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テクノ封建制と自己啓発――ポストフォーディズムの終着点について(第四の主体のためのノート #3)

※このnoteでは4ヶ月遅れで「すばる」(集英社)誌連載の『第四の主体のためのノート』を転載していきます。『庭の話』の直接的な続編になる連載で、次の主著にするつもりで取り組んでいます。『庭の話』を読み、興味をもっていただけた人は、ぜひこちらもチェックしてください。よろしくお願いします。


12 第三の主体

 アイデンティティについての小さな歴史をたどる旅も、いよいよ現代に追いつこうとしている。
 前述したように二一世紀の最初の四半世紀が過ぎようとしている今日の世界において、人類はデイヴィッド・グッドハートの言う「Anywhereな」人々と「Somewhereな」人々に二分されつつある。
「Anywhereな」人々とは情報産業や金融産業を中心に現れはじめた、現役世代の新しい生活と労働のスタイルを持つ人々のことだ。労働集約性の低い現代的な産業に参加する彼ら彼女らは、特定の組織や土地に縛られず、まるで中世の傭兵のようにその時々に参加するプロジェクトを選びながら暮らしている。たとえ形式的に賃労働者であったとしても、インターネットに接続できる環境さえあれば成立する仕事であることが多いために、ラップトップ一台あれば自身の身体が置かれる場所は問わない。まさに「どこでも(Anywhereに)」生きていける人々だ。
 この「Anywhereな」人々の具体像を摑むのに有効なのがリチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」という概念だろう【1】。「クリエイティブ・クラス」とは、価値創出の核を「創造」に置く新しい労働者層だ。情報産業を中心に、システムエンジニア、研究者、デザイナー、アーティストなどに多く、アイデアや技術、文章や音楽、映像などの表現を生むことを「仕事」にする人々だ。より正確には発明や表現を直接的に担う「スーパー・クリエイティブ・コア」と、それを組織や市場で展開する「クリエイティブ・プロフェッショナル」とに分けられる。つまり価値を直接的に生むクリエイターとそれを支え、収益モデルに乗せるディレクター/プロデューサー層の両方が含まれるということだ。彼ら彼女らはグローバル市場に開かれた都市に集積する(そもそも、グローバリゼーションとは実質的には大都市の国民国家の枠組みを超えたネットワーク化であり、国家のボーダレス化ではない)。グローバル化と多文化主義に適応し、Technology(技術基盤)、Talent(才能の集積)、Tolerance(多様性に対する寛容性)の「3T」を重視する。フロリダはこのクリエイティブ・クラスこそが、イノベーションの源泉であり、現代の経済において競争力を左右する層だと述べる。
 グッドハートの言う「Anywhereな」人々はフロリダの述べるクリエイティブ・クラスを中心に、そのワーク/ライフスタイルが拡大したものだと考えれば良い。そして文化史、政治史的にはこのクリエイティブ・クラスの発生には、ヨーロッパの左派が一九九〇年代後半のアメリカの情報産業を揶揄した「カリフォルニアン・イデオロギー」という「悪口」について考えることが有効だろう。
「カリフォルニアン・イデオロギー」とは、リチャード・バーブロックとアンディ・キャメロンが一九九五年に提起した概念で、九〇年代のシリコンバレーで支配的だった思想傾向を指す【2】。カリフォルニアは六〇年代、七〇年代のカウンターカルチャーの主戦場であり、こうした反権威的で、個人の解放を主張する文化運動のひとつが、コンピューターを用いたサイバースペースの可能性の追求だった。比喩的に述べれば、フロンティアの「果て」に位置するカリフォルニアで自らの手によってフロンティアを、既存の資本主義社会を超えるオルタナティブな空間を自ら「作り出す」運動――それがサイバースペースを作り出すことによる自己解放の運動だったのだ。この運動を経て発展した情報技術はやがて次世代を担う産業の中核としてアメリカ合衆国の戦略的な育成の対象となる。軍事目的の次世代ネットワークをルーツにもつインターネットはその象徴だ。ここに西海岸のヒッピーと東海岸のヤッピー(ウォール街の象徴するビジネスパーソンたち)との「野合」が成立したのだ。
「Anywhereな」人々の多くが、多文化主義を支持しナショナリズムから距離を置き、家父長制的イデオロギーに批判的で家族「からの」自由を前提とする傾向を持つのは、そのヒッピー的なルーツに起因する。その一方で経済的な成長を自己目的化し、再分配には積極的であったとしてもメリトクラシーに基づいた格差の発生そのものは是認するのはヤッピー的なルーツに起因するのだ。
 バーブロックとキャメロンはこれをカウンターカルチャーの変節として批判したのだが、歴史的に重要なのはこのとき資本主義は、自らを更新することで経済と政治のパワーバランスを大きく変化させたことだろう。「ヒッピーとヤッピーの野合」によるシリコンバレーの誕生は、ローカルな国家に対する政治的なアプローチではなく、グローバルな市場に対する経済的なアプローチによって世界を変革する術を人類にもたらしたのだ。
 一九六〇年代末の世界的な学生反乱とその失敗により、旧「西側」先進国は政治から文化へとモードが変化した。革命によって世界を変えるのではなく文化によって世界の見え方を、つまり自己内面を変えること――それが二〇世紀末の四半世紀を支配した「文化」的アプローチの時代だった。しかしこの時代の反体制的な「文化」の一つだったコンピューターはやがてその技術発展によって巨大な産業に成長し、インターネットとそれに接続する情報機器は二一世紀の人類社会を支えるインフラストラクチャーになっていった。ここに、「経済」的なアプローチで世界を変える方法が発見されたのだ。それもこのアプローチは国民国家というローカルな単位ではなく、市場というグローバルな単位で発生し得るものだった。革命や社会運動を成功させてもその国の内部の法システムを変えることしかできないが、市場にイノベーティブな商品やサービスを投入すれば、早ければ半年程度で世界中の人々の暮らしを変えることができる。彼ら彼女らのグローバルな市場を通じた経済的なアプローチは、国家に対する政治的なアプローチよりも圧倒的な速度で、より大きな範囲の世界を変えることが可能だ。そして人類社会はいまこの巨大な、いや巨大すぎる力に翻弄されているのだ。

