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広大な公園を黒いパビリオンから白いパビリオンへ、歩いているうちに靴が消え、いつの間にか履いている夢【マンダラ夢分析】 ―激しい分離と結合の伸縮のあとに、小さなマンダラが浮かび上がる

はじめに 心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。

神話も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方

この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない

あるいは

結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない

実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

夢は、いや、夢として記憶の残像を表層に残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。

マンダラと『神話論理』と夢分析

ここで「マンダラ」について説明してこう。

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。


分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする

そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである

ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。

しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起 

「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる

この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。

特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

夢の登場人物たちは主語の位置に据えられて報告される。

つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである

『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8




以上を踏まえ、筆者自身の夢を分析してみよう。


黒いパビリオンと白いパビリオンの間を歩き、靴が消えて現れる夢

2026年1月の夢である。

夢見者「私」は同僚の女性とふたりで、どこかの大規模公園に来ている。
仕事上の同僚といっても、よそよそしい感じはなく姉と弟、あるいは兄と妹のような感じもする。家族で仕事をしているような感じである。



この公園はよく整備されており、広大な敷地にいくつかの美術館というか、万博のパビリオンのような建物が、点々と配置されているようだ。

私たちはこの公園に何かの仕事の出張で来ているらしい。

どうやら公園内で開催されているアートのワークショップを取材している。



われわれは二人は、公園の入り口から歩き始めて、公園の一番森が深くなり、池が静かに黒々とした水を湛えているエリアにまで辿り着く。

そこには、不思議な彫刻など美術品が置かれている美術館?パビリオンが建てられている。
黒っぽい光沢のある正方形の箱を組み合わせたような建築で、ふと立派に磨き上げられた「墓石」のようだなという印象をうける。
この巨大な黒い建物に、背の高い木々の濃い緑が覆い被さっている

**

この建物の中へ入ると、真っ黒な壁に囲まれた空間で、入り口からは見えなかった一面が全面ガラス張りになっており、外の光が明るく差し込んでいる。
全面ガラス張りの壁のすぐ外は、静かで深い、黒々とした水を湛えた池であった。
なるほど、池の部分だけ、背の高い木々に覆われていないので、真上から火の光が差し込んでくるのである。
ガラスの壁面ごしに、池の向こう側にも緑の木々がよく見える。






夢見者と同僚は、薄暗い空間の中にて、外の、爽やかな光と森を眺める。

このエリアにひとはほとんどいない。
我々の近くには誰もいない。

ガラスの壁の手前に広がる床を見ると、床一面に水が張られている
硯に薄く水をはったような様相である。
「これもアートなのだろう」とおもう。
水を張った床からまるで生えてきたように、いくつかの彫刻作品が置かれている。ぐにゃぐにゃとした、一見して何であるかはわからない造形であるが、それがかっちりと重く硬い金属か石かで表現されているのが面白い。柔らかい動きを、硬く止まったもので表現する。さすがアートである。

建物の中も、その周囲も、静謐で清浄な雰囲気である。

さて、ここでは水が張られた床へと進むため、私たちは靴を脱いでいく。





さて、このパビリオンでの見学を一通り終えて、我々はまたもと来た道を、公園の入り口の方へ向けて帰っていく。

そして先ほどとは別の建物に辿り着く。
今度は黒ではなく、白っぽい建築物である。

建物の周囲はひらけており、芝生が敷かれた広場のようになっているところもあり、家族連れがくつろいでいたり、子どもたちが走り回ったりしている。

先ほどの黒々とした雰囲気とは、真逆、対照的である。

++

この白っぽい建物は、室内に入ると、壁も天井も真っ白だ。

中の様子についても、先ほどの建物との白黒の対比が印象的である。

われわれはそこで参加型のアート作品らしきものをみる。
子どもたちが自由にペンを走らせてひいた線が無数に描かれた様々なサイズの白い紙が、白い壁、白い天井の空間に、上から吊るされている。
ひとつひとつよく見ると白紙のままのものが混じっていたり、殴り書きだったりする。
ひとつひとつの描かれたもののクオリティよりも、上からたくさん吊るしていくことに意味があるのだろう、と思う。
この全体、この空間自体が作品ということなのだろう。



よく見ると、スタッフの人が子どもたちが書き散らして床に置きっぱなしにしている紙を、少々面倒くさそうにガサガサと集めて回っている

なるほど、ああして集めて、吊るしていくのだな、と思う。

それにしても、紙を集めている人は、アーティストではないらしい。
この空間作品自体に何の興味もなく愛着もなく、ただ面倒くさそうに、命じられたからやっている作業として集めている。

