「ヒルマ・アフ・クリント展」その2:職業画家はたまた神秘思想家?、霊的導き手による描画は絵画なのか?
記事その1.の続きになります。
長文になります。
はじめに
記事その1の最後に、次回の記事の予定を1~5にまとめました。
今回は、その内以下に示す1~2までを投稿いたします。
1.第5章の部屋の次、出口につながる最後の部屋のヒルマ・アフ・クリントの年表と関連資料を頭に入れ、もう一度作品を見直して、第一段階の感想の修正を行う。
2.この展覧会の副題は「抽象絵画の先駆者」とあり、それに対する問「はたしてヒルマ・アフ・クリントは抽象絵画の先駆者と言えるのか」に対する私の仮説を述べる。その際、ヒルマ・アフ・クリントの生い立ち、人間関係、仕事への取組み、宗教観、絵画を描く時の行動、姿勢を考慮する。
植物画?ペン画?アール・ブリュット?生計は?
https://note.com/wataei172/n/ndf5b4cbb3f55

出典:wikimedia commons, public domain
(2)感想:第二段階
記事その1.では、会場の解説文を事前に読まず、作品の題名と作品そのもので鑑賞し感じたことを紹介しました。
第五章の部屋から出口につながる部屋に入ると、壁に年表が掲げてあり、また各作品の理解の助けになる、アフ・クリントが生きた時代の関連資料が展示されていました。

年表による第一段階の感想の追認、修正、追加
少し長くなりますが年表の全文を引用し、第一段階の感想の追認、修正、追加に必要な部分を太字で示します。
1862
10月26日、ストックホルム中心部の北にあるソルナのカールベリ城にて、海軍士官のヴィクトル·アフ·クリントとマティルダ·ソンタグの間に生まる。
1872
ストックホルムの女子師範学校に通う
1879
死者との交信に興味を抱き、画家·写真家·霊媒の心霊主義団体であるエーデルワタ·ヴァレリウスのまわりで行われたと考えられる交霊会に参加し始める。テクニススコーラン(ストックホルムの工芸美術学校)に通い、同じく芸術を学んでいたアンナ·カッセルと出会う。
1882-87
王立芸術アカデミーに入学。優秀な成績で卒業。
1886-1912
20を超える展覧会で伝統的画風の絵画を展示。展覧会の多くはスウェーデン芸術協会の主催によるものであった。
1891
アフ·クリント自身が初めて霊的存在からメッセージを受信。
1896
「5人(De Fem)」と名乗る。
心霊主義団体であるエーデルワイス協会の会合に定期的に参加。カッセルら友人4人とともに独立したサークルで活動を開始。この会合は祈り、瞑想、新約聖書の読解に始まり、霊的な導き手と交信する交霊会へと続く。「5人」は自らの経験をノートに書き記し、自動描画にも取り組む。
1900-01
ストックホルムの獣医学院で挿絵画家として働く。カッセルとともに、ヨン·ヴェンナホルムによる馬の手術に関する本(1901年出版)の挿画を手がける。
1903
カッセルとともにドイツを旅行。おそらくこの旅で北イタリアにも訪れ、ルネサンス美術を研究した。
1904
5月、ストックホルムで神智学協会が正式に発足。アフ·クリントも参加。
「5人」の交霊会で、いずれ神殿が築かれ、絵画で満たされるだろうというお告げを受ける。
1905
霊的な導き手から、メッセージを伝える準備をするという約束を受信。アフ·クリントがこの任務の本質について尋ねると、彼女の仕事は絵画を通して果たされるであろうと伝えられる。
1906
1月、霊的な導き手であるアマリエルからの依頼を即座受け入れ、彼女の重要な仕事の準備に取りかかる。
11月7日、「神殿のための絵画」に着手。その後の9年で、自らの霊的実践から得たテーマの作品を193点制作する。
