【芸術論】アウトサイダーの芸術と政治 『ボディビルダー』(2023)評

 映画『ボディビルダー』の批評として書き始めたが、例によって、途中でテーマが変わってしまった文章を投稿する。

『ボディビルダー』(イライジャ・バイナム、2023)

評価:☆☆☆★★

 ボディビルダーとして世界の頂点に立つことを目指す孤独な青年が妄想の世界へと絡め取られていく映画『ボディビルダー』。これがどういう作品かを一言で言えば、ボディビルダー版『ジョーカー』ということになる。しかし、そもそも、狂気へと転落していく孤独な売れない芸人としてバットマンのヴィランを描く『ジョーカー』という映画自体が、アメコミ版『キング・オブ・コメディ』と言うべき作品だった(そして、アメコミ版『タクシードライバー』でもある。なお、どちらも監督はマーティン・スコセッシ)。「社会的孤立を経て狂気に陥る現代の若者」を描く物語は、スコセッシ作品をコピーするかのように類型化され、量産され、そのオリジナリティの無さを通じて、現代的な「社会的孤立」という出来事の平凡さを表現するかのようである。
 『ボディビルダー』では、主人公はボディビルディングを通じて社会的承認を得ようと滑稽に足掻くわけだが、突拍子もない手段に頼って自己顕示しようとする孤独な現代人は、今日、社会の至る場所で発見することのできる、とてもありふれた存在であるだろう。
 SNSで注目を集めてインフルエンサーになろうとしたり、ユーチューバーになろうとしたり、アイドルや芸人を目指したり……。あるいは、そこまで極端でないとしても、職場で他より秀でた能力を発揮して周囲からの承認を得ること自体が、シビアな競争社会で「本当の自分」を見失わずにいるため、誰もが強いられている自己PR活動であるかもしれない。「世界」と「自分」をつなぐ中間項が失われた新自由主義社会では、人々は、「世界」とのつながりを取り戻すため、どこまでも「自分」の内側へと没入して、際限ないスキルアップに努めなければならない。主観的には外へ外へと出ようとしているのに、努力が空回りして、際限なく内へ内へと閉じていくことを強いられる感覚は、現代を生きる多くの人々にとって馴染みの深いものだろう。
 そして、そんなありふれた孤独感を再確認するために必要とされるのが、「売れない芸人」であったり、「ボディビルダーに憧れる青年」であったり……の物語であるわけだ。誰もが多かれ少なかれ「自己実現」を強要される社会では、能力不相応に自分を売り込んで注目を集めようとすることの虚しさや恥ずかしさに対して、常に意識的でいることは難しい。誰もが同じように「個性」を主張することの異様さは、容易に忘れられがちだ。だからこそ、そうした「ありふれた異様さ」への注意を促そうとする者は、芸人やボディビルダー(志望者)、犯罪者やテロリストなど、自己実現を過剰に空回りさせた人々――つまり、「過剰に平凡」な人々を、物語に取り上げようとする。
 『ボディビルダー』は、ありふれた出来事――「ありふれた狂気」を、平凡な物語の類型を通じて描いた平凡な作品だ。