その雑な、面倒くさそうな様子が子どもたちがはしゃいでいるのと対照的で、もうすこし何とか、楽しげな態度にできないものか、と私は思う。

**

一緒にいる同僚の女性が、周囲の子どもたちの様子を真似て、床に這いつくばって、子どものような姿勢で、子どものような字を白い紙に書いて見せてくれる。これも他の紙と同じように飾ることができる、と思う。





見学を終えて真っ白な建物を出ようとする。
ふと、われわれは自分たちが裸足だと気づく。

靴をいつ脱いだのか、見当がつかず、あせる。

そして、先ほどの黒っぽい建物で、水面のアートを見学した時に、靴を脱いだことを思い出す。

ということは、先ほどの黒い建物から、今いる白い建物まで、外の道路を歩いてきたのに、靴を履いていなかったことにふたりそろって気づかないとは!本当に、黒い建物から裸足のまま出てきたのだろうか?

いや、どうも黒い建物からこちら白い建物に歩いてくる時は、確かに靴を履いていたような気がする
靴は黒い建物に置きっぱなしではなく、白い建物についたあとに、どこかで脱いでおいたのかも。子供たちが床に這いつくばって絵を描いているスペースでは、みんな靴下姿で、靴は履いていなかった。

ということは、我々も、そこに入る時に靴を脱いだのかもしれない。

・・そう思って探しに行くが、靴は見つからない。

われわれが困っているのを見て、美術館のスタッフが何か手伝おうと申し出てくれるが、「代わりの靴を用意してくれ」とはさすがに言いにくい。

われわれは、靴を探すことにして、とりあえす、黒い建物へ戻ってみることにする。





急いで最初の黒い建物に戻ろうと、公園内の道路を歩き始める。
乾いた土の道であるが、裸足で外の道を歩くのはやはり違和感がある

先ほど黒い建物からこちらに戻ってくるときに、足元に違和感がなかったのも気になる。あの時はやはり靴を履いていたのだ。
そうすると、靴は、黒い建物の方にはないはずだ・・。



その移動の途中で、私たちはレストランをみつける。
森の木々に囲まれたテラス席がいい雰囲気である。
近づくと、テラスの上のテントはなかなか年季が入っている。

ウェイターの人がこちらを呼び止めて、「どうぞ、お席をご用意します」という。我々は裸足であることを一瞬わすれて、食事をすることにする。

小さな四角形のテーブルに案内される。

ウェーターとシェフが二人でやって来て、メニューの説明をしてくれる。
わざわざシェフが出てきてくれるとは恐縮である。
あるいは他にお客がいないのかもしれない。

われわれは料理をえらぼうとする。

メニュー表をみながら、同僚の女性がサフランを使った何かの料理に興味を示す。しかしシェフが、「これは女性の方が召し上がると、発熱されることがあります」などという。果たして本当だろうか?と思うが、根拠を問い詰めるのも場違いかと思い、「そうですか」と聞き流す。
私は男性なので「だいじょうぶでしょう」と、皆から(シェフからもウエイターからも、同僚の女性からも)私がそのサフランの何かを食べるように勧められるが、私は食べるとも食べないとも返事しない

私は明示的にどのメニューとは選ばなかったが、同僚の女性が何か適当に選んでくれたようで、注文が完了し、ウェーターとシェフは裏方へ戻って行った。

ふと、同僚の女性が、私に向かって「椅子を移動して、詰めて座るように」という。
そして同僚が私の真横、すぐ隣に座る形になる。

どうして急に座り直したのだろう?
それに四角形のテーブル席で、対面ではなく、二人横並びに座るのは何か奇妙な気がする。

そう思ってふとみると、私たちの小さなテーブルの反対側に、知らないスーツ姿の男性二人が座っている

いつの間にか、知らない人たちと相席になっているのである。
あまりにも目の前にいるので、これでは会話が筒抜けになるな、と思う。
気まずいが仕方ない。

・・・

その時、ふと、私は、自分が靴を履いていることに気づく。
スーツに似合う黒っぽい革靴である。
みると、同僚の女性も白い靴を履いている
裸足で歩いて、靴を探しにいく途中のはずが?!
いつの間に、足に靴が履かれているのだろうか?!