1907
ルンドの博覧会「芸術と産業」で、より伝統的な具象的絵画を展示。「5人」の活動継続が困難な状況に陥り、最終的に1908年に解散。
1908
母が失明したため、スタジオを手放して介助に当たる。
ストックホルムにて、神智学協会ドイツ支部総書記ルドルフ·シュタイナーと出会う。
1908-12
アマリエルより依頼された制作から4年間離れる。
1910
この年に発足したスウェーデン女性芸術家協会の一員となり、副理事兼幹事を務める。
1912
「神殿のための絵画」の制作を再開。シュタイナーは神智学協会から離れ、翌年、人智学協会を設立。
1915
193点の絵画で構成される連作「神殿のための絵画」が完成。
1917
霊的な生についての自らの思想「魂の生活についての研究」をアンナ·ユングベリイに口述筆記させる。ムンソのフールハイムにスタジオが竣工。アフ·クリントの人智学関連の文献、ヨハン·ヴォル絵画がスタジオ内に設置された。
1918
母、看護師のトマシーヌ·アンデションとムンソに転居。アンデションは生涯の友人かつパートナーとなった。
1920
母マティルダが死去。10月、アンデションと、初めてスイスのドルナッハへ赴く。
10月20日、人智学協会の会員となる。
人智学関連の文献、ヨハン·ヴォルフガング·フォン・ゲーテ·の色彩理論を研究。
1922
絵画制作を再開するが、幾何学的で明瞭な作風から、たらしこみ技法の水彩へとアプローチを変え、1941年までに400点以上の作品を描く。
1924
4月24日、自身の絵画の活用可能性について助言を求める手紙をシュタイナーに送付。同年12月9日にアフ·クリントがストックホルムの人智学協会で行った講演のためのメモによれば、シュタイナーは彼女に絵を破棄すべきではなく、活用の道があるだろうと伝えた。
1927
《花、コケ類、地衣類》(1919-20年)をドルナッハのゲーテアヌムに寄贈。また、二つある〈知恵の樹〉シリーズのうち一つをゲーテアヌムに贈る。
1931
デンマークとスウェーデンの国境沿いのオーレスンド海峡に浮かぶヴェン島に、自身の作品を収めるための神殿の計画を立てる。
中心に塔のある4階建ての円錐形の神殿であったが、実現することはなかった。
1937
4月16日、ストックホルムの人智学協会で講演を行い、自身の絵画の活用可能性を協会に尋ねる。自身の霊媒的な手法に正当性があり、シュタイナーの教えと矛盾しないと主張。
1944
10月9日のノートに人生最後となる記述を残す。この文章は「あなたには神秘的な任務が待ち受けている。自分が何を求められているのか、すぐに十分理解できるだろう」という一文で締めくくられている。82歳の誕生日を数日後に控えた10月21日、路面電車の事故が元で死去。所持金はわずか292クローネであった。1,300点ほどの絵画と124冊のノートブックからなる芸術的遺産を甥のエリクに残した。
太字は筆者による。
以上は年表の全体ですが、実は会場で入手した作品リストが、通常に比べてやけに分厚いなと感じたのです。帰ってからよくみると、単なるリストではなく、半分が詳細な作品解説だったことが分かりました。

作品解説は貸し出しの音声ガイダンスによるのが普通ですが、作品リストに併せて書かれるのは大変めずらしいと思います。
主催者は、ヒルマ・アフ・クリントの場合、通常の西洋美術史の延長線では作品が難解なことを見越して、あらかじめ用意したのではないかと思います。
そこで、以下年表だけでなく、作品リストの解説文、さらには企画展の特別サイトの解説も参考にしながら、第一段階の感想を、追加、修正していきます。
追加(1):神秘思想(心霊主義、神智学)と交霊会を基盤とする絵画、その後シュタイナーの人智学による絵画制作
