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UFOの夢はマンダラ夢でもある -UFO(空飛ぶ円盤)は現代の「マンダラ」である-C.G.ユング『空飛ぶ円盤』を読む~真如の月 まどかならん(3)

C.G.ユング著『空飛ぶ円盤』を読む。『空飛ぶ円盤』でユングは、UFOを「マンダラ」であると述べている。「マンダラ」は、古今東西、人類による神話の語りや夢のビジョンに登場するものであるが、ユングによればそれは人の心の全体性が調和した状態の象徴であるという。

<1回目>

<2回目>

人類のは、仮に表層/深層という二項対立に託して説明できるような動的構造になっている。

意識し自覚する自我

心には自覚することができる、意識することができる側面が確かにある。これを仮に表層/深層表層と呼ぼう。例えば鉄道の駅の改札をICカードをかざして通過しようとした時に、突然警報が鳴って赤いランプが点灯する。そういうときに私たちは「しまった、チャージしていなかった」と自覚し、「それならば、一旦戻って券売機に並んで現金をチャージしよう」とか「アプリをつかってクレジットカードからチャージしよう」といったことを考える。そうして券売機を探したり、アプリを起動して操作したり、といったことをするわけであるが、こういうとき、私たちは自分がやっていることと自分がやらなければいけないことを意識し、自覚し、行動している。

こういう「私はいま、〜〜をしています」と報告できる時の、その主語「私」で分節される心の動きを「自我」という。

無自覚、無意識

他方、心には、自覚することができない、意識することができないプロセスも動いている。実は心の全体性からすると、意識できる自我の部分よりも、意識できないことのほうがはるかに広大である。そしてこの後者は「無意識」と呼ばれる。無意識で生じている心の動きは、強いて煎じ詰めるならば“結合したいものと分離してしまう様相を結合に転じようとしたり、分離したいものと結合してしまう様相を分離に転じようとしたりする”動きなのであるが、このような動きはそのまま直接表層意識によっては自覚されない。

例えとして適切かどうかわからないが、例えば私たちが意識的に随意で、胃液の分泌をオン/オフしたり血圧や血糖値を自在に上げ下げしたりすることができないように、心の深層の分離と結合を伸縮させる動きもまた、意識的に動かせるものではない。

この心の深層と表層は隔絶しているわけではなく、つながっている。
というか完全に一体、そもそも分かれていない。分かれていないのでつながるとかつながらないとか言いようがないほど不可分である。

心の深層の動き、分離と結合の様相を分離したり結合したり伸縮させる動きは、しばしば象徴的なイメージ・神話的なイメージとして、夢に見られたり、想像されたり、実際に感覚されたような印象をもたらしたりという形で、「自我」に自覚され、意識的に思い出したり語ったり描いたりできるようになることもある。

象徴的なイメージ・神話的なイメージは、心の深層の動きの消息を、表層意識に伝えている、と言っても良いだろう。

元型イメージとしての丸いもののビジョン

そしてその象徴的なイメージ・神話的なイメージの中でも代表的なものが「(空にうかぶ)丸いもの」のイメージである。ユングは「丸いもの」のイメージが、古今東西、人類が存在するところにはいつでもどこでも現れることを指摘する。

東洋の曼荼羅、西洋のキリスト教とその周辺の図像、錬金術の象徴図像、宗教的な光輪や聖なる輪など、文化を越えて繰り返し「丸いもの」のイメージが現れる。要するに(要さない方がよいのだが)、下記の画像1と画像2は「同じこと」の異なる表現だということである。

図像1
図像2

自我によって意識でき、自覚できるイメージは、五感で感覚し経験として記憶し、想起することができる姿形を組み合わせて構築される。そのため古今東西、それぞれの時代にそれぞれの文化で伝承されてきた、意識的に利用可能なものや記号や造形の伝統ちがいに応じて、様々なパターンの例えば「丸いもの」が描かれる。それらは形としては丸いが、上の二つの画像のように、表面的には全く違うことを表現しているように見える

