「ヒルマ・アフ・クリント展」その3:すべては周辺(米、露、印、英、独)から始まった! 白隠、仙厓とアフ・クリント、ルソーと神秘思想、鈴木大拙と神智学
記事その2.の続きになります。
長文になります。論旨の流れ上かなり長くなりました。余裕をもってお読みください。
はじめに
記事その2.では、展覧会場の最後の部屋のヒルマ・アフ・クリントの年表および参考資料、作品リストに記載の作品解説、さらにはポール・プリ―スリー氏のyou tube動画の内容から、アフ・クリントの17才までの神秘主義、神智学、人智学への傾倒と霊的存在からメッセージを受信して自動描画による抽象造形プロセスを知り、第一段階の感想の追加、修正を行いました。
そして、展覧会の副題である「抽象画の先駆者」がはたしてふさわしいのか、追加、修正の後、二つの意見(下記)を並置して記事その2.を終えました。
抽象絵画を、眼に直接見えないものを仮説や推論に基づき、自分の意思(主体)で造形およびコンポジションを決めて絵画を制作することと規定すると、ヒルマ・アフ・クリントの作品は受動的に描かれたものであり抽象絵画とは言えず、むろん抽象絵画の先駆けとは言えない。
宗教的啓示、トランス状態で霊的存在からのメッセージを自動描画によって受動的に得られた造形にインスピレーションを受け、それを基に自らの審美的感性でドローイング、彩色を行った抽象造形は抽象絵画とみなす。この場合は、ヒルマ・アフ・クリントの作品は抽象絵画でありその先駆けと言える。
以上は、私のような当時の西欧の歴史や西洋美術史の専門家ではないものが考えそうなかなり単純な意見だと思います。
ですから記事その1.の末尾で約束したように、私は19世紀後半に起こった欧米の思想(精神)の大きなうねりとヒルマ・アフ・クリントの「抽象造形」が西洋美術史的にどのような学術的視点で現在議論されているのか、どのような論争があるのか、把握しなければならないと考えました。
その上で私の意見を検証して、本シリーズ記事を終えたいと思います。
記事その1.で約束した予定の内、3.4.5.を下記に示します。
3.西欧美術史の中でどのような位置づけがなされてるのか、可能な限り、現在までの欧米での美術史学的議論の経過を知る。ただし学術論文や資料を直接読むのは無理なので、You Tubeに挙げられた美術専門家の講演、学芸員の解説、伝記作家の講演、宗教、オカルト、神秘思想の専門家の講演などから、欧米で現在確定している学説を知る。
4.以上の作業では、これまで抽象絵画の先駆者と云われる、カンディンスキーやモンドリアンの思想的背景の確認と、当時のヨーロッパの時代精神の動き、その中での「人智学」のアートにおける位置づけを把握をする。また、これまで記事にしたアンリ・マティスの生涯の最高傑作「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」についての記事を参考にヒルマ・アフ・クリントとの違いを明確にする。以上の3,4,から仮説の妥当性を検証する。
5.最後にドラッカーが指摘する日本絵画の特質について、ヒルマ・アフ・クリントについての上記知見と比較して、西欧、東洋問わず横断的な立場で抽象絵画とは何かについて考えてみる(ここまで拡大してよいか分かりませんが試みてみます)
植物画?ペン画?アール・ブリュット?生計は?
https://note.com/wataei172/n/ndf5b4cbb3f55

出典:左、wikimedia commons, public domain,
右:筆者撮影
目を通した専門家の動画資料
予定3.で述べた様に、私は学術論文や専門書を読む能力も時間もないので、YOU TUBE動画の中からアフ・クリントに関わった西洋哲学・思想史、宗教・神秘思想の研究者、西洋美術史研究者、学芸員、MFA他)、伝記作家、映画監督、アーティストらが出演するものを選び目を通しました。最終的に選んだリストを図2に示します。

これらを全て視聴した結果、本記事では最初の二つが、冒頭に述べた私の要望に内容的に適していたので、以下の動画の講演内容を中心に考えて行きたいと思います(必要に応じて、4.の講演も取り上げます)。
グッゲンハイム美術館・大規模回顧展「Hilma af Klint:Paintings for the Future」の講演会:動画1.および2
動画2:
2018–2019年、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館で開催された大規模な回顧展「Hilma af Klint: Paintings for the Future」は、同館史上最多の60万人を超える来館者数を記録しました。
東京国立近代美術館、美術課長(現在)の三輪健仁氏が偶々訪問し、今回東京での「ヒルマ・アフ・クリント」展を開催する契機となった展覧会です。
この講演会は、それに合わせて2018年10月12日に実施されました。午前、午後の2部からなり、講演者の肩書、専門の研究領域を示します。(肩書は2018年当時)。
司会者:パトリシア・バーマン氏:ウェルズリー・カレッジ セオドラ・L・アンド・スタンリー・H・フェルドバーグ教授、美術史家。
研究対象は、20世紀末のヨーロッパ美術、特にスカンジナビア、アメリカ近代絵画と写真。
午前の部の講演の題名と演者:
1.「 ヒルマ・アフ・クリントの信じられないような遺産」
ダニエル・バーンバウム氏:ストックホルム近代美術館・館長、国際展キュレーター、ディレクター、独・ステートリー・UH・スクール・アートアカデミー学長。
2013年、ヒルマ・アフ・クリントの大規模巡回回顧展を企画、開催。
2.「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」
ユリア・ヴォス氏:美術評論家、美術史家、科学史家、ジャーナリスト、独ロイファナ大学にて教鞭をとる。ヒルマ・アフ・クリントの伝記(2019出版)
3.「並行するビジョナリーたち: ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
トレーシー・バシュコフ氏:ソロモン・R・グッゲンハイム美術館のキュレーター
午後の部の講演者:
1.「ニューヨーク 1875年 神智学の誕生」
アイザック・ルベルスキー氏:神智学と歴史の専門家、ジェノサイド研究コーディネーター、イスラエル・オープン大学でインド研究。テルアビブ大学、ベングリオン大学で教鞭をとる。
2.「空間と物質のヴィジョン: ヒルマ・アフ・クリントとオカルト/科学的文脈」
リンダ・ダルリンプル・ヘンダーソン氏:テキサス大学教授(美術史)、芸術と科学との関係が専門、「芸術、科学、20世紀初頭のオカルティズム」を執筆中。
3.「余考の形式: 近現代美術におけるエソテリシズムの役割の変化」
マルコ・パシ氏:アムステル大学准教授(思想史)ヘルメス哲学、西洋の秘教(芸術、セクシャリティー、政治)、展覧会のキュレーター。
4.「+x、チャプター 34」
R.H.クエイトマン氏:ニューヨーク在住アーティスト、ヒルマ・アフ・クリントと対話しながら制作。アフ・クリント作品の宣伝(雑誌、カタログ執筆)、1983年展覧会企画。
本講演は、2018年のグッゲンハイム美術館の展覧会に合わせて設けられたようです。
展覧会の副題、「抽象絵画の先駆者」について議論するためにふさわしい講演者の顔ぶれと専門性です。事実、2018年までの議論、新たな事実の発見や意見が話され、私が当初期待した内容が含まれていました。
しかし、私が専門の科学技術系の講演と違って図やスキーム、文字によるプレゼンテーションスライドはほとんど使用されず、口頭による説明が中心で、しかも専門用語が頻出するので、内容を追うのはかなり困難です。
文字起こしを読んだり何回か聞き直して一応理解したつもりですが、もしかすると誤解している点があるかもしれません。その点、どうかご容赦ください。
さて、本来ならば、以上の講演内容を全て紹介してから、「はじめに」で述べた、私の意見の検証と結論を述べるべきですが、内容紹介はあまりにも長く、煩雑になるので、最初に結論と新たに感じた視点を述べ、その後の章で、私がその結論に至った理由の根拠となる講演部分を抽出しながら紹介することにします。
結論とその為の前提条件とその根拠
現時点で、私の結論は次のようになります。
「ヒルマ・アフ・クリントは西洋抽象画の先駆者(の一人)である」
ただし、以下の条件を前提とする。
前提1.アフ・クリントは、ほぼ同時に進行していた西洋絵画の革新運動(アヴァンギャルド)の動きを知っていても知らなくても、絵画の革新には関心がなく、神智学の教義を信じ、神智学(人智学も併せ)が目指す精神世界を築くことを第一義の目的とし、「絵」はその仲介のための手段とみなしたこと。
前提2.抽象造形の原型は、霊的導き手からのお告げだったとしても、教義に則った造形のリファイン、配置、構図の設定、色(トーン)の選定、配色はアフ·クリント本人が行ったこと。
前提3.各分野の創造活動の先端にいる人物は19世紀末の欧米の時代精神(科学技術の新パラダイム、神秘思想、神智学、人智学)を共有していたこと。
なお、ヒルマ・アフ・クリントが抽象画の「先駆者」だと考えるのは、カンディンスキーが抽象画を描いたとする1910年に比べて数年早い(1903-06)からだとするのが主な理由になっているようです。
しかし私は長い西洋絵画史からすれば同時期だと考えます。抽象画は、当時のアヴァンギャルドの動きの中でカンディンスキーが特に目立った(後述)のであり、期は熟していて誰が早かったのかはあまり意味がないと考えます。
この時代に出るべくして出現したのだと考えます。ですから(の一人)を加えました。
以下、前提条件について補足説明します。
カンディンスキーとアフ・クリントの作品の抽象度の変化による比較
図2に、視覚的に把握しやすいように、縦軸に作品の抽象度、横軸にそれぞれの作品の制作年を示しました。