先に結論を言いますと、私の第一段階の感想に用いた鑑賞方法は間違っていたと言わざるを得ません。
「線スケッチ」を始める前、もう少し厳密に言えば、辻惟雄氏の著書「奇想の系譜」の影響なのか、世の中で江戸絵画が話題になる前は、日本絵画の展覧会に行くことはありませんでした。言い換えれば、西洋絵画の展覧会しか行かなかったのですが、今から思うと、日本の高度成長期に合わせて、教科書にでてくる著名な西洋絵画作品を目玉とする大型の展覧会が大手新聞社の主催で相次いでいたので、私は単にその流行に乗せられていたのかもしれません。
とはいえ、以前も記事にしたのですが、もともと私の世代が受けた教育は、西洋美術一辺倒であり、言い訳になりますが、自然の流れなのです。
ですから、一般に抽象絵画は分かりにくいと言いますが、教科書や一般解説書で習った19世紀以降の西欧絵画史の流れを追っていくと、戦前の抽象絵画、カンディンスキーやモンドリアン、さらには戦後の抽象表現主義、例えばジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなどの作品も、頭での理解や言葉で表現できなくても、身体的に心地よく感じて、好きになっていく人々が多いと思うのです。

下段左:ドローネー《Le Premier Disque》、
下段右:モンドリアン《赤・青・黄のコンポジション》
出典:すべてwikipedia, public domain
ヒルマ・アフ・クリントの作品でいえば、《10の最大物》では、予備知識なしに初期抽象絵画(図4)に近いものを感じました(記事その1を参照ください)。

植物画?ペン画?アール・ブリュット?生計は? 図12を再掲載。
しかし記事その1.で述べた様に《神殿のための絵画シリーズ》ではその印象は全く違いました。訳の分からない不気味さというのか、絵画というよりは原初的な何か、適切な表現かどうかわからないのですが「アール・ブリュット」が与える同質のものを感じたのです。
その理由は年表を読んで直ちに分かりました。これらの作品は、通常私たちがイメージする画家の制作方法ではなく、すべて神秘思想(心霊主義、神智学)に基づき、交霊会で霊的存在からメッセージを受けて自動描画されたものだというのです。
年表によれば、アフ・クリントはその後、シュタイナーが創設した人智学に入会しますが、亡くなるまで一貫して、人智学の神秘思想部分を守り、霊的存在を介した作品を続けることになります。
道理で、第四章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅、第五章 体系の完成へ向けて 以上の章で展示された作品群を私は受け付けられなかった理由がわかりました。
アフ・クリントは現代で言えば、さしずめオカルトや新興宗教にどっぷりとはまったひとのようにも見えます。
彼女のこれらの作品を読み解くには、記事その1.で私が推測したように、前知識なしに作品を見るだけでは不十分で、彼女が遺した膨大なノートの記述を読んで、思想や制作手順(もし書いてあるとすれば)を読み解いてからでなければならないでしょう。
実際、年表の引用文の後、図3に示した作品の解説文では、彼女の思想に沿って詳しく作品の内容が解説されています。
しかし、その解説文も分かりやすいものではありません。なぜなら、現代の科学的思考が、神秘主義や人智学の理解を阻んでいるからです。
そして西洋美術史のメインストリームの中で、以上のような秘儀ともいうべきプロセスで制作したものをはたして絵画と呼んでよいのかという疑問が湧きます。 すなわち展覧会の副題にある「抽象画の先駆者」と呼んでよいのでしょうか?