しかし、その一方で、意識の表層へと、心の調和した全体性の象徴としての「丸いもの」を浮かび上がらせている、その心の深層の動き方・動的構造は、文化や時代のちがいをこえて、人類に共通したアルゴリズムであるらしい。このアルゴリズムと仮にここで呼んだことを、ユングは「元型archetype」という言葉で考えようとしているし、文化人類学者のレヴィ=ストロースは「構造」という言葉で考えようとしているのである。


UFOの夢

さて、人類の表層の自覚的意識(自我)に対する、心の真相(無意識)からの消息として、私たちの多くが日々実際に経験しているものが「」である。

私たち人類は、古今東西、むかしもいまも、誰もが日々をみる。

学歴職歴年収性別血液型血圧血糖値好きな食べ物…などなど、なんでも構わないが、表層の自覚的自我は、人類を分類して分類して分類して分類して分類してまいろうとするのであるが、その一方で夢を見ること、そして夢にみたビジョンを後に覚醒時に想起しては、ふと不安を感じたり、奇妙な感じがしたりする…というあり方は古今東西老若男女の差異を超えて人類共通の経験である。

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。

興味深いことには、しばしば「丸いもの」をみたという印象を残す。

ユングによれば「丸いもの」は、心の深みがその全体性が調和したあり方を心の表層の意識に伝える時にしばしば自覚される象徴であるが、それは夢にもしっかりと現れている。

そうした夢の事例は、ユングが「マンダラ夢」として扱っている数々の夢の記録にもみることができる。

神話も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

神話論理と夢分析

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。

経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。

+ +

分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする

そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである


UFOの夢はマンダラ夢である

ユングは『空飛ぶ円盤』で、マンダラ夢としてのUFOの夢を紹介している。同書で紹介されている「夢4」をみてみよう。
この夢は素晴らしい夢だと思う。

夢はこうである。

午后も遅く、晩になりかけていた。太陽は地平線に没しようとしていた。
雲がかかっていたが、きわめて薄い雲だったから、それを透かして太陽の輪郭のはっきりした円盤を見ることができた


太陽は白かった。
突然この白色は一種異様な青白さに変り、西の地平線一帯がおそろしいほどの青白さに染まった。この天日の青白さ――この言葉に傍線を引きたいくらいだ――はおそろしい空慮を感じさせた。

すると今度は第二の太陽西方に同じような高さで、 やや北寄りに現われた。

しかし、私たちが緊張して空を見つめているうちに―――かなりの人人が広く散らばって私同様このさまを見ていた――第二の太陽のほうはもとの見掛け上の円盤とは対照的にはっきりとした球形に変った。



日が没し夜が始まると同時に、この球は地球 に向かってかなりの速度で近づいてきた。

夜に入ると夢の雰囲気が変った。「青白い」とか「空虚」とかの言葉が、まさしく太陽の衰えていく生命や力や潜勢力の印象を示していたのに対して、空は強さと尊厳の趣きを帯びてきて、 恐怖ではなく畏敬の念を起こさせた。

星が見えた、とは言えないのだが、薄雲のヴェールを透かしてときに星がのぞくといった夜空の印象だった。

たしかにこの夜のたたずまいには尊厳と力と美とがあった。

先ほどの球が物凄いスピードで地球に近づいてきたとき、はじめ私は木星が軌道をそれたのだと考えた。しかし、もっと近づいてみると、なるほど巨大ではあっても木星などの惑星にしては小さすぎることが分った。

球が近づいてきたため、その表面のようすがある程度見えるようになってきて、子午線か何かに相当するような線が何本か認められた。地理学的あるいは幾何学的というよりも、むしろ装飾的で象徴的な線である。

夜空を背景に、沈んだ灰色もしくは不透明な白に見えたその球の美しいことといったらなかった

この球がやがて地球に衝突することに気づいたとき、 当然ながら私たちは激しい恐怖に襲われた。
もっとも恐怖といっても畏敬の念の勝った畏れなのである。
それは畏怖に満ちた宇宙の出来事だった。