作図は筆者による。
出典:カンディンスキーの作品画像はすべてwikimedia commons, public domain。ヒルマ・アフクリントの風景画は、記事その2を参照。1903年以降の抽象画作品はすべて展覧会特別サイトより引用。
一見して分かるように、カンディンスキーは、描き始めた当時?(1901-03)の写実画(完全な写実ではないので、抽象度を約30%に設定しました)から、「青騎士」「バウハウス」の活動を経ながら、1910年以降急激に抽象度を上げ1920年代の100%抽象画に至ります。その軌跡は、青の線で示したS字カーブを描きます。
一方、アフ・クリントは、抽象度0%の古典的な写実画(人物、風景共に)を1902年頃まで描いて、1903年に突如ほぼ抽象度100%の絵画を描き始めます。この場合、赤の破線で示したように、ほぼ垂直に立ち上がっており、抽象度の変化は非連続で、0%から100%へ突然ジャンプし、相互の関係はまったくありません。
この突如の出現は、交霊会での霊の導き手による自動描写から得られたものとアフ・クリント自ら記述しているので、これまでの西洋絵画史の文脈では評価が出来なくなってしまうのです。
ところが、記事その2.でも述べた様に、カンディンスキーらの抽象画は、当時はバリバリの前衛芸術作品で、まだ世間的な認知は一部に過ぎなかったと思います(印象派や後期印象派がようやく専門家に受け入れられてきた段階で、一般大衆にはアフ・クリントが描く古典的写実絵画がまだ主流だと思います)。
しかし、カンディンスキー達は旺盛に著作物を著して自らの考えを発表しており、後に確立された西欧絵画史のメインストリームをすでに学んでいる後代の我々にとって、このS字カーブに対応するカンディンスキーの思想の変化を追うことが可能です。ですから抽象度100%の作品に至るプロセスが納得でき、その作品も理解しやすいのです(図3)。

アフ・クリントの、初期具象画と後年の抽象画に対する姿勢の差について
上で確認したアフ・クリントの突如の抽象絵画の出現はどう考えたらよいでしょうか。私は以下のように考えます。
プロの画家であるアフ・クリントは、当時の西欧絵画の大きな変革の流れは当然把握していたと考える。しかし、彼女はそのような絵画の変革よりも、よりよい人間の精神世界実現そのものに関心があった。突然の出現のように見えるのは、交霊会における霊の導き手との交信手段「オートマティスム」により得られたドローイングや絵は、本人が描いてきた自然主義的な絵画の延長線上にはないからで、通常の絵画とは別物と考えていたからだと思いたい。絵はよりよき精神世界を実現させるための道具(仲介物)の位置づけであった。なぜなら自らを「創作者」ではなく霊的世界の「仲介者」と位置付けているから。
それでは、本人が「仲介道具」としてしか自覚していないものを西洋絵画として扱ってよいものでしょうか?
まさにこの辺を、冒頭に挙げた講演会、"Visionary-On Hilma af Klint and the Spirit of Her Time" では扱っています。
ちなみに、この講演会の総合タイトル「Visionary:ヒルマ・アフ・クリントとその時代の精神について」ですが、Visionaryをどう訳すかで大分印象が変わります。けれど、「洞察力がある人」「先見の明がある人」「夢想家」「予言者」、どれをとっても単独ではしっくりしません。
私は、これらすべての訳が当てはまる人がアフ・クリントだと思えます。
講演およびその他の資料から私が得た新たな視点と感想
次に上記結論に付随して得られた私にとって新しい視点と感想を、煩雑さを避けるために出典や証左を詳しく示しませんが以下に紹介します。
1.アフ・クリントの時代精神ー”周辺”がもたらした現代にも繋がる一大精神運動(オカルト、神智学、人智学そしてジェンダー)
私は、記事その2で次のような感想を述べました。
写真で見る限り、裕福な家のお嬢さんが、まだ若いのになぜだろうと疑問に思いませんか? おまけにその後同じ王立芸術アカデミーの仲間の友人たちで「5人(De Fem)」という会を作り、「交霊会」を催して自動描画により作品まで作ってしまうなんて一体何があったのでしょうか。驚くことにその会は11年もの間続くのです。
霊的導き手による描画は絵画なのか?
https://note.com/wataei172/n/nec58e9e11e46
私は上記文章を書いた私の無知を恥じます。
実は次のように書くべきでした。
ヒルマ・アフ・クリントは、ヨーロッパを覆う時代の変化と社会・文化の未来、その中での人間精神のあり方について感受性が高い人物であったからこそ神秘思想に影響され、神智学協会、人智学協会に入会したのだ。
と。
もちろん、本人が自覚する「霊体質」もそれを助けたことでしょう。
私は、別の個所で「私は神秘思想やオカルトの話題に触れることはこれまで敢えて避けてきた」とも書きました。しかし、当時の欧米における神秘思想、神智学に影響を受けた人物のリストを今回調べてみると考え直さざるを得ません(図4、図5)。

写真の出展:すべてwikipedia

写真の出展:すべてwikipedia
表を見てお分かりのように、欧米を代表する人物が並んでいます。そしてこれらの人々の足跡は、ユネスコや現代教育、現代文学、現代音楽、現代絵画の源流として現代にもつながっているのです。
各国の神智学支部の設立数と会員数拡大のスピードは速く、人間のあり方や社会活動に関心が深い知識人や創造に関わる人が特に求めていたことを窺わせます。また、長い間社会の低?位置に置かれた女性達の心に刺さったことも加えなければならないでしょう。
ですから、ヒルマ・アフ・クリントが神智学やシュタイナーの人智学に関心を寄せるのは当然のことだったのです。
2.キーワードは「周辺文化・国家・民族」「女性」「インド」「仏教」「科学的」
さて、ここから述べることは、西洋思想史を専門に学んだ方ならば、ほとんど常識的なことに終始する可能性があります。
しかし、読者の皆さんには、私がなぜこの記事を書き始めたのかを思い出していただきたいのです。単に西洋抽象画のパイオニアと言われるヒルマ・アフ・クリントを作品の鑑賞するためではありません。
それは、日本の絵画とは何か、その特徴は? なぜ、西洋の知識人であるドラッカーが日本の水墨画を評価したのか、あるいはなぜ禅画を西洋の知識人が見出し、ZENGAと名付け、評価したのか? 私が線スケッチを始めて日本の絵画に目覚めて以来抱いてきた上記の謎を理解するヒントが、ヒルマ・アフ・クリントの展覧会の中に潜んでいると直感したからです。
ですから私の問題意識から見た私にとっての新しさであることをご理解ください。
ヒント1:周辺文化、周辺国家、周辺民族による世紀末時代精神への寄与。
さて、ここでいう”周辺”とは、世紀末までのヨーロッパの文化、特に芸術の中心であったフランス、特にパリを中心に見ての”周辺”を指します。
私は前節のタイトルですでにこの文字を使いましたが、まだ説明していませんでした。先ずアフ・クリントに関係する心霊主義、神智学、人智学の創始者および初期の活動家の出身地、活動地域をご覧ください(図6)。