先ほどの白い建物のスタッフが探し出して追いかけて持って来てくれたのかも?
いや、最初から靴は脱いでいなくて、履いていたのかも?
いやいや、もしかすると新しい靴?!
などとあれこれ合理的に考えようとするが、まったくわからない

知らぬ間に靴が消えたり現れたり、じつに不思議だなと思う。

夢は以上である。

この夢の全体的な構造

この夢は、一つの広大な公園という空間を、夢見者と同僚が二人一組で動き回ることによって、分離と結合を多重に伸縮させていき、最後にマンダラ状の付かず離れずの調和を実現している

全体を大きく三つの動きで整理できる。

第一の動き:公園の入口から最奥部へ。明るく賑やかな入口エリアから、森と池に飲み込まれた黒いパビリオンへ表層から深層への移動。そこで靴を脱ぐ=身体の一番端を分離する(靴を脱いだ夢見者β←Δ→β靴)。

第二の動き:最奥部から入口方向へ。黒いパビリオンから白いパビリオンへ。深層から表層への移動。靴を履こうとするが見つからない。靴と結合しようとするが分離したままになり困る((β→Δ←??β??)

第三の動き:靴を探しながらレストランへ。四人が四角いテーブルを囲む。男/女、白/黒をはっきりと分けつつも、選んでこだわるということをせず、他に委ねる境地にはいる。気がつくと靴が足元に戻ってくる。Δ四項の均衡が成立する。

二人一組に結合しながら靴を分離する
両義的媒介項を生成する心の論理

この夢でまず注目すべきは、夢見者「私」と同僚の女性が、最初から最後まで二人一組で行動していることである。

二人一組。

これは経験的感覚的に確かに存在する二つの項が、通常の距離感以上に結合することで両義的媒介項を作り出す、心の深層、野生の思考の典型的な動き方である。

Δ→←Δ

β

「私」と「同僚の女性」はそれぞれ独立したΔ項として存在するが、この夢においてはそれが過度に接近して結合し、ひとつのβ項として動いている。二人一組で仕事の出張に来ている、という設定がすでにこの結合の状態を定式化している。

しかも二人は男性と女性である。男女という経験的に真逆に対立するΔ二項が、二人一組で行動しているという状態は、典型的な両義的媒介項のあり方である。対立しながら一緒にいる。分離しながら結合している。

* *

明るい表層から暗い深層へ

この二人一組のβ項が公園の入り口から最奥部へ明るく賑やかな公園の入り口のエリアから、昼間でも薄暗い黒々とした池と森の中へと、入り込んでいく。これはまるで、表層意識の明るさから、深層意識の深みへと、入り込んでいるという感じである。

そして公園の最奥部で、夢見者たちβは、森と池に飲み込まれそうな、黒い四角形の建築物の中へと入る

ますます深層、暗闇、という感じが際立つ。

明 → 暗
光 → 闇
表層 → 深層

ちなみに、この暗闇というのは恐怖感を覚えるような、そこから逃げ出したくなるような、分離したいという感情が動き出す類の闇ではない。どちらかと言えば、すべてを包み込む目には見えない光、可視光帯域を超えた振動の中に入り込んでいくという感じで、厳粛な感じがする。

公園の最奥部、森と池の際に建てられた黒いパビリオン

黒っぽい光沢のある正方形の箱を組み合わせたような建築
立派に磨き上げられた墓石のよう

黒、正方形、墓石。

これらはいずれも、意識の深層、無意識の深みを象徴する様相として読める。

黒は色の不在であり、あるいはすべての色が飲み込まれた状態である。

そして正方形はマンダラの基本形であり、四項関係そのものの象徴でもある。

そして墓石も、生と死の境界に立つもの、こちら側とあちら側の両義的な境界の象徴である。

上空から光が差し込む

この建物の周囲には、背の高い木々の濃い緑が覆い被さっている
光が届きにくく、薄暗い。
しかし完全な暗闇ではない。

池に面した一面だけが全面ガラス張りになっており、空から池の水面へ光が差し込む様子が見える。ここは深層でありながら表層へと開けている。表層とつながった深層である。

そしてその室内の床には、「硯に薄く水をはったような」水が張られており、そこから「ぐにゃぐにゃとした、一見して何であるかはわからない造形」の彫刻が生えてきている。

この彫刻の描写がおもしろい。

柔らかい動きを、硬く止まったもので表現する。ぐにゃぐにゃとした不定形の動きが、重い金属や石という固さでもって表現されている。

軟/硬

という、感覚的にはっきりと対立しているはずの二極が、ひとつに結合しているのである。

軟→β←硬

動いているが止まっている、止まっているが動いている。
動いているでもなく止まっているでもない。

これは述語が主語の姿をとる瞬間、動きが止まった実体として結晶化する様相を表現したものであるとも言えそうである。ここはまさに、心の深層と表層の境目、表層の一番深い底、深層の一番の上澄、といった感じがする。