私たちが見守っていると第二、第三の球が現われ、さらに数を増してすさまじいスピードで近づいてきた。どの球もつぎつぎ地球に爆弾のように叩きつけられたが、あまりにも距離がありすぎて、この爆発というか炸烈と いうか、何というにせよその実態がつかめなかった
ある場合は、少なくとも一種の閃光が見えたように思う。球は間を置いては私たちの周囲に降りそそいだが、いずれもかなりの距離があって破壊的な効果は認められなかった。しかし見たところ榴霰彈弾かそれに似た危険はあったのである。



それから私は自分の家に入ったにちがいない。

気がつくとひとりの少女と話をしていた。

彼女は藤椅子に掛けてノートを広げ、勉強していたらしい。

みんな安全な地域を求めて、どうやら西南の方角に行くことになった。私は少女にも一緒に来たほうがいいだろうと言った。危険が大きいから、この少女だけ置いていくわけにいかなかった。

しかし彼女はきっぱり答え た。

いいえ、ここにいます
。ここで勉強を続けます。

危いのはどこでも同じです

安全というならどこも安全です

私は忽然として、彼女のほうが理性的で判断も現実的だと悟った



夢の終りのほうで、私はもうひとりの少女に出会う。
ことによると、さっき籐椅子に腰かけ、 ノートに夢中だったあの有能でしっかりした若い女なのかもしれない今度は彼女はもっと大きく鮮明に見えた。顔立ちも分ったし、私に話しかける声もはっきり聞き取れた

彼女はきっぱりした調子で私の姓名を言い、「あなたは十一と八まで生きるでしょう」と言った。

この八語はあまりにも明瞭で、権威たっぷりの調子で言われたので、まるで私が十一と八まで生きると信じていないのを叱られているみたいだった。

ユング『空飛ぶ円盤』pp.94-97

この夢は四つの場面へ、順を追って展開していく。

はじめに、日没ちかくの夕方の場面

そこで夢見者は「太陽の輪郭のはっきりした円盤」を見、ついで「第二の太陽」の出現を見る。

次に、夜間の場面

そこで夢見者は、「第二の太陽」が、地表へ、夢見者たちのほうへと「近づいて」くる述語的様相を見る。
そして「丸いもの」が次々と「数を増して」地上へと降り注ぐ
ただし、この過度な結合によっても夢見者とその周囲の世界が爆発的に破壊されるわけではない。これは付かず離れずの、まさにマンダラを示現させる媒介モードである。

第三の場面、家の中の場面

夢見者は家の中で「ノートを広げ、勉強してい」る少女とあう。
そして、天から降る丸いものから逃げようと=分離しようと少女に伝える夢見者に対し、少女の方は「危いのはどこでも同じ[…]安全というならどこも安全」という。

この少女、安全か/危険か という分別、二項対立の、二辺を離れて不可得なモードにはいっている。この少女の述語的様相こそ、「両義的媒介項」のあり方である。この不可得モードの述語的様相が、マンダラをマンダラとして表層意識の只中に浮かび上がらせるように心の振動モードをチューニングしているのである。

最後に、第四の場面

夢見者は、さらにもう一人の少女と出会う。
この女性と、第三の場面の少女とが、非同非異の関係にあるのではないかと夢見者は直観している。それはつまり、この最後の場面の女性も両義的媒介項としての動きを担うということである。
そしてこの女性は、夢見者の名前を言い当てる。
夢見者が、だれであって/だれでないか、をはっきりと分別・分節する。
そしてさらに、この女性、夢見者に向かって「あなたは十一と八まで生きる」と宣言する。詳しくは後述するが、ここでは時空間の分節システム(前/後、遠/近)が生成され、そして同じことだが個体としての生/死の区別が分節されている。

分離と結合の伸縮からマンダラを浮かび上がらせる

この夢の四シーンの展開、上述した図式を用いると、みごとにマンダラ状の調和に向かっていることがわかる。

はじめに、日没ちかくの夕方の場面は、上の図式でいう1)のモードである。そこでは空間全体が薄く曇りつつ光にあふれている。それはまるで原初の渾沌、物事の区別があるようなないような、もやもやとして分類分別判別できないモードである。

β
ββ
β

次に、夜間の場面。ここでは天/地の両極の対立が際立ちつつ、天から地へと、無数の丸いものが落下してくる。そしてそれらは地上激突しているようなのである。これは上の図では2)3)のモードである。対立する二極の間が過度な分離と過度な結合のあいだで激しく伸縮する。

