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【歴史小説】星姫―名を隠したペルシアの王妃エステル#3

▼第一話


『星姫』主な登場人物

エステル(ハダッサ)

養父モルデカイと暮らしていた、十七歳のヘブル人の少女。王命によって後宮へ連れていかれ、皇妃候補となる。素朴で思いやり深いが、自らの出自と信仰を隠して生きなければならない。

モルデカイ

幼くして両親を亡くしたエステルを育てた養父。穏やかで親しみやすい文官だが、王宮の権力関係を見抜く鋭さを持つ。後宮の外からエステルを支える。

ハタク

エステル直属の宦官で、護衛と連絡役を務める。かつては辺境守備軍の指揮官だった。実直で警戒心が強く、次第にエステル個人へ忠誠を寄せるようになる。

フェリザ

エステルに仕える女官たちをまとめる女官長。冷静で判断が早く、後宮の規則と危険を知り尽くしている。厳しさと母親のような包容力を併せ持つ。

ナヴァズ

エステルの身の回りを支える中級女官。前皇妃ワシュティに仕えた経験を持ち、後宮の内情にも詳しい。エステルの出自を知る数少ない人物だが、複雑な事情を抱えている。

ミナ

エステルと同年代の下級女官。商家の娘で、舞踊を得意とする。明るく人懐っこい性格で、緊張の続く後宮の中でもエステルを笑顔にする。

タラ

ミナと同年代の下級女官。物静かで思慮深く、リュートの演奏を得意とする。人の苦しみに敏感で、何が正しいのかを深く考え続ける。

クセルクセス

広大なペルシア帝国を治める皇帝。圧倒的な権力を持つ一方、感情と欲望に流されやすい。その命令が、エステルたちの運命を大きく左右する。

ハマン

ペルシア軍の実権を握る将軍。高い能力を持つ一方、強い自尊心と権力欲を抱えている。モルデカイとの対立をきっかけに、エステルたちを大きな危機へ巻き込んでいく。



第三章 皇帝の腑に潜む刃

「望むものを何でも与えよとの王命です」とヘガイに告げられたエステルは、部屋こそ皇妃室に移動したものの、女官たちの顔ぶれはそのまま据え置き、新たな女官を加えることを拒んだ。

通常、皇妃には直属の中級女官が二十名以上、さらに下級女官を含めれば総勢百名近くが仕える。それが後宮の慣例であり、伝統だった。

女官たちは単なる従者にとどまらず、情報網の一端を担い、主の権力を象徴する存在でもある。

そのため、多くの側室たちが競って影響力を広げようとする中、エステルの慎ましい姿勢は異質であった。

このエステルの行動は「先の大戦で財政が悪化している帝国の状況を鑑み、皇妃自らが後宮の負担を軽減するよう、ご配慮されたのだ」という噂として広まり、その行動は賢明さと深い配慮の表れとして評価された。

さらにエステルは、新たな女官を迎えるどころか、後宮内の自らに割り当てられた区域を改装し、自身の上級女官だけでなく、中級や下級の女官たちまでもが同じ区域で生活できるようにしたのである。その決断は、従来の慣習を大きく覆すものであった。

こうして皇妃となって数か月が過ぎて、後宮は落ち着きを見せ始め、気づけば春先となっていた。陽気な暖かさが戻るにつれて、痛みで陰鬱としたエステルの心も少し晴れやかになった。

エステルはいつものようにロザナに髪を整えてもらっていた。

「ロザナ、今日は私がしばらく調理場を使ってもいいですか?」

ロザナもすっかり慣れた調子で微苦笑を浮かべつつも「よろしいですよ」と言ってくれる。

エステルはチラリと横にいたタラとミナを見ると、「お願いね」と一言伝えた。

彼女たちは心得たようにうなずくと、エステル専属の執事として、新たに当てがわれた宦官ハタクをともなって部屋の外へ出ていった。

この部屋の中で唯一の新顔であるハタクは、皇帝直々の人事であった。

その存在は、エステルを補佐するためだけではなく、彼女の監視役という側面も持ち合わせているのではないかと、フェリザ女官長を初めロザナたちは睨んでいた。

「ほら、もう行きますよ」

滅多にない外出の機会とバザールの熱気に当てられ、興奮する女官たちを見て、ハタクはため息をつきながら先導した。まるで見えない縄で彼女たちを引っ張るように、足早に歩き出す。

帝国の辺境リディア出身のハタクはかつて、辺境守備軍の指揮官としてペルシア軍に所属し、数々の武功を挙げた軍人だった。しかし、増加する反乱分子への弾圧が苛烈さを増す中、彼の故郷リディアでも過剰な弾圧が行われた。

その状況を良しとせず、軍を離れたハタクは、疑惑の目を向けられることになり、やむなく皇帝への忠誠を示すため、彼は去勢し、後宮警備の任を志願したのだった。

もともとの武芸に加え、強い忠誠心、さらには辺境の出身ゆえに多言語に通じていた彼は、エステル直属の宦官として抜擢されるに至った。

「ハタク殿はエステル様に何をあげたら良いと思う?」

馴れ馴れしい口調でミナが尋ねてくる。十八歳になったばかりの彼女はまだ幼さを残しつつも、屈託のない笑顔を見せる。

「でも、エステル様が何かをもらって喜ぶようにも思えないです」

タラが首を傾げながら呟く。

まだ出会って数か月のハタクも、普段の自室にいるエステルの装いを思い出して内心で同意する。

彼女は公の場に姿を見せるとき以外、宝飾品をほとんど身に着けず、もう少ししてもいいのではないかと思うくらい、化粧もごく薄かった。

また、エステルは後宮の階級や上下の慣習を好んでおらず、女官たちにもできるだけ対等に接してほしいと言っているらしい――。

後宮に来た当初は他の女官たちの振る舞いに合わせて、エステル自身も敬称で女官たちを呼んでいたというのだから、面白い。

「故郷を思い出すようなものは」

絞り出すようにハタクが提案する。

しかし、そんな提案もタラにあっけなくはねのけられてしまった。

「でもエステル様はスサ出身なんですよね」

タラの返答は意外だった。ハタクの目には、帝都近郊の人々とはエステルの顔つきが少し違うように見えていたからである。

一般的なペルシア人のまっすぐで高い鼻梁を持つ彫刻的な顔立ちとは少し異なり、エステルのやや丸みを帯びた温和さが感じられる顔立ちは、むしろ、地中海側の辺境の町々に住む人々の顔に似ているようにも見えた。
思案していると、耳にタラの弾むような声が飛び込む。

「綺麗!」

見ると、彼女たちが熱心に商人と話し込んでいる。その手には、深い青色で染められた衣裳が握られていた。

その布は、彼の故郷から見える海を思い起こさせる神秘的な青だった。貝から抽出される染料を使ったその布は、地中海沿岸地域では珍しくないが、スサではほとんど見られない貴重品だった。

熱心にタラとミナは話し込んでいたが、やがて落胆の表情を浮かべて、そこを離れようとする。

「買わないのか」

ハタクが問いかけると、タラが言葉を返す。

「市井の特にバザールで買った布を皇妃様のお召し物にするわけにはいきませんから」

なるほど、その通りだと思いつつ、ハタクは思ったことを口にする。

「では、あなたたちが手作りをした装飾品では?」

手首や足首につける装飾品であれば、公の場では難しくとも、普段のエステルの姿を思えば問題ないようにも思えた。

その言葉に目を輝かせたタラとミナは、合点がいったようで、ハタクに礼を述べて、織物商の露天に駆けて行った。

しばらくして、戻ってきた彼女たちの手には青々とした毛糸の束があった。

買い物から戻ると、下女が着る作業着をまとったエステルと、何か言いたげな表情を浮かべるロザナが出迎えた。

ロザナの顔は、広がる困惑を静かに映していた。

作業着をまとったエステルは、初めて彼女に会ったときのことをハタクに思い出させた。

あの時も、彼女はなぜか下女のような格好をして、荷物を運んでいた。そのためにあろうことにも、ハタクは皇妃であるとは思わず、横柄な声かけをしてしまったのである。

今思い返しても、それは後宮の絶対的な権力の一角を担う存在への侮辱とも言える大失態だった。それにもかかわらず、エステルは怒るどころか、あっけらかんと笑って受け流してくれた。

その寛大さに感謝しつつも、なぜ彼女があのような紛らわしい真似をしていたのか――。当時は少しばかり苛立ちすら覚えたのを思い出す。

だが、今になってみれば、それもまたエステルらしいと納得できる。彼女は常に「特別扱い」から距離を置き、何よりも自然体であろうとしているのだ。

最初こそ、後宮にふさわしい雰囲気を、と意気込んでいた女官たちだったが、エステルの自然体の雰囲気に次第に飲み込まれ、特に皇妃となった後は、自室内に限ってはある程度は自由に振る舞わせているようだった。

とはいえ、まさか仔羊を捌き始めるとは思っていなかったのだろう――。

皇妃室に備え付けられた専用調理場は、菓子の準備や毒味のための場所で、後宮の調理場に比べれば簡素な設備しかない。

「大丈夫ですか?」と少し不安げに尋ねるロザナに「実家の調理場よりも広いので、大丈夫です」と、エステルは少し見当違いな答えを返している。

ロザナの心配をよそに、最初こそエステルはナヴァズに仔羊を押さえるのを手伝ってもらいながら、皮を剥ぎ取っていたものの、腹を切り開き、ひとりで内臓をひとつひとつ丁寧に取り出していく、そのさまは手慣れたものだった。

今回の買い物の目的は、宗教行事用の一頭の仔羊を手に入れることだった。

ゾロアスター教を篤く信仰する王侯貴族が暮らす帝都では、規定に従った血抜きがされた仔羊が売られているが、ちょうど先日、新年の祭り〈ノウルーズ〉が終わったばかりで品薄となっており、手に入れるのに苦労した。
 
エステルは仔羊を長い串にしっかりと固定し、火床の上にそっと載せた。
じわじわと炭から立ち上る熱が仔羊全体を包み込み、皮の表面がゆっくりと黄金色に変わり始める。脂が溶けて滴り落ちるたび、炭の上で弾ける音がかすかな香りと共に漂ってくる。

ハーブとオリーブオイルを混ぜた液を手際よく塗り重ねるたび、表面には深みのある光沢が浮かび、焼けた皮が滑らかな層を成していく。その下には、火の温もりでじっくりと熱が伝わり、肉が柔らかく煮詰まっていくのが感じられた。

串をゆっくりと回しながら火加減を均一に保つと、皮と肉の間から湧き出る香りが、調理場全体に広がった。

やがて肉の表面には絶妙な焦げ目がつき、焼けた香ばしさが一層深まる。光と影が入り混じるようなその見た目は、芸術的な輝きを放っていた。

焼き上がった仔羊を串から外すと、厚みのある肉がまるで繊細な絹を裂くようにナイフで切り分けられていく――。

その断面からはほんのり湯気が立ち上り、豊かな香りが一層際立つ。肉はしなやかな層を成し、見る者に柔らかな口当たりを予感させた。

「どうぞ、みなさん、気楽に座ってください」

エステルの促しに、おずおずと席に着く女官たち。はた目に、どちらが主人なのかがわからなかった。こうして、おそらく後宮が建てられて以来初めての、皇妃の手料理による晩餐会が静かに幕を開けたのである。