この話題については、後半で私の考えを述べたいと思います。
ヒルマ・アフ・クリントの生い立ちと神秘思想の背景、職業画家としての生活基盤の謎
さて、年表では、アフ・クリントが僅か17歳、極めて若い時期にいきなり神秘思想の文言が現れます。
写真で見る限り、裕福な家のお嬢さんが、まだ若いのになぜだろうと疑問に思いませんか? おまけにその後同じ王立芸術アカデミーの仲間の友人たちで「5人(De Fem)」という会を作り、「交霊会」を催して自動描画により作品まで作ってしまうなんて一体何があったのでしょうか。驚くことにその会は11年もの間続くのです。
私はアフ・クリントの神秘思想に染まるきっかけになる生い立ちを知りたいと思いましたが、年表や展覧会の資料の中にそれを見つけることができませんでした。
ところが、第三段階の感想の記事作成のために、欧米の資料を探している中で、ポール・プリ―スリーさんという、自ら「元美術教師、現在は情熱的な美術教育者」と名乗る方の次の動画を見つけました。
私は、第三段階の感想記事のために参考とする資料は、ヒルマ・アフ・クリントの作品研究に携わった欧米の専門家(学術研究者、キュレーター、美術史家)または彼女の伝記作家および映画監督によることを前提としていましたから、美術の専門家とはいえ、市井の美術教育者の方の資料は取り上げないつもりでいました。
ところが、この動画の内容を見ると、非常に丹念に生涯を調べていて、動画制作者の真摯な姿勢が窺えること、特に若い頃の生い立ちが詳しく解説され、しかも私が知りたかった絵画修業時代と卒業後の風景画の作品が豊富に例示されていることから、今回の展覧会の資料だけでは回答が得られなかった私の疑問点が明らかになり、とても助かりました。
もし問題が一つあるとすれば、動画制作者は学問的な検証なしに、「ヒルマ・アフ・クリントは抽象絵画の先駆者」であると断定していることです。
しかしながら、それを除けば、アフ・クリントの入門動画としては秀逸で、本展覧会にこれから行く人、あるいは行った人も是非ご覧になるとよいと思います(なお、翻訳字幕の言語は各国に対応しており、日本語字幕は大変自然ですのでご心配無用です)。
さて、本動画により、第一段階の感想で抱いた以下の疑問が明らかになりました。
(疑問1):なぜ思春期の若い年代に神秘思想に染まったのか? そしてなぜ、終生にわたって神秘思想に身をささげることが出来たのか?
動画では次のような説明がされていました。
「アフ・クリントがわずか18歳の時に、10歳年下の妹ヘルミナが亡くなったことで急速に神秘思想に近づいた」
年表では神秘思想に近づいたのは17歳で、年齢にずれがありますが、家族、それも妹の死は、神秘思想に近づいた理由として説得があります。
しかし、亡くなるまで神秘思想に対する姿勢を貫き通したところをみると、彼女自身に霊的感受性が備わっていた可能性があります。
事実、動画の最後に甥の発言として、「ヒルマ・アフ・クリントは、もともと予言の才能を持っていた」が紹介され、第二次世界大戦のロンドン空襲を予言していたというのです(図6)。

第五章会場展示作品、筆者撮影
私は、この甥の発言は見逃せないと思います。というのは、アフ・クリントは幼少期から、自分の「霊媒体質」(この言葉が適切かどうかわかりません。ここでは仮にそう呼びます。あるいは巫女的体質?)を自覚していたのではないかと思うのです。そして予言能力についても甥は実際に見聞きしていたに違いありません。
妹の死は「霊媒体質」のさらなる自覚を生み出し、もしかすると亡くなった妹と交信を試みたかもしれません。
なお、記事その1.でアフ・クリントのスケッチに対して同じ北欧画家のエドヴァルド・ムンクとカール・ラーソンとの類似性を述べましたが、ムンクと云えば母親や姉の死の影響が有名ですし、ラーソンはあの幸せいっぱいの家庭を描いたのとは裏腹に悲惨な子供時代を過ごしました。それがどうしたと言われればそれまでですが、なんとなく似た生い立ちが気になりました。
さてアフ・クリントの生涯に戻ります。
私は、王立芸術アカデミー卒業後の年表が、母親の世話を除いて、亡くなるまで神秘思想下の活動ですべて埋め尽くされていること、霊的存在からのメッセージ受信により制作された続々と生み出される膨大な数の作品、そして同時に記述された多くのノートを見て、それは私たちが知っている近代画家の姿とはまったく異なる姿のように思うのです。
「神智学」やシュタイナーの「人智学」が宗教かそうではないのか、現時点で私は知りません。しかし、アフ・クリントが「神殿」「祭壇」という言葉を使っているところを見ると、宗教色は明らかです。
私は、アフ・クリントの姿は、まるで修道院で神に生涯を捧げている尼僧の生活と重なります。その制作態度は、芸術作品の制作というよりも、大変生真面目に霊的存在からのメッセージを現世に伝える宗教的責務を果たし続けているように思えるのです。
(疑問2)霊的存在からのメッセージを具体的にどのようにしてドローイングするのか? 自動筆記、自動描写の方法は?