β→→→→→→→←β

そして第三の場面、家の中で安全危険不可得と述べる少女と会話する場面。これは上の図式でいえば4)〜5)である。夢見者は空から降ってくるものから逃げようと過度な結合を過度な分離に転じようとするが、聡明な少女はそれを断り、危険と言えば危険だし安全といえば安全、といったことをいう。危険というのは結合したくないものと結合してしまうことであり、安全というのは結合したくないものと結合しないことである。ここで少女は天/地のあいだの関係は、安全でもなく危険でもない、つまり結合するでもなく結合しないでもない、という言っているのである。

β=/=β
||    ||
/    /
||    ||
β=/=β

これはつまり分離と結合の二つのモード自体を、分離しつつも結合し結合しつつも分離している、という述語的様相(上の図式の4))である。そしてなにより、分離と結合の二つのモード自体を、分離しつつも結合し結合しつつも分離するようなチューニングこそが、マンダラ状の全体性の調和を心にもたらすのである。

最後に、第四の場面では、時空間の分節(前/後、遠/近)と個体の存在の有/無(=生/死)の分節が区切り出される。上の図式の5)〜6)である。前/後、遠/近といった時空間の分節、生/死という個体の存在有/無、生/滅の分節は、人類にとって経験的感覚的に意味ある現実を成り立たせる極めて基本的な枠組みとなる。

Δ/Δ
||  ||
Δ/Δ

このようにして、この夢は、全体で調和した現世の起源を語る神話とほとんどまったく同じような動的構造をなしている。

+ +

ユングによる分析も参照しつつ、さらに詳しく見てみよう。

場面1 夕暮れに霞みかかってあふれる光

・午后も遅く、晩になりかけていた
・薄い雲に透かして太陽の輪郭のはっきりした円盤が見える
・白色から異様な青白さに変る太陽
西の地平線一帯がおそろしいほどの青白さに染まる

夕暮れの時。夢見者の周囲の地上の光景は、闇に溶け始めて不分明になっていく。それとともに空が「おそろしいほどの青白さに」「染まる」。そしてその空に「青白」く光る「太陽の輪郭のはっきりした円盤」が見える。

経験的感覚的なあれこれの存在者たちが、光/闇が溶け合いつつある特別な光の中に、すべてすべて溶けていく感じである。ここで目の分節、眼識による分別は、すーぅと解除されていく。

ここに「第二の太陽」、第一のもともとの太陽よりもはっきりとした輪郭、円形の形をもった第二の「丸いもの」が見えてくる。

すると今度は第二の太陽西方に同じような高さで、 やや北寄りに現われた。

しかし、私たちが緊張して空を見つめているうちに―――かなりの人人が広く散らばって私同様このさまを見ていた――第二の太陽のほうはもとの見掛け上の円盤とは対照的にはっきりとした球形に変った。

第一の、暮れゆく太陽の光のは、ぼんやりとした光と闇の溶け合いのなかに吸い込まれていくような述語的様相を示した。

増/減、増益/損減、生/滅、来/去、という対立でいえば、この溶けてゆく太陽は、減る方、滅する方、去る方の述語的様相を呈した。

そしてこれを逆転するように、今度は増、生まれる、来る、といった述語的様相を示す「第二の太陽」=「丸いもの」が出現する。

これを見ることによって、夢見者の意識は、「丸いもの」をはっきりとその視覚で捉えることになる。

分節と無分節の分節すらあるでもなくないでもない絶対無分節の様相において「丸いもの」意識される

まるで無意識の底から、意識の芽が立ち上がってくるかのようである。

そして「日が没し夜が始まると同時に、この球は地球に向かってかなりの速度で近づいてきた」のである。絶対無分節のなかの「丸いもの」が、ますます際立った印象を意識に与える。この様子は次のように言語化されている。

「夜に入ると夢の雰囲気が変った。「青白い」とか「空虚」とかの言葉が、まさしく太陽の衰えていく生命や力や潜勢力の印象を示していたのに対して、空は強さと尊厳の趣きを帯びてきて、 恐怖ではなく畏敬の念を起こさせた」