「やっぱり、タラにつくってもらったほうがいいんじゃない」

「だめです。自分でつくらないと意味がないの」

匙を投げそうになるミナを、タラが軽く諌めた。

細かい手作業が大の苦手なミナにとって、組紐作りはほとんど苦行に等しい。

気づけば、今日一日中、この紐とにらめっこしている気がする。それがまた余計に気を滅入らせる。

とはいえ、タラの言うとおりであった。ミナが青の組紐をエステルに送ろうとしているのは、一年前の気持ちを返すためだったのだから。

あれから一年――。

リュートを壊したミナをエステルが庇ってくれたあの日以来、ミナの中でエステルへの敬慕はますます深まっていた。

今回は、その気持ちを伝える絶好の機会だった。

「あれからもう一年。早いね」

隣にいるタラが、紐を指先で弄びながら、しみじみと呟いた。

「そういえば、あの後、女官長に『友だちのような関係でいるのは構いません。でも、今回のことに懲りて、身を慎みなさい』って怒られたよね」
タラが懐かしそうに笑うと、ミナも手を止めて、軽く笑いながら言葉を返す

「私たちが驚いていたら、『あれだけ大きな声でいつも騒いでいたら、わかります』って言われちゃったよね」

フェリザの声真似をしたミナが面白かったのか、タラが吹き出し、ふたりの笑い声が、静かな部屋に小さく響いた。

翌日――。

ロザナがエステルの仕度に来る前の早朝、ミナとタラはこっそりとエステルの寝室に忍び込んだ。

「エステル、エステル!」

声を潜めながら、ミナが寝ているエステルを揺さぶる。

「ん?」

エステルは目を半分開け、寝ぼけた顔でこちらを見た。その無防備な表情が、思わず羨ましくなるほど可愛らしい。

「ミナとタラじゃない。どうしたの?」

ようやく状況を飲み込んだエステルが、柔らかな笑顔を浮かべて問いかけてくる。

「誕生日の贈り物を持ってきたの!」

「えっ、本当に!」

ミナの声にエステルは飛び起きると、子どものように目を輝かせ、喜びを隠そうともしない。その純粋な反応は、誕生日が一昨日だったことなど、まるで気にしていないかのようだった。

「ごめんなさい。全然間に合わなくて……」

ミナはおずおずと青の組紐を差し出す。それは結局タラに手伝ってもらい、少し手直しの跡が残っているものだったが――。

エステルはそんなことを気にする様子もなく、組紐を嬉しそうに見つめていた。その視線は、まるで世界で一番美しいものを手にしたかのようだった。

本当は前々から準備をしようと思っていたが、エステルに何を贈れば喜ばれるのかがわからず、一昨日のバザールに出かけた際に決めることにしたのだった。

そこで青の組紐を作ることを思いついたが、皇妃であるエステルが自ら誕生日会の仕度を整えている最中、自分たちだけが部屋に篭るわけにもいかなかった。

そんな理由で完成は今日まで持ち越されてしまったのだ。

しかし――。

組紐を手に、嬉しそうに微笑むエステルの姿を見ていると、あれこれ悩んだこと自体が杞憂だったのかもしれないと思えた。その純粋な喜びの表情が、すべてを包み込むように感じられた。

「どれにつけようかな……」

エステルは少し悩んだ様子で、自分の衣裳をいくつか広げて眺めていた。
その言葉に違和感を覚え、ミナは手首につけるためのものだと伝えようと口を開きかけたその瞬間、エステルが笑顔でこちらを振り返る。

「この服の裾につけられるかな?」

それは、自室でエステルが普段羽織っている、飾り気はないものの、織りの細やかさが際立つ高級感のある衣だった。

「でも……それ、手首につけるものなんだよね」

自分の技術が拙いために、エステルに本来の使い方が伝わらなかったのかもしれない――。そう思い、ミナは少し落ち込みながら答えた。

「うん、そうなんだけど、手首につけると汚れることもあるかなって。それに、こっちの方が目立つでしょ?」

エステルは真顔で言う。

その表情に、何の迷いも見えなかった。皇妃が手首に汚れをつけるような作業に関わることがあるようには普通ならば思えない。

だが――。

食器の片付けを始めようとしてロザナに止められ、「それなら」と灰かきに取りかかったエステルの姿が脳裏に蘇る。

その光景を思い出すと、ミナは自分の固定観念を手放さざるを得なかった。

(エステルなら……ね)

タラが青い房を丁寧に縫い付けると、その房はエステルの衣に美しく映えた。

控えめな形状だからこそ、かえってその存在感が際立ち、まるでエステルの純粋さと優美さを象徴しているように見えた。

ハタクは後宮の静かな中庭を抜け出し、〈王の門〉へと向かう道を一歩ずつ進んでいた。

街と王宮を繋ぐ唯一の通路であるその門は、単なる建造物ではなく、王者たる帝国の威容を誇っている。

街から王宮を訪れる者は、その巨大さに圧倒される。特に人間の顔を持ち、翼を広げた牡牛の巨像は、神々しくも畏怖を与える存在であった。

ハタクが歩み寄るにつれ、その門の輪郭が薄明の中に浮かび上がる。

高くそびえる四つの塔が建物を縁取り、巨柱が両側に立ち並ぶ石畳の道がしんと静まり返る中、ハタクの足音だけが微かに響いた。

通路を抜けると、千歩を超える広がりを持つような広大な空間が眼前に広がった。

赤く染まった夕陽が差し込み、柱の間に長い影を落としている。ハタクはその空間の静寂と威厳に身を引き締める。

〈王の門〉の中心部には、王宮内の行政を司る監査官たちの執務室が並んでいる。周囲は規律正しい静けさに包まれ、行き交う者たちは皆、一様に無駄のない動きで自らの任務を遂行していた。

その一角、磨かれた石壁に囲まれた部屋の前に、モルデカイの名を記した木製の小さな銘板が掛けられている。

エステルやハタク、フェリザ、ロザナといった面々で、エステルの身辺の調整だけでなく、王宮内での支持基盤を形成するための方策を練っている中、エステルの口から不意にモルデカイの名が挙がった――。

聞けば、彼はヘガイの推薦を受けて、後宮調統補佐官から王宮監査官〈王の目〉に昇進した文官だという。エステルは彼の協力が必要だと断言した。 

エステルが王宮内の政治事情に通じていることは、三人にとって意外だった。ただ、現状を思えば、ヘガイの派閥に属しているモルデカイの助力は不可欠で、良い提案に思えた。

皇妃といえども、エステルの立場は盤石ではなく、二回目の皇妃候補者選定が進む中で、他の後宮の勢力との均衡を保つことが目下の課題である。

特に、後宮から少し離れた離宮に住んでおり、不気味なまでに沈黙を守る〈彼の方〉の動向も気にかかった。

軽く息を吐き出すと、ハタクは一瞬だけ辺りを見回した後、扉を軽く叩いた。

室内からの応答を待って、重厚な扉を開けて、足を踏み入れる。

「いやー、会いたかったんだよ」

大柄な体格ながら、どこか人懐っこい笑みを浮かべる男。

その目は過労の影響か赤く濁っているが、白髪交じりの髪は整えられ、官服もきちんと手入れされている。

立ち上がった男は、一歩二歩とハタクに近づき、そのたびに官服の裾につけられた規定外の青々とした糸で縫われた房が控えめに揺れていた――。

「モルデカイ監査官、お目にかかれて光栄です。突然の訪問で失礼しました」

「いやいや、気にしなくていい」

モルデカイは軽く手を振ると、ハタクを椅子に促し、さっそくエステルの近況について尋ね始めた。

用件だけはあらかじめ、すでにエステルの支持をしてくれているヘガイを通して伝えていたが、ここまで前のめりであったとは思わなかった。

エステルの普段の様子など、やや本題とも違う話も聞かれたが、詳細に彼女の置かれている状況を把握して、自分にできる最善策を探しているようにも見えた。

「じゃあ、手が足りていないエステル妃の直属の女官たちだけでも、万事うまく行くように細かな手続きや必要な物品の購入については、後宮調統官を通さずとも、ハタク殿のところから決裁できるように、ヘガイ様に提案しておこう」

「ご配慮に感謝いたします」

簡潔に礼を述べると、ハタクはひとつ息を吸った。

「問題は王宮内の支持基盤形成についてなのですが……。何分、女官の数が少なすぎて、方策を決めかねている状況です」

ハタクの言葉に、モルデカイは少しも思案する様子を見せず、「大丈夫」と微笑みかけた。

「少数精鋭のほうが良いだろう。多ければ、敵側の人間が紛れ込む可能性も高くなる。また〈彼の方〉がどう動くのかは、こちらでも金の動きから探ってみよう。それより……」

そこでモルデカイは言葉を切ると、笑顔を隠し、声を低める。

「敵をつくらないこと、皇帝陛下のひんしゅくを買わないこと、王の目と耳の好意を得ること――。この三つが後宮政治の基本だと、エステル皇妃にお伝えしてくれ」

にこやかな人懐っこさから一変。

その目は静かに、しかし鋭さを湛えたままハタクを見据えた。穏やかな笑みが消え、毅然とした顔つきは、ごまかしを許さない緊張感を漂わせていた。

以前は中庭で口実を作って義父モルデカイと会う時間を持てたが、今ではそれも叶わない。

王宮監査官に昇進したと聞いた時は嬉しかったものの、彼が近くにいなくなったことで、胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさと心細さを感じていた。

そんな中、ミナとタラが贈ってくれた青の組紐は、義父モルデカイがよく身につけていた房飾りを思い出させるものだった。

エステルは少し迷いながらも、彼に倣ってその組紐を自分の衣の裾に縫い付けてもらった。それは、ふたりの友情の証であると同時に、自分の信仰の象徴でもあるように思えた。

だが、その信仰と出自をいつまでも隠しておけるものではない。それに、仲間たちに嘘をつき続けているような感覚が、エステルの心を重くしていた。

(いずれちゃんと話さないと)

そう感じながらも、その一歩を踏み出す勇気をどうしても持てずにいた。
状況は刻々と変化し、後宮の空は厚い雲に覆われるような不穏さを孕んでいた。不安定さがじわじわと広がり、確かなものが何ひとつ見えない闇が迫りつつあるようだった。

そんな不安を紛らわすように、エステルは無意識に裾の組紐に手を伸ばし、指先でその感触を確かめる。それは、寄りかかれる小さな希望のようでもあった。

しかし――。

その仕草をじっと見つめるハタクの視線に、エステルは気づいていなかった。


青の組紐――。

エステルが裾につけたその小さな装飾が、ハタクの心に引っかかり続けていた。どこかで見かけた記憶があり、それが違和感となって、心の奥底に沈んでいる。

辺境守備軍の指揮官だった時代、ハタクは些細な違和感を大切にする重要性を何度も痛感してきた。小さな手がかりが反乱分子の潜伏を暴く糸口となることは少なくなかった。彼にとって、違和感は単なる直感ではなく、確固たる真実へと導く羅針盤だった。

(その装飾がどこから来て、何を意味するのか――)

エステル以外にも身につけている者とあったような気がした。記憶の断片を手繰り寄せながら、エステル以外に同じようなものを身につけていた人物がいたことを思い出そうとする。その場面、その顔――曖昧な記憶が頭を巡りながら、答えはまだ遠い。

とりあえず、ハタクはミナたちが毛糸を買ったという行商人を訪ねることにした。そこで、もし特定の属性の人々が取引をしているのであれば、そこから何かが掴めるかもしれなかった。