 このカリフォルニアン・イデオロギーを内面化した「Anywhereな」人々こそが、今世紀に出現した第三の主体――「国民」でも「父/母」でもない主体――のモデルであり、「国家」でも「家族」でもない場所にアイデンティティの置き場を発見した人々だ。そしてその置き場とは「市場」だ、それもグローバルに拡大した市場なのだ。
 前述したように、彼ら彼女らは「個人」として市場という名のゲームボードの上に立っている。企業や団体に形式的に所属することはあっても、実質的には特定の事業またはプロジェクトに参加している場合が多く、これらの職場の共同体のメンバーであるという意識は希薄だ。そのため、彼ら彼女らは、従来の賃労働者に比してそれらを自分の仕事であると感じることが容易だ。
 マルクスは生産手段の共有により、つまり資本家という存在を社会からアンインストールすることで、労働の「疎外」を解消しようとした。つまり生産手段を労働者間で共有すれば生産行為が他人の仕事ではなく、かつての狩猟採集社会のように自分の仕事であると感じられるようになると考えたのだ。
 対して現代の資本主義はその逆のアプローチで「疎外」の問題を解決していると言える。比喩的に言えば誰もが資本家になること(資本家的に振る舞うこと)で、つまり市場で展開するゲームのプレイヤーになることで、それが自分の仕事であると感じさせることに成功しているのだ。
 当然のことだがゲームプレイヤーである彼ら彼女らが労働によって生産したものもまた、他の資本家のものであり、彼ら彼女ら自身のものではなく、このレベルでは疎外は解決されていない。しかし、彼ら彼女らはその生産に関与したことを強く「実感する」ことができる。なぜならば彼ら彼女らの多くが企業や団体の一員として業務命令に従ってそれを生産したのではなく、自ら選択して――たとえ哲学的に「自由意志」というものは成立しないとしても、少なくともそう「感じられる」環境下で選択して――その仕事に加わっているからだ。ゲームプレイヤーたちは、それが自分の仕事であると感じることができるのだ。
 そしてこのとき彼ら彼女らは自己という名の「資本」を市場に投下している。ある人物がある「プロジェクト」に「ジョイン」する。片仮名を並べているのは嫌味で書いているからで、私が日常的にこういう語彙を好んで用いていると誤解しないで欲しいのだが、ともかくそのプロジェクトが成果を上げれば、彼/彼女の市場からの評価は、もっと言えば価格は上昇する。そして彼/彼女は次の「プロジェクト」により好条件で「ジョイン」することができる。このとき、彼ら彼女らは自己を資本として市場に投下し、その価値の上昇を試みる。このとき彼ら彼女らの生産活動には、従来の賃労働者とは異なり彼ら彼女らの名前が相対的に強く記載されている。そして現在の情報技術は、そのことを彼ら彼女ら自身が世界中に発信することを可能にしている。少なくともこのレベルにおいて、かつての賃労働がもたらした疎外の問題は大きく解消されていると言えるだろう。
 誤解しないで欲しいが、これらのアイデンティティは当然のことだが共存し得る。ある人間が国民であることに誇りを持ち、かつ父または母であることを生きがいにし、その上で資本主義のゲームのプレイヤーとして、世界に素手で触れていることを感じている――というケースは珍しくない。
 その一方で、人間に与えられた時間は有限だ。あるアイデンティティに足場を置くと、相対的に他のアイデンティティが支えるものは軽くなる。その意味において、「Anywhereな」人々は相対的に「自由」なのだ。
「Anywhereな」人々にとってグローバル資本主義という巨大なゲームのプレイヤーとして生きることは、少なくとも「国民」であることや、「父/母」であることと同程度に、いや、場合によってはより強く人間を支えるアイデンティティとして機能していることは疑いようがない。
 あるタイプの読者は資本主義や情報技術の肯定的な側面を少しでも評価する記述を目にすると途端にアレルギー反応を起こすが、そういった幼稚さは今すぐ反省して、落ち着いて読み進めて欲しい。このような反応をしても、同じように時代に置き去りにされてしまうのではないかという焦りを共有する人間たちとの傷の舐め合いを通じて安心できるだけで、あなたの知性は確実に低下するだろう。
 しかしその上でこの「Anywhereな」人々という主体は「解」ではないと考えざるを得ない。なぜならば「Anywhereな」人々として生きることができるのは、前述したようにごく限られたゲームの勝者に過ぎないからだ。そして彼ら彼女らは従来の賃労働がもたらす「疎外」からは相対的に解放されているその一方で、別の罠に陥っているからだ。