靴を脱ぐという述語的様相

そしてこの造形を近くで見学するために、夢見者たちは「靴を脱ぐ」ことになる。というのは、人間の身体の上/下の両極の、一番下側の端である神話の語りでよくあるように、両義的媒介項の頭頂部位と足の先の部位は、βを引き伸ばして析出されるΔである。

Δ ← β → Δ

靴とは何か。

人間の身体において、はその一番下端である。

靴は、人間の身体と一体になって、過度に結合しているが、しかし靴は体の一部ではない。靴は分離しようと思えば分離できる。靴は人間の身体にとって、もともと分離していた様相を過度な結合の様相に転じたものである。神話の語りにおいても、しばしば人間のΔ的身体、経験的感覚的な人間の身体の両端——頭頂部と足先——を引き離す=分離することで、両義的媒介項βを作り出すことがある。

β(靴を履かない人) ← Δ(身体) → β(靴)

すなわち、私たち人間の身体というものは、通常、経験的感覚的には、他者とはっきり分離されており、それが誰であって誰ではないのかをはっきりということができる、という、要するに分別されたもの(Δ)なのである。分別されたものである限りの私たちの存在は両義的にはみえない。

ところが、このΔ的身体をながーく引き伸ばし、そのどちらかの一端(被り物でも、髪の毛でも、頭皮でも、靴でも足でも…)を分離することで、「端を分離されたあとの残りのもの」として「靴を履かない人」や「頭皮を剥がされた人」の存在が出現する。神話は、しばしば主人公が頭皮を剥がされたり、靴を無くしたり奪われたり失ったりすると語ることで、主人公を両義的媒介項βに転換し、通常の分別を超えて、生/死の境界を超えてあちらに行ってこちらにまた帰ってきたり、人間/動物の境界を超えてあちらに行ってこちらにまた帰ってきたりできる者にする。

* *

さて、人間の身体というものに注目して見ると、靴は、そこから分離したり結合したりする「下端」ということになるが、分離と結合を自在に動かせるという点で言えば、靴はまた、大地の「上」を二足歩行する人間の身体を、大地から分離しつつも、大地と結合する述語的様相も担っている。

この夢では、この靴が、その後「履いているのか、履いていないのか」「分離しているのか結合しているのか」どちらか不可得な状態のままになる。

この分離と結合が伸縮、振動するモードこそ、そこからマンダラ状の調和が浮かび上がってくる心のあり方である。そしてこの夢は一貫して、白から黒へ黒から白へ、表層から深層へ深層から表層へ、結合から分離へ分離から結合へ、分離から結合へ結合から分離へと、経験的に対立する二つの相の間を行ったり来たりする動きを異なる主語的様相のもとくりかえしていく。

この夢では、両義的媒介項に変容している夢見者「私」たちが、光の方へと向かって固定的な形がいままさに生え始めようとしているポイントに入り込むために「靴を脱ぐ」ことをする。つまり心の深みが、表層の安定的な分別が定まった世界へとモードチェンジする、その深層と表層の転換が生じている領域に入り込むとき、あらゆる存在者は両義的媒介項βに変容し、あらゆる二項対立の分離と結合を分離しつつ結合する述語的様相を引き受けられるようになる

白いパビリオン:表層への帰還

黒いパビリオンでの見学を終えて、夢見者と同僚は来た道を戻り始める。その途中で出会うのが白いパビリオンである。

この白いパビリオンは、あらゆる点で黒いパビリオンと対照をなしている。

黒いパビリオン / 白いパビリオン
公園の最奥・森と池の際 / 公園の入口に近い側
人気がない / 家族連れ・子どもたちが賑わう
静謐・清浄 / にぎやか
重い金属・石の彫刻 / 軽い紙
下から上へ生える / 上から下へ吊るされる
床が水 / 床が乾いた紙(反-水)
完成した造形 / 未完成・描きかけの線

建物の色が黒白逆転しているだけでなく、そこに展示されているアート作品も真逆である。いかにもプロの彫刻家が制作したものだと思われる重たい素材でできた彫刻のようなものと子どもたちが適当に描きアーティストではないスタッフが面倒くさそうにぶら下げていく紙がゆらゆらと揺れているもの、という対立がある。

