見出し画像

【連載恋愛小説】Destin “運命” | Chapter1ー#2「返せなかった小さくて大きなもの」

パリ、ソウル、そしてスイス。 遠く離れた三つの街を舞台に、 ひとつの偶然が二人の人生を静かに結び始める物語。
過去に大切な人を失った フランス人女性。 世界を駆ける 韓国の俳優。 交わるはずのなかった二つの時間が、 小さな出来事からゆっくりと動き出す。傷ついた心が再び動き出す瞬間、 人は“運命”を信じたくなる。

AF5094便は、雪に覆われたパリの夜を離れ、
およそ12時間のフライトを経て、韓国へと到着した。
予定より大幅に遅れながらも、機体は静かに、仁川空港へと滑り込む。


シートベルト着用サインが消えると、機内に、小さな安堵の空気が広がった。前方のカーテンが開き、ファーストクラスの乗客が順に降りていく。
その後に続く、ビジネスクラス。
Sion は帽子を軽く整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
長いフライトだった。眠ったはずなのに、どこか心だけが落ち着かない。
通路へ出た、その瞬間。不意に、思い出す。
——返せなかった。ラウンジで借りたモバイルバッテリー。
搭乗アナウンスに急かされるように、そのままポケットに入れてしまった。

掌の中にある、小さな黒いモバイルバッテリー。
その隅には、白いステッカー『Destin』。
意味は分からない。
それはただの“忘れ物”のはずだった。
けれど、それ以上のものを持ち帰ってしまったような気がしていた。
あの女性も、困っているだろうか。返してほしいと、思っているはず。

——名前も知らない。
——連絡先も知らない。
——返す方法さえ分からない。


入国審査を終え、到着ロビーへ向かう。スタッフが待っている。
「Sion さん、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
いつものように、笑顔を返す。
けれど車に乗り込んだあとも、意識はどこか別の場所に残っていた。

窓の外を流れる、夜のソウル。
その景色の向こうに、ふと空港のラウンジが重なる。
ノートパソコンの淡い光。静かな横顔。柔らかい声。
ほんの数分の出来事だったはずなのに、なぜか記憶から離れない。

Sion は、小さく息をつく。
理由なんてない。
ただ、返せなかったことが気になっているだけ—— そう、自分に言い聞かせながら、再び、窓の外へ視線を向けた。


その頃。
Nana もまた、ようやく機内から降りていた。
エコノミークラス後方の席は、どうしても降機に時間がかかる。
長い通路を歩きながら、彼女もまた、同じことを考えていた。

——返ってこなかった。モバイルバッテリー。
高価なものではない。買い直せばいいだけのはずなのに。
それなのに胸の奥には、手放したくない理由が、確かに残っていた。


到着ロビーへ向かう途中、ふと足が止まる。
視線の先に、大きな広告パネル。世界的ブランドの香水の広告。
そこに映る男性の横顔が、一瞬だけ、空港のラウンジの彼に重なった。

まさか。
そう思いながらも、視線は離れない。
次の瞬間、自分でも可笑しくなって、小さく笑った。
名前も知らない人。 もう二度と会わないかもしれない人。
それなのに、広告にまで重ねてしまうなんて。
Nana は肩をすくめ、歩き出した。


外国人レーンには長い列。
順番を待ちながら、ガラス越しに夜の空港を眺める。
どうやって返してもらえばいいのだろう。
時間が経てば、顔の記憶さえ薄れていく。
胸の奥の重さだけが、少しずつ増していった。


それから1時間後。ソウル市内へ向かうリムジンバス。
窓の外を、街の灯りが静かに流れていく。
Nana の頭に浮かんでいたのは、モバイルバッテリーそのものではなかった。あの白いステッカー『Destin』
それを貼ってくれた人がいた。
もう会えない人。 忘れようとしても、忘れられない人。
Nana は静かに目を閉じる。 窓に映る自分の顔を、見ないようにして。


翌日。Nana の仕事は朝から慌ただしかった。
韓国支社との会議。販売戦略の見直し。パリ本社とのオンラインミーティング。 資料確認、取引先との調整。気づけば、夕方になっていた。

ホテルへ戻ると、空はすっかり暗い。
ロビーに入った瞬間、聞き慣れた声が響く。
「Nana!」
ソファから勢いよく立ち上がり、手を振る女性。Sara だった。
高校時代からの親友。
久しぶりなのに、まるで昨日も会っていたような距離感。

二人は近くのレストランへ向かった。
料理が並び、グラスが重なる。話題は途切れない。
仕事、家族、最近観た映画。笑い声が、テーブルの上に流れていく。

やがて、少し静かな時間が落ちる。 Nana が、ふと口を開いた。
「そういえばね」
「ん?」
「空港で、モバイルバッテリー貸したの」
「優しいじゃない」
「返ってこなかった」
Sara は吹き出す。
「なにそれ」
「それだけじゃないの」
Nana はグラスを見つめる。少しだけ迷ってから、続けた。

「貼ってたステッカーがあったの」
Sara の表情が変わる。 Nana は小さくつぶやいた。
「Joyce が貼ってくれたものなの」
その名前が出た瞬間、空気が少しだけ静かになる。

Joyce 。Nana の胸の奥に、ずっとしまわれていた名前。
「前に空港で取り違えたことがあってね」
Nana は、微笑む。
「それから、お守り代わりに貼ってくれたの」
『これで絶対に戻ってくる』 そう言って笑った彼の顔が、ふっと蘇る。
思い出すたび、胸の奥が痛む。
Sara は何も言わず、そっとNana の手を包んだ。
昔から、そうだった。無理に励まさない。ただ、隣にいる。

「返してもらおう」
Sara が言った。
「え?」
「絶対に見つける」
Nana は思わず笑う。
「どうやって?」
「分かんない」
即答だった。
二人は顔を見合わせて、同時に笑い出す。

無茶な話だ。
——名前も知らない。
——連絡先も知らない。
——返してもらう方法さえ分からない。

それでも。
「ありがとう」
Nanaは、小さくつぶやいた。
胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


そして彼女は、まだ知らない。
あの小さなモバイルバッテリーが、
再び止まっていた時間を動かし始めることを。

前の話
次へ:Chapter1 -
#3 →


いいなと思ったら応援しよう!