13 新しい封建制とメリトクラシー

「Anywhereな」人々と「Somewhereな」人々との分断を指摘したデイヴィッド・グッドハートは前者の「Anywhereな」人々を現代イギリスの全人口の二割五分から三割と推計する【3】。
 今日の資本主義を牽引する情報産業は既にグローバルなプラットフォーマーの寡占状態にあり、これを実質的な封建制への回帰であるという批判も頻出している。未来学者ジョエル・コトキンや、ギリシャの財務大臣もつとめた経済学者ヤニス・バルファキスがこれらの批判を行っている代表的な存在だが、彼らの批判の共通点は「封建制」の比喩により実質的な階級の固定化を指摘している点だ。旧「西側」先進国の「栄光の三十年」における中間層の形成が、旧植民地からの搾取と労働市場からのマイノリティ(主に女性と移民)の排除によって獲得されたものであることは既に確認した通りだ。この変化をジョニー・ロレンスやリー・シャーマンのような「栄光の三十年」の時代ならば搾取する側に立つことができた人々は喪失と受け止める。しかしその理解は不正確で、今日においては世界中の人々が分け隔てなく「搾取」の対象になり、そしてその構造が固定化されつつある。それはより不可視で、広範な搾取への変化なのだ。
 そしてポイントはこの階級構造が固定化されつつあることだ。バルファキスはGoogleやFacebook、Amazonなどのグローバルなインターネット・プラットフォーマーの収益構造を従来の資本主義の「利潤」ではなく実質的な「地代」の徴収であると指摘する【4】。Appleの創業者スティーブ・ジョブズの「発明」したプラットフォーム的なビジネスモデルでは、サイバースペースに実質的に獲得された「領土」(プラットフォーム)上で流通するあらゆる商品やサービス、あるいは広告から「地代」的なマージンが徴収される。自ら開拓した市場を、先行者として支配する彼らはもはや労働者の生産する剰余価値を獲得するのではなく、後からその市場に参入した別のプレイヤーから「領主」として「地代」を徴収しているのだ。この新しい経済構造は自由競争の行われる市場を破壊し、実質的な封建領地に変質させている。そして階級を、いや、身分制すら形成しつつある。地代から利潤への転換は、封建制から資本主義への転換の本質に他ならない。そのためバルファキスは現代の資本主義は、自らその存在を変質させ新しい「封建制」を形成しつつあると考えるのだ。
 またコトキンは中世ヨーロッパの身分についての区分を援用して今日のグローバル資本主義社会を論じる【5】。第一身分と第二身分はプラットフォーマーの経営者や所有者である「寡頭支配者(oligarchs)」たちとその支配を正当化する学者や文化人たち、つまり「有識者(clerisy)」だ。これはグッドハートの言う「Anywhereな」人々と(より狭いエリート層を指しているが)概ね重なる。そして被支配者層に当たるのが、二〇世紀的な旧産業の従事者を中心とする第三身分で、ここにはブルーカラー層だけではなく旧態依然としたメンバーシップ型の組織に属する管理職や事務職のホワイトカラー層も含まれる。