神秘思想自身は、西洋思想の中心だった欧州に昔からありましたが、ここで注目したいのは、現代のニューエイジに繋がる近代神秘思想や神智学協会の発祥が米国であることです。神智学協会創立者の一人、ヴラヴァツキー夫人の出身はロシアでもあり、当時の文化の中心のヨーロッパではなく、周辺国にあたります。そして、神智学協会はニューヨークで設立されました。さらに神智学協会の思想にはほぼ全ての宗教が入っていますが、色濃くインドの瞑想や宗教、特に仏教の要素が反映し、協会の本部がインドに置かれて今日までインドとの関係が深いことです。
ここで、思い起こしていただきたいのは、ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)が生きた時代は、西洋絵画史的にも19世紀中旬から始まった大変な変革期に重なっていることです。
興味深いことに、エドワァール・マネの登場以降、変革の主体である印象派の主要な画家達(ピサロ、ドガ、シスレー、モネ、ルノワール、バジール、モリゾ、カイユボット)はことごとくフランス人(シスレーはフランス生まれ、フランス育ちの英国人)であり、活動はパリが中心であることです。唯一の例外は、ドガの知己を得たメアリー・カサット(米)です。ただし、彼女の活動の中心はパリです。
その後もスーラ、シニャック、セザンヌ、ルドン、ゴーギャン、ゴッホら、ゴッホを除きフランス人中心が続きますが、彼らの関心はジャポニスムだけでなく西欧文明以外の世界へ強まり、ついには、ナビ派、ドイツ表現主義、フォーヴィズム、キュビズム、素朴派、エコール・ド・パリ、未来派、形而上派、ダダ運動からシュルレアリスム、バウハウスそして抽象絵画へと活動拠点もパリに限定されず各国に拡がり、フランス人以外の画家も西欧絵画史のメインストリームとして大きく寄与することになります。
例を挙げれば、ビアズリー(英)、ムンク(ノルウェー)、ホドラー(スイス)、アンソール(ベルギー)、クリムト(オーストリア)、ノルデ(独)、キルヒナー(独)、カンディンスキー(露)、マルク(独)、ドンゲン(蘭)、ピカソ(スペイン)、シャガール(露)、スーティン(露)、モンドリアン(蘭)、モディリアーニ(伊)、キスリング(ポーランド)、クプカ(チェコ)、藤田(日)、キリコ(ギリシャ)、クレー(スイス)、エルンスト(独)、ダリ(スペイン)、マグリット(ベルギー)、ミロ(スペイン)、マレーヴィッチ(露)です。
さて、以上西洋美術史のテキストを開けばどこにでも書いてあることを長々と綴ったのは、ヒルマ・アフ・クリントの絵画制作期が、まさに上記西欧絵画の大変革期にそのまま重なること、そして彼女がスウェーデン人という周辺国の人間であるにも関わらず、まるでこのような変革期を知らなかったかのように、ひたすら自分の作品を創り続けている不思議さを強調したかったからです。
実際、同じ北欧のスウェーデンからはストリンドベリ(作家として知られるが、画家でもあった)、ノルウェイからムンクがこの変革に加わり、しかも両者ともにアフ・クリントと同じく大変な神秘思想の信奉者なのです。
そしてアフ・クリントに数年遅れて抽象絵画に到達するカンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィッチも全員周辺国の出身であると同時に、神秘思想に強い影響を受けた人物であることは図4,5ですでに示しました。
ですから、アフ・クリフ本人の記述がないとはいえ、一時はスウェーデンの芸術社会の中枢にいた(スウェーデン女性芸術家協会の副理事兼幹事も務めた。図7の前年まで)だけでなく、神秘思想の信奉者、交霊会の実践者であるアフ・クリントが、ストリンドベリおよび交友関係のあったムンクの絵画の動きを知らないはずがないと思うのです。

出典:グッゲンハイム美術館講演会:「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」ユリア・ヴォス氏
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=3647s
以上の状況から、彼女も同時期に西洋絵画の変革に寄与できる条件を持っていたと私は思います。それでは、なぜ彼女は絵画の変革期の表舞台に立てなかったのかあるいは立たなかったのか、講演内容の情報をいれて考えて行きます。
ヒント2:ジェンダーの問題:なぜ日本の展覧会では強調されないのか?
さて、ここで冒頭で述べた心霊主義(交霊会)や神智学協会が欧州に広がったた様子をみると、「ジェンダー」の問題を避けて通れないと思います。
アフ・クリントの「ジェンダー」の問題を述べる前に言っておきたいことがあります。
ここで正直に言いますが、私は次に述べる理由でこの問題を語る資格はないと思います。
私はnoteでは、社会的、政治的にデリケートな問題、例えばジェンダーやマイノリティー等については可能な限り記述を避けたいともともと考えていました。なぜなら、人間はいくら自分の頭で時代に対して進歩的であろうと意識しようとも、その時代精神いや簡単に言えば生い立ちの中で周囲から受けた影響から逃れることはできないと思うからです。
ですから文章には知らず知らずのうちにその時代精神が出てしまい、無用な軋轢を起こしたくなかったのです。
ところが実は、私はその自分への約束を破っていて、証拠をすでに今回の記事に残しており、私が語る資格がないことを露呈しているのです。それは、記事その2.の中の次の言葉です。
写真で見る限り、裕福な家のお嬢さんが、まだ若いのになぜだろうと疑問に思いませんか? おまけにその後同じ王立芸術アカデミーの仲間の友人たちで「5人(De Fem)」という会を作り、「交霊会」を催して自動描画により作品まで作ってしまうなんて一体何があったのでしょうか。
あきらかに、「良家のお嬢さんはかくあるべし」と、戦前の日本の考えが私に乗り移っています(おそらく両親を通じて)。そして暗黙のうちに読者の皆さんから賛同を得られることを前提にして書いているのです。
しかし、この文章を書いた直後に私は気が付きました。おそらく私の孫の世代に当たる二十歳前後の女性には、この文章はまるで理解できないだろうと。現役世代の30,40代の女性ですら死語に近い表現だろうと。そしておそらく反発すら感じるのではないかと思ったのです。
しかし、あえて私はこの表現を残すことにしました。なぜなら、ヒルマ・アフ・クリント自身も、時代精神、そして生い立ちの影響は避けられなかったことを示すのに都合がよいと思ったからです。
私は、今回の展覧会場では「スウェーデンでは当時は女性が男性と同等に王立芸術アカデミーに入学が許された」という記述のみで、当時の女性の地位についての解説が少ないように思いました。
ところが、グッゲンハイム講演会を視聴されたならば、すぐにわかると思いますが、専門家たちの発言から見る限り、アフ・クリントの絵画を語る上で「ジェンダー問題」は講演の大前提になっているのです。一般聴衆ですらそれを理解しているようです。
以下、私の古い体質、考えには目をつぶっていただき、できるだけ講演会の学術議論にもとづいた情報でこのジェンダーの問題について書くことにします。
1)先ずアフ・クリントの生い立ちに注目して見ましょう。アフ・クリントの姉は当時女性解放運動に積極的に参加していたという事実があります。ですから、アフ・クリントも姉から大きく影響を受けたに違いありません。
2)米国発の神秘思想、交霊会の主役は、霊媒者も含め女性であり、それは神智学にも受け継がれています。そして欧州での拡がりも女性の会員が大きく寄与しています。神智学協会の第二代会長アニー・ベサントは、女性解放運動の著名な指導者であり、神智学、人智学そのものに女性解放問題を受け容れる素地があることを示しています。アフ・クリントが入会した大きな理由の一つでしょう。
3)アフ・クリントがなぜ独身をつらぬいたのかは、プライベートに関する記録がないため現在は謎のままのようです。けれども同性(女性)を好む傾向は明らかで、それが思想的な理由なのか性的な理由なのかは今後の美術史家、伝記作家の解明に待つしかないようです。
4)アフ・クリントの時代は、大多数の科学者が「女性が高等教育を受けると病気になり、女性の神経を破壊し、しばしば過労死に至らしめる」と述べていて、それが受け入れられているような社会でした。アフ・クリントは仲間の女性とともにそのような世間の意見を無視して自律的な活動を続けました(図8)。
5)絵画のアカデミーの世界での男尊女卑は当然あったが、時代の先を行くと思われるアバンギャルド(前衛芸術運動)ですら、当時の欧州においては男社会であり、アフ・クリントは、1906年以降、アカデミーの写実的な絵画制作を止めた後も、同じ理由でアバンギャルド(前衛芸術運動)にも参画しなかったと思われる(ユリア・ヴォス氏講演)。