夢見者に「畏敬の念」を抱かせる「強さと尊厳の趣き」に満ちた「まるいもの」の印象が際立つ。

場面2 天から地へ降り注ぐ小型円盤たち

ここで場面が変わる。この空に浮かぶ「丸いもの」が地上へと「物凄いスピードで」「近づいて」きたのである。

先ほどの球が物凄いスピードで地球に近づいてきたとき、はじめ私は木星が軌道をそれたのだと考えた。しかし、もっと近づいてみると、なるほど巨大ではあっても木星などの惑星にしては小さすぎることが分った。

球が近づいてきたため、その表面のようすがある程度見えるようになってきて、子午線か何かに相当するような線が何本か認められた。地理学的あるいは幾何学的というよりも、むしろ装飾的で象徴的な線である。

夜空を背景に、沈んだ灰色もしくは不透明な白に見えたその球の美しいことといったらなかった

この、天から地へ「かなりの速度で近づいて」来るという述語的様相に注目しよう。これは結合する動きである。

この結合する動きによって、結合に向かう前、すなわち分離していた状態が際立つ。分離と結合の対立が際立つ。

同時にこの動きは、分離状態から結合状態への急転換、という様相も際立たせる。

そして面白いことにここで、大きな(おそらく)ひとつの丸いものが、二つ、三つ、さらに多数と、いくつにも数を増やしていくのである。「まるいもの」が複数に分離する述語的様相に注目しよう。そしてこの無数の「丸いもの」は、「つぎつぎ地球に爆弾のように叩きつけられ」るのである。これもかなり素直に、ストレートに象徴化された過度な結合の様相である。

私たちが見守っていると第二、第三の球が現われ、さらに数を増してすさまじいスピードで近づいてきた。どの球もつぎつぎ地球に爆弾のように叩きつけられたが、あまりにも距離がありすぎて、この爆発というか炸烈というか、何というにせよその実態がつかめなかった

ここで夢見者の立ち位置がおもしろい。
空から降ってくる丸いもの=球たちは、確かに地上に激突しているのであるが、しかし夢見者が佇んでいる場所には直撃していない

夢見者がいる場所からは、地上に激突した後、隕石…ではなく、UFO、いや、丸いものがどうなったのか、そして地上がどうなってしまったのか、見えないのでよくわからないのである。夢見者は次のように報告する。

「ある場合は、少なくとも一種の閃光が見えたように思う。球は間を置いては私たちの周囲に降りそそいだが、いずれもかなりの距離があって破壊的な効果は認められなかった。しかし見たところ榴霰彈弾かそれに似た危険はあったのである。」

この微妙なの感じが良い。

丸いものたちは確かに地上に激突しており、その激しく過度な破壊的な結合により地上に大変な被害をもたらしていることは疑い得ない。しかし、それは夢見者がいる場所からは、遠く分離した地点で生じている。そうであるからして、単に夢見者の今現在についていえば、夢見者自身が高速で落下してくる「丸いもの」に直撃される心配はなさそうである。「いずれもかなりの距離があって破壊的な効果は認められなかった」のである。しかしそうだからと言って完全に安心し切って眺めているわけにもいかない。

この衝突(=過度な結合)しているがしていない、という不可得なモードは、過度な結合と分離のあいだの伸縮の一つの様相であり、この場面全体を両義的で不可得なモードにしている。

場面1では、絶対無分節のただなかに「丸いもの」が出現し、無意識の底から意識の芽が立ち上がってくる様子が印象的であったが、第二の場面では、この丸いものが複数に分離して、そして地上に激しく衝突する=結合する、という具合に、分離する述語的様相と結合する述語的様相が激しく展開する。

場面3 明敏な少女との会話

次の場面で、夢見者は一旦家の中に入り、そして「安全な地域を求めて、どうやら西南の方角に」避難する準備をはじめる。つまり、今いるところから遠くへと「分離」しようとしている。その行先は「どうやら」とあるようにどこだかはっきりわからない。つまり相対的に過度な空間的「分離」を切り開くような述語的様相に入ろうとする。