陽がまだ高くならない早朝。柔らかな光が市場を照らし始める中、ハタクは活気に満ちたバザールに足を踏み入れた。

人々の喧騒と雑多な匂いが交錯する中、目当ての行商人を探し、ようやくその店にたどり着く。

行商人は慣れた手つきで商品を並べ、開店の準備を進めている。雑多な品々が整然と並ぶ中、青い糸も棚の片隅に見え隠れしていた。

「申し訳ない。少し訪ねたいことがあるのだが……」

「なんだい?」

忙しいところを邪魔された苛立ちを隠そうともせず、行商人はハタクに乱暴な眼差しを向けた。その表情には、早く済ませてくれと言わんばかりの無言の圧力が漂っている。

「そこにある青い糸だが、よく売れるのか?」

「これか?まあな、ここらじゃ珍しい染料を使ってるからな」

行商人は肩をすくめながら、指先で糸を示した。

「買いに来るのはどんな客が多い?」

「なんだって、そんなことを……」

訝しげな眼差しを向ける行商人の不審を払うため、ハタクは王宮付きの護衛官である身分を明かした。たちまち、男の態度が変わる。戸惑う表情を見せながらも、素直に質問に答え始めた。

聞けば、女性客などが多いが、中にも男性客が求めることもあるという。その男性客の多くは、かつて西方にあったユダ王国の末裔で、亡国の折、捕囚となってこの地に移り住んできた人々だという。

彼らの伝手を頼って、染めの技術を持っている人々から青い色彩を放つ織物などを仕入れているらしい。

「ありがとう」

短く礼をいい、情報料として少しばかりの金を男に握らすと、ハタクは身を翻し、その人々が集う一角へと足を向けた。

その民が住んでいる区画は、一目で分かった。空気が変わったような感覚に包まれ、家々の門には赤黒いものが塗られた痕跡が残されている。
おそらくは動物の血――。

(何かしらの宗教儀式が行われたの)

周囲を見回すと、ふと目に留まったのは近くに佇む料亭だった。外見は古びているが、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。中に入ると、庶民的な賑わいが漂う空間に、ほっと一息つける安堵感が広がった。

席に着き、店主におすすめを尋ねると、程なくして運ばれてきたのは焼き立ての仔羊の肉だった。

その香り高い一皿に目を落とした瞬間、エステルの面影が脳裏に浮かんだ。彼女の清廉な笑顔、そしてその青の組紐を縫い付けた衣裳が、鮮やかに思い起こされる。

その肉を口に運びながら、ハタクは料亭の主人に尋ねた。

「最近、ここら辺で何か祭りでもあったのか?」

店主は少し驚いたように目を見開いたが、「最近この辺りに来た旅人なんです」と付け加えると、納得したように頷いて答えた。

「ええ。このあたりでは古くからの習慣で、年に一度、仔羊の血を門に塗って食べる祭りが行われるんです」

その話を聞いて、ハタクは胸の奥で何かが繋がる感覚を覚えた。

仔羊の儀式と青の組紐――。

「そういえば、青い組紐、ユダの民の印だって聞いたことがあるんだが、本当なのか?」

再び問いかけると、店主は少し首を傾げながらも答えた。

「そうです。それは私たちヘブルの民の習慣です。私たちの信仰では、青い糸は神との契約や掟を象徴するものなのです」

その瞬間、記憶の糸が一本に結ばれるようだった。
どこかで見たことがあると思っていた青の組紐。

(それは確か――)

モルデカイが身に着けていたものだ。そして、口の中に広がる仔羊料理の味は、エステルが作った料理によく似た味だった――。

店主にお礼を言い、ハタクはその足で、文書保管所へと向かった。

その昔、世界を支配していたバビロン帝国によって滅ぼされた国――ユダ王国。

埃に埋もれていた記録から出てきた名。

唯一の神を崇める彼らはペルシアの習俗に染まらず、独自の信仰を守り続けていた。

それゆえに、多民族社会であるペルシアにおいても、疎遠にされている。もっとも、彼らの一部の富豪たちが経済的な成功をおさめていることへの嫉妬も理由に含まれるだろう。

(推察が正しければ――)

智恵ある神〈アフラ・マズダー〉によって神権を与えられた皇帝の妃たるエステルが、異なる神を信じている。

それも「唯一」の神を信じているということは、隠したほうが賢明なのかもしれない。それは悪意ある者に、王の権威を認めていないとつけ込まれる隙を与えることになる。

「奴らは我々の民ではない……」。

いつぞやかの宮廷の廊下で聞こえてきた声が耳によみがえる。ペルシア人たちの間で囁かれるその言葉は、単なる悪意に留まらない可能性もあるだろう。

そんなことを思案しながら、文書保管所を出たハタクは、冷たい殺気を感じて足を止めた。

柱の影から、音もなく現れたのは、頭から深々と顔を覆った人物だった。その手には短剣が握られ、刃は薄暗い灯りの中でわずかに緑がかった光を放っている。

それに気づくと、ハタクも腰から短剣を抜こうとするが――間に合わない。
黄昏の陽光から出てきた人影が飛ぶように間合を詰めてきた。

白刃が一閃し、焼けるような熱さが腹を抉る。

直前に身をよじり、護身用の革の腹巻が受け止めてくれたおかげで、致命傷には至らなかった。それでも鈍い痛みが全身を襲う。

だが、ハタクは斬られたことで動きを止めることなく、敵が懐に入った瞬間、その動きを受け流しつつ、足を引っかけた。

敵は体勢を崩したが、そのまま倒れず、受け流す。

追撃が難しいと判断したハタクは、素早く距離を取り、腰から短剣を抜いた。

無骨だが、丁寧に磨かれた刃が鈍い銀色の光を反射し、殺意をはらんだ刃先の重さと手元に伝わってくる。

初撃に失敗した敵は、短剣を構え直し、間合をはかっていた――。

刹那。長い手足が滑るように動いた。

――剣。

鈍い金属音が響き渡る。

ハタクの剣は自在に反転し、敵の右脇を鋭く狙い撃つ。

剣を通じて重い震えが伝わると、敵は音もなく半歩下がった。

刃を構え直しながら自らの刃を窺う仕草を見せる――。

重い震えが剣に伝わった。

それを意味することは――。

ハタクはひとつの可能性に賭けて、踏み込んだ。

三合目――。

突進する力をそのままに、鉄剣にわずかな角度をつけて薙ぎ払った。

甲高い音の反響とともに、青銅の剣先が砕け散り――宙に飛ぶ。

手の中で、剣を回転させると、ハタクは剣の柄頭を敵のみぞおちにめり込ませる。

そのまま、手をつかみ、体勢を崩させると、床に叩きつけ、冷え切った鉄の剣を相手の首筋に押し当てた。

素早く覆いを剥ぎ取る。

「何者だ!」。

ハタクが相手の顔を確かめると、そこにあったのは見知った顔だった。

静寂と緊張が覆う。

「どういうつもりだ」

口火を切ったのはハタクだった。低く押し殺した声で問いかける。

「お前は誰に仕えている。ナヴァズ!」

思案を巡らせながら、ハタクは黙ったままのナヴァズの首筋に刃を押し当て、暗く沈む彼女の目を覗き込む。

(腑に落ちない――)

後宮という権謀術数の渦中にあっても、エステルの瞳は素朴さと純粋さを失っていなかった。そんな彼女が刺客を差し向けるとは考えにくい。

いや、自分自身が考えたくないだけなのかもしれない。

「エステル皇妃の出自を隠蔽するためか」

ハタクが問い詰めると、短くナヴァズが答えた。

「……エステル様は関係ない」

その声は、普段のエステルと向き合うどこか母性を感じさせる優しい声色ではなく、冷たい声だった。

「すべて私が画策して行ったこと……」

「そのような……」

ハタクは手に思わず力が入ってしまうのを感じながら、諭すように現実を伝えた。

「エステル皇妃にも裁きの手が行く可能性もあるのだぞ」

ナヴァズの目がわずかに揺れた。揺さぶりは効いたらしい。しかし、彼女はすぐに視線を逸らし、再び口を閉ざす。

やはり――。

(エステル様とは別の思惑が背後で動いているのだろう)

彼女の前に、ハタクは静かに印章を取り出し、見せつけた。それを目にしたナヴァズの瞳に動揺の色が浮かんでいく。

それは、王宮監査補佐官――すなわち〈王の耳〉の証である印章だった。

「この印章の意味がわかるだろう」

抵抗する気配を見せないナヴァズをじっと見据え、ハタクはゆっくりと身を起こす。そして冷徹な口調で告げた。

「黙秘を続ければ、エステル皇妃を叛乱の嫌疑で調査することになる」

わずかな沈黙の後、ナヴァズは声を絞り出した。

「エステル様は……」

そこで言葉を切り、自嘲してナヴァズは呟くように言葉を続けた。

「これは私の忠誠と愚かさの結果です」

「落ち着きなさい」

耳元でフェリザ女官長の静かな声が響く。

その声を頼りに、ロザナは机に置かれた砕けた剣先を見つめながら、荒くなる呼吸を少しずつ整えていった。けれども、不安で視線が彷徨ってしまう――。

日も暮れ、穏やかに終わるはずだった一日が、一瞬で暗転した。

ハタクが宦官としての仮面を脱ぎ捨て、本来の役職である王宮監査補佐官――〈王の耳〉の印章を掲げ、ナヴァズの拘束を宣言したのだ。

その罪はハタクへの暗殺未遂。

青天の霹靂だった。

その場にいた全員が動揺を隠せなかった。エステルも例外ではなく、その困惑は表情にありありと現れている。

なぜ――。

それは、そこにいるすべての者が抱いた疑問だった。

だが、今は答えを探すよりも、どう行動するべきかを考えるほかない。

ロザナも例外ではなかった。

我関せずでは済まされない。

(誰につくべきか、何を言うべきか――)

その選択が生死を分ける時だった。

しかし、状況はさらに混迷を深めた。

ハタクがエステルの関与について問い詰めている最中、モルデカイ王宮監査官からの緊急の一報が届けられたのだ。

その書状は、上官であるモルデカイからのものであり、立場上、ハタクはエステルに開封を促さざるを得なかった。

封を解くと、書簡に記されていたのは、宦官ビクタンとテレシュによる皇帝暗殺計画に関する密告の情報と、密告者の保護を求める依頼だった。

「どうされますか? エステル皇妃」

ハタクの視線が鋭くエステルを捉えたまま、低く問いただす。

運命の分岐点が、エステルの目の前に立ちはだかっていた。しかし、当の本人は未だ動揺から抜け出せず、判断を下すには程遠い様子だった。

無理もない。事態はあまりにも急転し、動きすぎている。

もしエステルが皇帝の暗殺に関与しているのなら、ナヴァズによるハタク暗殺未遂も筋が通る。

しかし、それが事実だとすれば、モルデカイのこの動きは滑稽と言うほかない。逆にエステルが皇帝を支持しているのであれば、ナヴァズの行動は全く理解できないものだった。

考えうる結論はただひとつ――。

ナヴァズもモルデカイも、エステルと何ら連携を取っているわけではなく、彼女はただ運命に翻弄されているだけ――。

誰もがその簡単な推察に至る。

ロザナも、そんな状況に置かれたエステルへ、同情を覚えた。しかし、どれほど混乱し、疲弊していようとも、エステルはここで決断しなければならない。

皇帝側につくのか、それとも叛逆者側につくのか――。

緊迫した状況の中、意外にも最初に動いたのはフェリザ女官長だった。彼女は、ハタクが視界に入っていないかのように、静かにハタクとエステルの間に割って入り、彼女に向かって跪いた。