展覧会の資料では、霊的存在のメッセージを自動筆記、自動描画するとだけ書いてありますが、具体的にどのように描いたのかは書かれていません。
上記動画によれば、交霊会の中で、心理学のサイコグラフィックの手法を使ってメッセージを受け取ったと述べています(図7)。

出典:展覧会公式サイト https://art.nikkei.com/hilmaafklint/works/#img_chapter02_01
(疑問3)霊的存在からの受信結果は絵画と言えるのか? 絵画だとしても、抽象絵画の先駆けと言えるのか?
さて、このような交霊会の活動後も、ヒルマ・アフ・クリントは《神殿のための絵画》の作品群、「人智学」に基づく作品制作に亡くなるまで邁進するのですが、私としてはこれらの霊的な存在からのメッセージに基づいた作品は絵画と言えるのか、主体がないまま自動作画した場合どうなのか? この絵を西洋美術史の延長として見るべきなのかという疑問を感じました。
飛躍し過ぎることはは分かって言うのですが、西洋絵画のみの範疇で考えるべきか、洋の東西を問わない「人間」としての絵画、すなわち突き詰めると絵画とは何かという根本にまで遡ると思うのです。
それは、私が第一段階の感想で、アール・ブリュットの絵を見ているようだと感じたこととも繋がります。この問題は、次回の記事で改めて考えてみたいと思います。
(疑問4)ヒルマ・アフ・クリントは優秀な成績で王立芸術アカデミーを卒業し、当時まだ数少ない女性の職業画家になったと解説されているが、いったいどのような絵を描いて生計を立てていたのだろうか? 今回展示された霊的存在のメッセージに基づく絵画を購入する層がいるとは考えられない。
さて、これまでとは一転して大変現実的な話になります。私は第一段階の感想として、いくらスウェーデンが他のヨーロッパ諸国に比べて女性に対して先進的だったとしても、そして画家としてもとても優秀だったとしても、それだけで職業画家として果たして自立してやっていけるものなのか? 大変疑問に思ったのです。
例えば私が中高時代に習った北欧諸国の20世紀の人口は数百万単位でした。実際ヒルマ・アフ・クリントが生きた19世紀の人口を調べると、1850年では350万人、首都ストックホルムの人口は約10万人と推定されています。
絵画市場は都市部のストックホルム中心ですから、いくら富裕層の比率が高かったとしてもおそらく市場規模は極めて小さかったと推定できます。
しかし、前項で挙げたポール・プリ―スリー氏の動画によれば、ヒルマ・アフ・クリントは大変幸運なスタートを切ったようです。
成績優秀だったため、芸術アカデミーの「アトリエビルディング」の中のスタジオを授与されたとのことです。そして、風景画や肖像画を描き成功し、これが経済的自立と安定の源になったと解説されています。
そして、当時のスカンディナビアン半島では、男女の差がほとんどなかったそうです。
この辺りの事情はそのまま受け入れるしかないのですが、それではどのような絵を彼女は描いていたのでしょうか。なかなかその時代の絵を見つけることはできなかったのですが、幸いなことにポール・プリ―スリー氏の動画になぜかたくさんの例示がありました。その中から風景画を制作年代順に引用して示します(図8,図9)。

上段左から、《Summer Landscape》1888, 、《Katarina Church Stockholm》1889、
《Winter Landscape》1891
下段左から、《Coastal Landscape》1892、《Landscape》c. 1893
出典:全てポール・プリ―スリー氏の動画
(https://www.youtube.com/watch?v=6ab_QfeL4u4)より抜き出し筆者が再編した。

上段左から、《Country View》Watercolour, 1895 、《Blooming Fruit Trees》1898
下段左から、《Children playing by Water》1902、《Stream in the Forest》1902、
《Late Summer》1903
出典:全てポール・プリ―スリー氏の動画(https://www.youtube.com/watch?v=6ab_QfeL4u4)より抜き出し筆者が再編した。
このうち、図8の上段左の絵は確か今回の展覧会に展示されていました。