しかし、この過度な分離へと向かおうとする動きは、家の中にいた「藤椅子に掛けてノートを広げ、勉強していた」少女によって止められる

少女は、遠くへ分離しようとする夢見者の申し出に対して、一緒に行かないという。
そして次のようにいう。

いいえ、ここにいます。ここで勉強を続けます。

危いのはどこでも同じです

安全というならどこも安全です

ここに結合していても、ここから分離して行っても。
どちらも安全であり、どちらも危険である。

安全と危険は二項対立関係にある。

安全 / 危険

夢見者は

ここに結合している / ここから分離する
||     ||
危険 / 安全

という二重の対立関係=四項関係による分別を立てたわけだが、少女の方はこの分別はこだわるようなものではないという。

ここが危険なら他も危険。他が安全ならここ安全。

この言葉を聞いて、夢見者は「私は忽然として、彼女(とう椅子で宿題を解いている少女)のほうが理性的で判断も現実的だと悟った」という。

この夢見者も明敏である。

少女によれば、

安全 / 危険

此処 / 他所

この分別、二項対立関係にある両極を不可得にして、両義的媒介項βを生成することこそが、いまここで必要なことなのである。

β危険でもなく危険でなくもなく

Δ安全 / 危険Δ

β安全でもなく安全でないでもなく

β他所でもなく他所でないでもな

Δ此処 / 他所Δ

β此処でもなくここでないでもなく

これにより、場面1や場面2では、もやもやしていたり、激しく結合したり遠く分離したりして、互いに二項対立関係を織りなしているということすらよくわからない状態になっていたβたちが、此処に至って、β同士で対立関係を組んでいること、そしてそのβの両極に、経験的で感覚的、常識的な分別によって区別されるΔ対立関係が結びついていることが、無意識裡に意識されかけている。

ちなみに、安全とはつまり「結合」へ、危険とは「分離」へと向かう述語的様相である。

つまりここでは分離と結合の対立という、基本的は対立が不可得になっている!!

場面4 寿命の予言
「あなたは十一と八まで生きる」

神話でも生者の世界と死者の世界が分離し、その境界に扉というかゲートのようなものが設立されるくだりで、神々が人間の寿命の長さ(短さ)を決める、という話がしばしばある。

この夢でも、夢見者は、二人目の少女と出会い、そして名前を呼ばれ、寿命に関する予言を授けられる。

夢の終りのほうで、私はもうひとりの少女に出会う。
ことによると、さっき籐椅子に腰かけ、 ノートに夢中だったあの有能でしっかりした若い女なのかもしれない今度は彼女はもっと大きく鮮明に見えた。顔立ちも分ったし、私に話しかける声もはっきり聞き取れた

彼女はきっぱりした調子で私の姓名を言い、「あなたは十一と八まで生きるでしょう」と言った。

この八語はあまりにも明瞭で、権威たっぷりの調子で言われたので、まるで私が十一と八まで生きると信じていないのを叱られているみたいだった。

なかなか恐ろしいはなしである。「あなたは十一と八まで生きる」のは結構だとして、「十一と八」を過ぎると、どうなってしまうのか?!

これを自我意識は、なにやら「死の宣告」のような話だと受け止めてしまうところであるが、これは神話だと思って読めば、夢見者個人の寿命の話ではなく、時空間の分節(前/後、遠/近)や、個体の存在の有/無(=生/死、自/他)の分節が区切り出されているということになる。

前/後、遠/近、有/無、自/他

こういう二項対立=区別は、経験的に意味ある現実を意味分節=存在分節するうえで、極めて基本的な、欠くことのできないものである。これらの区別が区別されていることは経験的にはあまりにも自明であり、それらが「区別するから区別されているのだ」などとは思いもよらない自我もすくなくないところである。

Δ/Δ
||  ||
Δ/Δ

さて、この少女の予言について、ユングは興味深い分析を提示している。

[…]彼女はべつに慌てもせずに仕事を続け、二度目に登場するときは彼の死ぬ日を予言する。この場面は非常に印象的で、そのため彼は、少女の語った八という語数にとくにこだわるのである。