 コトキンはここで第一、第二身分が「再分配」によって、第三身分に報いることを問題視している。なぜならば再分配が、コトキンのいう「有識者(clerisy)」による「寡頭支配者(oligarchs)」の支配を正当化する根拠として作用しているからだ。実際にピーター・ティールやイーロン・マスクのような、広義の加速主義者を除けばシリコンバレーのクリエイティブ・クラスはリベラル・デモクラシーに親和的で、再分配政策を支持する傾向が強い。しかし彼ら彼女らもまたプラットフォーマーの寡占が代表する富の集中を促進する構造そのものの改善には消極的だ。コトキンのいう「有識者(clerisy)」(これはトマ・ピケティが「バラモン左翼」として批判する【6】層とほぼ同一の存在だ)は実質的にこの階級の固定、つまり「封建制」を肯定し、それを再分配の支持で正当化しているのだ。
 Anywhereな人々、つまり「有識者(clerisy)」や「バラモン左翼」が主張し、「寡頭支配者(oligarchs)」の多くが支持する再分配をジョニーやリーのような、つまりSomewhereな人々は拒否する。なぜならば、それが彼らの尊厳を奪うからだ。社会に貢献する生産を担うAnywhereな人々の富の「おこぼれ」をSomewhereな人々が与えられること――この封建的な階級構造の可視化が、彼らの尊厳を奪う。そのため彼らは別の形で尊厳を守ることを選び、国家(ナショナリズム)や家族(家父長制)へ回帰するようになる。
 今日においてゲームに敗れた「Somewhereな」人々のかなりの割合が再分配ではなく尊厳を、オバマ・ケアではなく移民の排斥を要求している。彼らは大きな格差を生むゲームの設計を改めることも、再分配による格差の是正も要求することはなく、彼らが(半ば陰謀論的に)ゲームに不当に参加していると考える他のプレイヤーたち(女性や移民)の排除を要求する。つまりゲームの敗者たちは、格差を拡大するゲームを改めることでも、ゲームの結果として生じる格差を是正することでもなく、ゲームの参加者を制限することを求めるのだ。

 この構造に大きな影響を与えているのが、メリトクラシー(能力主義)だ。デイヴィッド・グッドハート【7】やマイケル・サンデル【8】が指摘するように、今日の旧「西側」先進国を支配する民主主義と資本主義という二つのイデオロギーの結託は、必然的にメリトクラシーの肥大を呼ぶ。アファーマティブ・アクションが象徴するように、今日の社会は機会の平等を積極的に整備する。しかしそのことによって、自由競争の結果として発生する敗者にはより強く無能者としての刻印が与えられてしまう。こうしてあなたがゲームに負けたのは、あなたに才能がなく、努力が足りなかったからだと残酷に宣告されることになるのだ。
 そしてその一方で「Anywhereな人々」は――「有識者(clerisy)」や「バラモン左翼」たちは――再分配とメリトクラシーによって今日の資本主義を肯定する。才能を有し、努力を惜しまない人々がゲームの勝者となり市場を通して経済的に評価され、彼ら彼女らの生み出した富をゲームの敗者に分配することで、社会を維持するべきだと述べる。
 メリトクラシーの問題の厄介さは、これをゲームの敗者の立場から批判することが、自らが運と才能と努力を――特に後者の二つを――持たないことを認めることだと当事者が受け取ってしまうからだ。そのため彼らはメリトクラシーも、それによって正当化される勝者に富が集中するゲームの構造も批判することはない。それは挑戦を恐れ成長を拒否する態度であり、才能がなく努力を放棄した人間であることを認めることと同義だからだ。ゲームの敗者がメリトクラシーを批判することそのものが、人間の尊厳を奪うのだ。