白いパビリオンの中では、子どもたちが自由に描いた線が天井からひらひらと吊るされている。「殴り書きだったり」「白紙のままのものが混じっていたり」する。完成形に向かって動き続けているが、完成形には到達しない。これは牛車の夢で分析した「エスキースの線」と同型の様相である。

また、このアートが、一方が下から上に向かって硬く生えているような具合で、他方が上から下へ向けてひらひらと吊り下げられて揺れている、というこの様相の対立も見事である。

黒と白。
深層と表層。
完成と未完成。
重と軽。
下から上と上から下。
この対立の一覧は、そのままマンダラの対角に配置される二項の対立の様相である。

そして、仕事でここに来ている同僚の女性が「子どものような姿勢で」「床に這いつくばって」「子どものような字を白い紙に書いて」というのも興味深い。

大人 / 子供

この対立も、経験的感覚的な日常性においてははっきりと分別されるものであるが、この分別もまた無分別に、分離が結合に転じているのである。


+ + +

靴があるでもなくないでもない

さて、この白い建物で見学を終えて、外に出ようとすると、二人とも「靴がない」ことに気づく。

といえば、前に黒い建物で、水が張られた床を歩く時に脱いでいる。

その時に脱いで以来、靴を履き忘れていたのだろうか?

しかし、我々は黒い建物から、今居る白い建物まで、公園の道路を、屋外を、結構な距離歩いてきたのである。

もし黒い建物を出る時に、靴を履き忘れていたとしても、流石に外を歩き始めた時に「裸足だ」と気づくだろう、と思う。

しかも、こちらは二人いるのである。
仮にどちらかがぼーっとしていて靴を忘れても、もう一人の方が気付きそうなものである。

そうなると、黒い建物から出るときには靴を履いていたと考えるのが妥当である。そして白い建物についてから、また脱いだ可能性がある。

実際、子どもが床に這いつくばって絵を描くような施設なら、靴は脱いでください、というところが多いように思う。

とはいえ、この白い建物の周りにも、私たちの靴はない。

靴は完全に行方不明である。どこかにあるはずだが、どこにも見当たらない。

ここでは

ある(有) / ない(無)

この対立が、どちらか不可得になっている。
あるということはないが、まったくないかと言えばそうでもない。

靴が不明になることは、夢の論理、心の深層のβ脈動のアルゴリズムからすれば至極真っ当な話である

靴から分離されたβ夢見者とβ同行者が、二人一組に結合して動き回る。ある軸では分離し、別の軸では結合し。あちらで分離しこちらで結合し、という様相で分離と結合の対立を分離したり結合したりする。このように、分離と結合が伸縮する述語的様相を担う主語の位置に立つものとしての両義的媒介項βなのである。

     靴β'←Δ 夢見者 →β'裸足の夢見者

β

       靴β'←Δ同僚の女性→β'裸足の同僚の女性

これは下図の5)モードの部分であるとみることもできる。

分離と結合が自在に伸縮しているところでは、靴と夢見者たちの間の距離も伸び縮みし続ける。このモードでは、探している靴は見つかるかもしれないが、仮に見つかっても、またすぐにどこかへ飛んでいってしまうだろう。

とはいえ、夢の中の夢見者の自我意識は、頑張って「思考」して、とりあえず、あるいかないかわからないが(たぶんないが)、最後に靴が確実にあった場所、元いた黒い建物の水を張った床の手前までは戻ってみることにする。

実は、深層意識的には、このもときた道を戻る探し方は無駄であると直観しているのであるが、さりとて何もしないわけもにいかず、なんとなく思考して、仮に探すとすればそこしかないだろう、という具合に消去法的に分別をして動いていく。

四人で食卓につく

ところが、なぜか靴を探しに黒い建物に戻るはずが、夢見者と同僚は、途中でみつけたレストランに入り、食事をすることになる。

そして四人で四角形のテーブルを囲む、というフォーメーションになる。

このレストランはなかなか本格的な雰囲気である。
昼間の覚醒した感覚からすると、靴がないのに、裸足で高級レストランに入るなんてありえない、と思うところであるが、ここは夢、この公園が「マンダラ」であることを、無意識はすでに気づいているのである。そうであるからして、夢見者と同僚は、抵抗なく裸足でレストランに入っていく。

レストランのウェイターも、おそらく実際の現世であれば、裸足の二人組が入店しようとしたら、「ご予約で満席です」とかなんとか言って、やんわりと断るところだと思う。

しかし、ここは夢の中。裸足の二人組も歓迎され、席に通される。

ここでウェイターとシェフも二人一組になっていることに注目しよう。通常ほとんどのレストランでは、シェフは厨房にかかり切りになっていて、ホールの方はウェイターに任されているものである。レストランにおいて、シェフとウェイターは、一緒に働いているが、別々に分離して、距離をとってそれぞれの役割を果たしている。