 この作品について注意すべきことがあるとすれば、これはメディアについての映画である、ということだ。
 映画の原題は、"Magazine Dreams"。主人公キリアンの夢は、ボディビルダーとして世に認められること自体というより、雑誌の表紙を飾ることであるようだ。
 また、キリアンが憧れのボディビルダーの映像を観る際に利用するのは、今どき、ビデオテープである(それどころかポルノを観る時まで!?)。キリアンが外部の人間と連絡を取る時に利用するのは、自宅の固定電話と手紙だ。紙の雑誌、VHS、固定電話、手紙――いずれも、インターネットとスマートフォンに覆われた世界にあっては珍しい、失われつつある時代のメディアである。
 キリアンがこれらを利用するのは、別に貧困ゆえというわけでもないだろう。要するにイライジャ・バイナム監督は、あえて古いメディアを登場させることで、インターネットやスマートフォンの「なめらか」な手触りと対照的な、ザラザラ、ゴツゴツとした手触りの世界を作品に映し出したかったのだ。この手触りは、それ自体が、インターネット時代のありふれた現実に注意を向けさせるための道具として機能するはずだ――と、ここでは期待されている。誰もがSNSで自分をさらけ出し、手軽に承認を得ようとする、インターネット時代の滑稽さと俗悪さを表現するため、「古いメディアを登場させること」それ自体が、表現の媒介=メディアとして利用されているわけだ。
 そして、ボディビルダーの身体もまた、そのような意味で、一つのメディアに他ならない。一流ボディビルダーの身体は、劇中のキリアンにとっては、それを獲得すれば「世界」と「自分」を一足飛びに繋げることができるはずの媒介=メディアであり、それと同時に、監督にとっては、それを描けば「世界と自分を一足飛びに繋げようとすること」一般のグロテスクさを表現できるはずの媒介=メディアである。
 自己顕示欲と「男らしさ」に囚われた男が、自分の存在を世間にアピールするためにすがりがちな手段としての、ボディビルディング――。もちろん、これはあまりに安直な、偏見に満ちた見方なのだろう(私はボディビルディングというスポーツについて全く何の知識もないが、流石にそのくらいのことは想像できる)。しかし、それがとても理解しやすいイメージであることも事実だろう。そのような「分かりやすさ」が、ある種のいかがわしい魅力として、ボディビルディングへと人々を惹きつけてもいるのだろうことは、想像に難くない。
 いわば『ボディビルダー』は、「安直な方法で自己実現しようとする男」を安直な方法で描写する映画である。ここには、ある種の無自覚な自己言及があると言えないこともない。ボディビルディングというものの最も安直な側面に惹きつけられているという点では、主人公キリアンとバイナム監督は同じなのである。
 当然、本当は、作品に取り上げられるのがボディビルディングである必然性はなかったのだ。物語の構造をそのままに、主人公を「芸人」や「タクシードライバー」や……に入れ替えれば、全く同じテーマの作品がいくらでも作れたであろうことは、繰り返すまでもない。いわば、数ある「他の何であっても良いもの」の中で、「他の何であっても良い」という属性を強調しやすいという点においてのみ、この作品はボディビルディングを取り上げなければならなかったのだ。
 「他の何であっても良いもの」であるくせに、自らを「かけがえのない、ただ一つのもの」であるかのように誤認させてしまうもの――この映画が描くボディビルディングとはそうしたものであるが、これを、「芸術」と読み替えることもできるだろう。いわばこの映画は、アウトサイダー・アーティストの狂気を描いた作品だ。ボディビルディングであれ美術であれ文学であれ映画であれ、正規のコンペティションからまともな評価を得られなかったアウトサイダーにできることは、せいぜい、劇中のキリアンのように、ユーチューブに意味不明な動画をアップして失笑を買うことくらいだろう。
 コンペティションから評価を得るとはどういうことかといえば、雑誌の表紙を飾ることであったり、ショーに出場することであったり、あるいは美術作品なら美術館への陳列ということになるだろうが、要するにこれらは、インターネットで自分の作品を手軽に世に出すことのできる時代にあって、とても効率の悪い、古いメディアを介さなければ実現できない自己顕示のやり方である。今日、アマチュアの「芸術家」たちの承認欲求とは、要するに、古いメディアのザラザラ、ゴツゴツした手触りを希求することに他ならない。それは、単純に自分の「作品」を認めてもらいたいということにとどまらない、ネット社会で希薄になった「他者とのつながり」への欲求を含むものでもあるだろう。ネット社会を生きる現代人にとって、「他者」とは、古い時代には世界にありふれていたはずのもの――すなわち、「手触り」のことなのだ。
 だからこそ、キリアンは、やっと会うことのできた憧れのボディビルダーの美しい腹筋に手を触れ、ただつぶやく――「完璧だ」、と。
 しかし、キリアンが友情を求めて近づいた美しい「芸術」は、キリアンを押し倒し、尻の穴にペニスをぶち込み、キリアンを再び孤独の底へと置き去りにすることとなる。
 もちろん、このセックスの場面は、単純に、男性への性加害を批判的に描いたものと見ることもできるものである。しかし、注意すべきなのはやはり、この場面が、「ファンに手を出すゲイのボディビルダー(しかも白人男性)」などという、ボディビルディングについて何の知識もなくても即座に思いつきそうな、あまりに安直なイメージをそのまま登場させているという事実それ自体だろう。

