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フィレンツェの春【12】:エマナツィオーネ

あらすじ:
自失するジュリアーノ。そこに兄ロレンツォが現れ、フィチーノにその主著『プラトン神学』の豪華本を献呈する。新たな技術で不滅の「神殿」を得た「言葉」はどこへ行くのか……。そして美しき書物に宿る知の光の影に、アンジェロが見たものとは。

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■ 黒紫の神官

「ドクトール、弟をあまり脅さないでくれ」
高く耳に通る声がサローネの沈黙を抜け、ジュリアーノ・デ・メディチは我に返った。

ロレンツォ・デ・メディチが姿を現す。
漆黒のビロード帽と黒紫の長衣(シオッパ)。
その豊かなウールの裾を曳きつつ、古代の神官の足取りで場の視線を独占する。

「マルシリオ伯父よ、あなたの言うことはいつも正しい。だが、今夜は少しばかり厳格すぎやしないか」

言うと口角を上げ、満座に杯を掲げる。
水晶を通して覗く赤葡萄酒は、しかし半分以上なくなっている。

上機嫌な早口が続く。
「人が美の光に目を灼かれ、地上の沼に足を取られるのは、もっぱら『』という人生の季節にのみ許される特権だ。……だが、それは長く続くものでもない。だからこそ、人はみずから狂気に身を投じるのだ」
言うと、赤葡萄酒が唇を潤す。

すかさずルイージ・プルチのレベックが「その通り!」のフレーズをはじく。
ロレンツォは片眉を上げニッと笑って続けた。

「神聖なる狂気であれ、沼の破滅であれ……、男一匹、生れ落ちてきたからには、一度はその深みへ飛び込んでみせてこそ本物というもの。メディチの男となればなおのこと、と、おれは思う」

そして弦の震えが止まると同時に、継ぐ。
「……そもそもこの町では、飛ばぬものから先に喰われる

マルシリオ・フィチーノは穏やかに頷き、笑う。
「左様左様。ロレンツォ殿は今宵も息災のようだ。まことに貴殿の言う通り、だからこそ、人間というものは、愛おしくも危うく……そして面白い

哲学者のおどけた調子にロレンツォが杯を上げると、そのシオッパが光を受け、青く波頭を見せる。

「……もっとも、我が弟がそこまで高く飛べたのは、今宵、その翼を与えてくれる『言葉』が、すでにこの大広間に用意されていたからでもあるのではないか?」

兄は弟に問う。弟の大理石の笑みを見る間もなく再び哲学者に向き直り、
「そしてそれは……伯父御、あなたが長年に渡って紡ぎ続けてきたものに他ならぬ」


■ ひとつの宇宙

ジュリアーノは兄の目くばせに杯で応じ、手筈通りに大広間をバリトンの心地よい響きで満たす。

「皆さん、静粛に。……崇高なる哲学者マルシリオ・フィチーノ師の峻厳な理論、柔軟かつ大胆な推論、そして、そのアポッローンの調べとムーサの歌声とによって……、我々は、このアカデミアは、いつも感嘆の吐息を漏らすばかりでありました。……しかし今夜は、我々のほうこそが、先生を驚かせて差し上げる番です」

不意を突かれて目を見張るフィチーノの細い体と満場の静寂を前に、やにわにロレンツォは真顔になる。黒紫の袋袖をふわりと回して帽子をとり、そして恭しくお辞儀をする。

「マルシリオ伯父——いや、『我らが魂の至上なる導き手』よ」

言うと顔を上げる。
テンペラの壁に映る影が、圧倒的な質量で揺れる。

「今宵、汝の翼ある思考によって、この宇宙の真実がまたひとつ明らかになった、この素晴らしき春の夕べに……、余は、そしてこのフィレンツェは、時をおなじうできることを心から光栄に思う」

朗々と宣言すると、イル・マニフィコは高らかに指を鳴らした。

二人の従僕が大広間の中央へ厳かに進み出る。
彼らが支え持つ銀盆の上には、深い群青のジェノヴァ織のベルベットが、夜の水面、あるいは天上の物質アイテールそのものと見紛うばかりの、微細な光を映し沈めている。

