【連載恋愛小説】Destin “運命” | Chapter1ー#1「静けさとざわめきのあいだで」
パリ、ソウル、そしてスイス。 遠く離れた三つの街を舞台に、 ひとつの偶然が二人の人生を静かに結び始める物語。
過去に大切な人を失った フランス人女性。 世界を駆ける 韓国の俳優。 交わるはずのなかった二つの時間が、 小さな出来事からゆっくりと動き出す。
傷ついた心が再び動き出す瞬間、 人は“運命”を信じたくなる。
雪の影響で、シャルル・ド・ゴール空港は混乱の渦の中にあった。
電光掲示板には「DELAYED」の文字が並び、
ロビーには行き場を失った人々が溢れている。
スマートフォンを見つめる人。
床に座り込む家族連れ。
ため息だけが静かに積み重なっていく。
窓の外では除雪車が滑走路を往復し、
空港全体が、まるで“止まった時間”に閉じ込められているようだった。
その喧騒から少し離れた専用ラウンジ。
そこにもまた、いつもとは違う空気が漂っていた。
空席を探して歩く人々。絶え間なく流れるアナウンス。
コーヒーカップがテーブルに置かれる小さな音。
それらが重なり合い、落ち着かないざわめきをつくっている。
Sion は窓際からラウンジを見渡していた。
韓国を代表する俳優の1人として、世界的ブランドのキャンペーン撮影のためパリを訪れていた。
長い撮影はようやく終わったばかりだった。
だが今この空港での彼は、ただ帰国便を待つ1人の乗客にすぎない。
照明の熱。終わらない撮り直し。求められ続けた笑顔。
そのすべてが静かに彼の体力を削っていた。
疲れていないと言えば嘘になる。
深夜便で韓国へ戻ればようやく眠れる——そう思っていた。
けれど、雪はその予定をあっさりと狂わせた。
スマートフォンを取り出す。
バッテリー残量は2%。 思わず小さく苦笑する。
昨夜、充電を忘れていたことを今さら思い出した。
視線を巡らせると、コンセントがあるカウンター席が1つだけ空いていた。 Sion は少し足早にそこへ向かい、
ようやく見つけた“避難場所”に腰を下ろす。
だがその瞬間——動きが止まった。
スタッフに渡されたのは充電ケーブルだけ。肝心のアダプターがない。
遠くのスタッフに視線を送るが、この距離では気づかれそうにない。
席を立てばすぐに誰かに取られてしまうだろう。
どうするべきか。
そう思いながら隣へ視線を向けた。
そこには、1人の女性が座っていた。
パリのファッション業界で働く Nana。
開かれたノートパソコン。静かな横顔。
周囲のざわめきとは別の時間を生きているような、不思議な落ち着きがあった。
Sion は一瞬だけ迷う。
それでも、小さく声をかけた。
「……こんにちは」
彼女が顔を上げる。
少し驚いたように瞬きをしてから、柔らかく微笑んだ。
「こんばんは」
その自然な正しい日本語に、Sion の肩から少しだけ力が抜ける。
拙い英語で事情を説明すると、彼女はすぐに理解した。
そしてバッグからアダプターを取り出す。
「どうぞ」 差し出された手は迷いがなく、その仕草にはどこか温かさがあった。
Sion は礼を言い、それを受け取る。
だが次の瞬間、二人は同時に気づく。
——スマートフォンに接続できない。
彼のスマートフォンはUSB-C。ケーブルはLightning。規格が違っていた。
短い沈黙。 そして、どちらからともなく小さな笑みがこぼれる。
彼女はもう一度バッグを開く。
今度は黒いカード型のモバイルバッテリーを取り出した。
厚さは1センチにも満たない。
その片隅には、小さな白いステッカーが貼られていた。
『Destin』
——フランス語で“運命”。
彼女は何気なくそれを差し出しただけだった。
けれど Sion は、その文字に目を留める。
意味は分からない。 それでもなぜか、心に残った。
Nana は充電が始まったことを横目で確認すると、小さく微笑む。
Sion は再びお礼を言い、カウンターにもたれかかって、
そのまま静かに眠りに落ちていった。