 既に今日の社会が証明するように、市場で評価を与えられるレベルの創造性を発揮できる個人はそれほど多くはない。たいていのプレイヤーは、ゲームに勝つことはない。クリエイティブ・クラスとして、「Anywhereな」人々として振る舞うことは、現実的に考えて一部の才能と運に恵まれ、努力を重ねた人々の特権以外の何ものでもない。
 ほとんどの人間には残念ながら「資本主義下で」ネジや歯車以上の機能を発揮することは難しい。この残酷な現実は、インターネットの四半世紀余りの精神史を参照するとよく理解できるはずだ。
 九〇年代の草創期から普及期にかけてのインターネットが、発信能力の民主化により人類の眠れる創造性を発揮させるという、楽観的技術主義に支えられていたことを記憶している読者も多いだろう。
 しかしWeb2.0の時代の後期――ブログの普及からSNSの出現にかけて――人類が目の当たりにしたのは、ほとんどの人間には創造性は存在しないという現実であり、にもかかわらず自己の発信が不特定多数に承認される快楽にいとも簡単に(ゲーミフィケーション的なアプローチによって)中毒化する現実だったはずだ。

 そして主にAnywhereな人々により生み出され、支配されるSNSプラットフォーム上ではこうしている今も、メリトクラシーの支配するゲームに敗北した人々が、その満たされない思いを発信することで中和しようとしている。現代を生きる人々であれば、目に付くニュースや自分より成功している有名人の発言を引用し、ただひたすら毒づいているFacebookやXのアカウントを目にしたことがあるだろう。今日のSNSのタイムラインにおいて、すっかり定着した現象だがここで注目したいのは彼ら彼女らはそれを、具体的な現象や人物への嫌悪や悪意よりはむしろ、自身に対する慰撫として行っていることだ。自分はダメじゃない、愚かではない、バカじゃない、たまたま運に恵まれていないだけだと、自己に言い聞かせるように彼らは罵倒を反復する。
 インターネットでは、特にSNSの普及以降は少なくとも意見の表明については公平な競争が行われている。つまり同じ条件で意見を表明することができる。その意見が多くの賛同者を得なくとも、ある分野の専門家等に評価されることにより、その発言者の固有名詞に価値が生まれる。実際にインターネット上に発表した文章や動画を足がかりに、社会的に認められた人々ももはや珍しくない。しかしこの現実こそが彼ら彼女らを追い詰める。彼ら彼女らは自己の思考が、決して相対的に秀でては「いない」ことに実は気がついている。しかしどうしても実のところ自分はあまり「賢くない」という事実を受けいれることができない。当然のことだが、彼ら彼女らが考える「賢さ」というのは、現代的な知識社会のあるタイプの産業で要求される情報分析と推論に特化した知性のことだ。それは人間の知性のある一側面に過ぎない。しかし情報分析と推論が苦手な彼ら彼女らの知性は、眼の前の短期的な現象に踊らされて、自分たちが憧れるタイプの知性が人間の能力の中で最重要だと思い込むことになる。残念ながら、彼ら彼女らは自分たちが憧れるタイプの知性が低いからこそ、その知性が「すべて」だと考えてしまう。そして自己に対して自分は劣っていないと証明するために、投稿を繰り返す。
 そしてその能力を評価されることが難しい彼ら彼女らは、タイムラインに形成される共同性(一時的な共同体)からの承認を得ようとする。そのためそれらの投稿は能力的にほぼ無内容なものになる。タイムラインの潮目を読み、肯定的な反応を得やすい内容――主流派の意見に強く賛成か反対かを表明するもの――になるのだ。そしてこうした人々が、ドナルド・トランプをはじめとする現代的なポピュリストの動員対象となり、機械的なマーケティングの餌食になっていることも広く知られている。