「エステル皇妃殿下、私は主とともにおります。ご命令とあれば、何なりと」

その言葉は、これまでの「よき養育係」という役割から、「よきしもべ」へと立場を明確に変えた瞬間だった。

少し遅れて、ロザナも慌てて続き、同じように跪く。危機対応におけるフェリザは頼もしいと、改めてロザナは思う。

「私もおります。エステル皇妃」

次々と他の女官たちもその後に続き、次第に彼女ら全員がひざまずいていく。その光景は壮観であり、まるでエステルを中心にひとつの意志が結集されていくようだった。

この忠誠心は場の空気を一変させた。

狼狽するハタクとは対照的に、エステルは少し泣きそうになりながらも、どこか決意に満ちた表情を浮かべていた。

「……エステル皇妃殿下」

跪いたナヴァズが口を開く。

「私は……」

その彼女を手で制しながら。エステルはひとつ、静かに息を吐いた――。

「ハタクはモルデカイのもとへ行き、モルデカイと密告者を後宮まで保護しなさい」

力強い声が場を包む。エステルはそのまま次々と指示を出していく。

「レイラ、シーリンはヘガイ様へ一報を。ミナとタラはここで受け入れの準備を。そして、フェリザとロザナは私とともに陛下のもとへ参りましょう」

その命令にロザナは動揺を隠せなかった。思わず声を上げる。

「エステル様、護衛はいかがするのですか?」

モルデカイの書簡によれば、叛逆計画を起こそうとしているといえども、王宮近衛が総力を上げて行動する可能性は低いとされていた。

その理由は明白だ。

王宮を警護する全近衛兵が仮に総力戦を仕掛けたとしても、後宮近衛兵を管轄するヘガイや〈王の耳〉が率いる兵力、さらに帝都に駐留する軍部の戦力を考慮すれば、正面からの戦闘では成功の見込みはほとんどない。

だからこそ――暗殺なのだ。

第一に、近衛全体が一枚岩になりきれてはいない。

あくまで、一部の近衛による暴発であった。

問題は、エステルが向かう皇帝の寝所を守る責任者――宦官ビクタンとテレシュこそが、暗殺計画の首謀者であるという点だ。

また皇帝にこの危機を知らせるためには、謀略が巡らされているところへ飛び込まなければならない。護衛もつけずに行くのは、どう考えても危険が伴う。

「護衛はいりません」

静かながらも決然とした声で、エステルは言い切った。

「今夜、私は陛下に召し出されています」

彼女の瞳に一瞬、深い決意の色が宿る。

「いつものように、陛下と夜を共にするように見せる必要があるでしょう。そうでなければ、敵に悟られ、強硬策を取られかねません」

確かに皇帝の命を確実に守るためには、エステルが危険を冒すのが最善の方法だと言える。

それでも――彼女自身の命を賭けてほしくはない。

自分にとってもエステルは大切な主となっていることに気づきつつ、ロザナはその思いを自らの拳の内で握りつぶした。

「御心のままに」

その一言に、ロザナはエステルの思いと覚悟を全面的に支持する意志を示した。その意志を受け継ぐように、フェリザがハタクに向き直る。

「それで……。ハタク、あなたが忠誠を尽くすのは、皇帝陛下ですか。それとも皇妃殿下ですか」

鋭い眼光がハタクを射抜くように突き刺さる。

「私は陛下に忠誠を尽くした身。その暗殺計画を止めるというのであれば、エステル皇妃にお従いします」

誠実に聞こえた答えだったが、核心を避けた曖昧な言葉でもあった。だが、そのずれをフェリザは見逃さない。

「皇帝陛下ですか。それとも皇妃殿下ですか。どちらに仕えますか」

言葉をさらに詰めるフェリザの声には、揺るぎない厳しさが滲む。

「それは……」

ハタクが口ごもった瞬間、エステルが一歩前に出て、彼を真っ直ぐに見据えた。

「陛下に仕えることは、わたくしに仕えること。わたくしに仕えることは、陛下に仕えること。違いますか?」

「そうですが……」

曖昧に返すハタクの動揺を見逃さず、エステルはさらに詰め寄った。

「では、ハタク、わたくしに仕えなさい。そして、あなたのわたくしへの不忠――ひいては陛下への不忠を疑って先んじたナヴァズの行為を許し、彼女と共に職務を全うするのです。それができないのであれば、あなたの不忠も合わせて陛下に進言いたします」

「エステル皇妃。それはあまりにも……」

ハタクは呆然として何かを言おうとしては飲み込んでいる。

ロザナも驚きを隠せない表情でエステルを見つめていた。

(かつて毒味役でさえ嫌がっていた彼女が、ここまで巧妙に政治的な駆け引きを行えるようになるとは――)

ロザナの胸中には、驚きと共に一抹の寂しさが広がっていた。それでも、エステルの揺れる瞳を見つめたとき、ふと安堵を覚える。

まだ、彼女は後宮の冷たい空気に染まってない。その瞳の奥に宿るものは、優しさや謙虚さ、素朴さ。それでいて、人の心を包み込むような暖かさが、今も変わらず息づいている。

ただ、以前と違うのは――。

その瞳には、大切な人々を守るための覚悟が滲んでいることだった。

(自分はみくびっていたかもしれない。いや――こうなることを望んでいたのかもしれないな)

煌々と輝く月を避けるように、影に隠れて急ぐハタクは思いを馳せる。

〈王の耳〉の暗殺未遂は、本来ならば死罪。帝室の権威に対する明確な反逆行為である。

しかし、エステルは形式だけの重い罰を与えつつ、実質的には彼女を庇った。

十年間の禁固刑。帝室に対して銀五十キカルの賠償。中級女官から従仕女――奴隷への降格。これは流刑に匹敵する刑罰であった。

ただし、ナヴァズの禁固刑はエステルの庇護下にある区画で執行されることとなった。

加えて、王妃に選ばれる際、ヘガイに選び抜いてもらった宝飾品の多くを使って、帝室への賠償も肩代わりすることにしたのである。

「……本当に、何を考えているんだか」

自嘲の息が漏れる――。

上下関係がほとんど形骸化しつつあるエステルの女官たちにとって、この裁定は表向きの厳罰とは裏腹に、実質的には今までと変わらない日常を意味していた。

ハタクは思わず自分の口角が緩むのを感じる。

(どこかで自分も逃げ道を探していたのかもしれない――)

短く嘆息して、自分の甘さに振り払うように頭を振った。

いずれにしても結果的に、この判断は、女官たちにますますエステルへの敬慕の思いを深めさせるものとなった。

奴隷となった者の買い戻しは、家族や親族が行うのが一般的で、エステルの行為は女官たちを家族同然に見ていることを暗に伝えるものだったからである。

こうして、公文書上では厳罰を与えたことが明確となり、加えてエステルはハタクに対して自身に嫌疑をかけたのは、陛下への不忠でもあると警告をした。

――その一方で、ナヴァズ自身も罪を告白した。

北のヘブルの民へエステルの情報を流していたこと、そして利用する意図を持ちながらも、彼女への忠誠を捨てきれなかったこと。

ハタクが探りを入れたと知ったとき、出自が暴かれればエステルの権威が傷つくと判断し、思わず強硬な手に出たことも。

本来なら、北の民であるナヴァズにとって、ユダの民であるエステルの出自を明らかにし、陥れるほうが理にかなっていた。

それでも――彼女にはできなかった。

それに結局は、ナヴァズはエステルを決定的には裏切れなかったのだ。

これらを鑑みると、これ以上の介入はできなかったし、ハタクもするつもりはなかった。遠くイスラエルの内争であり、帝国の治安維持において何ら大きな問題があるようにも思えなかった。

そもそも、間諜である〈王の耳〉として、今回の出来事はまぎれもない失態であった。決定的な叛逆に絡んでいるわけでもないのに、刃傷沙汰になったのだ。

(自分の処分も免れないだろう――)

また、意外にもフェリザ女官長もエステルの判断をすぐに支持した。

「誰しもが暗いものを背負い、間諜になり得るでしょう」

フェリザの瞳が暗く揺れる。

「しかし……危機の時にどの旗を掲げるかが大切なのです」

フェリザはそのようにナヴァズを諭していった。

またエステルも、あっさりとユダ王国の血筋であることを認め、自らを裏切っていたナヴァズの罪など気に求めずに、むしろその忠義だけを見て「自分のために罪を犯す必要はない」と諭したのである。

後宮では稀有な純粋と素朴なエステルの気質をハタクは幼さと捉えていたが、それは気高さの間違いだったのかもしれない。

そんなことを思いながら、わずかに禁固刑までの猶予が与えられたナヴァズと共に〈王の門〉へと急いで行った。

「近衛だけではないのですか?」

抑えきれない感情が声に乗り、ハタクの問いは鋭く響いた。

モルデカイと合流したハタクは、そこで初めて事の全貌を知り、思わず取り乱した。

聞けば、皇帝の警護責任者である宦官ビクタンとテレシュが、王宮監査部門――〈王の目・耳〉の一部とも手を組もうとしているというのだ。

皇帝の手足として、敵を食い破るために存在する間諜の内部に、皇帝の腑を食い破ろうとする者たちが潜んでいるとは、頭の痛い話だった。

皇帝クセルクセスは即位直後、エジプトとバビロニアの反乱を平定し、一見すると帝国全土を掌握したように見えた。しかし、ギリシア遠征の失敗を機に、各地で反乱の兆しが再び高まり始めたのだ。

加えて、ギリシア軍の反転攻勢が激化――。

ペルシアとギリシアを結ぶ戦略上の要衝ビュザンティオンが包囲され、陥落したのは記憶に新しい。皇帝の親族さえこの戦いで捕虜となり、帝国内には大きな衝撃が走った。

そんな状況下で地方知事〈サトラップ〉を監視する行政監査部門に反体制派が潜んでいたとは――。

いやむしろ、度重なる戦争と重税による地方の衰退、そしてそれとは対照的な豪華絢爛な宮廷生活。

この二つの現実を目の当たりにしている行政監査部門だからこそ、知事側に肩入れする者が現れても不思議ではないだろう。

事実、二度目の皇妃候補の選定を告げる布令が発布された際には、王宮内外で不満が公然と噴出していた。

戦禍、劣勢、重税、反乱――。

これだけの問題を抱えた中での皇妃選定がどれほどの波紋を呼ぶか、想像に難くない。

しかも、一度目の選定からそれほど時間も経っていない。不満が生じないほうがおかしい状況だった。

(人々からすれば、反体制派こそが愚王を倒す民衆の英雄であり、自分たちは愚王に仕える悪の組織なのかもしれない)

その思いが頭をかすめたとき、ハタクは思わず眉をしかめた。

帝国の辺境リディア出身のハタクも、増加する反乱分子への苛烈な弾圧を良しとせず、軍から離れた身――。

その意味では、自分も反体制派に肩入れをしてしまう思いがあるのかもしれない。

「状況は錯綜している。内部の誰が敵か味方か、それすらも判別がつかん。だからこそ、迷惑をかけるが、彼女を後宮で匿って欲しい」

モルデカイは端的に状況をハタクに告げる。モルデカイの表情から、さらなる厄介事の雰囲気を感じたハタクは、率直に懸念を口にした。

「この計画が漏れている可能性は?」

その言葉を聞いて、モルデカイはさらに申し訳なさそうな顔を浮かべた。

「ない……とは断言できないな」

頭を抱えながら、ハタクは横にいる今回の護衛対象へ目をやる。その奴隷であるという少女は、中級女官の衣服を着させられ、綺麗に身なりを整えられていた。

作戦は単純明快――。

出先から戻ってきた女官として、後宮に入り、エステルの女官として庇護下に入れる。

ただし、問題があるとすれば――。

ナヴァズがしたように、という言葉は飲み込んで、ハタクは疑念を口にして確かめる。

「万が一の場合は、襲撃が予想されるということですね」

モルデカイはそれに黙って頷き、微かに隣の少女の表情がこわばった。
万が一――ではない。

おそらくは十中八九で襲われる可能性があると、ハタクは心の中でため息を吐く。

王宮監査部門である〈王の目・耳〉は単なる監査部門ではない。

〈王の目〉が調査部門で、〈王の耳〉は実行部門。つまりは、不正や反逆が見られたときに、即応する部隊――暗殺部隊である。

身内が一枚噛んでいるのだとすれば、この失態に気づかないはずがなく、秘密裏に処理しようと画策していると踏んで、動くべきだろう。

(おそらく、襲撃があるとすれば、ここでも後宮でもなく、その間――)