出典:グッゲンハイム美術館講演会:
ユリア・ヴォス氏「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=3647s
さて、アフ・クリントがなぜこれまで知られなかったのか、上記4)に関してグッゲンハイム講演会、午前の部の1番目、ダニエル・バーンハイム氏の「ヒルマ・アフ・クリントの信じられないような遺産」で興味ある発言があったので、少し長くなりますが紹介します。
氏は、30年前にヒルマ・アフ・クリントの作品が初めて大規模展として公開されたときの反応について次のように述べます。
熱狂的な受け入れもあったが困惑も生じた。誰もが納得したわけではなく、作品の質にも納得していなかった。
美術批評家ヒルトン・クレーマーは、「抽象の歴史の文書としては一定の関心は持つが、それは美的関心ではない。アフ・クリントの作品は本質的には色彩豊かな図像に過ぎない。カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィッチの作品と同列に置くのは不合理である。彼女は、カンディンスキーらのクラスのアーティストではなく、敢えて言えば、彼女が女性でなければこのような過大評価を受けることはなかったであろう」と述べていますが、今日クレーマーの評価に賛同するものはほとんどいないことはますます明らかになっている。
の中のダニエル・バーンハイム氏発言要旨
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=1s
私が特に印象的だったのは、ヒルトン・クレーマーの「彼女が女性でなければこのような過大評価を受けることはなかったであろう」の言葉をバーンハイム氏が発した瞬間に、会場全体に悲鳴とも落胆とも、あるいは苦笑いともつかない、何とも形容しがたい聴衆の声が広がったことです。
バーンハイム氏の間の取り方、口調から、彼は明らかにこの聴衆の反応を見越してクレーマーの言葉を紹介しています。おそらく、日本でこの講演を行ったなら、このような反応は聞かれなかったでしょう。何か欧米に深く横たわるジェンダー問題に対する聴衆の共通の認識があると思います。
私がもう一つ興味を惹いたのは、講演の後半でバーンハイム氏が述べた、アフ・クリントが置かれた制作環境です。彼は、次のように述べています。
同世代の男性アーティストが作品を展示するときに、その元となる考えを表明し、流派を改革したり、形而上学的思索をラジカルな政治や制度構築とを合わせたのに対し、アフ・クリントは霊と交信するための交霊会の女性達を除いて、たった一人で制作していた。そのため彼女の絵画の不定形表現は公の場で議論されることはほとんどなかった。(中略)
彼女は組織的な支援をまったく受けなかったし、美術市場ではまったく影響力を持っていなかった。彼女の状況は、有名な同僚たちとはまったく違う。マティスやピカソのような芸術家は、コレクターやギャラリスト、批評家という存在がなければどうなっていただろうか? 彼女自身、自分を先駆者だと記述しているが、彼女には側近もいなければ、組織的な支援もなかった。また信奉者や弟子もおらず、流派を生み出すこともなかった。
の中のダニエル・バーンハイム氏発言
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=1s
文字起こし翻訳
ここで、バーンハイム氏は重要なポイントを指摘しています。すなわち、モダーンアートにおいてその作品が美術史的に認められるには、画家自らのマニフェスト(表明)、コレクター、ギャラリスト、批評家から構成される美術市場制度、さらには支援者の存在、さらにフォロワーや弟子からなる流派が形成されることが必要だという点です。
アフ・クリントにはこれらの条件が無かったことが当時公に評価されることが無かった原因だという訳です。
またこれらは、以前記事にしたように、まさに現代アートの村上隆氏が日本の作家たちに向けて繰り返し述べていることと符合します。
そしてもっと注目したいのは、すでに紹介したユリア・ヴォス氏が述べた「絵画のアヴァンギャルド活動も女性を蔑視する男社会だった」という事実です。
ですから、バーンハイム氏がいう制作環境に加え、アフ・クリントが男性社会のアヴァンギャルドの世界にも加わらなかったことも評価を遅らせたと言えるでしょう。
なお、ヒント6において、改めてアフ・クリントの評価が遅れた点について述べたいと思います。
余談:日本絵画における女性画家、「新版画」の欧米女性画家達
上記ジェンダーの記事を書きながら、私は江戸期以前の日本の女性画家を念頭に置いていました。
以前も触れたのですが、封建時代ということもあり名前こそ今日あまり残っていないのですが、全国にかなりの数の自立した女性の画家がいて、社会的にきちんと評価されていたようなのです。
ところが西洋文明を受け入れた明治以降はむしろ欧米と同じような女性画家の社会的地位になってしまいます。
一方、メアリー・カセットのように浮世絵版画に影響された作品を本拠地パリで制作したのとは異なり、「新版画」制作のため、果敢に単身異国の日本に飛び込み、住み込みをしてまでも制作を続けた何名もの欧米の女性画家達がいることも私は記事にしてきました。
まさにアフ・クリントと同時代ですから、欧米の女性達の時代精神を表しているのでしょうか。今回のアフ・クリントの「ジェンダー」の問題も併せて、日本及び欧米を見渡して全体の流れをいずれまとめてみたいと思います。
ヒント3:神智学の原子、高次空間と図像表現:螺旋、立方体図像
次にアフ・クリントが突然生み出した抽象造形について考えてみます。上で紹介したバーンハイム氏はその講演で、30年前にアフ・クリントの絵画を酷評した美術批評家ヒルトン・クレーマーの言葉、「アフ・クリントの作品は本質的には色彩豊かな図像に過ぎない。」の中の「図像」について最新の研究を引用して正反対の意見を述べます。
クレーマーがアフ・クリントの作品を否定するために用いた図表の概念が注目すべき新たな概念を生み出していることは興味深い。この新たな図表の概念によりアフ・クリントの抽象表現を形式主義ではない観点で考察することが可能になる。
図表は抽象的でありながら具象的であることが本質である。
の中のダニエル・バーンハイム氏発言要旨
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=1s
と前置きを述べて、美術史家のブライオニー・ファー氏(グッゲンハイム美術館の講演者だったが怪我のため当日欠席)の研究を紹介します。
彼女は、アフ・クリントの作品における図表的アプローチを探求し、図は先見の明あるプロセスから生まれたものであり、幻想的な図表であることを示唆していること、そのプロセスは合理主義的パラダイムではなく恍惚としたパラダイムの中に位置づけられるものであると。そしてアフ・クリントの作品を「自己生成オカルトシンボルシステム」と表現している。
の中のダニエル・バーンハイム氏発言要旨
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs&t=1s
図表に関する研究の詳細内容については、ここでは紹介しません。
要は、「アフ・クリントの図像は、理性的プロセスではなく恍惚(カルト)パラダイムから得られたもの」というのでしょうか。
アフ・クリントが遺した膨大なノートの記述の研究から得られた図像学的結論(意味)は、今回の展覧会場で配られた作品リスト・解説でなされているので省略いたします。
バーンハイム氏は、以上の内容をもって、ヒルマ・アフ・クリントは西欧抽象絵画の先駆者だと自分は考えると講演を締めくくっています。
しかし、おそらく講演時間が足りないために簡潔にしたのだと思いますが、それは必要条件であっても十分ではないと私は思います。
次にここで紹介したいのは、アフ・クリントの絵画に数多く出現する螺旋と立方体について新たに私が知った事実です。
それらは単純に思いついて描いたのではなく、神智学の教義や関連する当時の最新哲学を反映させているということです。
例えば、螺旋については、グッゲンハイム美術館講演会、午前の部3番目の講演、トレーシー・バシュコフ氏「並行するビジョナリーたち: ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」の中で示されたスライド:神智学協会の幹部であるアニー・デサント(第二代会長)とチャールズ・W・リードビーターが1908年に著した「オカルト化学」で主張した「真の物理的な原子」の螺旋状の形態です(図9)。

グッゲンハイム美術館講演会、トレーシー・バシュコフ氏「並行するビジョナリーたち: ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
一方、アフ・クリントの作品の中でも重要な「白鳥」シリーズでは、螺旋に加えて立方体が描かれます(図10、11)。

出典:筆者撮影
それについては、リンダ・ダルリンプル・ヘンダーソン氏の午後の部の二番目の講演「空間と物質のヴィジョン: ヒルマ・アフ・クリントとオカルト/科学的文脈」で示された次の図をご覧ください。

出典:右下の図を除く全て、グッゲンハイム美術館講演会、リンダ・ダルリンプル・ヘンダーソン氏「空間と物質のヴィジョン: ヒルマ・アフ・クリントとオカルト/科学的文脈」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=dUwZF6_Dm8U
右下の図は、筆者撮影
ヘンダーソン氏によれば、神智学協会幹部のアニー・ベサントとチャールズ・W・リードビーター、そして後にシュタイナーにとって超空間哲学者チャールズ・H・ヒントンは重要な情報源となっており、ヒントンが提唱した複数の立方体形状"tessaract"からなる高次空間表現が神智学に取り入れられ(図10、建築家で神智学者のクロード・ブラグドンの図)、その立方体表現がアフ・クリントの「白鳥」シリーズに描かれていると解説しています(図11)。
以上から分かるのは、アフ・クリントは神智学協会の教義およびその背景となる最新哲学を真摯に学んで、高次空間に関する図像を自身の絵の中に取り入れて描写していることです。
さらに、シュタイナーの人智学協会入会後も亡くなるまで長期間絵を介して人智学の教義を表現し続けたのです。
私は、記事その2.で、アフ・クリントのことを「その姿は、まるで修道院で神に生涯を捧げている尼僧」のようだと感想を述べました。
今回の、グッゲンハイム美術館講演会の専門家の発言から、上に述べた私の感想は間違っていなかったと言えるのではないでしょうか。アフ・クリントは、通常の絵画を制作している意識は無かったからです。
それでは、改めて問います。そのような意識で制作したアフ・クリントは、カンディンスキーらに先駆けた抽象絵画の先駆者と言えるのでしょうか?
ヒント4:白隠慧鶴と仙厓義梵のZENGA(禅画)は絵画なのか?
さて、ここでようやく私の当初の目的にたどり着きました。私は次のように問いたいと思います。「白隠慧鶴と仙厓義梵のZENGA(禅画)は絵画なのか?」と。
突然何を言い出すのか?正気なのか?と読者は驚かれたことでしょう。しかし言わせてください。「白隠と仙厓はヒルマ・アフ・クリントと同じ心情のもとで絵を描いたのではなかったのか」と。

