走り回る小ネズミを眺めつつ特別な方法で人形をつくる二人の夢【マンダラ夢分析】-感覚-前五識を成所作智に、思考-第六意識を妙観察智に、感情-第七末那識を平等性智に、直観-第八阿頼耶識を大円鏡智に変容させて覚醒する
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。
Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる。

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする。
そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである。
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ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。
しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。
特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
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以上を踏まえ今回は、共同研究者の方からご提供いただいた夢を分析し、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。
意識の四機能が調和して
立体マンダラを建立する夢
・・・
観音開きの棚(シルバニアファミリーの家のよう)の中に、
カラフルな粘土?ソフビの人形がならんでいる。
おそらく怪獣や、戦隊モノのキャラクターのようだ。
小麦粘土に人工着色料で色付けしたようなパキッとした色合い。
キン肉マン消しゴムのようなチープな質感である。
*
この棚の横に、夢見者(女性)と、もう一人15歳くらいの女の子がいる。
彼女は、この人形作りにこだわりを持っているらしい。
夢見者は、棚の中にあらかじめ用意されていた型枠に粘土を詰めて、人形たちの仲間を作っていく。楽しいと思う。
もう一人の女の子も一緒に人形を作るが、彼女は、型枠を使わない。
人形の形を形成するには、直接粘土に触れなくてもよいらしい。
両手で粘土を覆い、水晶玉を撫でるようにすると、粘土がグニャグニャと渦巻く。そうして人形を作ることもできる。
上級者はこの方法を使うらしい。
彼女が、この方法にこだわりをもっていることが夢見者にもわかる。
*
ふと、足元をみると、小さいネズミかハムスターが走っている。
ネズミは、白い布切れを「自分のものだ」と主張するように全身で布にかじりついている。
夢見者は、そのネズミが齧り付いている布よりも、もっとよい、別の布があると気づき、別の布を与えようとする。
しかし、ネズミはそれを受け取らない。
ネズミにとっては、布には、台拭き、床拭き、雑巾、といった細かい違いがあるらしい。
夢見者が与えた布は、ネズミが欲しいと思っているものとはちがうらしい。
ネズミのこだわりのマイルールは、夢見者にはいまいちよくわからないが、まるで小さな子どもが何かにこだわっている様子を眺めている時の様な、可愛さを感じる。
この夢は見事なマンダラ夢である。

まず、冒頭の「棚」か「ドールハウス」。
これは箱庭療法の箱庭と述語的に非同非異のものに思われる。
この棚が興味深いのは、観音開き、つまりひとつのが面が、二つに分離して開/閉する扉を備えていることである。
開/閉
この述語のペアが、経験的感覚的な区別、特に空間的な存在分節=意味分節を引き開く。
内←/→外
容器←/→中身
この空間的な存在分節=意味分節は、諸々の存在者、一切諸法が「あること」の安定性・自明性を引き開くための前処理となる。
自←/→他
同一性←/→差異性
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粘土で作られた人形たち:感覚?
