テクノ専制も伝統的共同体も偽善左翼の「贈与」「相互扶助」詐欺もウンザリな僕たちに残された選択肢について
今日はマッピング的に考えてみたい。たとえば、左右の対立があるとする。右派は伝統的な価値観を尊重し、ラディカルな変革にブレーキをかける。左派は、自由や平等などの普遍的(とされる)価値に基づいて、社会を理性によって設計できると考える。具体的に言えば、今日、この左右対立は文化闘争として表出している。右派は、家父長制などがもたらす差別性を、社会を安定的に運営するための必要コストとして、あるいはそうした功利性を超えた美学的価値として肯定する。対して、左派はそれを認めない。日本国内で言えば、選択的夫婦別姓が代表的なイシューだろう。
そして今回は、ここに別の対立軸を加え、四象限で考えてみたい。加えるのは、共同体主義か自由主義か、という軸だ。すると、四つの立場に整理できる。(ここでいう自由主義とは、共同体への所与の帰属よりも、個人の選択、権利、加入と退出を優先する立場を指す。)
まず、イーロン・マスクあたりが代表するのが[右派×自由主義]で、いわゆるテクノ封建制やテクノ専制を肯定し、場合によってはSF的な加速主義を唱える勢力がここに当てはまる。
これに対して、同じ右派でも、パトリオティズム的な共同体主義に立ち、伝統的な共同体という「自然」を尊重する人々がいる。先日来日したパトリック・デニーンなどがそうで、日本でも、西部邁系の保守に見られるほか、メンタリティとしては参政党的でありながら、ある程度知的な層にも人気のある立場だと思う。彼らは、グローバルなプラットフォーム資本主義の弊害を、古き良き共同体への回帰によって緩和することを主張する。要するに、アイデンティティーの政治の問題を、伝統的な共同体への回帰によって根本からケアしようということだ。
同じく共同体への回帰を唱える左派もいる。日本でも、大学人や社会起業家にちらほらいるタイプだし、広義のケア論壇にもこの立場に近い人が多いのだが、この人たちの左派的な共同体回帰論は、気候変動リスクへの対応や消費社会への反省を背景に、共同体への回帰を主張する。物質的な豊かさよりも精神的な充足を、ということだろう。この人たちは、同じ共同体回帰でも、右派的な差別性の解消を主張している。
さて、僕はというと、この三つはどれもダメだと考えている。
[右派×自由主義]は、今日の問題、すなわち格差を固定するテクノ専制の原因そのものである。また、広義のベビーブーマー・ジュニア世代の男性が陥りがちな「自己実現としての家父長制」への拘泥も問題外だ。
[右派×共同体主義]が差別を社会運営上のコストとして、あるいは美学として肯定するのは、単なる強者(アルファ雄)の思考であり、これも問題外だ。ついでに言えば、何度か指摘しているように、デニーンによるトランプ支持の苦しい言い訳――「自分たちはトランプを乗り物として利用している」――が象徴するように、彼らのいう「古き良き共同体」は、リベラリズムや資本主義を抑制しても回復しない。それどころか、「古き良き共同体」の最大の破壊者だったナショナリズムにしかつながらない、という問題にも彼らは答えられていない。そもそも、下部構造の観点から見れば、彼らが理想化する「伝統」的共同体は、せいぜい数百年ほどの期間に一時的に成立したものにすぎず、彼らのいう「自然」な状態ではないのだ。
[左派×共同体主義]は、右派の問題点、つまり差別性を生むメンバーシップの問題(共同体内部のカーストや排他性の問題)を批判するが、それを解決できない。僕の知る限り、アイデアとしては、「俺(私)はがんばっている。こんないい話もある」という、まったく一般化できないハートフルなエピソードでごまかすか、中国も真っ青になるような、贈与関係をテクノロジーで可視化する類の相互評価プラットフォーム地獄をつくるか、そのどちらかしかない。というか、前者は単なる「よいリーダーがいればよい」という話であり、君主制や独裁の肯定論と変わらない。本気で主張しているのなら、ただのバカだろう。彼ら彼女らはナントカの一つ覚え的に述べる。
ちなみに右派も左派も自分たちの考える「共同体」は自発的で、複数所属が可能で、退出可能な緩やかなものだ、と。まあ、スターリンがソ連を「労働者の天国」だと自称していたようなものなのだけど、一応突っ込んでおくとそれが制度として実現されたものは共同体(コミュニティ)ではなく組織(アソシエーション)であり、メンバー間の承認ではなく規則で束ねられた集団となる。たとえば株式会社や労働組合は組織(アソシエーション)だが、そこで発生する仲良しグループは共同体(コミュニティ)だ。そして集団が共同体(コミュニティ)から組織(アソシエーション)に近づくほど、メンバーは自由になるが代わりにアイデンティティを安定させる機能は弱くなる。そしてそれを属人的に実現するとしたら、それはただの中心メンバー(上位カースト)による専制に過ぎない。
要するに共同体の不自由こそが承認の源泉であり、自由と承認はトレードオフの関係にある。右派はここに開き直り、左派は都合よく「見なかったこと」にしているのだ(露悪と偽善)。
もっと言えば、[右派×自由主義]はシリコンバレー世代のSF的妄想――カリフォルニアン・イデオロギーの成れの果て――であり、[右派×共同体主義]は家長崩れのアルファ雄ワナビーによるナルシスティックな自慰にすぎない。そして[左派×共同体主義]は、バラモン左翼たちがビニールハウスの中で、セルフブランディングのために唱え続ける、本人たちも本当は信じていない美辞麗句なのだ。
では、何が正解なのか。テクノ専制(右派×自由主義)、家長崩れ=差別的共同体主義(右派×共同体主義)、偽善ビジネス=ブランディング的共同体主義(左派×共同体主義)のすべてがダメだとすれば、答えは明白だ。
どう考えても、[左派×自由主義]しかない。ちょっと待ってくれ。そもそも、その[左派×自由主義]、つまりリベラル・デモクラシーの欺瞞が炸裂して「こうなった」のではないか、と思う人も多いだろう。僕もまったくそう思う。だからこそ、僕は[左派×自由主義]を内部批判によってアップデートする必要があると考える。
クリエイティブ・クラスと従来の賃労働者との格差を是正し、メリトクラシーを見直し、グローバルな格差に対応できる再分配の方法を発見すること。家族アイデンティティーやナショナリズムに代わる、人間の尊厳を保つ方法を考えること。これが必要なのだ。テクノ専制は格差を必要悪として認め、右派の共同体主義は差別を必要悪として、あるいは美的価値として認めてしまう。左派の共同体主義は、これらの解決策を示せないまま、「共同体」という言葉が持つ表面的なハートフルさですべてをごまかすか、スターリンや毛沢東も真っ青になるような相互監視社会のビジョンしか提示できていない。
どう考えても、答えはリベラル・デモクラシーのアップデートしかない。
ポイントはいくつかある。まず、文化闘争が社会の分断を生んでいる主因は、現役世代の男性のアイデンティティー不安が増大していることだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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