つまりは、どの勢力も即応できない場所。自分ならそこで襲うだろう。

そこまで、思考を巡らせて、ハタクはため息をまた心の中で吐いた。

全能ではないのだ。

身内のどこに敵がいるかわからない状態で、守り切れる自信などない。

とはいえ、所属は違うとはいえ、上官であるモルデカイの指示は絶対である。ましてや、まさに謹厳実直な武官であるハタクにこれを断る術などない。

「承知しました」

短くハタクは告げると、衣の帯を固く締め直し、ひとつ息を吐く。そして、ナヴァズに持ってきていた予備の鉄剣を差し出した。

「エステル皇妃のためならば――。信じてもよいのだろう」

そのハタクの問いかけにナヴァズは静かに、それでいて確かに頷き、剣を受け取った。

(厄介なことになった――)

ハタクは目の前に現れた、一団を見て、心の中でため息をつく。

穏やかではない顔つきのその者たちの服に描かれた紋章は、バクトリア地方知事マスティス所属の兵士であることを示していた。

それは、随伴していた監査官〈王の目〉よりも、ややこしい問題を孕んでいる。その監査官も見知った顔ではなかった。おおかたバクトリア地方に配属されている者だろう。

上官である監査官と地方知事の兵士というだけでも対応に困るものだが、何よりも厄介なのは、マスティスが皇帝クセルクセスの兄弟つまり、王族であるということだ。

皇弟マスティス――先のギリシアへの大攻勢に際して、軍の副司令官を務めたが、敗戦の引責を問われ、交易の要とはいえ、帝国極東に位置するバクトリア州の知事へと左遷された人物であった。

監査官は懐から身分証である印章を見せながら、ハタクたちに不遜な態度で声を投げてよこす。

「我々は帝室に刃を向ける謀略を追っている。この娘がその汚れた計画に関わっているのは明白である。さっさと引き渡せ」

案の定、〈王の門〉を出たところで、彼らに出会ったわけだが、いきなり襲撃されなかっただけ感謝すべきだろう。

とはいえ、事態は極めて難しい。

名もなき暗殺者であれば、実力行使による排除。半端な者であれば、自身の調査権限で言いくるめて、突破するつもりであった。

しかし、相手がハタクの上長であり、なおかつ帝室側の勢力となれば――。
同等の立場であるモルデカイにしても、監査官同士の内部抗争が表面上は禁忌である上に、帝室の勢力が相手では、はねのけるのは難しいだろう。

(いや、むしろだから、自分を呼んだのでは――)

そんなことを思い巡らして、余計に陰鬱な思いとなりながら、ハタクは黙って相手に視線を飛ばす。

「聞こえなかったのか。〈王の耳〉であったとしても、この件は貴官らの調査権限では扱えないと言っているのだ。バクトリア地方における謀略である。同意できなくとも、我々の権限を行使させてもらおう」

相手の監査官は苛立つ声を隠そうともせずに、再度、声を投げつけてきた。

〈王の耳〉の制服を着ているハタクとナヴァズが、自分よりも下級であるゆえの傲岸不遜な態度である。

ハタクはそんな監査官のまわりに立つ兵士に目をやった。

監査官が口にした権限の行使のために随伴した兵士は四名――。

兵士たちの剣を抜く音が鋭く響く。

その瞬間、ハタクの姿が風のように動いた。

目の前にいた監査官の後方、左側の兵士の懐に飛び込んだ。

刃を水平に走らせる――。

その兵士が気づいたときには、すでにその喉元に冷たい鉄が食い込んでいた。

血飛沫が床に染み込み、兵士が音もなく崩れ落ちる。

監査官が驚愕に目を見開いた次の瞬間――。

ナヴァズが剣を引き抜く音が響く。

残った兵士たちが叫びながら、動き始める。

長剣が月光の光を反射し、鋭い光の軌跡を描く。

ハタクとナヴァズはそれぞれ反対方向に動き、敵の攻撃を分散させる形を取った。ハタクの動きに合わせて、ナヴァズは右側の兵士に向かう。

その剣筋は軽快で、しかし的確だった。

兵士の突きがナヴァズの脇腹を狙った瞬間、彼女の剣は鋭い金属音と共にその攻撃を受け流す。

反動を利用し、剣を振り上げて敵の肩口を裂いた。

兵士が苦悶の声を上げて膝を突く。

そんな兵士を無慈悲にナヴァズは足で押し倒し、剣を突き立てた。

残る二人の兵士は目の前のハタクに集中し、連携して間合いを詰めてくる。

ひとりが剣を横薙ぎに振るうが、ハタクは寸前で後退し、次の一撃を防ぐ体勢に入る。しかし、もうひとりがその隙をついて突きを放った。

突きが到達する刹那――。

ハタクの手の中で剣が鋭く回転し、敵の刃を弾き飛ばす。

敵がバランスを崩した隙に、ハタクの剣が素早く斜めに振り下ろされる。血が飛び散り、兵士が崩れ落ちた。

あとひとり――。

最後の兵士は崩れ落ちる仲間を横目に、少女の方へと強引に突破を図った。

しかし――ハタクの剣の方が早かった。刃は相手の背を抉り、力のない悲鳴を残して兵士は地面に倒れ込む。

そこへ、一歩遅れてきたナヴァズが剣を振り下ろして、とどめを刺した。

監査官がいた方へハタクが鋭く目をやると、闇夜の中を逃げていく小さな後ろ姿が影のように揺れて見えた。

その瞬間、監査官から夜空を切り裂くように「ピィーッ」という甲高い音が響き渡る。

警笛だ――。

「走れ!」

ハタクは少女の手を掴み、力強く駆け出した。

その声には迷いも躊躇もなく、ただ迫り来る危機から逃れるための急き立てるような緊迫感が滲んでいた。

監査官が近衛兵を呼び寄せたのは明白だった。後ろから追撃の気配が迫る。

もう時間の猶予はない。

足音が響くたび、緊張が増していく。

(あと五分、いや、三分もすれば奴らに追いつかれる――)

そんなことを胸中で呟きながら、息を切らすことなく、彼は道を駆け抜ける。少女も懸命についてきているが、足取りに疲労が滲み始め、半ば手を引かれ、強引に動かされていた。

後ろを見ると、夜闇を裂いて近衛兵たちの鋼鉄の甲冑が月光を跳ね返し、白く鈍い光を放ちながら姿を現す。

その数、ざっと五十人――小隊だ。

後宮までは、遠間二十歩――。

ハタクが少女の手をさらに強く引いたその時、ついに少女の足がもつれ、転んでしまった。

追っ手との距離を目測して、覚悟を決め、呼吸を整え、ハタクは剣の柄に手をかけた。

しかし、後ろから迫る足音が聞こえ、振り向くと、後宮から一団が出てくるのが見える。

後宮近衛だろうか。彼らに事態を知らせるために、エステルの女官が向かったはずだが。

しかし、どこか優雅な雰囲気さえ纏っている一行は、強烈な違和感をハタクに与えていた。

「綺麗な月夜というのに、なんとも騒々しいことよのう」

緊迫した状況とは似つかない、それでいてどこか冷たさを感じるその声が一行の先頭から聞こえてくる。

ハタクが目を凝らすと、そこには〈彼の方〉――女帝アメストリスその人が立っていた。 

路傍の石でも見るかのように、アメストリスはハタクらを一瞥すると、追いついてきた近衛兵たちへ優雅に歩み寄った。

その背中からは、華やかさ以上に冷徹な威圧感が漂い、空気を重く押し潰していく。

「妾が歩む道をふさぐとは、愚かにもほどがあるのう」

事態を全く意に介さぬような物言いで、煩わしげに言葉を投げた。

その様子に怯えるように、追いついてきた小隊長は慌てて膝を折る。

彼は同じく膝をつくハタクたちを一瞥した後、平静を装って説明を始めたが、その声には焦りと戸惑いが滲んでいた。

「申し訳ございません、陛下。ただ、先ほど刃傷事件が発生いたしまして……容疑者と思われる者どもがこちらに逃げ込んだため、追跡中であります。そこの者に事情を聞いた後、我々は下がらせていただきますゆえ……」

しかし、その言葉は途中で事切れた。

アメストリスの横に控えていた男――その筋骨隆々たる影が、音もなく一歩踏み出すや否や、抜刀し、隊長の首を刎ねたのである。

静寂を引き裂く鈍い音が響き、血が夜の空気を裂くように飛び散る。

隣の少女が小さく押し殺した悲鳴を漏らしたが、その音すら掻き消されるほど、場の空気は一瞬で凍りついた。

よく見ると、アメストリスの付き人たちは、宦官でも後宮近衛でもなかった。その手に帯刀し、鍛え上げられた体躯を持ち、異様な迫力を放つ彼らは――。

「軍人か……」

ハタクは呆然と呟いた。

突如として繰り広げられた襲撃――。

近衛兵たちは慌てふためき、体勢を整える間もない。

蹂躙され、士気を失い、混乱していく――。

最初に隊長の首級があげられた。

そのために副長が声を上げても、事態の収拾には至らない。むしろ声を上げた者から的確に狙い撃たれ、指揮系統は徹底的に破壊された。

次第に近衛兵たちは恐怖に飲まれ、戦うどころか逃げ出す者が現れ始めた。だが、それすらも許されない。

それはもはや戦いではなく、虐殺であった。

近衛兵たちは瓦解していき、逃げようとしていくが、アメストリスの付き人たちはそれを許さない。彼らは逃げようとする者を徹底的に追いかけ、逃げる背中に容赦なく剣を振り下ろし、止めを刺していく。

その様子を見ていたハタクの脳裏に、ある部隊の名がよぎった。

不滅隊〈アタナトイ〉。

ペルシア軍の精鋭中の精鋭であり、一万の騎兵からなる彼らは、先の大戦でも鬼神のごとき戦いぶりで殿軍を務めたと伝えられる。

その不滅隊の中でも、さらに選りすぐられた兵士たちは、王宮近衛の最精鋭である親衛隊〈オイ・メロポロイ〉となり、要人警護を専任としていた。

目の前の彼らこそ、その精鋭たちなのだろう――。

最後の悲鳴が夜闇に溶け込む頃、血の池の中で沈黙が支配した。

赤黒く光る血に気を取られそうになりながら、ハタクは自分の鼓動を抑え込むように深呼吸をする。横目に見えた少女の顔は青ざめ、震えていた。その手を握りしめて、ハタクは耳元で低く囁いた。