 さて、「ボディビルディングすれば世間に自分を認めてもらえる」などという安直な夢を追いかけたキリアンはそのように手痛いしっぺ返しを受けることとなるわけだが、一方で、ボディビルディングについての安直なイメージと戯れている点では同類のくせに、この映画のスタッフは、自分たちはキリアンのようには大火傷をせずに済む、と確信できるだけの根拠を、ちゃっかり手中に握っているのである。
 身も蓋もなく言ってしまえば、要するにそれは、『ボディビルダー』が、無名の一般人がユーチューブにアップする意味不明な動画なんぞではなく、巨額の資金を投じてプロのスタッフの手で作られた、確固たる「映画」であるということだ。これは、当然といえば当然のことだ。アウトサイダー・アーティストは、どれほど惨めな現実を生きていても自分は確かに「芸術家」(ボディビルダー)なのだ、と常に自分に言い聞かせなければならないが、職業としての「芸術作品」づくり(映画製作)にすでに携わっている者にとっては、自分が「芸術家」であることは、一応、自明である。自分が「芸術家」であることを疑わずに済む立場にいる者にとって、不安があるとすれば、むしろそれは、「芸術」というものが本当にこの社会でまだ必要とされているのか、ということだろう。
 だからこそバイナム監督は、『ボディビルダー』という映画=芸術作品が確かに優れた社会批評として機能しているのだと確認するかのように、執拗に、古い時代のメディアのあの「手触り」を映画に登場させるのだ。誰もがあまりに効率よく自分をさらけ出すことができてしまうネット社会を客観視するきっかけとしての、古いメディアの「手触り」――つまり効率の悪さ。そもそも映画というもの自体、原則として、わざわざ映画館まで足を運んで、椅子に座って最初から最後まで観なければならないのだから、ショート動画があふれる時代にあって、とても効率の悪いメディアである。芸術に価値はあるのか、と問うことは、「効率の悪さ」に価値はあるのか、と問うことであるかのようだ。
 当然ながらバイナムは、価値はある、と答えようとする。
 だが、その証拠としてバイナムが発表する芸術作品の中で、主人公キリアンは、コンペティションから拒絶され、ネットユーザーから嘲笑され、憧れの「芸術家」からレイプされた挙げ句、いわば、「芸術には価値はない」という真実を観客に向けて開示することとなる。これはどういうことか? 要するに、『ボディビルダー』において、芸術の価値は、「芸術には価値はない」ということを正確に表現することができる、というところに見出されているということに他ならない。
 かつて「芸術」は、「世界」と「自分」をつなぐ中間項たる市民社会の一部として、有効に機能しうると信じられていた。そして、旧来の「芸術」がそのように機能しうる余地が失われた世界では、中間項としての「自治組織」からも「地域共同体」からも「伝統」からも切り離された孤独な現代人たちは、どこまでも「自分」の内側へと閉じこもって、旧来の市民社会で培われてきた「芸術」表現とは何の関係もないやり方で、自己流の「芸術」を実現しようとすることとなる。「芸術」は、孤独なアウトサイダー当人たちにとっては「かけがえのない、ただ一つのもの」かもしれないが、客観的には、いくらでもある「どれであってもよい」自己実現のツールの内の一つでしかないだろう(というより、そのようなもの一般を、この文章では仮に「芸術」と呼んできたわけだ)。『ボディビルダー』は、アウトサイダーが希求する「芸術」の無価値さを描くことを通じて、そのような無価値さに意識を向けさせる装置としての旧来の「芸術」を温存しようとする映画=芸術作品である。
 だが一方で、仮にどれだけアヴァンギャルドな芸術理論がブルジョア的個人主義を攻撃してきたのだとしても、資本主義社会における芸術は、最終的には、「かけがえのない、ただ一つの個性」を表現して社会に投げかける、という建前に準拠せざるを得ないものだろう。それは言うなれば、「中間項」的共同体の偏見に満ちた価値観にとらわれない、独自の価値観を持つアウトサイダーでなければ、真に「芸術家」になることはできない――ということであり、逆に言えば、そのようなアウトサイダーたちが、「芸術」を、数ある自己実現のツールの中から「かけがえのない、ただ一つのもの」として選びうるということこそが、「芸術」が確かに「芸術」として機能しているのだと証明してきた、ということでもある。正規の訓練を積んでいない、膨大な数のアウトサイダー・アーティストたちから「憧れられている」という事実こそ、「芸術」を真に「芸術」たらしめる所以なのだ――というわけだ。ここでいう「アウトサイダー」とは要するに消費者のことであり、「芸術」の価値は、消費者にとって魅力的な商品であるかどうかにかかっている。あらゆるものが「市場」へと投げ出され商品化される新自由主義/グローバル資本主義のもとで、「芸術」は、ますますそのようなものでしかあり得ないだろう。それはある意味で、旧来の市民社会が実現できなかった、「芸術」の徹底化であるとも言える。
