。

相手は父親です。  
家族です。

しかも死んだ男は、  
もともと人を殺した者でもある。

それなのに、父を訴えるのか。

親族たちは、エウテュプロンを責めます。

父を訴えるなど、不敬ではないか。  
家族に対して、そんなことをするのか。

けれど、エウテュプロンは揺らぎません。

正しいことは、相手が父であっても正しい。  
悪いことは、相手が父であっても悪い。

そして、自分にはそれがわかる。

なぜなら、  
自分は神々に関わることを知っているからだ。

彼は臆病な人ではありません。

むしろ、確信の人です。

世間が何と言おうと、  
親族が何と言おうと、  
自分は正しいことをしている。

その強さがあります。

けれど、ソクラテスはそこに問いを差し込みます。

では、あなたがそこまで知っているという  
「敬虔」とは、いったい何なのか。

② ソクラテスは、教えてほしいと言う

この場面のソクラテスは、  
いつものように皮肉が効いています。

彼はエウテュプロンに対して、  
ほとんど弟子のような顔をします。

私はいま、不敬神の罪で訴えられている。  
あなたは、敬虔についてよく知っている。  
ならば、私に教えてほしい。

そうすれば、私は裁判でこう言える。

「私はエウテュプロン先生から、敬虔を学びました」

ソクラテスは、ただ教わりたいのではありません。

本当に知っていると言う人が、  
本当に説明できるのか。

そこを確かめようとしている。

エウテュプロンは、最初にこう答えます。

敬虔とは、  
いま私がしているようなことです。

つまり、悪いことをした者を訴えること。  
たとえ相手が父であっても、罪を見逃さないこと。

一見、筋は通っています。

けれど、ソクラテスは満足しません。

それは、敬虔の「例」ではないか。

私が聞いているのは、  
敬虔そのものが何か、ということだ。

エウテュプロンは、  
自分の行動が正しいことを説明したつもりでした。

しかしソクラテスが求めていたのは、  
もっと根本の問いでした。

敬虔とは何か。

③ 神々を持ち出した男

エウテュプロンは、自分の行動を支えるために、  
神々の話を持ち出します。

ゼウスは、父クロノスを罰した。  
クロノスもまた、父ウラノスを倒した。

神々の世界でも、  
父が悪ければ罰せられているではないか。

だから、自分が父を訴えるのも正しい。

エウテュプロンは、そう考えます。

彼は、父を訴える自分を、  
神々の物語の側に置きました。

家族よりも、神々の正義。  
血のつながりよりも、罪の清め。

そのように見れば、  
彼の行動には、たしかに一本の筋があります。

けれど、ソクラテスはそこを突きます。

神々のあいだでも、争いはある。  
神々のあいだでも、意見は分かれる。

ある神が好むことを、  
別の神は嫌うかもしれない。

それなら、ある行為は、  
ある神には敬虔で、  
別の神には不敬になるのではないか。

神々を持ち出したことで、  
答えは強くなったように見えました。

しかし実際には、  
問いはさらに深くなってしまったのです。

④ いちばん鋭い問い

エウテュプロンは、さらに答えます。

敬虔とは、  
神々に愛されるものです。

神々が好むもの。  
神々に喜ばれるもの。  
それが敬虔だ。

今度こそ、答えになっているように見えます。

けれど、ソクラテスはここで、  
この対話のいちばん鋭い問いを出します。

あるものは、  
神々に愛されるから敬虔なのか。

それとも、  
敬虔だから神々に愛されるのか。

これは、ただの言葉遊びではありません。

神々が「好む」から正しいのだとすれば、  
神々の好みが変われば、  
正しさも変わってしまいます。

昨日は正しかったことが、  
今日は正しくないものになるかもしれない。

けれど、  
正しいから神々がそれを愛するのだとすれば、  
神々とは別に、  
「正しさの基準」がどこかにあることになります。

そうなると、  
神々が愛していること自体は、  
敬虔の根拠ではなくなってしまう。

どちらを選んでも、  
エウテュプロンが頼りにしていた「神々」は、  
答えの土台になりません。

父を訴えるほどの確信はある。  
神々のことを知っているという自信もある。

それでも、  
敬虔そのものは、手の中からすり抜けていく。

⑤ 問いの前に残されたソクラテス

裁判所の前には、  
二人の男が立っていました。

一人は、  
町から不敬だと訴えられたソクラテス。

もう一人は、  
自分こそ敬虔を知っていると信じ、  
父を訴えに来たエウテュプロン。

知らないと言う男が、問い続ける。  
知っていると言う男が、言葉に詰まっていく。

問いは、一度進んだように見えて、  
また元の場所へ戻ってきます。

答えたはずなのに、  
まだ答えになっていない。

つかんだはずの言葉が、  
また指のあいだからこぼれていく。

そして最後に、エウテュプロンは言います。

急いでいる。  
もう行かなければならない。

彼は去っていきます。

裁判所の前に、ソクラテスが残される。

敬虔を知っているはずの男は、  
答えを残さずに立ち去った。

これから不敬神で裁かれる男だけが、  
まだ問いの前に立っている。

一人は、知っていると言った。  
一人は、知らないから問うた。

そして最後に残ったのは、  
答えではありませんでした。

問いでした。

敬虔とは、何か。

その問いだけが、  
裁判所の前に、静かに残ったのです。

プラトン全集第1巻 エウテュプロン

【豆知識】
クロノスは、父ウラノスを大鎌で傷つけ、いちもつを切り取った。
切り落とされたものは海へ投げ込まれ、そこに生じた泡から、美の女神アフロディーテが生まれたと伝えられます。
後のトロイ戦争の発端になる人物です。

ビーナス誕生🐣

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