「見ないほうがいい」

視線を再び惨劇に戻すと、アメストリスは一歩も動かず、まるで静かに完成した彫刻のように血の池を前に立っていた。

「なぜ……。こんなことを……」

見ると、生き残った近衛兵のひとりがアメストリスの前に引きずられてきた。

呆然と立ち尽くし、震えながら、同じことを呟いている兵士を冷たく一瞥すると、アメストリスは先ほどと変わらぬ無関心な口調で言い放つ。

「さて、お前、マスティスの狗か?」

問いかけられた兵士は怯えきって、口を開こうとすらできない。その様子に、アメストリスの親衛隊たちは容赦などしなかった。

無言のまま剣が振り下ろされ、兵士の首が刎ねられる。次の兵士がすぐさま引きずり出され、血の跡が地面に濡れ広がっていく。

「問いに答えよ」

アメストリスの声が、今度はわずかに苛立ちを滲ませる。冷たく鋭いその響きは、見えない圧力を持って兵士にのしかかった。

「わ……私は……」

震えながらも必死に言葉を紡ごうとする兵士を、アメストリスはつまらなそうに見下ろす。その目は、ハタクには人間のものとは思えなかった。

「妾は月を愛でながら散歩をしておる。下らぬ騒ぎで興を削ぐでない」

アメストリスの声が、急に明るさを装った軽薄な調子へと変わる。しかし、その一言が周囲に与えた恐怖の重みは計り知れない。

「夜風に冷えでもしたら、どうしてくれるというのじゃ? それとも……」

彼女は突然、悪魔のような笑みを浮かべ、兵士に向かって嘲るように言葉を投げつけた。

「あの女狐の母親のように、その口を削ぎ落としてしまおうかのう。どうせ喋らぬのなら、必要はなかろう」

鉄火場をくぐり抜けてきたハタクでさえ、この光景には身震いせずにはいられなかった。彼女の存在そのものが、戦場の血よりも冷たく、死よりも重く迫ってきたのだ。

しかし、その一兵卒は並々ならぬ勇気を振り絞った。

突如として手を振り解き、アメストリスに殴りかかろうとしたのだ。
だが、それはあえなく終わる――。

アメストリスの親衛隊が瞬く間に反応し、その兵士を地面に押さえつけた。

身動きすら取れない彼を見下ろしながら、アメストリスは愉快そうに笑みを浮かべた。

「なるほど、やはり女狐の影にいる輩か。妾の勘は間違っておらぬのう」

彼女の声には、あざけりの色が濃く滲む。

「誤って違う者どもを殺してしまってはもったいないからのう。よくぞ答えてくれた。皇帝を殺そうとした褒美としてその口は残しておいてやろうぞ」

その言葉にハタクは戸惑いを覚えた。

(マスティスの反逆をアメストリスも察知していながら、敵であるかを、しかも殺した後に確認したのだろうか――)

思考が頭を駆け巡り、消えていく。やがて、そこに論理的な答えなどないのだということに気がついた。

敵であろうと味方であろうと、アメストリスにとっては、近衛兵の命など塵にも等しいのだ。それは、彼女の「もったいない」という言葉が雄弁に物語っていた。

アメストリスはその悪魔のような冷笑を浮かべたまま、言葉を吐く。

「あの女の口は削ぎ落としてしまったからのう」

しばし思案したハタクがその言葉が文字通りの意味であることに気づくと同時。

空気を震わすような大きな声が響いた。

「ふざけるな!」

視線を向けると、押さえつけられていた兵士が必死に体をもがかせ、声を振り絞っていた。

「この悪魔め!あの方に何をした!」

その言葉に、アメストリスはわずかに顔を歪める。
不愉快そうに眉を寄せながら、まるでわがままを言う子どもに言い聞かせるような口調で、冷たく、冷徹に言葉を放った。

「妾の息子に仕えるべき女が、皇帝と寝た……。これを妾への反逆と言わずして何と呼ぶか、教えてみよ」

彼女の言葉には怒りと嘲笑が入り混じり、聞く者の心を凍らせた。

「蛙の子は蛙。女狐の子は女狐。であれば当然、この罪の根はその女を育てた母にあろう」

冷酷な笑みを浮かべながら、アメストリスはその声にさらなる凍てつく刃を乗せていく。

「誤謬をもたらす舌、欺瞞を紡ぐ唇、金言を聞かぬ耳、賤しい匂いを嗅ぎ分ける鼻」

彼女はひとつひとつの言葉を、まるで吟味するかのように言い放つ。そして、最後に、最も非情な裁きを突きつけるように言った。

「そして何より、男を惑わせるその乳房……。すべて切り落として、その愚かしき罪の代価を払わせるのが筋であろう」

男は喉の奥から言葉にならない怨嗟を吐き出しながら必死にもがき暴れていた。しかし、その勢いも次第に弱まり、やがて静寂が訪れる。
見ると、男の背中には鋭い剣が深々と突き立てられ、月光に照らされて鈍く光っていた。

「まったくもって手を焼かされる。まだその時ではないというのにのう。アルタパノス」

アルタパノスと呼ばれた人物は、静かに深々と頭を下げていく。
吐息混じりのその言葉には、苛立ちと飽き飽きとした冷笑が同居していた。その声を耳にした瞬間、ハタクの中で、違和感の正体がはっきりと形を成す。

皇帝クセルクセスの正室にして、女帝アメストリス――。後宮の奥にある離れに住む彼女がここまで出てきているのは、皇帝の命を守るためではないのだ。

小さくため息をつくと、アメストリスは気怠げにハタクたちへ視線を向け、冷ややかな笑みを浮かべる。

「お前たちは、確か。名前はなんであったかのう……。まあ良い。あの小娘に伝えておけ、身の程をわきまえるその振る舞い、妾も嫌いではないとな」

血の海の中でただ平伏し、声も上げられないハタクたちに向け、アメストリ
スは淡々と続ける。

「ついでに伝えておくが良い。このまま謙虚に生きよと」

その声にはまるで氷のような冷たさが染み渡り、彼女の背後で揺れる影が一層、暗く長く伸びていくように見えた。

アメストリスによってもたらされた惨劇――紅月の粛清から、数刻前。

エステルはハタクとナヴァズを見送ると、薄絹の衣へと着替え、傍らでその手伝いをしていたフェリザとロザナに視線を向けた。

「……それでは行きましょう」

微かに震える声――。そんなエステルの手を、後ろからそっと包み込む温もりがあった。振り返ると、ミナとタラがそこにいた。

「いつものように待ってるからね!」

ミナの声が、頼もしく響く。

エステルにとって、彼女たちの存在は、皇帝に召される夜を耐え抜くための救いそのものだった。

苦難の夜になると、彼女たちはいつもエステルの寝室で待っていてくれた。気持ちをなだめるように、タラはリュートを弾いて、意外と歌も上手いミナがそれに合わせる。

初めて皇帝の寝所へと赴いたあの夜、涙の跡が残った顔を見た彼女たちが、顔をくしゃくしゃにして一緒に泣いてくれたのを思い出す。

それから、皇帝の呼び出しがあるたびに、どんなに遅くても彼女たちは待っていてくれるようになった。

その音色は傷つき、摩耗したエステルの心を癒し、暗い闇を払ってくれるようだった。やがて、エステルが元気を取り戻すと、一緒にささやかなお茶会をするのが習慣となりつつある。

(今日も帰ったら――)

今回はミナの好物である蜂蜜とナッツの焼き菓子を、エステルが好きだからということにして、厨房の職人に多めにつくってもらったものがあるのだ。
きっと、ミナはそれを知りながら「エステル様のため」と言って、厨房の職人にお願いしにいったことだろう。

そんなことを思いながら、ほんの少しだけ自分を騙すように――。

楽しい未来の幻を思い描く――。

そんな矢先、フェリザが不意に足を止めた。妄想の彼方へ逃げ込んでいたエステルは少し驚いて、よろけてしまう。

慌ててエステルをロザナが支えるが、その顔はエステルではなく、唇を引き結び、鋭く前方を見据えていた。

エステルが目をやると、ペルシア軍総帥〈スパーバラ〉がそこにいた。ちょうど、これから入ろうとしていた王の寝所の扉から出てきたのだ。

ペルシア陸軍次帥ハマン――。

その権力は軍全体を統べるほどにまで拡大し、宮廷内でも群を抜く影響力を誇っていた。

前陸軍次帥マルドニオスは、先のギリシア遠征において、皇帝クセルクセスがサラミス沖の海戦で悪夢の敗北を喫した後も、ギリシア本土に留まり侵攻を続けた。

しかし翌年、スパルタとアテナイの連合軍との戦いで戦死。

これにより、空席となった陸軍次帥の座にハマンが繰り上げ就任することとなった。

だが、サラミスの海戦で敗北し、海軍の大半を失ったペルシア軍は、もはや海を支配する力を喪失。陸軍を束ねるハマンは、事実上、軍の全権を握るに至り、ペルシア軍総帥〈スパーバラ〉と同等の権力を持っている。