 このメリトクラシーの問題がより強く露呈しているのは、「Somewhereな人々」のなかでもジョニーやリーのようなブルーカラー層ではなく、むしろホワイトカラーに属しながらも前世紀的な産業を中心に残存するメンバーシップ型雇用の労働に携わる人々だ。コトキンは第三身分にジョニーやリーのようなブルーカラー層だけではなく、旧産業のホワイトカラー層を含めているが、これがグッドハートの述べる「Anywhereな人々」と「Somewhereな人々」の中間的な人々――前者に憧れる/嫉妬する後者――に当てはまる。グッドハートはその具体像を詳述していないが、たとえばこれはこの国の都市部のホワイトカラー層を想定するとよいだろう。そして今日の資本主義においてメリトクラシーの罠はこの層に強く作用しているのだ。
 つまり現代のホワイトカラー層の多くが「Somewhereな人々」でありながら(「Somewhereな」労働環境に置かれながら)「Anywhereな人々」として振る舞おうとする。組織という単位ではなく、個人としての価値を労働を通じて証明しようとする。
 その結果として、発生する現象はなにか。それは「成長」の自己目的化だ。日本のような二〇世紀的な労働形態の強固に残存する社会においては、メンバーシップ型雇用が維持されたままKPIをはじめとする業務上の「指標」と表面的な成果主義により、労働者個人が数値目標を与えられ、その達成度により評価を受ける制度の導入は、労働を通じた自己実現を要求する労働者の欲望に応え、そしてゲーミフィケーション的に自己の「成長」を確認可能にする。こうして職場の共同体のメンバーシップの確認で自己を支えていた昭和の「社畜」は、職場の与えた数値目標をクリアすることを目的としたゲームをプレイし、そのスコアによって自己の「成長」を確認する快楽を燃料に働く令和の「社畜」に変化したのだ。
 そしてこの「成長」の与える快楽を自己目的化するイデオロギーは、今日の国内においては「自己啓発」と呼ばれている。あなたが現代の日本に暮らすホワイトカラーであればある程度広い範囲の周囲を見渡すことで、あるいは経済系ジャーナルのメディアのコメント欄などを少し覗けば「成長」する快楽の中毒化に陥っているビジネスパーソンの姿を目にすることができるだろう。今日において成長そのものが強い快楽をもたらすことはもはや心理学上の常識だが、近年ではこれに加えてゲーミフィケーション的な動機づけが施され、よりその没入は効率化されているのだ。

 ここで労働者たちを動機付けているのは、Anywhereな人々のようにジョブ型雇用や起業による労働疎外の解消――自分の仕事を見つけること――ではない。たいていの人間はそもそもそのような「動機」を持たないことは、Web2.0の顚末が既に証明済みだ。
 ほとんどの人間はむしろ、ゲームに勝利して自己のスコア(価格、つまり市場からの評価)を上昇させることを目的としていたのだ。いや、それすらも才能と努力と運に恵まれていたひと握りの人間にしか当てはまらないだろう。たいていの人間にとって、プレイしているのは自己の「成長」の快楽を獲得するゲームなのだ。
 こうして現代の労働市場の構造が完成する。ひと握りのAnywhereな人々は個人を単位に「自分らしく」働き、場所にも、特定の団体や組織にも縛られず、自分の仕事を通じて自己実現を果たす。高い付加価値を生み出し、高収入を得る。対して大多数のSomewhereな人々はAnywhereな人々を見上げながらネジや歯車のような労働の疎外に苦しみ、それを埋め合わせる国家(ナショナリズム)や家族(家父長制)に回帰し、時代錯誤の無学者としてAnywhereな人々の嘲笑を受ける。そして両者の中間にいる人々は昔ながらのメンバーシップ型の雇用下で、誰が執行しても変わらない仕事の与える疎外に苦しみながら、うち何割かはそれをゲーミフィケーション化され、自己の「成長」の可視化により動機づけられているのだ。
 そしてここで重要なのは、一見するとこれらの罠から逃れられているかのように見えるAnywhereな人々もまた、Somewhereな人々をメリトクラシーの呪いに縛り付ける「成長」の自己目的化の罠に陥っていることなのだ。