ところがこの夢の公園のレストランでは、シェフが厨房にお構いなしで、ウエイターと一緒になってメニューの案内をしてくれる。

夢見者=/=同僚

というβペアと、四角形のテーブルの周りで対峙するためには、相手方も、

ウエイター=/=シェフ

というβペア、通常付かず離れずの関係である二者を、過度に結合させたようなペアの姿で現れる必要がある。

ここで

β裸足の夢見者=/=裸足の同僚β    
|| 

||
βウェイター=/= シェフβ  

という具合に、四項が付かず離れずに集合したのである。
上の図でいうと4)のような様相である。

β=/=β
||    ||
/  /
||    ||
β=/=β

さて、ここから夢は、経験的感覚的なΔ対立関係を一挙に切り出して、現世の安定的な分別を確立しようとする。

分別を切り開く

まず、

男 / 女

という感覚的な区別が強調される。
ここまでのところ、黒い建物でも、白い建物でも、夢見者と同僚は、お互い性別が異なることを特に気にする様子もなく、一緒になって同じように行動している。

しかしここへきて、「サフランを使った何かの料理」というものが出てきて、これを女性が食べると熱が出るから食べない方がいいと脅かされる。一方、男性が食べる分には発熱はしないらしい。

  男  / 女
  ||    ||
サフラン料理を食べて良い / 食べないほうが良い

ここで、男/女 という区別が、謎のサフランの料理を食べられるか/食べられないか、という対立に重ね合わされて分別される。おもしろいのは経験的感覚的に極めて自明であるように思われる男/女の区別のようなことも、ここでは自明な所与ではなく、謎の料理を食べる=結合する、食べない=分離する、という、分離する述語と結合する述語の対立関係がまず動いているところから、その動きの陰のようなものとしてあとから浮かび上がってきているということである。

しかも、この「サフランを使った何かの料理」をもともと食べようとしていた=結合しようとしていたのは、同僚の女性の方なのである。もともと結合しようとしていたところを、あえて分離に転じる。そして逆に、夢見者である私(男性)は、この「サフランを使った何かの料理」を特に食べたいとは思っていない=結合しようとはしていない=つまり分離しているのである。しかしそれに対して、同僚の女性も、シェフも、ウェイターも、夢見者私にこのサフランの料理を食べるよう=結合するように強く勧める。分離を結合に転じようとするのである。

しかし、夢見者私(男性)は、サフランの料理を食べますとは言わず=結合することは選ばず、さりとて絶対に食べないと拒絶するわけでもない=分離するわけでもない。

分離と結合が伸縮し、区別、分別、分節が開かれていくが、そこで分けられたものたちの「どちらを選ぶのか」ということには、夢見者も、同僚の女性も、無頓着である。

そして結局、何を注文したのか不明なまま=なにとなにが結合し、どことどこが分離するのかはっきりと分別できないまま、ウェイターとシェフは四角形のテーブルから去っていく。とはいえこれは注文が決まらないことに痺れを切らして去っていったのではなく、確実に何かを選んで注文したらしいのである。しかし、夢見者私は、結局なにを注文したのか不明のままである。同僚の方がうまく選んでくれたのだろうと、呑気なモノである。

四者揃って着席し、動かないようになる

するとその時、また別の対立が際立つ事態に陥る。

なんと、スーツ姿の見知らぬ男性二人組が、夢見者と同僚の女性が座っている四角形のテーブルで、相席をすることになる。

β=/=β
||    ||
/  /
||    ||
β=/=β

このレストラン、空いているのだから、他にも席があるなずなのに、なぜか小さな四角形のテーブルを知らない二人組とシェアしてつかうことになる。

夢見者私は居心地の悪さを感じる。

さきほどのシェフとウェイターは、夢見者たちのテーブルの側に立っていて、注文を聞いたらすぐにも厨房に戻ろうという、「」の相にあった。

しかし、こちらの二人の見知らぬスーツ姿の男性は、席に座っており、動かない。不動である。

こうして四者、四人の人物が、席を囲んで、座ったまま、ほとんど動かなくなる。

〜〜〜

その刹那、夢見者私は、自分がまた「靴」を履いていることに気づく。

いつのまにか分離して行った靴が、またいつのまにか結合して来たではないか。β四項が付かず離れずに集まったことで、βの両端に飛び出したΔもまた、遠くに離れすぎることなく、適度に、足の先にくっついているくらいの距離感にまで近づいてきたのである。

