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「の」は「が」の言い換えではない ~京極派スペース抄~

「心のままにことばの匂ひゆく」ように歌を詠む――鎌倉・南北朝時代の和歌文脈において異色であったこの歌論を、京極派という和歌グループは選択しました。
その京極派について、X(旧Twitter)にて毎週お話しています。

この記事は、そんな京極派スペースの音声を読み物として整えた京極派スペーステキスト版の一部を抜粋したものです。



2026年3月20日放送スペース「桜を待つ京極派和歌」
4月29日テキスト化した「待花――木々の心、人の心」より。

現代語の助詞「が」の置き換えとして「の」を詩歌で用いる方がいますが、
これは単純に置き換えられるものではない、という話をテキスト版から抜粋しご紹介します。


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「の」は「が」の言い換えではない ~京極派スペース抄~

主格を表す助詞に「の」を使った場合、それは基本的にはせつのなかの主語を表すための助詞であるはずなんです。
平叙文ではなく、節。

「お母さんがパンケーキを焼いてくれた」が平叙文。
「お母さんの焼いてくれたパンケーキ」の「お母さんの焼いてくれた」が連体修飾節。
「庭は薔薇がきれいだ」と「薔薇のきれいな庭」。
体言を修飾する節のなかの主語を表すのに、主格を表す「の」はふつう使われます。

その「の」を平叙文で使うとしたら、「そのあとに体言の置かれているのを省いた表現」と考えるのが自然です。
そのように明確に書かれた文法書を読んだことはないですが、私がたくさんの和歌に触れてきたかぎり、そのように受け取るのが自然だという判断に落ち着きました。

「世はうすぐもり春雨のふる」だと、「世はうすぐもり春雨のふる(ことよ……)」という意味なんです。
「の」を用いて述部を連体形にすることで「ことよ……」の余韻が表現されるんです。

これが「世はうすぐもり春雨ぞふる」となると、「世は薄曇り春雨が・・・降る」。
余韻はないですね。「春雨」を強調し、きっぱり言い切った形。


これが……


「京極派スペース抄」は以上です。ありがとうございました。


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京極派スペース抄


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この記事を書いた人

photo by ミカアンドロイド

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