縁には星辰文様が走る。
これもまた細かな金糸で刺繍された星々は、火の角度によってある時は消え、またある時は暗い天球の奥から瞬くように浮かび上がる。

Vvici, ≪ Quintessenza », 2026

——それは、ひとつの宇宙

フィレンツェの主はこの地上に降り立ったこの宇宙の雛形に歩み寄ると、金糸の星雲を軽くつまみ、たっぷりと二つ、呼吸を置いた。

人差し指の金指輪におさまる大ぶりの血玉髄(ブラッド・ストーン)が目を引く。黒々とした鉱物の緑に酸化鉄の赤が沈む、蝕の太陽

と、その宝石の輝きが弧を描く。
ベルベットの天球がふうわりと舞う。

刹那、シルク裏地の鈍い蜂蜜の、ぬらりとした色彩が露わになる。
上質の光沢が燭火を返し、盆上の書物を、明けの明星の煌めきで照らし出す。


■ 不滅の神殿

この聖遺物開帳の儀式を間近で見守っていたアンジェロ・ポリツィアーノは、両目を見開き息を飲んだ。貪るようにこれを凝視する。

白光に照らされるは、開かれた書物
そしてそれは、写本ではなかった。

若き詩人の鋭敏な嗅覚が、香草や蜜蝋の奥から立ちのぼる、かすかな、しかし決定的な香気を嗅ぎつける。

亜麻仁油、そして金属

アルプスの向こうからもたらされた新技術。
このフィレンツェでも、サン・ヤコポ・ディ・リーポリの修道女と職人たちが執念を燃やす、あの「可動活字」の文字。

しかし詩人の知るどの印刷本とも、それは違う。

この書物のために特別に漉かれたであろう、極上の子羊皮紙。
得も言われぬ乳色の紙面の中央に、寸分の狂いなく整列する文字の群れ

鉄型によって打刻された古代ローマ風のアンティカ体活字
それは峻厳な軍隊の歩調で紙面の中央を埋める。
活字の塊と余白との黄金比は狂いなく、文字の黒が紙の白の沈黙を、この上なく優雅に支配している。

だが、見よ。——「神は真空を嫌い給う

すなわち文字群を囲う余白の沈黙は、色とりどりの細密画によって侵食される。

写本彩色の若きマエストロ、アッタヴァンティの工房による息を飲む仕事。
古代建築のフレーム構造を基底に、金箔、ラピスラズリ、植物、鳥獣、天使、幾何学模様が、紙面の真空を満たさんと繁茂し、脈打ち、咲き狂う。

金属の技術が刻む冷徹なロゴスと、熟練の手が産む生命の過剰
その奇跡的な融合。

「こ、これは……」
さすがの哲学者も驚愕を隠そうともせず、かすれ震える声が大広間の静寂に重なる。

「当代のプラトン」の淡い青の目が潤む。
しかしそこには驚きと嬉しさだけではない、微かな、おののくような曇りもまた読める。

その細い指が、まだ見ぬその書物の表紙へと、恐る恐る伸ばされる。

Theologia platonica

『プラトン神学』

アンジェロの首筋に、黒々とした冷気がまとわりつく。

文字というものの恐ろしさ、あるいは儚さを、彼は誰よりも知っているつもりだった。手書きの写本は、十冊、百冊、十年、百年と書き写されるうち、写字生の誤記や偏見という「」が必ず混じる。

言葉は流転する。
それは腐食を運命づけられた身体

だが、目の前にある鉄の文字の群れはどうだ。
一度型が組まれ、インクが当てられれば、それは何百、何千と同じ姿でこの地上に残る。誰の指に触れようと、どんな時代の闇をくぐろうと、この偉大な哲学者が記したラテン語は、一語一句変わらず未来永劫、残る。

古代の神聖なる狂気(マニア)は、もはや腐り消え去る運命にある肉ではなく、ここに、不滅の神殿を得た。


■ 羽音

「我らが導師。これでもう、誰もあなたのプラトンを奪うことはできない」
イル・マニフィコの、低く、湿り気を帯びた声。フィチーノの耳元で囁かれていたそれは、次第に音量を上げる。

「汝の魂が紡いだこの叡智の言葉。その眩き光を、イタリア中、否、この地上のすみずみに至るまで、同時に行きわたらせん……」

そして大広間の響きへと変わる。
その美によって、この世界全体をいざ照らさん

詠唱が語るは、エマナツィオーネすなわち流出——その、新たなる寓意。


アンジェロは早鐘の鼓動と耳鳴りをかみ殺す。
書物と主人の呪縛に絡めとられそうになる。

書物の第一頁、その巻頭を飾る、ひときわ大きな金の頭文字「」。
ドーリア式の柱を思わせる骨組みを、アカンサスの束花々、そして二匹のプッティが天上の力学に従って支えている。

それらが絡まる文様の曲線に隠れるように、小さな、しかし確実にそれとわかるの姿。

――Vespa.

楽園に似つかわしからぬスズメバチの羽音が、耳鳴りに混じる。


その不穏な影が金箔の絵の具で密かに描き込まれているのを、詩人の病的なまでの観察眼は、見逃すことができなかった。


Continua → フィレンツェの春【13】:剣の庭

■ 登場人物と目次



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