こうして靴が戻ったことで、靴と分離される限りで両義的媒介項βに変容していた夢見者と同僚の女性は、また元のΔ項に、両義的ではない、何者であって何者でないかをはっきり分別できるような経験的な存在へと帰っていく。

β(靴を履かない人)→Δ(身体)←β(靴)

そして、この「はっきり分別できる」様相にあることを強調するかのように、この靴の様子を見ると、夢見者私(男性)は黒っぽい靴を履いており、同僚の女性は白っぽい靴を履いている。

白 / 黒

この夢の前半で伸縮する対立の大枠を切り開いていた白/黒の対立がここではスケール感を縮小して反復される。

意味分節=存在分節の確立

こうして、夢の前半(公園内で黒い建物と白い建物の間を歩いて移動していた様相)では、心の表層(白)と深層(黒)とが、比較的「遠く」に分離していて、その間を結びつけるには結構な距離を移動する必要があったのであるが、夢の最後では、この白と黒、心の表層(白)と深層(黒)とが、比較的「近い」距離で分離しつつも結合し、結合しつつも分離した様相になる。

黒い靴が男性に、白い靴が女性に、それぞれ振り分けられているという点で、白と黒、心の表層(白)と深層(黒)は、はっきりと分かれて入る(そしてこの場合、男/女のあいだに区別、真逆の対立があることが「サフラン」の何かを食べられるか食べられないか、という食事に関する対立によって強調されている)。ただし、この対立は、二人の両足の合わせて「四つ」の靴は、一つのテーブルで、ごく近くに、少し動けば触れることができるくらいの距離感に隣接し、付かず離れずに分離しつつも結合している。

白と黒、心の表層(白)と深層(黒)は、はっきりと分離しているが、しかし隣接しており、付かず離れずになっている。

男 / 女
||    ||
黒 / 白

こうして経験的な世界を安定的に意味分節・存在分節する基本単位となりそうなΔ四項関係が、広がりすぎることもなく、縮みすぎることもないモードに均衡するのである。

この夢が示しているのは、マンダラ状の均衡パターンが、経験的に「広く、大きな空間的スケール(広大な公園の中で、美術館のような大きな建物の間を長く歩いて移動するほどの広さ)から、小さなスケール(四角形のテーブルを囲む四人)へと、収斂し、縮小していく様子である。

こうして分離と結合の激しい伸縮は鎮まり、安定的な対立関係の対立関係、四項関係が定まった様相が浮かび上がる。存在分節=意味分節の体系が安定する、つまりあるひとつの経験的に意味ある世界が起源したのである。

+ + +

ユングの意識の四機能モデルと転識得智、八識を転じて曼荼羅を描くこと

さて今回の夢で浮かび上がったマンダラ状のパターンを、ユングの意識の四機能モデルに照らし合わせて解釈してみよう。

ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
     八識でいう「前五識」

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
     八識でいう「第六意識」

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
     八識でいう「第七末那識」

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
     八識でいう「第八阿頼耶識」

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる

一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。

私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。

さて、この感覚、思考、感情、直観(前五識、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識)は、それぞれ特有の分別・分節をするように動き、特定の分け方に固着したり、複数の分け方を重ね合わせる中で、分けられたものたちのうちの「どちらを選ぶか」にこだわるようになる。

四機能が付かず離れずに調和するためには、四機能がいずれも、分けつつ分けない、分けるけれどもゆるく分けない感じも残しつつ、分けるでもなく分けないでもない、分けるけれどもどちらだこちらだと選んでこだわらない、ただ分かれて見えたり分かれて見えなかったりするなあ、というのを観じるモード(瞑想の境地)に入る必要がある。

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別|前五識
     
    →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「成所作智」

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別|第六意識
     →
    これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「妙観察智」

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別|第七末那識
     →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「平等性智」

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別|第八阿頼耶識
     →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「大円鏡智」

こうして、八識を四つの「智」に転じたところで、マンダラ状に調和した心、如実に自らを知ることができる心のあり方を組むことができる。

+ +

さて、この夢で感覚、思考、感情、直観(前五識、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識)は、それぞれどのような主語的なもののどのような動き方(述語的様相)によって象徴化されていると対応づけられるか、順に見ていこう。