出典:すべてwikimedia commons, public domain

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私は、二人の禅僧とアフ・クリントに共通なものを見るのです。
1.白隠、仙厓ともに絵画(売るための)を描いている考えはなかった。あくまで禅の考案の一助であり禅を普及するためであった。
2.アフ・クリント(本人廃棄整理後1000点以上)同様に、白隠(1万点)、仙厓(2000点)共に多くの禅画を描き続けた。
3.本国(日本)では近年まで美術専門家の評価を受けることはなく、戦後1960年前後の欧米の禅ブームの中で、ドイツ人禅研究者によって「ZENGA」と名付けられ絵画として評価された。日本での評価はその後になされた。
驚くほど、ヒルマ・アフ・クリントと状況が一致していると思いませんか?
特に私が注目したいのは、ZEN(禅)は、瞑想がキーワードとなるインド発祥の仏教の一派であることです。
ヒント1.の項で述べた様に、神智学はインドに関心が強く、創始者ヴラヴァツキー夫人はインドの瞑想、ヨガに深く関心を示しており、またスリランカで正式に仏教徒になったといいます。
さらに注目すべきは、評価したのは日本人ではなく欧米の知識人だったことです。すなわち、私はZENGA(禅画)が絵画として評価されたのは、日本の絵画史とは無関係で、世紀末の神智学から第二次大戦後のニューエイジにかけて欧米人がインドや日本のZEN(禅)に惹かれる流れの一環ではないかと思うのです。
神智学とインドについては、次のヒント5の項で改めて述べたいと思います。
さて、ここでヒント4.のまとめに入ります。
今日、ZENGA(禅画)は、我が国においてはもはや何の疑いもなく、絵画作品であり芸術価値が高いものとされています。しかも、白隠、仙厓共に、自由な筆づかいの具象表現だけでなく、西欧絵画史とは独立に円相や《まるさんかくしかく》(仙厓)の抽象表現にたどり着いています。
ここで一旦、これまでアフ・クリントの絵画に対する様々な評価の中で、次の考え方が正しいとしたらどうなるでしょうか?
ヒルマ・アフ・クリントの絵画は、霊的存在との交信で得られた図像や神智学の教義に含まれた図像を表現しただけであり、しかも本人も「仲介手段」であると言っている通り主体的な制作ではないので絵画とみなすことはできない。
すると、現在すでにZENGA(禅画)を芸術作品として鑑賞している私としては、たちまち困るのです。
なぜなら、上で述べた様に、白隠、仙厓ともに、神智学と禅宗の違いはあれど、ともに本人たちは前衛的な芸術作品を制作しているつもりがなく、アフ・クリントと同じ制作姿勢ですし、絵を描く目的も禅のためなので、アフ・クリントの神智学、人智学のためと同じなので、理屈から言うと白隠、仙厓のZENGA(禅画)も絵画ではないとの結論になるからです。
回りくどくなりましたが、以下がヒント4.での結論です。
逆に考えて、白隠、仙厓のZENGA(禅画)が、わが国で評価されているように絵画であり芸術作品であるとすれば、アフ・クリントの作品は本人の意向とは関係がなく絵画であると見なすことができる。
従って、彼女の絵画の抽象表現はカンディンスキーよりも先んじており、私が冒頭に述べたように西欧抽象絵画のパイオニアの一人であると明確に断定してもよい。
一応ここでは上記結論にしましたが、講演会で専門家たちが発言しているように、ヒルマ・アフ・クリントの評価は始まったばかりで様々な観点から今後もなされると思います。
講演会では専門家たちは、アフ・クリントにのみに焦点を当てているので、これ以上の言及はなかったのですが、私個人は、上記論点は「絵画のインスピレーションは何から得られるのか?」、「人間はなぜ絵を描くのか」というより根源的な問いに直結していると思うのです。
その意味で、記事その2.の最後で私は、次のように指摘しました。
もし、人間の主体がなければ、極端に言えば象や猿が勝手に描いた線描も抽象絵画になるでしょうし、人間が描いた場合でも、理論(仮説、推論、実施)が無ければ、例えば古代絵画の抽象造形や幼児・子供、あるいは、ドラッグによる幻視やアール・ブリュット(図10)なども抽象絵画になるからです。
職業画家はたまた神秘思想家?、霊的導き手による描画は絵画なのか?
https://note.com/wataei172/n/nec58e9e11e46
私は、この文章の後に、アール・ブリュットの抽象絵画の例を示したのですが、例として挙げるには今思うと極端でした。
そこで、また余談をさしはさみます。
(余談)絵画のインスピレーションは何から得られるのか? アンリ・ルソーの場合
実は、今回記事その3.を書くにあたって、カンディンスキーの絵が抽象絵画に至る過程と世間からの評価を得る過程を確認したこと、さらにダニエル・バーンハイム氏が、講演の中で、ピカソやマティスを引き合いに出して、「美術史的に認められるには、画家自らのマニフェスト(表明)、コレクター、ギャラリスト、批評家から構成される美術市場制度、さらには支援者の存在、さらにフォロワーや弟子からなる流派が形成されることが必要」との発言を紹介しながら、一人の画家の名前を思い出していました。
それは:
「素朴派」の画家と云われるアンリ・ルソー(1844-1910)です。
ルソーは中学生の時以来印刷物だけでなく、美術館で実物も見て大好きになった画家の一人です。しかし「線スケッチ」の教室を始めて、さらに忘れられない画家になりました。
なぜなら、絵の初心者が一番苦手とするのは「遠近法」描写と「中景、遠景の樹木(葉)」の描写なのですが、遠近法は守らない(いや、守れない)、遠い樹木でも一枚一枚大量の葉を省略せずに克明に描くルソーは、まさに絵画のアカデミー教育を受けなかった初心者の絵そのものです(図14)。
にも拘わらず今日なぜ彼の絵は数十億円単位で取引される傑作とみなされているのか? 私はその理由を考えてもらうためにも生徒さんにルソーの絵を見ることを薦めています。

左:《風景の中の自画像》1890 右:《ジュニエ爺さんの馬車》1908
出典:全てwikimedia commons, public domain
さてここで、「素朴派」とは何でしょうか? それはアカデミー教育を受けなかった素人画家達の絵に共通の印象から美術専門家が名付けた分類上の名称であり、おそらく、本人たちの意思とは関係がないでしょう。
実際、アンリ・ルソーの場合、自分は古典主義の正統な写実画を描いていると主張しており、大真面目に自分の絵はリアリズムだと思っていたのですから。
しかし、今日から見れば、いや当時でもとても写実画だとは見えません。かといって誰か他の画家の派に属しているでもない、ルソーはルソーの絵だというしかないのです。すなわち、完全に孤立した存在です。
私は、ヒント2.で紹介したダニエル・バーンハイム氏の、画家が評価される条件をアンリ・ルソーに当てはめてみました。
すなわち、まずルソー自身は、マニフェストしていませんし、死ぬ間際を除いて、コレクター、ギャラリスト、批評家からなる美術市場からは無縁でした。もちろん彼の絵のフォロワーおよび弟子もいません。
私は、このようなアンリ・ルソーの絵がなぜ今日評価されるようになったのか、ヒルマ・アフ・クリントととの対比を念頭に、岡谷公二氏の著「アンリ・ルソー楽園の謎」平凡社ライブラリー(2006)を読んでみました。
その結果、「抽象造形描写」という点を除けば、驚くほどヒルマ・アフ・クリントと似ているのです。以下、相似点を挙げます。
1.ルソーは、生没年だけ見るとアフ・クリントより年上で重ならないが、40歳から描き始め、アフ・クリントが独自の抽象絵画の大作を描き始めた1900年初頭と同じ時期に、ルソーも熱帯密林を主題とする最大傑作群を描いて画業の時期が重なること。
2.出展できる展覧会は無審査のアンデパンダン展とサロン・ドートンヌの二つに限られていた。(ヒント6.にてアフ・クリントの出展状況について述べる)
3.現在残されている絵は200点程度で少ないが、実はアフ・クリント同様数多くの絵を描いていたらしい。(借金のかたに描いた絵を債権者に持ち込んだが、債権者はすぐに絵具を洗い流してカンヴァスに戻して換金したためにほとんど絵が残らなかったとのこと。すなわち当時彼の絵はカンヴァスよりも無価値だった! 何という悲しい事実。)
4.ルソーの生涯についての証言は多いものの真実なのか伝説なのか、その人生はアフ・クリント同様に謎が多い。
唯一アフ・クリントと違う点は、晩年ごくわずかですがルソーの理解者が居たことです。例を挙げれば詩人のアルフレッド・ジャリとギヨーム・アポリネール、若手画家のウィルヘルム・ウーデやロベール・ドローネ、そして終生ルソーの絵を所持していたピカソです。
もし、これらの理解者がおらず、またアンデパンダン展とサロン・ドートンヌがなければ、アンリ・ルソーの絵は骨董屋や廃品回収の中に埋もれ(事実、ピカソは骨董屋のガラクタの中でルソーの絵を発見する)、西洋絵画史に名を残すことは無かったでしょう。
さて、以上述べたことは大体知っていた知識でした。しかし、岡谷氏の著書をさらに読み進めていくうちに、私にとっては初めてでとんでもない内容の記述にぶち当たりました。それは
ルソーが秘密結社フリーメーソンのメンバーであり、しかも降霊術を信じていた神秘家だったというのです。
このような知られざるルソーの人生上の秘密は、密林の絵のインスピレーションをどのように得たのか、密林の絵を描いている時のルソーの様子で紹介されます。