 そして、そのような世界では、アウトサイダーたちは、消費者であると同時に、自分自身を価値のある商品として売り込む、「企業」としての活動をも要請されることとなる。誰もが等しく「企業活動」を要請される世界におけるアウトサイダー・アートとは、企業活動としての自己PRに他ならない。自分自身の「かけがえのない個性」を表現するということは、要するに、「市場」に向けて自分の企業価値をアピールするということである。あらゆる個人は、いわば、「アウトサイダー」であることを通じてこそ、「市場」のインサイダーであることを強要されているわけだ。そして、あらゆる個人は、このような構造の中で自分自身の企業価値を発見することを通じてでなければ、もはや、自分が「かけがえのない、ただ一人の自分」であることを確認することはできないだろう。
 さて、「市場」の健全性を担保する倫理的根拠は、誰もが、他者(他社)の価値観に左右されることなく、偏見を持たずに活動しているということ――つまり、誰もが平等にきちんと「孤独」を強いられているということに他ならない。
 だが、そもそも、そのような孤独は、中間的共同体を解体する新自由主義/グローバル資本主義的「市場」の拡大それ自体によってもたらされたはずのものである。ここにあるのは、市場を拡大することで「孤独」を生産し、「孤独」に準拠することで市場を拡大する再帰的構造だろう。いわばそれは、孤独と包摂の悪循環――すなわち、人々が孤独から逃れようとすればするほど人々を孤独へと絡め取っていくものであると同時に、人々が包摂から逃れようとすればするほど人々を包摂へと絡め取っていくものでもあるような、悪循環である。
 かつては、みんなの居る場所から離脱して、孤独な「自分だけの世界」に閉じこもることが一つの逃避として機能したかもしれないが、現在では、孤独こそが、この世界から逃れられないよう、人々を包囲する壁と化しているわけである。そして、「芸術」は、孤独を拒む者には「社会的承認」という包摂をちらつかせ、なおかつ、包摂を拒む者――つまり、悪循環から逃れようとする者――には、「かけがえのない個性」という名の魅力的な孤独をちらつかせることで、人々を「市場」につなぎとめるための鎖と化している。いわばそれは、脱獄を約束することで人々を牢獄につなぎとめる、甘美な鎖なのだ。
 さて、アウトサイダー・アーティストの大量発生を可能にしたものが、インターネットとスマートフォンの普及であることは言うまでもない(それらが新自由主義/グローバル資本主義に極めて親和的なメディアであることも)。誰もが自分の作品を無審査・無検閲で世に出すことを可能にする新しいメディアは、旧来の「芸術」――古いメディアに依拠する芸術――が実現すると謳いながらも実現し得ないものを、いともたやすく実現してしまうだろう。とはいえ、当然ながら、誰もが同じ条件のもとで同じように「かけがえのない個性」を発揮しようとすれば、どのような個性もすぐに埋没することとなり、力を持つことはない。また、新しいメディアの普及とともに、古いメディアの「手触り」は世界全体から失われていくこととなるが、一方で、そのような「手触り」を守ることが、それだけで、インターネット時代の病理に対する有効な批判であり得るかのような幻想も流布されることとなるだろう。しかし、新しいメディアを使うか古いメディアにこだわるかという問題は、趣味の問題以上ではあり得ないだろう。
 どのような個性も力を持たないことを条件に、誰もが個性的であることを強いられる世界。ヴァルター・ベンヤミンの指摘する通り、オリジナル(個性)とコピー(没個性)を弁別しない複製技術時代における「芸術」が「政治」を根拠とするのだとすれば、アウトサイダーたちが「芸術」を通じて掴み取ろうとしながら決して掴み取れないものもまた、「政治」において実現されるべきなのだろう。すなわち、「孤独」と「包摂」の悪循環を断ち切るということである。
 アウトサイダー芸術を超克する、アウトサイダー政治――すなわち、アウトサイダーが、孤独な探求と思索と実践の末、市民社会で培われてきた「政治参加」のノウハウとは全く関係のない自己流のやり方で掴み取ることとなるであろう「政治」。だが、それはさしあたり、アウトサイダー芸術がそうであるのと同様、「市場」が可能にする孤独に準拠するものでしかあり得ないだろう。ということは必然的に、それは、現象としては、「アウトサイダー・アート」と何ら見分けがつかないものとしてしかあり得ないのかもしれない。すなわち、主観的には「かけがえのない、ただ一つの」問題として真剣に追求されているにもかかわらず、客観的には意味不明・理解不能な、「他の何であっても良いもの」としか思われない思想的世界観に準拠するものであるような、「政治」である。
 無論、アウトサイダーが、不毛な自己実現の道具として「ボディビルディング」や「お笑い」や「アート」の代わりに「政治」を選ぶことが、それだけで価値があると見なすのは幻想だろう(「孤独」と「包摂」の悪循環を無視することでそれと共犯関係を結ぶ、極めてたちの悪い幻想だ)。しかし、それにもかかわらず、誰もがアウトサイダー・アーティストであることを強いられる現実世界の構造と対峙することのできる「政治」は、そのような方向性において模索される他ないものでもあるだろう。
 アウトサイダーが、アウトサイダーであるというだけで力を持ちうるという幻想を否定する「政治」――そして、そのような政治が、他ならぬ「アウトサイダーであること」を通じてしか探求され得ないという再帰的な認識。孤独な探求の中で掴み取られるべき「アウトサイダー政治」は、そのようなものでしかあり得ないだろう。



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