この八という数が単なる偶然以上のものであるのは、 それが死の日、つまり十一月の八日だとされているからである。

他の数ではなくことさらに八であるのは決して意味がないわけではない

八は四の二倍に当るが、曼陀羅における個性化の象徴として、四位一体(Quaternität)と同じくらいの重要な役割を演じている。

十一については関連する材料が与えられていないので、伝統的な数の象徴表現を手がかりに、かりにこう解釈しておく。 十は一の発展の極で、一から十までで完結したひとつの環を成す。[…]したがって新しい円環の始まりを意味している。

ユング『空飛ぶ円盤』p.101

ここでユングは「十一と八」の「」が「曼陀羅における個性化の象徴」であることを指摘する。胎蔵曼荼羅の中台八葉院のように八項関係、二重の四項関係こそ、二項対立関係を対立させ四項関係をつくり、さらにその四項のあいだを過度に結合することなく過度に分離することなく、分けつつ繋ぎ繋ぎつつ分けるように動く第二の四項関係で結びつける。こうすることで、私たち人間は表層の分別心が作り出す諸々の二項対立たちをそのまま転用=ブリコラージュして、意識的自覚的に「マンダラ」を、「丸いもの」をシミュレートすることができるようになるのである(曼荼羅加持)。

十一と八

ちなみに11について、これも「八」と同様に、ユングが指摘する通り「完結したひとつの環」の象徴であるだろう。なぜ「11」が「丸いもの」の象徴になるのか、ユングも書いている通りいまいちよくわからないのであるが、もしかするとこれ、11をローマ数字にするとよいのかもしれない。

「XI」は、つまり「十」字と「/」の組み合わせである。

これが丸と異なるものではなく、おなじものであることはいうまでもない。

そしてまた「」は、上で書いてきた

β=/=β
||    ||
/    /
||    ||
β=/=β

Δ/Δ
||  ||
Δ/Δ

にかかれている「」である。つまり、ありとあらゆる二項対立関係を作り出す、「分ける」はたらき、分節する動き、絶対無分節が分節する動きである。

そうると「十一と八」は

/ を組み合わせて 十 にして、

のようにする、ということを、無意識が表層の分別心の言語に写像して、言わんとしているのかもしれない。

あなたは十一と八まで生きるでしょう

これは生/死を分ける寿命の宣告ではない。

人間が人間として十全生きるということは、マンダラを建立することなのです=諸々の分別の先鋭化に苛まれつつも全体性を回復しようと伸び縮みすることなんですよ、と、自己がセルフが、自我に教えてくれているのであろう。

ユングも上の引用に続く箇所で次のように書いている。

見覚えのない若い女性は、補償的なアニア像と解釈してさしつかえない。それは人格に女性的な特徴を加えることによって、いわゆる影よりも完全に無意識の相を表わしている。

アニマ像が最も明膝に現われるのは、原則として意識が自我余すところなく知っているときで、女性的特性がその人格にまだ統合されていないとき、心理学的な要素として最大の影響を及ぼす

もしこれらの対立物が統合されずにいるなら、全体性は成立せず全体性の象徴としての自己はまだ意識にのぼらない

しかし、もし自己が布置されているなら、それは投影のなかに現われる

もっともその本来の姿は、この夢の場合のようにアニマによって覆われていて、アニマからそれと察するだけである。

落着きと着実さを備えたアニマは、興奮にかられている自我意識に向き合って、八という数をあげながらUFOの投影に現われている全体性、すなわち自己を指し示すのである。

ユング『空飛ぶ円盤』p.102

夢見者とはっきりと対峙する「見覚えのない若い女性」。

この対峙するということ、しばしば向かい合いながら双方動かない状況、向かい合う二人の間の距離が大きく広がったり近づいたりせずにつかずはなれずの距離が保たれていること。このとき、対峙する二者の間の距離を直径とする円の存在が示唆される。

夢見者とアニマが、遠くへ分離したかと思えば極端に近づたりするという、二者の間の距離が激しく伸縮するのではなく、両者ともうごかず、対峙して、睨み合って、その距離がほとんど変動しない状態。じつはこれもまた、意識的にはそうと言われなければ見逃しがちであるが、直径の存在が円の存在を示唆する程度には「丸いもの」なのである。

+ +

さて、ではこの「見覚えのない」と「夢見者」が対峙している様相は、それだけで全体性願望が達成された、個性化に至った状況なのだろうか?