その観音開きの棚の中に、色や感触といった「感覚」で分別できる様相がはっきりと際立った、「人形」たち、諸存在者たちが並んでいる。βがまとうΔ的様相。述語的様相が、「感覚」において主語的なものたちを意識させている。
この人形が興味深いのは、それを夢見者たちが、自在に「作る」ことができる、ということである。
出来合いの完成品の人形が陳列されているのではない。
いや、すでに完成している人形もいるのだが、新たに、人形を、作り加えていくことができる。
これはまるで私たちひとりひとりの言語経験のようである。
私たちの言語は、幼少期に他者たちから与えられたものであり、最初に与えられた=好むと好まざるとにかかわらず伝承された時点では、他者によって用意された、既製品のようなものの姿で経験される。もちろんその既成性は、言葉それ自体の本質ではなく、言い間違いを絶えず修正し矯正してくる他者たちの言語行為に依るものである。
しかし、私たちは年齢を重ねる中で、ふと、言葉を、言葉の意味を、動かし、変容させることができるのだということに気づくこともある。
言葉は、その意味は、すでに完成しているものでもあるが、新たに作り加えていくこともできる。
手を触れずに粘土を変形させる
しかも、その人形の形成方法が超自然的である。
この夢の人形の材料は「粘土」のようなものである。
粘土、特にそこに水を混ぜて捏ね、形をつくり、焼き固め、土器を作ることができる粘土は、人類の無意識が太古から慣れ親しんだ両儀的媒介項であり、神話においてもしばしば極めて重要な役割を演じる。レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の続編にあたる『やきもち焼きの土器作り』では、まさにこの粘土が、経験的に意味ある世界の意味分節=存在分節を発生させる動き=述語的様相の担い手として大活躍する。
+ +
手と結合するはずの粘土が、手から分離している
経験的感覚的に、太古より人類が粘土で形を作る場合、「手」を使って粘土を「こねる」動きが必要であった。
すなわち「手」で直接粘土に触れて、つまり手を粘土で泥だらけにして、こねるのである。
しかしこの夢の場合、粘土に直接手を触れることなく、「水晶玉を撫でるように」粘土を手で覆うと、その中で粘土が手で触れられることなく動き、形を作り上げることもできる。
分離したまま結合することができる。
経験的感覚的には、手と粘土は「結合」しないことには形をつくることはできない。しかし、この夢ではその結合が、あえて?「分離」されている。
つまり結合していることが自明であるところを、あえて逆にして分離することで、夢見者の意識において定常化した分別をひっくり返す。そのようにして無意識は意識を「ハッ」とさせるのである。
* *
不定形で無分節である粘土を捏ねて、伸縮させて、あらゆる存在者の形を作り上げていく、というのは神話においても現世の諸々の存在者の起源を語る場合にしばしば登場するモチーフである。世界の始まり、この世の始まり、世界の起源を人間にわかる様に語るためには、世界の起源の手前から話を始めないといけない。これから始まるはずの世界がすでに元々ありました、というのでは話にならない。そういうわけで神話は、この世界の起源ということが存在分節=意味分節体系の安定性を確立することに他ならないと考え、そういう世界の起源以前は、すなわち存在分節=意味分節体系の安定性が確立していない、定常化していないことであると考える。これを言語やイメージで表現しようとすると、不定形にグニャグニャと動くでもなく動かないでもない何かを引き合いに出すとちょうどよいことになる。まさに粘土である。
粘土を捏ねて形をつくっていくことは、絶対無分節の分節の象徴であろう。そこでは無分節と分節の分節、結合と分離の分節さえも、分かれているでもなく分かれていないでもない。
粘土をこねて、存在分節=意味分節を安定化する
粘土をこねて伸縮させ、安定的な「形」をつくっていくということは、存在分節=意味分節の体系を安定させるということでもあり、それは人間の心においては諸々の分別を安定的に行える様になるということである。
人間の心における諸々の分別。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
*
私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。
そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
+ +
ここで、今回の夢について、先に仮説を立ててみよう。
今回の夢に登場するものたちを、これら四つの分別、四つの分節する述語的様相を仮に担う主語的な様相(象徴)として割り振ってみよう。もちろん、こういう読み方自体が新たにもう一つの夢を意識的にみる、アクティブ・イマジネーションの試みのようなものであって、ここで「解釈」が「唯一無二の正解である」などということは全くない。これはレヴィ=ストロース氏が、ある神話を分析することは神話の異文を語っていることに他ならないのだと述べていることに通じる。