また、ギリシアでの大敗後、現実から逃げるようにクセルクセスは後宮に引き篭もり、それに呼応するように各地で反乱の兆しが顕著になり始めた。

対ギリシアの防衛線維持と各地の反乱鎮圧という二つの危機に直面した軍謀府は、多くの軍師や将軍を失い、弱体化していた。

その中でハマンは、混乱の極みにあった軍謀府の状況を意に介さず、就任するや否や直ちに指揮を執り、対ギリシア防衛線の再構築と反乱鎮圧に乗り出した。

こうして皇帝クセルクセス自身もマルドニオスがそうしたように、軍の指揮をハマンに委ねたため、もはや彼を軍総帥と呼んでも過言ではなかった。

そんなハマンは薄く笑い、ゆっくりと手を組んだ。

「おやおや、これは失礼を、皇妃殿下……。今宵は随分とお急ぎのようですな」

その男ハマンはにこやかな笑みを浮かべたまま、ゆったりとした仕草でエステルたちを見やる。

「いえ、失礼いたしました」

エステルが一言返し、先を行こうとすると、ハマンが何でもないかのように言葉をかけてきた。

「王妃殿下、お変わりなく麗しゅうございます。ですが、月夜に歩まれるお姿は、さぞ目を引かれることでしょうな」

何かを探ろうとしているのか、それとも本当になんでもない世間話なのか――。

いずれにしてもどう返せばいいのかわからず、エステルが困っていると、横にいたフェリザから助け舟が出された。

「ハマン様。この月夜にゆるりと語らえぬのは、誠に残念でございます。しかしながら、皇妃殿下は陛下のお召しを受けておりますゆえ、これにて失礼させていただきます」

さらりと交わしていくその手並みに、彼女の後宮での経験値が伺えた。さすがは後宮で数多の波を乗り越えてきた女官長だと、エステルは内心で感嘆しながら目で礼を送る。

今度こそ足を進めようとしたその時、後ろからハマンの声が追いかけてきた。

「そういえば、皇妃殿下。またもや後宮に波風が立ちそうでございますなあ。いやはや、穏やかに月を愛でる暇もないとは、まこと世知辛いことで……」

歩みが僅かに揺らぐ――。

「皇妃殿下、夜風にお気をつけください」

ハマンの声が、背後から柔らかく響いた。それはまるで、何気ない気遣いのようにも聞こえたが、どこか探っているような違和感が拭えない。

エステルは意を決して立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「……お気遣い、痛み入ります」

ハマンの表情は微笑を崩さない。

けれど、瞳の奥に潜む冷ややかな光が、エステルの一挙手一投足を逃さず見据えている。

「夜風は静かに、音もなく忍び寄り、身体を冷やしますから」

わずかに間を置いて、エステルはそう言葉を継いだ。

その返しに、ハマンの微笑が、ほんのわずかに深まった。

「なるほど。皇妃殿下は、風の動きを読むことに長けておられるようで」

ハマンの目が微かに細められる。

ほんのわずか、しかし確かに、その目の奥にある「何か」が揺らぐのを、エステルは見逃さなかった。

エステルは一歩、ハマンのほうへと歩を進める。そして、意識的に柔らかく微笑みながら、さらに言葉を紡いだ。

「夜風に気づいた時には……。守るべきものが手遅れになっているかもしれません」

「……なるほど」

ハマンはふっと息をつき、そして、ゆっくりと手を組んだ。

「皇妃殿下の仰るとおり。静かに忍び寄る風は、時として最も厄介なものでございます」

「ですから、私は……。その風を読める方がいるのなら、とても心強いと思うのです」

エステルの言葉に、ハマンの口元がかすかに動く。しばしの沈黙――。

しかし、それは拒絶ではなかった。

そして――。

「これは、光栄なお言葉を賜りました」

エステルは静かに微笑み、丁寧に頭を下げた。

「どうか、良い夜を……。ハマン様」

「皇妃殿下も、ご自愛を」

ハマンの声が、夜の静寂に溶けていく。

エステルは、わずかに高鳴る鼓動を感じながら、静かに王の寝所の扉を開けた――。

尊大な態度で長椅子に身を投げ出した男は、エステルを一瞥するや否や、苛立ちを隠すことなく、手招きでそばに来るよう促した。

こわばる身体の声を無視して、エステルは足を動かす。

けれど、それは自分の意思で動いているというよりも、まるで世界の覇者にして帝国の全権を握るこの男によって、見えない糸で操られているように感じられた。 

恐る恐る彼の隣に腰を下ろした途端、待ちかねたように強く引き寄せられる。その手は容赦なく、権力を刻みつけるかのような重みを帯びていた。

彼が吐き出す思いは、夫婦が深い愛情のもとで望みを満たし合うものとは程遠く、むしろ怒りと欲望を発散するためのものに思えた。

これを受容できない相手であれば、彼は躊躇なく切り捨て、次へと向かうのだろう――。 

クセルクセスは大きなため息を吐き捨て、そばにあった酒器を乱暴に掴み、一口に呷る。

「まったく……。すべての女がそなたのように素直であれば、どれほど世は快適であろうな」

そう言いながら、怖いほど優しくエステルの頬を撫でると、少しばかり表情を緩め、今しがた彼女が入ってきた扉へと視線を向けた。

「いや、なに。我の弟マスティスが聞き分けのないことを言いおったのよ。帝国の経綸に忙殺される我を、つまらぬ私事で煩わせるとは……」

「皇弟陛下は、帝国の交易の要を統べる重責を担われておいででしたね」
 
クセルクセスはエステルの言葉を最後まで聞くこともなく、少し酒で赤らんだ顔で酒気とともに、あまりにも傲慢な欲望を吐き出した。
 
「愚弟ではあるが、その妻がなかなかの女でな……。だが、どうにも手に入らぬ。さて、そなたは我がどうしたと思う?」
 
悪戯っぽい笑みを向けながら、悪辣なことを嬉しそうに語るその声が、エステルの肌を刺す。
 
身体に寒気が走り、鳥肌が一気に立つのを感じながらも、それを理性で押し殺し、エステルは笑顔を持って言葉を返した。
 
「陛下の深慮は、わたくしには到底及ばぬもの。ぜひ、お聞かせいただければと存じます」
 
その返答に満足したのか、クセルクセスはますます饒舌になった。
 
「マスティスには娘がいてな。その娘と我が愚息ダリウスとを結びつけてやったのだ。そうすれば、母親も我の手元に引き寄せられよう」

良い思いつきだろうとばかりに豪快に笑い、また酒をあおりながら、クセルクセスは言葉を続ける。
 
「まあ、これは我が腹心のハマンの入れ知恵なのだがな」
 
肩をすくめ、種明かしとばかりにエステルに笑いかけてきた。
 
「だがな……」
 
クセルクセスは言葉を切り、エステルを引き寄せ、耳元に顔を近づけてきた。彼の酒気が言葉と共に、身体を包んでいくのを感じながら、努めて表情を崩さず、目線で話の続きをとエステルは促した。
 
「その娘――アルタインテというのだが、白鳥の子は白鳥よ。急に、愚息にやるのがもったいなく感じてな。我がそばに置くことにしたのよ」
 
あまりに暴虐な言葉に、エステルは全身が強張るのを感じた。

国家に身を捧げる軍人の家に土足で踏み込み、息子を使ってその妻を奪おうとし、さらには目移りした娘まで力尽くで自らのものにしようとする――。
 
状況を理解して、もう一度震えを押し殺したところで、そうとは知らないクセルクセスは酒をあおりながら語り続ける。
 
「しかしな、我が妻アメストリスがこれを聞きつけ、烈火のごとく怒り狂ってしまってな。まったく、女というのは厄介なものよ。奴は特に怒ると手がつけられん。とはいえ、奴の知恵もまた国家運営には欠かせぬものなの。だからな……」
 
そこでもう一度、クセルクセスはため息をつく。
 
「アメストリスと話して、アルタインテの母親を奴にやることにしたのよ。惜しいほどの美女なのだがな……。まあ、仕方あるまい。夫たるもの妻のご機嫌とりも大切よ……。愚弟マスティスには代わりに我の娘をやると言ったのだが、拒絶されてな。どうにも話が通じん」

まるで理解不能なことに遭遇したかのような顔をして、エステルに同意を求めるような視線を投げかけてくる。

「隣人のものを欲してはならない」はあの大預言者モーセが神から受けた十の教えであるが、これはペルシアの一般社会においても誰しもが理解している当然の倫理であった。
 
しかし――。

その帝国を統べる皇帝こそが、この世の理を嘲笑う存在だった。皇帝その人がこの倫理を受け入れていなかったのだ。
今までとは比べ物にならない寒気を必死に押し殺しながら、エステルは丁寧に言葉を返していく。
 
「それは……ご心労の絶えぬこととお察しいたします。お心を悩ませることが多く、お疲れのことでしょう」
 
「どうしたものかな。愚弟も妻に会わせろと喚いてな。つまみ出させたが、我の心労は尽きぬの」
 
クセルクセスは冗談めかした顔をエステルに向けて、さらに戦慄させる。
 
「真面目な奴よ。次を見繕えば良いものを……。第一、我が妻は怒り狂うと我でも手がつけられぬ。奴ではどうしようもあるまい。愚弟も愚弟よ、もう犬の餌くらいにしかできないようなものをなぜ欲しがるのかが、我にはわからん」
 
なんでもないかのように、放たれたその言葉がエステルの心を抉り、取り繕っていた感情が決壊した心から涙となって流れ出た。
 
どれほどの絶望だっただろうか。

欲望のままに愛する娘を奪われ、愛おしい妻を無惨になぶられた夫の慟哭は――。
 
そんなエステルの胸中など知らない皇帝は、彼の都合の良いようにそれを理解していった。
 
「優しい娘だ。そなたは……。我が苦しみをそこまで受け止めてくれるとはな」
 
その言葉がエステルの耳に入ってきた時に、彼女の心に今まであまり感じたことがない感情が芽生えた。

それは、恐怖とも悲しみとも異なる、熱を帯びた感情。怒りだった――。


外の喧騒が膨れ上がったかと思うと、荒々しく扉が開く。

隣からミナが押し殺した小さな悲鳴をあげたのが聞こえるが、ミナを思いやる余裕などタラにもなかった。

慌ただしく部屋に入ってきたのは、ハタクとナヴァズ、そして青ざめた顔の少女。

少女はミナやタラと同じくらいの歳に見えたが、その身には中級女官の衣を纏っていた。おそらくは、今回の騒動を持ち込んだ人物だろう。

タラの好奇心は少女へと向かっていたが、それ以上に視線を離せなかったのは――。

ハタクとナヴァズの姿だった。どちらの衣も血で染まっていたのだ。

怪我をしているのだろうか。それとも、他の誰かの血だろうか。

混乱する頭をどうにか働かして、タラは動こうとする。しかし、それよりも早くハタクから焦る声が飛んできた。

「彼女を頼むぞ。私たちはエステル様のところへ行かねば」

そう言うが早いか、ふたりは踵を返し、扉を開け放って、外へ飛び出していった。空いた扉からは、険しい顔のヘガイの姿が見え、続いて帯剣した後宮近衛の一団が走っていくのが見える。

息を詰め、タラは慌てて扉に駆け寄る。

だが、もうすでにその一団は廊下の突き当たりを曲がろうとしているところだった。

追いかけても仕方がない事態であることが、空気から嫌でも伝わってくる。嗅ぎ慣れてない暴力と血の匂いがその空気には混じっていた。

しかし、自分ではどうすることもできない状況だからこそ、余計に不安が襲ってくるというものでもある。

ささやかであったかもしれないけれど、大切な自分の幸せ。それが破壊されてしまうのではないかという、不安が心を侵していく――。

「エステル……」

心の思いが、タラの口から漏れ出ていった。不意に横から声がした。

「きっと、大丈夫!」

驚いたタラの肩は跳ねる。横を見ると、ぎこちない笑顔を浮かべているミナがいた。

「大丈夫、大丈夫」

自分に言い聞かせるように、繰り返すミナは、タラの背中を叩いてきた。ミナなりの気遣いなのだろう。いつもの天真爛漫な笑顔と比べると、どこか不安が見え隠れする。

タラは気持ちが落ち着いたとばかりに、少し無理して笑い、努めて明るい口調でミナに言葉を返した。

「さあ、私たちは私たちのすべきことをしましょ」

その声にミナは力強く頷いていく。息を合わせたようにタラとミナは、戸惑いと怯えを顔に浮かべている少女に向き直ると、笑顔で近づいた。

「私はタラ、こちらはミナにございます。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

上位の女官に対する敬意を忘れずに、タラは少女に問いかける。なぜか、少女の顔はさらに困惑の色を深めていったが、どうにか絞り出すように声を出す。

「……ラジーラ」

まるで霧に溶けるような、小さな声――。

その消え入るような声をなんとか拾うと、タラはうやうやしく彼女の手を取る。

「ラジーラ中級女官様。まだ火はくべられておりますので、お身体も冷えていると思いますので、湯浴みはいかがでしょうか」

エステルに仕え始めてから、久しく使っていなかった格式張った言葉遣いに、どこか歯痒さを感じながら、タラは彼女に目で促していく。

「えっ……」

ますます戸惑いを浮かべて、ラジーラは後退りをしていく。

しかし、その背には、いつの間にかミナが立っていた。ラジーラの肩がミナの身体に触れると、彼女の全身が硬直する。

慌てて、謝ろうとするラジーラだが、そんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、明るい声でミナは背中を押していく。

「さあ、冷えたままではお身体に障りますよ」

ぐいぐいとラジーラを半ば強引に、ミナは浴場へと連れて行こうとする。こんな時に彼女がいると心強いなと改めて、タラは思う。

明るいミナがいると、わずかだが、ほんのりと空気が温まるような気がする。とはいえ、上下に厳格な女官との相性は悪いミナである。

現に今も、初対面の女官とは思えない馴れ馴れしさで、背中をぐいぐいと押し始めた。

自分がしっかりしなければと、タラは気合を入れ直す。

どこの中級女官かわからないが、エステルに所属する自分たちの質が悪いと噂が広がらないようにしなければならない。自分たちの評価はそのままエステルの評価にもつながるのだから。

そんな新たな悩みをタラが抱えているとは露知らず、ミナは変わらぬ明るさでラジーラに話しかけた。

「今夜は月が綺麗ですね……」

誰かを口説こうとしているのかと思うような、不器用な言葉がけ。
なんとか会話を盛り上げようとミナは試みているが、一向に会話はちぐはぐで盛り上がる気配さえも感じない。

そもそも、状況が状況だ。

(盛り上がらない方が自然だし、そうする必要もないんじゃ)

タラは、横からさりげなく口を挟む。

「ミナ、ラジーラ様に合う衣裳を取ってきてくれないかしら。そうね……」

少し思案しながら、ラジーラの身体に上から下まで何度か目をやって、タラは目測する。

「ロザナ様のものが合うのではないかしら。お願いします」

そう言って、ミナを送り出すと、ラジーラにも丁重に言葉をかけた。

「ラジーラ様、ただいまご用意できますのは上級女官の衣裳のみとなってしまいます。ですが、次席女官長も含め、こちらはどなたもお気になさりませんので、ご安心くださいませ」