ご覧のようにどの絵も大変オーソドックスな風景画です。技術的にも、構図的にも優れていると思います。おそらく当時の美術愛好家であれば安心して購入したくなる絵ではないでしょうか。
なお、記事その1.では同時代の北欧の画家、ムンクおよびラーソンの風景画では、地平線の位置が高く設定されていることを指摘しました。アフ・クリントの風景画と比較してみたいとも書きました。
図8.図9の風景画をみると、それらの地平線はムンク、ラーソンほどは高く設定されていませんが、それでも印象派以前の画家達(例えばコンスタブル、ターナー、ドービニー、ルソー、クールベ、コロー、ブーダンなど)の風景画に比べて高く設定されています。この地平線の位置についてこれ以上話を進めるのは煩雑になるので、別の機会に譲りたいと思います。
図9.に示したの風景画の最後の制作年は1903年です。このあとも伝統的な風景画を描いた可能性がありますが、年表では1904年に「5人」の交霊会が発足し、霊的存在者のメッセージを受信した作品を描き続けることになるので、その可能性は低いと思います。
ですから、やはり亡くなるまでの長い間、どのように生計を立てていたのか依然疑問が残ります。
(疑問5)なぜ、ヒルマ・アフ・クリントは、霊的存在からのメッセージを二次元平面で描写しなければならないのか? なぜそれらを一部の人間しか見せずに発表しなかったのか? 死後も20年間封印するように言い残したのか? 「人智学」におけるヒルマ・アフ・クリントの役割はあったのか、それとも自ら活動を決めていたのか? シュタイナーの「人智学」(前身の「神智学」も含め)は西欧思想史においてどのような位置づけだったのか。
これらの疑問は、(疑問2)、(疑問3)の内容に直接関連します。
正直、神秘思想についてはこれまで、近づかないようにしてきました。あくまで私が学んだ日本の西洋史、西洋思想史のテキストや講義ではほとんど触れられてこなかったのではないかと思うのです。
しかし、わが国ではシュタイナー教育については、大変有名ですので、シュタナーの名前は良く知られています。しかしこれまで新聞レベルの一般向けの記事では、シュタイナーと「人智学」や「神秘思想」、そして教育との関係に触れられた例はほとんどなかったのではないでしょうか?
欧米で彼女の作品が再発見されたときに、ここに述べた疑問以外にも多くの論点が提示されたはずです。欧米ではすでに多くの専門家が意見を戦わしているはずですから、それらを把握して、次回の記事で記したいと思います。
この記事を書いた時点での私の仮の意見(仮説)
現時点では、私は二つの立場を取りたいと思います。
抽象絵画を、眼に直接見えないものを仮説や推論に基づき、自分の意思(主体)で造形およびコンポジションを決めて絵画を制作することと規定すると、ヒルマ・アフ・クリントの作品は受動的に描かれたものであり抽象絵画とは言えず、むろん抽象絵画の先駆けとは言えない。
もし、人間の主体がなければ、極端に言えば象や猿が勝手に描いた線描も抽象絵画になるでしょうし、人間が描いた場合でも、理論(仮説、推論、実施)が無ければ、例えば古代絵画の抽象造形や幼児・子供、あるいは、ドラッグによる幻視やアール・ブリュット(図10)なども抽象絵画になるからです。

左:Robert Linke, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
右:Robert Linke, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
年表から見る限り、ヘルマ・アフ・クリントはあまりにも受動的のように見えます。あくまで霊的存在のメッセージを受け取るばかりで、主体は霊的存在なのです。
しかし、そうはいっても《10の最大物》では私はアフ・クリントの主体的な意思(造形、配色)を感じます。ですから、もう一つの意見も成り立つと思うのです。
宗教的啓示、トランス状態で霊的存在からのメッセージを自動描画によって受動的に得られた造形にインスピレーションを受け、それを基に自らの審美的感性でドローイング、彩色を行った抽象造形は抽象絵画とみなす。この場合は、ヒルマ・アフ・クリントの作品は抽象絵画でありその先駆けと言える。
それでは次回、ヘルマ・アフ・クリントの作品に対して抽象絵画か否かに関する欧米での議論を知ったならば、上の意見がどう変わるのか楽しみです。
(記事その3.に続く。)
前回の記事は、下記をご覧ください。