さて、以上を踏まえて、今回の夢に登場するものたちを、四つの分別を仮に担う主語的な様相(象徴)として割り振ろう。
粘土の人形たち:感覚
粘土を型枠にはめて人形を作る自我:思考
手を触れずに粘土を伸縮させる女の子:直観
布切れ選びにこだわる小さなネズミ:感情
この四者が調和した、マンダラ夢が、この夢なのではないだろうか。
粘土を型枠にはめて人形を作る自我
||
(思考)
粘土人形 = (感覚) × (直感) = 女の子
(感情)
||
布切れ選びにこだわる小さなネズミズミ
感覚〜前五識を成所作智へ
まず、色や形、感覚的印象がはっきりと分かれている粘土人形たちを「感覚」の分節機能の象徴と見ておこう。

思考〜第六意識を妙観察智へ
次に、夢見者=自我は、型枠に粘土を詰めて、人形をつくっていくという役割を果たしている。型枠を選んで、他ではない何を作るか選択した上で、そこに材料を詰めていく。はじめに“何であって何でないか”をはっきりさせた上で、作り始める。これはユングのいう意識の四機能でいえば「思考」の分別が効いている感じがする。これは夢見者の自我が「思考」によって担われているということにもなるだろう。
形の定まらないもの、感覚で分別できないものを扱う直観〜第八阿頼耶識を大円鏡智へ
ところで、夢見者と一緒になって粘土細工に勤しむ、もうひとりの女の子がいる。ここで、棚のまわりに夢見者(女性である)と、もうひとりの少女、ふたりの女性がいることにも注目しておこう。年齢的にも近く性別も同じ人が二人いる場合、この二人は、二人でひとつの強い結びつきがあると考えてみよう。夢見者と一緒にいるもう一人の女の子は、二人で一緒に協力して人形作りを行っている。この二人の協力関係は、ユングの個性化のモデルでいえば、意識の主要な機能とその補助機能の協力関係を思わせる。自我を担う主たる機能がもう一つ別の補助機能とうまく協調している様相である。
では、この女の子が担っている意識の機能は何と置けるだろうか?
ここで仮に「直観」を置いてみよう。
面白いことに、女の子は、粘土人形を手を触れることなく自在に作ることができる。女の子の方はこの特別な方法による人形作りに「こだわり」があるという。つまり型枠を使うよりも、ぐにゃぐにゃと変化しながら形が現れてくるプロセスにこだわるのである。
形がないところから、まだ目に見えぬ、感覚することもできず、何であって何でないかを言うことができない「なにか」がぐにゃぐにゃと「やってくる」このような様相、「感覚」や「思考」では「何」と分別できない「やってくる気配のようなもの」を分節するのは、「直観」である。
この夢の場合、女の子は、つまり夢見者の自我の主要機能の補助機能の役割を果たしているのは「直観」であると読んでみよう。
「思考」と「直観」が協調し意味分節=存在分節を引き開いていく。実に調和した精神のあり方である。
+ +
ここまでのところで、この夢見者の自我は、「思考」を主要な分節機能としつつ「直感」を補助機能として働かせ、「感覚」の分節と協調している、と説明できるかもしれない。・・もちろんこのあたりのことはあまりガチガチに分別せず、ゆるめて動いているような具合にしておくのがよい。
型枠を利用するということは、目に見えたり手に触れたりすることができる「感覚」の対象が未だ存在しないところで、まず先に設計図、完成予想図、理想系、モデルを立てて、そして材料と相互作用しながら時に設計図を修正しつつ、まだ見ぬ感覚的な姿形をつくっていくということである。
これは意識の四機能でいえば「思考」だといえるだろう。
一方「直観」はあらかじめ「何であって何でないか」が定まっていないところから、何であるかが不可得なモードから、「思考」と「感覚」の対象をまだ見ぬところから出現させる。
* *
粘土からの造形は、絶対無分節が分節する伸縮運動を象徴するものであった。夢見者の「思考」と「直観」、そして「感覚」は、協調して絶対無分節が分節する伸縮運動を引き受け、分離したままの結合と結合したままの分離を動かすことができる。
感情〜第七末那識を平等性智へ
こうなるとユングの四機能でいう残りの一つ、「感情」も、どこかにいるはずである。それがどうやら、ハムスターのような「小さなネズミ」である。ネズミは「白い布切れ」に齧り付いて、それを破りとる=分節する・分別することが、自分の役目なのだと主張する。

これは「感情」もまた、思考や直感、感覚とは違ったやり方で、分別をするのだ、ということを自我に対して主張しているようである。
思考からみれば感情の分別は「謎」であるが、それでも思考が感情のこだわりによりそう