柔らかく、穏やかに伝えたつもりだったが、ラジーラはますます怯えてしまい、浴場へ行くのを少しだけ抵抗するように足を止める。

「でも……私は……」

その震える声に、タラはふと気づく。

(エステルのところにいたのが長くなってきたのがよくないなあ)

タラは少しだけ内心で苦笑する。

後宮内での上下は絶対的な権威の差であり、その主従は身分の違いであり、崩れることがない掟でもあった。

女官たちでさえもそうであるのに、皇妃――それも政治戦略ではなく、皇帝自身によって選び抜かれた妃ともなれば、もはや崇敬の対象ですらある。
その権威者に仕える次席女官長の衣を纏うなど、恐れ多いにも程があるということだろう。

しかし、おそらくラジーラが思い浮かべる上級女官の衣裳と、ミナが持ってくるものとでは、大きくかけ離れているだろう。

上級女官ともなれば、妃ほどでなくても、それなりの煌びやかさがあるものだが、最近のロザナは実用性を優先し、動きやすい簡素な衣を選ぶようになっていた。

それもこれも、権威者であるはずのエステルが、頻繁に下女の姿で厨房に立つせいだろう。当然、その傍で仕えるロザナも、格式ばった衣裳など着ていられなくなった。

いずれにしても、祭儀用の衣裳はともかくも、実務用にあつらえたものであれば、ロザナも笑って許してくれるだろうし、周りから見ても上級女官のものとは思われないだろう。

そんなことを考えて、タラはできるだけ、嘘偽りのない誠実そうな声で、ラジーラにもう一度伝える。

「本当にどなたもお気になさりませんので、ご安心くださいませ」

その言葉に、なぜかラジーラは、覚悟を決めたかのような表情を浮かべるのだった。

「申し訳ございません……」

震える声が浴場に響き渡っていく――。

タラの目の前には、怯えながらひれ伏すラジーラがいた。

「私は……モルデカイ様のお取り計らいによって、この衣裳を身に纏っていただけで……本来の身分は、奴隷にございます……」

ラジーラは目に涙を溜めながら、慈悲を乞うようにタラを見つめてくる――。

彼女が何度か何かを言いかけ、口をぱくぱくとさせていたことには気づいていた。そして今、その理由をようやく理解した。

怯えるラジーラの手をとり、タラは半ば無理やり立ち上がらせる。

「では、今日だけは中級女官になりましょう」

思わず、自分でもおかしくなる。

ミナやエステルの影響を受け始めているのかもしれない――。そう思いながら、タラは少し悪戯っぽい微笑みをラジーラに向けた。
ラジーラはその笑顔に押されながらも、必死に抵抗を試みる。

「で……でも、女官様の浴場に……」

言いかけた彼女を、タラの一言がさらなる混乱の渦へと引き込む。

「大丈夫ですよ!ここは私たちではなく、エステルの浴場なんですから!」

思わずタラはそう言って、ラジーラの手を取った。その言葉が後宮規範の外へとよく飛び出すエステルの自由奔放な振る舞いに影響されたものであることをすっかり忘れて――。

困惑を深めるラジーラ。しかし、タラは構わず彼女の手を引き、そのまま浴場へと連れていった。
浴場に入ると、白い湯気にしっとりと身をまとわりつく――。

まだ冷たさが残る春先の夜風に当たったからなのか、ラジーラの手足は冷え切っていった。
タラがラジーラの衣に手をかけると、ラジーラは身を震わせたが、抗うことなく、タラに身を委ねていった。

はらり――。

ラジーラの衣を取り、湯を手桶で汲んだタラはそこで戸惑う。彼女の背中には、無数の傷跡が刻まれていたのである。

タラは動揺を悟られないように、湯をゆっくりとかけ、ラジーラを気遣う。

「どうですか? 熱すぎたり、どこか痛んだりしていませんか?」

ラジーラは首を横に振り、小さく絞り出すように答えた。

「……大丈夫です。慣れていますから」

その言葉に思わず、タラは手を止めてしまう。

彼女は何に慣れているというのだろうか。何にしても、それは慣れてはいけないように思えた。どんな過去を持てば、こんなことに「慣れる」ことができるのだろう。

そっと自分の肩を抱くラジーラを見て、冷えないようにと、また手桶で湯をかけてあげる。

(こんな時、エステルなら、なんと声をかけるかな)

真面目で、思慮深くて、それでいてたまにお茶目な自分の主なら――。

そんなことを思いながら、肩のあたりで大雑把に切られたラジーラの髪を、タラは丁寧に洗い始めた。

湯浴みや洗髪は、妃付きの女官であるタラでさえ、週に一度程度。それを思えば、ラジーラに対する扱いは破格といえた。 

油分で重くなっていた髪を丹念に洗い、水気を拭き取ると、鋏を手に取り、綺麗に髪をうなじが見えるくらいに切り揃えていく。

綺麗に、真っ直ぐに――。

いつも髪を肩より少し上で綺麗に切り揃えるのがエステルも好きで、何度もタラが同じように浴場で整えていた。

エステルの髪はうねりがあって、少し難しいが、ラジーラは変な癖もなく、素直で、鋏の通りも滑らかだった。

タラが手際良く、ラジーラの髪を整えると、エステルが持っている香油をふんだんにもらって、髪や身体にゆっくりと馴染ませていく。

ほのかに甘く、どこか落ち着く香りが湯気に混じり、ふんわりと漂った。タラはその香りを感じながら、ふとエステルの顔を思い浮かべた。
エステルなら、きっと自分の香油が使われたことを怒るどころか、むしろ嬉しがるだろう。

「私の好きな香りをまとってくれるなんて、素敵じゃない?」

そんな軽やかな声が、どこからか聞こえてきそうだった。 

最後にタラは、上気したラジーラの肌に薄絹の衣を着させると、そっと手を引いて言った。

「ほら、これでバッチリ。可愛いですよ」

ラジーラは少し戸惑いながらも、照れくさそうに俯いた。その手を引き、浴場を出ると、衣裳を手にしたミナが待っていた。

「ミナ、ありが……」

そう言いかけたタラの言葉は、ミナが持ってきた衣裳を見た瞬間に喉の奥で止まった。

ミナの腕に抱えられていたのは、簡素な実務用の衣裳ではなく、思いがけず豪華な衣だった。

儀礼用ではないのが幸いとはいえ、それでも華美な装飾が施され、一目で上級階級の者の衣裳だとわかる。

おそらく、エステルが自室を出る際に随伴するためのものだろう。

妃としての威厳を示すため、他の妃や女官たちと並んだときに見劣りしないよう、エステルでさえも着飾ることを求められる。ロザナもまた、それに倣って、それなりに絢爛な衣裳を持っているのだ。 

隣にいるラジーラの手が冷たくなっていくのを感じて、タラが視線を向けると、湯から上がったばかりとは思えないほど、血の気が引いていた。

そんな戸惑うふたりに気づかないのか、ミナは輝くような笑顔で、ラジーラにその衣裳を着させていく。あまつさえ、なぜ手伝わないのかと目で訴えてくる始末である。

タラは心の中で静かに嘆息した。

(確かに、ちゃんと指示をしなかった自分の不始末だ。しかし、それにしても、どうしてミナはこうも――)

ほんの少し苛立ちを覚えながら、注意すべきところは注意しなければと思って言葉に出す。

「もう少し実務のための衣裳のほうにしようよ。あとミナ……それ、ロザナ様の化粧道具じゃない? さすがにそれを借りるのはまずいと思うけど……。気に入ってらっしゃったから。ほら、エステルのを使ったほうがいいんじゃない……ね?」

なぜか、不思議なことに握っているラジーラの手はますます冷たくなっていた。

「即時、後宮近衛をここへ」

低く鋭い声が、寝所の前室に突き刺さるように響いた。ハマンの命令は、わずかな逡巡すら許さぬ緊迫感に満ちていた。

エステルが皇帝クセルクセスに暗殺計画を告げたのは、つい先ほどのこと。

皇帝はすぐさま前室に控えていたハマンを呼び寄せ、すべてを伝えた。

「陛下、テレシュの指示により、親衛隊の配置が変更されておりました。そのため、警備に重大な空隙が生じております」

王宮近衛――かつては王宮の防衛を一手に担い、忠義と誇りの象徴とされた存在。

だが今や、その名は虚飾に過ぎなかった。テレシュの影が、静かに、しかし確実にその中枢にまで染み込んでいたのだ。

さらに、皇帝直属の親衛隊までもが、今夕、テレシュの指示によって意図的に寝所から遠ざけられていた。

すでに計画が実行段階に移されている――それが、ハマンの判断だった。即時統制は不可能。だからこそ、彼は一手先を読んで動いた。

後宮近衛の一部を抜擢し、皇帝の警備要員として前線に転用し、即応させたのである。

「……王宮の中に、敵がいるというのか」

低く呟いたクセルクセスの顔に、一筋の汗が伝う。豪奢な顎鬚をかすめながら、まるで見えない刃のように頬を切って落ちた。

対照的に、自身の目をすり抜けて手駒を減らされたというのに、ハマンは微笑みすら浮かべながら、わずかに首を傾けて皇帝の顔を見つめる。

「すでに後宮近衛は即応体制にあります。陛下の御身は、私が必ずお守りいたします」

声は穏やかだったが、その響きには、すべてを掌握している者の確信が滲んでいた。

しばらくすると、アメストリス直属の親衛隊が反乱分子と思われる王宮近衛を一掃したという報せが、応援に駆けつけた後宮近衛を率いるヘガイと共に届く。

鋭い視線を周囲に走らせながら、ヘガイの手勢と共に警護の布陣をハマンは再構築していき、事態は沈静化へと向かっていた。

この一連の騒動の黒幕は、バクトリア地方知事マスティスであった。

事の次第は、こうである。

かつて、皇帝クセルクセスはマスティスの妻に目をつけ、その身を奪おうとした。

怒れる地方長官への宥和策として、今度はその娘を自身の子に嫁がせた。だが、やがて皇帝はその娘までも自らの側に召し抱えてしまう。

この事態に激昂した皇后アメストリスは、怒りを逸らすかのようにマスティスの妻を見せしめとして処刑する。

理由もなく、慈悲もなく。まるで、玩具を壊すかのように。

――誇りも、家族も、根こそぎ奪われ、すべてを失ったマスティスは、復讐を誓った。

妻をさらわれたマスティスは、復讐のために寝所の警備責任者ビクタンとテレシュと共謀して皇帝の暗殺計画を立案。

かつて皇帝に信頼された者たちが、彼の怒りに共鳴し、反旗を翻したのである。

しかし、妻を取り戻そうと焦ったのか、怒気を含んで暗殺計画を話しているところをマスティスの奴隷ラジーラが通りがかり事態は発覚する。

計画は露見。暗殺は未遂に終わった。

さらにマスティスは妻の無惨な死の報せを告げられ、絶望の果てにさらに激昂。バクトリアへと逃れ、反乱の旗を掲げようとした。

ところが、ハマンによってすでに一手先を打たれていたのである。

即座に派遣された軍により、反乱の芽は未然に摘まれ、マスティスと三人の息子は反抗の言葉も、剣を抜く間も与えられぬまま、鎖に繋がれ、地に膝をつかされた。そして、彼らの命運はラジーラの証言により、完全に潰えたのである。

翌朝――。

処刑場には静かな風が吹き抜けていた。その風が、折れた誇りの残骸を巻き上げるように、四つの骸が無情に架けられていた。

こうして、皇帝クセルクセスの暗殺未遂は幕を閉じたのである。
だが、その余韻は、後宮の奥深く、誰も踏み入れぬ闇の底に、なお燻り続けていた。

▼次話


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