「白秋万華鏡」展補遺:スケッチ「浩四十態」の画像入手! なぜ『多摩』なのか? そして村野次郎とは
はじめに
6月5日投稿の記事で、詩人だと思っていた北原白秋が、意外にも挿絵や人物スケッチを描いていることを紹介しました。
そして美術展ではなく文学者の展覧会に出かけたきっかけが、私の教室の生徒、Sさんから、お祖父さま、児童文芸誌『赤い鳥』編集者で児童文学者の小野浩氏の遺品を寄贈されたことを伺ったことであることを述べました。
しかし、その記事の中で紹介した北原白秋が小野浩氏を描いた人物スケッチ《浩四十態》こそがSさんの寄贈資料であることを書き忘れていました。
また展覧会が撮影禁止だったので、その画像を紹介できなかったことを残念に思っていました。
そのことをSさんに話したところ、実は全作品の原寸大のコピーをお持ちで全て貸していただくことができたのです(図1)。

出典:筆者撮影
原本ではなくコピーであることと、北原白秋の死後70年(1942年没)以上経っていますので、公表は著作権的には問題なさそうです。
しかし、原本の所有はすでに日本近代文学館に属しているので、全ての画像を出すのは道義的に問題あるかもしれません。ここでは北原白秋のペンの動きを知っていただきたく、代表的な作品を絞って紹介したいと思います。
北原白秋《浩四十態》の代表画像の紹介
白秋の詩が表紙だった!
さて、今回コピーをいただいて分かったことなのですが、図1に示したのは、《浩四十態》の一頁目ではありません。
実は一頁目、すなわち全資料の実際の表紙は『小野浩』と題する詩の手描き原稿だったのです。
もしかすると未発表の可能性があるので、全文は示さずタイトルだけ撮影したものを示します(図2)。

出典:筆者説明
崩し字で書いてあるので自信がないのですが、私には『小野浩 酔白秋記』と読めます。
これを見てはじめてわかりました。
このあとご覧になるスケッチですが、私は展覧会場で「ずいぶん奔放な筆(ペン)運びだなー」と感じたこと、そして「40枚も同一人物をスケッチするなんて」と内心驚いたのです。
なぜなら、モデルを勤めた人ならばお分かりになると思いますが、こんなにいろんなポーズをさせられたら大変なはずだからです。
前回の記事では、その驚きは述べず、ずいぶん親しい間柄であることを示しているとの記述にとどめました。
ですが今回「酔白秋」で分かったのです。まさに、白秋は酔って描いていたのだと。
ちなみに、詩は小野浩氏をからかい気味に(「怖い先生」とわざと表現して小野氏の編集者魂を伝えています)、その人となりを詩っています。
詩全体は三連からなり、それぞれ末尾を「じったん じったん(本当は記号) じったんたん」と口ずさみたくなるような文で連の最後を整えています。まさに白秋の童謡でよくみる「白秋節」です。
代表的なスケッチ画像
それでは、本題のスケッチをみてみましょう。上で述べた様に、様々なポーズで描いているので、ポーズ別に示します(画像は全て筆者撮影)。
1)斜めの顔(様々な眼の描写)

2)上向き、下向きの顔

3)横向きの顔

4)肩から上の様々な顔

4)半身像

5)全身像

真剣な描写と言うより、即興の妙味を狙った、江戸時代の画家が行っていた「席画」を思わせます。
モデルの「浩」と、飲みながら、話しながら楽しく描いている雰囲気が出ていますね。
以上でスケッチの紹介を終えます。
戦後は、職業画家が小説を書いて本格的な文学賞を取る例(池田満寿夫、赤瀬川原平など)がありますが、明治、大正時代は、夏目漱石、正岡子規、武者小路実篤などに見られるように、今回知った北原白秋も含め、本格と言うよりも手すさびで絵をたしなむというスタイルが多かったような気がします。
展示資料『多摩』と説明文の「村野次郎」の名前を見て
前回の記事で書き忘れたことがあります。この機会に書くことにします。それはおそらく、大概の訪問客はほとんど気にも留めないことでしょう。
当日会場を歩いていて、北原白秋が主宰した短歌雑誌「多摩」という資料が、ふと目に留まり、さらに、その説明文に「村野次郎」の名前を見出したことです。
7年前に縁あって、スケッチのための作業場と教室を府中市に設けて以来、私は隣地の調布、狛江だけでなく西は日野、立川、北は国分寺、小金井、東は杉並、自宅のある世田谷を中心に、これら典型的な多摩地区の歴史を学びながらスケッチポイントを求めて歩いてきました。
ですから「多摩」という文字に、ついつい眼が行くのです。そして北原白秋といえば「小田原」が浮かぶので、それを見た時に北原白秋がなぜ「多摩」なのかと疑問に思いました。
加えて説明文の中に「村野次郎」の名前を見つけた時は、瞬時に府中市出身の詩人「村野四郎」を思い出しました。
私は、おそらく中学生の頃だと思いますが、教科書で読んだ村野四郎の「体操詩集」の詩の一節に感動して、彼の「体操詩集」を読んだことがあるのです(きちんと読んだのは大学生の頃かもしれません)
そのことを長い間忘れていたのですが、7年前に府中市の「郷土の森博物館」を訪れた時に、戦前の小学校が移築されており「村野四郎記念館」となっていることを知り、はじめて彼が府中市出身であることを知りました。

出典:wikimedia commons

出典:筆者撮影 2018
それ以来、府中市との縁でさらに村野四郎のことが身近に感じられるようになったのですが、今回「村野次郎」の文字を見た途端に村野四郎をすぐに連想したのです。
実際調べてみると村野次郎は村野四郎の兄で、北原白秋の門下生だとありました。また、雑誌「多摩」の由来も、白秋自身が世田谷区の成城学園に住んだこと、そこから多摩地区の歌人たちとの交流があったことがわかり、白秋と多摩地区との意外な文学史を知ることが出来ました。
以上、補遺として書き加えることにしました。
(おしまい)
前回の記事は下記をごらんください。