ここでおもしろいのは、自我・夢見者が、このネズミに布切れを与えるところである。しかし、夢見者が与える布切れに、小さなネズミは満足しない。選り好みをするのである。これは夢見者の自我=「思考」の分別が、小ネズミ=「感情」の分別とは異なる、ということである。夢見者は、その得意な分別である「思考」によって、布切れを分けて、選び、ネズミに与えている。しかし、「思考」が分けて選んでこっちにしようと決めたことを、「感情」が必ずしもそのまま受け入れるわけではない。思考が選んできたものに対して、感情が「嫌い!」ということがあってよいのである。
ネズミは夢見者の自我が分けて選んであげた布切れに満足せず、夢見者の自我が思いもよらない観点で、白い布を分けて、選ぼうとする。「思考」の分別と、「直観」の分別、「感情」の分別は、別々のことなのである。
おもしろいことに、夢見者の自我(思考、直観、感覚)からみると、白い布切れはどれでも同じようなものである。つまり取り立てて区別、分別できるものではないのである。「感情」がどうやら精密に分別できることも、「思考」はあまり解像度高く分別することはできない。
*
思考、直観、感覚、感情のマンダラ状の調和へ
例を挙げて考えてみよう。
仕事の取引先の人たち、あまり親しくない人たちから、私自身は全く興味がないイベントへ「一緒に行こう」と誘われたとする。そこで「感情」は好き/嫌いを分別し、「嫌い」だ、つまらなそう、行きたくないと判定したとする。しかし、そこに「思考」の分別が効くと、「仕事のつきあいなので、行くか行かないかで言えば、行かざるを得ない」と判断したりする。そうして私たちは感情の分別を意識の深みに鎮めて、動こうとするのである。
ここではせっかくの感情による分別が、思考によって無視されている。
それに対して、この夢の場合、夢見者の自我(「思考」)は、子ネズミの分別(おそらく、布切れを用途におうじて分けて選ぼうとする様子からして、好き嫌いがはっきりしている「感情」だとおもわれる)を、ちょっと訳がわからないものだなあと半ばあきれ?つつも、とはいえ暖かく見守って眺めていることができる。
感情の分別に、思考が振り回されることもなく(感情が自我のポジションを奪うことはないが)。
また感情の分別を、思考が抑圧するのでもない。
よくわからないまま同じ棚=マンダラの周囲で一緒になって分節を働かせ続けるのである。

*
感情ネズミが布を選り分ける様子を、思考夢見者が眺めていることができている、というのはまさに意識の四機能の調和を思わせる様相である。
自我を担う「思考」からすると、「感情」の分別機能が、一体なにをどう分けて選ぼうとするのか、よくわからないところである。
白い布の端切れは、ネズミにとっては細かいカテゴライズ・選り分けができるようだが、夢見者の「思考」と、そして「感覚」にとっては、どれも「白く」「小さく」、粘土の人形たちの色や形の多様さに比べれば、どれを選んでも同じようなものにみえる。
とはいえ、そこで、夢見者は、ネズミのやっていることを興味深く眺めていることができる。
ネズミがネズミの都合で、好きに布を選んで使い分けたいのであれば、好きにしたらいいよ、という感じでネズミを眺めていられる。
夢見者自我の方からネズミに対して「布は全部一緒だからこだわるな」とか、「何を選び分けているか知らないが無駄なことだ」などと断じたり、命じたりすることはない。
+
まとめ
この夢では、四機能のうち、自我を担っている機能が、他の機能がやっていることを無視することもせず、邪魔することもせず、付かず離れずに見守り、さらにより積極的に、自我を担う機能の方から「布切れを与える」という形で、無意識に隠れがちな機能に対して、一緒にやっていこうというアプローチを惜しまないのである。
夢見者はユングのいう「個性化」、自己(Selbst)の調和したモードに入っていると言えそうである。つまり四機能の分別が調和して、絶対無分節を自在に分節することができている。すなわち、感覚だけでもなく、思考だけでもなく、感情や直観だけでもなく、およそ人が人として生きる限りで動き続ける意識の四機能それぞれがそれぞれ動き、しかもお互いに妨げ合うことがない。
ところで、これに関して最近おもしろい文章に出会ったのでご紹介しておこう。安藤礼二氏の著書『空海』を読んでいて、次の一節に出会った。
「アーラヤ識の「識」としての働きが極まった瞬間、アーラヤ識をはじめとするすべての「識」が「智」へと変貌を遂げる (この変貌の段階その他についても諸説があるが単純化する)。 覚りを得るとは、仏に映る (成仏する) とは、アーラヤ識が大円鏡智となり、末那識が平等性智となり、意識が妙観察智となり、前五識が成所作智となることであった」
ここでは八識を五智へと組み替える、という話が出てきている。
「前五識」は、「眼 耳 鼻 舌 身」で、それぞれ要するに、明るい/暗い、音が大きい/音が小さい、いい香り/悪い香り、美味い/不味い、前/後、などなどをばちっと分別する。これはものごとが経験的感覚的に「ある」か「ない」かを分別する機能でユングの四機能で言えば「感覚」に相当する。