14 グレート・ゲームと加速主義

「Anywhereな」人々はあるプロジェクトにジョインし、その成果により市場からの評価(ゲームのスコア)を上昇させることを目論む。そしてゲームの攻略に成功すれば、獲得したスコアに応じて自己の価格が上昇し、より有利な条件で次のステージに挑むことができる。そもそも資本主義は資本の自己増殖をその原動力にする。資本の所有者はその増殖を欲望し、資本はまるで生物のように市場において自己増殖運動を行う。しかしここで発生しているのは、この資本主義の原初的な運動より進化した形態だ。それはゲームは自己そのものを資本とし、その増殖(評価の獲得)を目的とするゲームなのだ。
 このとき「Anywhereな」人々の「Somewhereな」人々に対する、つまり二〇世紀的な賃労働者に対するアドバンテージは、より強くその生産活動(仕事)そのものの快楽を直接的に享受できることだ。分業により細分化された業務を、それも所属する企業や団体により業務命令として与えられるかたちで行うことで「Somewhereな」人々の労働は二重に疎外されている。しかし「Anywhereな」人々の労働はその分業の度合いも、仕事そのものも、ある程度自己決定することができる。少なくともどちらも最初から企業や団体に所属した時点で決定権のない「Somewhereな」人々の置かれた状況からは根本的に異なり、自己で選択し決定する余地が構造的に存在している。
 その意味で、「Anywhereな」人々は自由だ。しかしここに罠がある。「Anywhereな」人々はその自由さのために、ゲームそのものの自己目的化の罠に陥るのだ。なぜならば「Somewhereな」人々のプレイする自己啓発的なゲームは、「Anywhereな」人々の間で支配的なイデオロギーをポストフォーディズム的なマネジメントとして応用したものだからだ。
 自己啓発はゲームの敗者にその生産が想定するレベルのものではなくても、その評価が希望するレベルに達することがなくとも、成長することそのものの快楽に目的を移動させることでその人間の尊厳を維持する。この成長のゲームは、経済のゲームの一部ではあるが独立している。つまりその人が成長することで、経済的にも成果を上げる可能性が高くなるが、あくまで一要因でしかない。しかし経済活動(とくに労働)を通じたアイデンティティの確認が機能するケースが限られている資本主義において、成長の自己目的化は強くアイデンティティの危機により揺らぐ個人の尊厳を支え得る。この強すぎる力は、実際に生産による世界への関与(優れた商品やサービス、あるいは表現を生み出すこと)や、それによる経済的成功が可能な層――「Anywhereな」人々――すらも魅惑している。
 今日の資本主義の中心地であるシリコンバレーはその傾向が特に強い。前述したバーブロックとキャメロンが「カリフォルニアン・イデオロギー」という言葉でシリコンバレーを批判したその時点で、この成長の自己目的化傾向は指摘されている。そして実際にポール・グレアムの「スタートアップ=成長【9】」というキャッチフレーズのようにシリコンバレーのアントレプレナーたちは、自らの言葉でこの成長の目的化を半ば前提のように掲げている。
 この成長の自己目的化はシリコンバレーを生み出した思想的な土壌に由来する。既に確認した通り、シリコンバレーのルーツには六〇年代から七〇年代のヒッピー・ムーブメントがある。これらの運動を担った彼ら彼女らの目的は、フロンティアの再獲得だった。アメリカの建国から二百年余り、この時代に既に開拓すべきフロンティアはなく資本主義社会が永遠に続くことへの安心と失望感が社会を覆っていた。この安定と停滞への文化的抵抗運動がヒッピー・ムーブメントであり、その結果の一つがコンピューターによるフロンティア(サイバースペース)の創造だった。つまり、起業やジョブ型雇用によるクリエイティブ・クラス――「Anywhereな人々」という第三の主体――は、結果的に発生したものであり、シリコンバレーはむしろ拡張すること、成長することを「目的」にしたイデオロギーの産物だったのだ。誤解してはいけない。シリコンバレー的なものの象徴する現代の資本主義が自己啓発的で、成長を自己目的としているのではなく、そもそも成長を自己目的化した自己啓発的なイデオロギーの産物がシリコンバレーであり、今日の資本主義なのだ。

 そして資本主義の歴史の中で、成長や拡張が手段ではなく目的化したケースはこれが最初ではない。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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