左上:《夢》1910 右上:《蛇使い》1907
左下:《Three Apes in the Orange Groves》1907 右下:《The Waterfall》1910
岡谷氏は、これらの密林の絵を描いている時の様子を目撃したアポリネールの言葉、「(ルソーは)現実に対する非常に強度な感覚の持ち主で、(描いている時)こわくなって、震えながら窓をあけずにいられないことがあった」や、ウーデの言葉、「不安と胸苦しさに襲われて、(中略)窓をすっかりあけ放さなければならないほど、特殊な表象の力に捉えられた」を引用して、ルソーはアルタミラやラスコーの洞窟動物画を描いた人々のように「呪術的な絵画観」を持っていたとするのです。
すなわち、ここには引退した素人の日曜絵描きが楽しんで描いている姿とは程遠い様子が紹介されています。
岡谷氏はこのような「呪術的絵画観」がルソーの絵には数多く現れているとして《風景の中の自画像》(図14)、《過去と現在》(図15)を例に示します(詳細は省きます)。

出典:wikimedia commons, public domain.
そして、これらの絵から、ルソーが神秘家の一人であったことが推定され、「亡くなった妻がカンヴァスに描く手を導いた」とルソーが語ったというウーデの挿話や、「精霊たちがみちびいていると繰り返し(ルソーが)語った」という弁護士ギレルメの証言を引いて、ルソーが降霊術を信じており、心霊術の集まりに顔を出していたことも紹介しています。
さて、ルソーは絵を精霊の手に導かれて筆を動かした言っていますが、このセリフはどこかで聞いたことがありませんか? そうです。アフ・クリントです。そして、ルソーが密林の絵を描いたのは1904~1910に集中しているのですが、それはまさにアフ・クリントが抽象画の大作を描きだした時期と一致します。
これははたして偶然でしょうか? 私はそうは思えないのです。まさに、これはアフ・クリントも、アンリ・ルソーも、カンディンスキーも、マレーヴィッチも同時代にいたからこそ神秘思想が欧米知識人を覆った時代精神を反映したのだと考えます。
すると白隠や仙厓のZENGA(禅画)の場合と同じ理屈が成り立ちませんか?
神秘思想信奉者であり、降霊術を信じて精霊に導かれて描いたルソーの作品は、本人の無自覚にも関わらずピカソも認める前衛作品として、現在では西欧絵画史のメインストリームに位置付けられてす。
その事実を前提にすると、アフ・クリントの抽象画はアフクリント本人の主張とは関係なく西欧絵画史のメインストリームに同じく位置づけられると私は考えます。
ですから、ヒルマ・アフ・クリントは西欧抽象画の先駆者の一人であるとここでも結論することができるのです。
ヒント5:神智学とインド、瞑想、輪廻、アナンダ(霊的存在)そして禅画からZENへ
すでにヒント1.で見てきたように、神智学では東西の思想の融合を謳い、中でもインドの宗教が鍵となっています。
実際に、アフ・クリントと仲間が結成したグループ「5人(De Ferm)」が開いた交霊会のトランス状態では、「アマリエル」「アナンダ」「グレーテル」と呼ばれる霊的存在からメッセージを受け取り、自動書記や自動描画によって記録しています(ヒルマ・アフ・クリント展の作品リストの解説による)が、霊的存在のうちアナンダは、仏陀の十大弟子の一人、阿難(または阿難陀)のことを示します。
アフ・クリントは特にアナンダを重視しており、ヒント2で述べた様に、神智学の創始者、ヴラヴァツキー夫人の仏教重視の姿勢と対応しています。
私は、今回の記事を書くまで、神智学はもちろんシュタイナーの人智学についてもまったく知識はありませんでした。
しかし、今回グッゲンハイム美術館講演会を視聴することで、私が中高生時代から今日まで長い間個別に不思議だと気になっていた下記の謎が一気につながったのです。私は驚きました。
1.私よりも年上の年代の欧米の若者がヒッピー文化にはまり、インドになぜ向かったのか?
2.同じく年上の人気絶頂だったビートルズがなぜ突然インドの瞑想にはまったのか? 芸術家(クリエイター)は何故インドに向かうのか?
3.欧米の知識人は日本のZEN(禅)と座禅(瞑想)になぜ魅せられるのか? 鈴木大拙との関係は? 戦前ではユング、現代ではスティーブ・ジョブスなど。
4.なぜ欧米の日本絵画コレクターはZENGA(禅画)に魅せられるのか?
5.最近はやりの「マインドフルネス」とは何か、仏教と関係があるのか?
6.明治時代以降、日本の文化人とインドの文化人、政治家の関係が良く出るが何故だろうか(岡倉天心とインド、そしてインド女流詩人との恋、相馬黒光とインド独立闘士ボースなど)
すなわち、以上の謎の源流は、ヒント1.で述べた神秘主義、神智学、人智学、戦後のニューエイジ運動への歴史的流れをみれば、一つの時代精神に収斂し、一気に説明が付くのです。
特に、第1章で紹介した神智学協会第二代会長アニー・デサントは、今回初めて知ったのですが、現代のフェミニズム運動につながる人物だけでなく、インドの独立に多大な貢献している人物であることから、彼女の人間関係を調べてみると、何と
ガンジー、ネルーなど私の年代では小学校の教科書で必ず習うほどのインドの現代歴史上重要な人物が、大きく神智学に影響をうけている
ことをこの歳になって始めて知ったのです。まさかガンジー、ネルーに繋がるとは!
さらに、日本絵画史を習う中で、岡倉天心が、晩年インドを訪れ、インドの女流詩人と恋文を交換した事実や、私が仙台に単身赴任していた時に、仙台出身の新宿中村屋の女主人相馬黒光のことを知り、だいぶ以前にblogを書き、一昨年noteに再録した記事の中で亡命インド人ボースをかくまったことを書きました。
すなわち、神智学協会と密接な協力関係にあったたインド独立運動の政治情勢は間接的に明治時代の日本の文化人とつながっていたのです。
さらに、私が驚いたのは、英語の禅の本を書いた学者だと思っていた鈴木大拙が実は、
神智学徒であり、神智学協会日本支部の支部長だった!
ことです。
このような事実は、一般常識として誰もが知っていることなのでしょうか? 私はこの歳までそのような記述を眼にしたことはありませんでした。
シュタイナー教育の一般説明もそうですが、鈴木大拙についても神秘思想、オカルティズムの匂いを消すために、あえて神智学、人智学の情報を消しているのではないかと疑うのは私だけでしょうか?
ヒント6 実はヒルマ・アフ・クリントは絵を見せたかった
さて、ヒルマ・アフ・クリントはなぜ死後70年という長い年月を経て評価されたのでしょうか?
展覧会の解説を読むと、アフ・クリント自身が、1920年代半ば以降、ノートの編集、改定を始め、ノートに印(+×)を付けた部分は死後20年経ってから公開することと本人が遺言(?)したからと読み取れます。
実は、グッゲンハイム講演会のどの講演か忘れましたが、印をつけたのはノートだけであって、作品ではないとの指摘がありました。
けれど、作品を預かった遺産相続者が読み誤ったのか、意図的にやったのか分かりませんが、絵画作品も公開されなかったのです。
そして、もう一つの説があります。それは、アフ・クリントがシュタイナーに初めて会って作品を見せた時に、「50年経たないと人は理解できない」と言ったからなのか、「見せるな」といったからか忘れましたが、いずれにせよシュタイナーが発表を遅らせたのだという説です。
これに関しては、ユリア・ヴォス氏の講演「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」では、次のように紹介されています。
もともとアフ・クリントは作品を展示を希望していた。その証拠として、「移動可能な小さな博物館を創り出した。寺院シリーズの絵を糊付けした小さな本です(図16、17)。このようにして、その本を旅に出て持ち運び、どこでも他人に見せることができるようになった」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs

出典:ユリア・ヴォス「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs

出典:「ヒルマ・アフ・クリント展」筆者撮影
実はもともと死後20年どころか、生きているうちに展示したかったのです。そして、各地を旅行して展示を依頼します。その結果は以下でした。
1.1920年 スイスのドルナッハ(人智学協会本部所在地)でシュタイナーに会い、展示を依頼。展示されず。
2.1927年 アムステルダムで著名な雑誌「ヴェンディンゲン」の代表者に会い、展示会を依頼。実現せず。
(なお、1925年に「ヴェンディンゲン」は「フランク・ロイド作品集」を出版。ロイドは、奇しくもグッゲンハイム美術館を設計した建築家(後述))
3.1928年 ロンドンの「世界精神科学会議」で展示を申込み受理された。プログラムには「展覧会、ヒルマ・アフ・クリント女史による講演付き」とある(図18)。アフ・クリントは会議の担当者にレビューを依頼したが、返事なし。完全に無視された。
より抜粋

出典:ユリア・ヴォス「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
ユリア・ヴォス氏の講演によれば、この1928年のロンドンの展示の結末に失望と怒りを覚え、上記したノートの死後20年後の公開のための編集作業と作品の整理(廃棄、新制作)を続けるとともに、1930年以降作品を展示するための神殿の設計に没頭するのです(図19)。

出典:ユリア・ヴォス「ヒルマ・アフ・クリントの生涯について知っておくべき5つのこと」https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
ここで注目したいのは、神殿が螺旋形をしていることです。螺旋は永らくアフ・クリントの主要なモチーフであり、またすでに見てきたように、両性具有のカタツムリの構造でもあります。
カタツムリもまたアフ・クリントの作品にしばしば用いられました。
彼女は螺旋状の展示場に作品が展示されることを想定して設計したのですが、結局1944年、82歳で死ぬまでにその姿を目にすることはありませんでした。
最後に:マティスの芸術至上主義、もう一人の人智学徒リ・ベイの想い、グッゲンハイム美術館のカタツムリ・螺旋展示会場でのアフ・クリント作品展示
さて、「ヒルマ・アフ・クリント展」の感想もいよいよ最終段階です。
私は、ここで以下の二つの視点を紹介して終わりたいと思います。それぞれ章立てしてもよいくらいに長いのでもう少しご辛抱ください。
(1)宗教的情熱か、芸術至上主義か? 近代画家と宗教絵画、マティスとアフ・クリントにみる絵画人生比較
(2)もう一人のアフ・クリント、リ・ベイ:抽象画家にしてグッゲンハイム美術館長。二人の霊魂は螺旋展示会場で邂逅したか?
(1)宗教的情熱か、芸術至上主義か? 近代画家と宗教絵画、マティスとアフ・クリントにみる絵画人生比較
私は、この一連の感想文を書いているうちに、当初理解しにくかったヒルマ・アフ・クリントの絵が、彼女の人生経路をたどるうちにますます馴染んできて、いつのまにかファンになってしまったようです。
ですから、すでに、印象派、後期印象派は世間的に認知されはじめ、ナビ派、ドイツ表現主義、フォーヴィズム、キュビズム、素朴派、エコール・ド・パリ、未来派、形而上派、ダダ運動からシュルレアリスム、バウハウスそして抽象絵画へと西洋絵画史メインストリームの変革が着々と進むのをただ横目で見ながら、1930年以降、作品の公開展示を自ら停止し、いつの日になるか分からぬ作品展示のための神殿設計を死ぬまで続けた彼女の姿にいつしかイライラしている自分がいます。もし同時代に生きていたならば「貴女は何をしてるんだ! 貴女がしなければならないのは、もっと自己主張して作品を公開すること!」と彼女に対して叱咤激励しそうです。
私は、ヒント4.の余談で、すでにメインストリームの画家、アンリ・ルソーが神秘思想家で降霊術を信じており、アフ・クリントの絵画制作と共通点があることを紹介しました。
ここでは、同じくメインストリームの画家でありかつアフ・クリントと同世代のアンリ・マティスを取り上げ、その宗教画の制作姿勢と比較することにします。
2023年、私は東京都美術館で開催された「アンリ・マティス展」でまったく新しいマティス像を知ることになりました。
この記事の中で、私はマティス最晩年の作品で、彼自ら「最高傑作」と呼ぶヴァンスの礼拝堂を取り上げ、マティスの言葉から、彼の神への考え方を知ったのです。
「僕は神を信じるか? YES。制作中は、心から神を信じている。僕が素直で謙虚な時は、自分が何かに導かれているからこそ、自分自身を超えられるのだと感じる。それでも、神への感謝の気持ちは無い。手品を見てトリックが見破られなくても、当の手品師に感謝する気にならないのと同じだ。むしろ、その経験から得られるものが何もなく、努力しただけ損だと思ってしまう。そう、僕はまったくの恩知らず野郎なんだ」
私はこれを読んで、マティスに対して次のように思いました。
なんという傲岸不遜、「神への感謝の気持ちは無い」と言い切っています。そして自分を「まったく恩知らず野郎」だとも言っています。
すなわち「確信犯」なのです。強烈な自負心です。ここには西欧美術が行きついた個人主義、芸術主義と理想的な芸術家の姿があるように思います。
なぜデッサンは日本化するのか、一発描きと抽象化(その2)
https://note.com/wataei172/n/n8caca9fac993?magazine_key=m1d12ff3866d1
西洋の芸術観に浸かっていたかつての私ならば、あっぱれというべき理想的な芸術家がここにいます。
しかし、それはヒルマ・アフ・クリントとは、対極の姿です。
すなわち、あくまで自己の芸術的完成を目的に宗教画を描き、チャペルを自分の作品として設計、建設したマティスに対し、人智学の教義に則り、あまねく人類の精神の向上を願って絵を描き、その作品を展示するための神殿を設計したアフ・クリントとの大きな違いです。
私はヒント4.でも紹介した日本の白隠と仙厓の禅画を知って、西洋の芸術至上主義的見方が変わりました。マティスのチャペルの絵に対して当時次のように書いています。
さて、それでは宗教美術の観点からするとどうでしょうか。ある意味ではドラッカーが答えを出しています。
西欧の知識人であるドラッカーは、20世紀の西欧の哲学および絵画(表現主義)は行き詰まったとし、自身は室町水墨画、さらには禅画、文人画に精神的な支柱を求めました。
マティスの絵は純粋芸術作品として見るのならよいのですが、人々の精神を救う宗教画として見るのなら、白隠の禅画の方が勝ると私は思います。
なぜなら、マティスの作品はあまりにも芸術家の立場を主張しています。一方、白隠は自身は禅僧であること以外に画家、芸術家とはまったく考えてもいません。ドラッカーが言うように、禅僧により描かれた禅画は苦悩への戦いを示す絵画であり、その絵には精神の究極的な勝利が存在するからです。
なぜデッサンは日本化するのか、一発描きと抽象化(その2)
https://note.com/wataei172/n/n8caca9fac993?magazine_key=m1d12ff3866d1
ヒント4.でも述べた様に、アフ・クリントは白隠、仙厓の姿に重なります。上記白隠、仙厓の禅画の評価は、人間の精神のあり方について問い続けたアフ・クリントの絵画にそのまま当てはまるのではないかと思います。
アフ・クリントがカンディンスキーの抽象画作品を展覧会で見たのは1914年ないし1916年頃ではないかとトレイシーおよびヴォスは講演の中で推定しています(しかし、アフ・クリントが直接カンディンスキーと会った証拠はない)。
その絵を見た画家としてのアフ・クリントは内心穏やかではなかっただろうと思います。
しかし、その後の彼女の完全なる沈黙を見ると、私のような俗人には想像すらできない、白隠、仙厓ならぬ禅僧のような境地に到達していたのだとしか考えられません。
(2)もう一人のアフ・クリント、ヒラ・リベイ:抽象画家にしてグッゲンハイム美術館長。二人の霊魂は螺旋展示会場で邂逅したか?
今回の「ヒルマ・アフ・クリント」展の開催趣旨では、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で2018年に開催された「ヒルマ・アフ・クリント」展に東京国立近代美術館の三輪健仁氏が偶然訪問したことが契機になったことが書かれています。
私は、グッゲンハイム美術館と聞いて、建築家は思い出せないけれど、すぐに、その特異な建築構造を思い出しました。