多様な様相が次々と到来する「感覚」を統合しているのが「(第六)意識」。これはユングの四機能で言えば「思考」に相当するだろう。
第七末那識は自/他、私と私でないを分別し続けようとする働きと考えておこう。これによって「感覚」や「思考」が、他者のものではない「私」の感覚であり「私」の思考なのだ、と感得することができるようになる。これはユングの四機能で言えば、自分と結合すべきもの(好き)と自分から分離すべきもの(嫌い)をはっきりと分けようとする「感情」に相当する。
第八阿頼耶識はこれらの前段で、「私/私ではない」に限らず、他のありとあらゆる区別を発生させ続け、互いに対立する二項の関係を分け続ける。これはユングの四機能で言えば他ではない何かが次々と湧き上がってくる「直観」に相当する。
まとめると次の様になる。
前五識|「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
第六意識|「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
第七末那識|「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
第八阿頼耶識|「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
私たちは多くの場合、前五識感覚と第六意識思考を、主に自覚的に意識して、第七末那識感情と第八阿頼耶識直観を、思考では扱い得ない余剰として無意識へと抑圧する。そうして、分けて、選んで、こだわって、迷うのである。
ここで迷いを離れて覚るということ(少し違うのかもしれないがユングの「個性化」も方向性としては同じ方を見ている)、阿耨多羅三藐三菩提を得るということは、「アーラヤ識が大円鏡智となり、末那識が平等性智となり、意識が妙観察智となり、前五識が成所作智となる」ことであるという。
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別|前五識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「成所作智」「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別|第六意識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「妙観察智」「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別|第七末那識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「平等性智」「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別|第八阿頼耶識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「大円鏡智」
そして、成所作智になった前五識、妙観察智になった第六意識、平等性智になった末那識、大円鏡智になったアーラヤ識が、どれかひとつだけ突出して自己主張して他を沈黙させたり無視したりすることなく、四つの「智」がそれぞれその得意とする分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける動きを動かしながら、四即一にして一即四に共鳴し合うモードが、いわゆる五智如来の曼荼羅なのである。

この話に関するディスカッションを、下記の記事で紹介してくださっているのでこちらも合わせてご参考にどうぞ。
マンダラ状の調和モードに変容した精神は、経験的な世界の「意味」を自在に動的に分節し、分節しなおし、経験的世界の意味を織りなおしていくことができる。
まさに、手を触れることなく粘土をぐにゃぐにゃと動かして、諸存在者の意味ある存在をつくりだすようにである。大円鏡智モードにチューニングされた第八阿頼耶識から浮かび上がる分離と結合の伸縮する動きの陰としての分節線たちを、妙観察智モードにチューニングされた「思考」がそのまま言語に託し、さらに成所作智モードにチューニングされた「感覚」の様相と調和させる。そうして平等性智モードにチューニングされた「感情」でもって、自/他の境界を不断に分けつつつなぎつなぎつつ分けながら、「私ではないーではない」現存在としての「わたし」を生き、かつその生を法界へと相続させる。
これぞ、夢を見ること、そして夢を「分析」するとの本義であろう。

意識の深みでは↓のような具合である。

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