もちろん、こういう読み方自体が新たにもう一つの夢を意識的にみる、アクティブ・イマジネーションの試みのようなものであって、ここで「解釈」が「唯一無二の正解である」などということは全くない。これはレヴィ=ストロース氏が、ある神話を分析することは神話の異文を語っていることに他ならないのだと述べていることと同じであり、客観性と対立する限りでの主観性の世界に入り込む際に羽ずれずにおきたい構えである

  • 「感覚」(前五識→成所作智):黒/白、暗/明、重/軽、水の床/紙の床、靴あり/なし。ある/ないの分別が、際立つ。

  • 「思考」(第六意識→妙観察智):軟らかさを硬い材料で表現した彫刻「である」とか、子どもが線を引いた紙を吊るしていくアート「である」とか、感覚が分別した物事の様相を、次から次へと「なにであって/なにでないか」と分別していく。靴の行方を「どこで脱いだか」「黒い建物か白い建物か」と二者択一で探索しようとするのも「思考」らしい分別の付け方である。

今回の夢では、感覚(前五識)と思考(第六意識)が最も際立って前面に出てきている。そして感覚(前五識)と思考(第六意識)がどちらも、分けて選んでこだわるというよりも、ただ分かれる様を眺める、という感じになっている。感覚的な男/女、白/黒・靴結合/靴分離の対立を一通り、ただ、「分かれているなあ」と眺めるのである。ある/ないがはっきり分かれたまま、しかしどちらにも固着しない。ここで「感覚」が成所作智的へと転じつつあると言えるかもしれない。また「思考」も「靴はどこへ行ったか」とあれこれ考えつつも、靴がないことに焦ったり困ったりする様子は弱い。感覚がすでにあってもなくても異ならない、という境地に入っているので、思考が靴を探そうとどこにあってどこにないか、なぜないか、などと考えても、結局のところ「靴はないけれど、まあどこかにあるだろう」という余裕を見せる。そうして靴を探している途中でありながら、取り合えずレストランで食事でも…という「ゆるさ」につながる。これは第六意識「思考」が、靴を履くべき、靴を見つけるべき、靴が見つかるまでは探すのをやめるべきではない!などと拘らず、妙観察智的に「なにであるかに固着しない」状態に転じているようでもある。

この夢で、あまりはっきりと象徴が現れないのが、「感情」である。

  • 「感情」(第七末那識→平等性智):好き/嫌い この分別はこの夢ではほとんど動いていない。強いて言えば、スーツ姿の二人組と相席になった時の「居心地の悪さ」という感情的反応がある。結合したくないものと結合してしまったから分離したい、という感じである。これは末那識の作用である。

ただし、その居心地の悪さに固着することなく、「知らない人と相席で、気まずいが、仕方ない」とすぐに受け流している。これはむしろ第七末那識が一瞬際立つものの、すぐに平等性智に近い状態へと転換していく様子とも言える。末那識がすでにかなり「智」へと転じかかっているので、固着した感情の動きが目立たない。感情(末那識)は、すでにかなり平等性智に近い状態にあり、居心地の悪さを感じながらも流せている。

考えてみれば、夢見者と同僚の女性は、二人で「感覚」と「思考」をどちらがどちらということもなく協力して動かしてきたのである。そこへ「感情」が、「わたしもいますよ」と姿を現したのが、この結合を分離に転じたいという好き嫌いの感情を一瞬自我に喚起する、スーツ姿の男性(二人のうちのどちらか一人)なのかもしれない。

スーツ姿の男性たちが、動かない、固まって座っている。これは末那識的な自/他を分けて、「自」を固めようとする動きの影としても読めるかもしれない。


さて、残るは「直観」(第八阿頼耶識)である。これが「大円鏡智」に転じつつある様相を夢のビジョンの象徴たちの動きのなかにとらえることができるだろうか。

この夢の場合、直観(阿頼耶識)は、特定の登場人物の動き方に象徴化されるよりも、「靴」の消滅と出現、全体を通じての分離と結合の伸縮の収束、という展開そのものに現れているように思われる。靴が消えて、いつの間にか戻ってくるということは、現れてくる/消えていく という直観の分節そのものを、夢の「筋」全体を通じて体験させてくれる。

この夢では、直観が個別の登場人物として人格化されているのではなく、夢全体のリズムが直観の述語的様相になっている、という感じである。

靴が消えた瞬間も、靴が戻ってきた瞬間も、夢見者はその『いつの間に』を捉えることができない。これはまさに大円鏡智、現れてくるものも消えていくものも、選ばずに映し続けている様相といえるかもしれない。

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