出展:Jean-Christophe BENOIST - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19322217による
その時私は、グッゲンハイム美術館のキュレーター、トレーシー・バシュコフ氏の講演、「並行するビジョナリーたち: ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」を視聴するまでは、この特異な螺旋構造を持つ建物がアフ・クリントと運命的な意味を持つとはついぞ知らなかったのです。
さてここで、トレーシー・バシュコフ氏の講演から、マティスに引き続いて、アフ・クリントと同じ画家のグッゲンハイム美術館に関係が深いもう一人の女性を紹介したいと思います。その人の名は:
ヒラ・フォン・リベイ(リバイ)男爵夫人、またはヒラ・リベイ(リバイ)
です。ドイツ出身、神秘思想に心酔、神智学に親しみ、抽象絵画を描く画家、米国に渡り、富豪S.R.グッゲンハイムのコレクション・アドバイザー、グッゲンハイム美術館建設推進、グッゲンハイム美術館長、抽象絵画コレクターなど。
私は、この人の名前は今回初めて知りました。この人の日本版wikipediaがないところを見ると、おそらく日本ではほとんど知られていない人物なのでしょう。
しかし、講演では彼女について、実に興味深い事実が紹介されました。まず彼女の生い立ちを見てみましょう。
1890年 アルザスのストラスブールで男爵夫人(貴族)として生まれる。
1904年頃 両親に内緒で、シュタイナーのレッスンを受け、彼の教えに傾倒する。
1909-1910 パリのアカデミー・ジュリアンの絵画教室に画学生として通う。さらにアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールにてドローイングを学んだ。そこで多くの芸術家たち、神智学徒と出会い、神智学との関係を深め、 彼女の芸術に大きく影響を与える。
1911年 フェルデイナント・ホドラーの大規模な展覧会を見た後、薔薇十字団と神智学のメッセージに心を動かされた。彼女にとって霊的インスピレーションが大事な意味を持つことになる。
1916年 仲間の芸術家、ジャン・アルプを通じてカンディンスキーの著書「芸術における精神的なるもの」を知りインスピレーションを受けた。その著書は、デサント、ヴラヴァツキー、シュタイナーに影響を受けており、彼女の芸術観を作り、カンディンスキーの作品と著作を称賛した。彼と出会った後は「非具象芸術」に向かい、抽象画を描いた。
「並行するビジョナリーたち: ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」より抜粋。
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
思春期における神智学との出会い、絵画教育の履修、抽象絵画への目覚めと、20歳ほどの年の差はあるものの、神智学への傾倒、画家になり抽象画を描くところまでそっくりです(図21)。

出典:トレーシー・バシュコフ氏の講演「並行するビジョナリーたち:
ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
さて、バシュコフ氏によれば、
ヒラ・リベイはその後画家としても神智学と密接に関係し、カンディンスキーの考えに従って抽象絵画形式を最も純粋な表現形式とみなすだけでなく、シュタイナーの考えに従って「非具象絵画」は人類のためだと考えた。すなわち、リベイは「非具象絵画」は精神性と密接に関係しており、これをグッゲンハイム・コレクションのデザインの指針にした。
ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
というのです。
唐突に「グッゲンハイム・コレクション」という名称が出てきました。おそらく米国では、ヒラ・リベイがグッゲンハイム・コレクションとどのような経緯で関わったかは皆が知っていることなのでしょう。
とにかく私にとっては、唐突でしたが、この後の彼女の人生も大変興味深いものです。 おそらくどこかの時点で米国の富豪一族の一人、ソロモン・R・グッゲンハイムと出会って彼の絵画蒐集の手助けをすることになるのです。
そして、1929年にグッゲンハイムの顧問に就任し、カンディンスキーの作品や、モホリ=ナジ・ラースロー、ドローネー、シャガール、レジェなど、当時の前衛絵画の購入を推し進めることになりました。

出典:トレーシー・バシュコフ氏の講演「並行するビジョナリーたち:
ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
私にとって心惹かれたのは、彼女は作品購入の指針だけでなく、集めた作品をどのように展示すればよいのか、展示会場の設計まで考えて、数十年間にわたって理想的な展示会場の建設を追い続けたその後の人生です(図23)。

左上:リベイの最初のスケッチ(1937) 右上:フランク・ロイド・ライトの提案図(1943)
左下:完成当時のグッゲンハイム美術館の外観 右下:グッゲンハイム美術館の内部らせん構造
出典:トレーシー・バシュコフ氏の講演「並行するビジョナリーたち:
ヒラ・リベイとヒルマ・アフ・クリント」
https://www.youtube.com/watch?v=IJEC19-cwgs
のプレゼンテーション画像4枚を一枚に筆者が編集した。
リベイは1937年当時は円形の展示場をイメージしてスケッチを描いていたが、1943年に著名な建築設計家フランク・ロイド・ライトに手紙を書き、「非具象絵画」を収める「記念碑の霊廟(a temple of spirit of a monument)」の設計を要請します。そして、16年間に6度のデザイン変更を経て、従来のボックスタイプとは全く異なる6階建ての建物を設計しました。それは、偶然にもアフ・クリントが設計した神殿と一致していたのです。すなわち、螺旋構造です。
さて、さらなる物語がグッゲンハイム美術館のオープンに際して伴います。
1959年にグッゲンハイム美術館は開館しましたが、開会式には、これほどまでに情熱を傾けたヒラ・リベイもフランク・ロイド・ライトも姿はありませんでした。
なぜならライトは開会式の一月前に亡くなったからです。一方、ヒラ・リベイについてはトレーシー・バシュコフ氏は講演で何も語っていませんが、英語版wikipediaには次のような悲しい物語が載っています。
ソロモン・グッゲンハイムが1949年に亡くなった後、家族は彼女を取締役会から追放しました。美術館が完成したとき、リベイはオープニングに招待されなかった。彼女は自分が創設に携わった美術館に足を踏み入れることはなかった。憤慨したリベイは公的生活から身を引いて、コネチカット州ウェストポートの邸宅で晩年を過ごした。
google chrome による翻訳。一部修正。
リベイは、グッゲンハイム美術館開館から8年後、1967年に亡くなりますが、グッゲンハイム家から、あのような仕打ちを受けても、彼女の膨大な絵画コレクションはグッゲンハイム美術館に寄贈されたとのことです。
それが遺言にもとづいていたかどうかは分かりませんが、もしそうだとすると、この女性の想いの強さはアフ・クリントに匹敵するものがあるのではないでしょうか。
さて、あらためて、2018年、グッゲンハイム美術館で開催されたヒルマ・アフ・クリント展に話を戻します。
私は当初、米国ニューヨークの一美術館で死後74年に開催されて盛況を博したらしいという程度の受け止め方でした。
しかし、ヒルマ・アフ・クリントの螺旋構造の神殿設計と、ヒラ・リベイとフランク・ロイド・ライトの螺旋構造(カタツムリ構造)の設計と完成、そしてヒラ・リベイの悲劇を知った今、私はヒルマ・アフ。クリントの展覧会がグッゲンハイム美術館で行われたことは単なる偶然ではないと思えてきたのです。
ヒルマ・アフ・クリントもヒラ・リベイも共に神智学に深く傾倒していたということは、二人とも死後の霊魂の存在を信じていたと思うのです。すなわち、私は、あの落着きはらったアフ・クリントは、生前に自分の作品は展示されなくても、死後霊魂として見届ければよいと思っていたのではと思い始めました。もっといえば、ある程度予見すらしていたのではないでしょうか。
一方、ヒラ・リベイは、志半ばで追放の憂き目にあい、亡くなった後も日本的にいえば無念の恨みを抱えたさまよえる魂になったと思われます。
さて、2018年、まさにアフ・クリントが夢にまでみた、らせん状の展示会場で作品が展示されることになったのです。しかもそのらせん構造はリベイとライトが設計し実現したものです。
そこで、私は次のように夢想したいのです。2018年永らくさまよっていたリベイの霊魂とヒルマ・アフ・クリントの霊魂は初めて出会って、長年にわたるお互いの想いをたたえ合い、祝杯をあげたのではなかろうかと。
すなわち、孤高の画家だったアフ・クリントとカンディンスキーの仲間であるリベイの並行していた流れがアフ・クリント死後75年にして収斂したといえないでしょうか。
霊魂を信じるか否かは別にして、芸術至上主義的な芸術観ではなく、長年にわたる彼女たちの神智学的想いを汲んで、あらためて鑑賞し直すべきではないでしょうか。
(おしまい)
ヒルマ・アフ・クリント展の記事、その1.およびその2.を参考のため以下に示します。
前回の美術展の記事は、下記をご覧ください