この問いにたいするユングの答えは否である。

夢見者にとって、対峙する相手の女性が「見覚えのない」者、つまり夢見者自身との関係が不明な、ある意味で「遠い」存在であるとき、両者の間の距離はまだ引き続き伸びたり縮んだり振動しつづけたままである。

夢見者とペアを組む相手が「」であるうちは、両者の距離は激しく伸縮し、その間に付かず離れずの均衡は定まり難い。夢見者は影から逃げようとしたり(過度な分離)、影が硬直している夢見者に激しく迫ってきたり(過度な結合)するのである。

それに比べると、夢見者とペアを組む相手が「見覚えのない若い女性」であるとき、両者の間の距離の伸び縮みは「影」の場合に比べてより均衡に向かっている。上にも提示した神話における分離と結合の様相の転換の図でいえば、「影」が出てくる時の心の伸縮の様相は図の左寄りのほうで、「見覚えのない女性」が出てくる時の心の伸縮の様相は、図の中央左寄りあたり、である。

このとき「見覚えのない女性」と夢見者が向き合っている時、夢見者は「自我」についてはすでによく知っている(和解しており、逃げ回ったり、追い回してなじったりする必要が亡くなっている)が、とはいえまだ人格の全体性の統合には至っていない。

これが仮に全体性に統合されると、この女性はもはや「見覚えのない」者ではなく、夢見者自身と異なりながらも異なることのない者になる

この影とは和解し、アニマがその姿を現しながらも、まだ、夢見者自我と全体性のもとに均衡していない(同一円周上で常に等距離を保つ関係になっていない)時、「心理学的な要素として最大の影響を及ぼす」とユングは書いている。この時、全体性は「投影のなかに現われ」る。ただしその全体性はマンダラ状の原型イメージではなく「この夢の場合のようにアニマによって覆われ」たものとして経験される。

そしてこのアニマは、夢見者自我に対して、全体性の象徴=マンダラを、直接的にではなく、「それと察することができる程度の様相で示すのである。その察する程度の様相がすなわち、上の夢では「八という数」であり、ことによるとXと/を示唆しているのかもしれないがよくわからない「11」なのである。

夢見者はUFOに遭遇し、その美しさ、荘厳さに圧倒されながらも、周囲の人々の自我たちの意見に流されて、UFOから逃げようとしたり、隠れようとしたりしている。

つまり、UFOを、マンダラを、他でもない夢見者自身の「自己」として生きるというようなことにはまだ思い至っていない。

そのことを、このアニマの少女は「それと察することができる程度の表現で夢見者の自我にさりげなく伝えているのである。



UFOを自分のものにする夢
UFOの主役になる夢

ユングが『空飛ぶ円盤』で取り上げている、別の夢も見ておこう。
こちらの夢では、先ほどの少女との対話の夢よりも、さらに全体性に向かう均衡の度合いが高まっている。
それは夢見者が、UFOもののSF映画の主役になる、という夢である。
UFO映画の主役になる。
プロデューサーたちと争いつつも協力して、UFOの映画を撮っていく。

ここで夢見者は、UFOから逃げ惑ったり、隠れたりしようとはしない。むしろ、UFOをおのれのものとして、試行錯誤ならが動かしていこうという傾向にあると言える。

<夢、その六〉

私は、たぶん男と思われる人といっしょに外に立っていた。
そこは円形の、
街の中心部か広場だ
った。

夜で、空を見上げていると、突然何か円いものが、螢光を発しながら遠くのほうからこちらに向かってくるのが見えた。
近づくにつれてそれは大きくなり、私はこれが空飛ぶ円盤だと思った。
それは巨大な円い光の輪でしまいに上空をすっぽり覆ってしまった。



近づいたために、その上をまるで船の甲板を歩くように行き来している人たちが見えた。初め、これは何かのトリックだと思ったが、やがて本当なのだと考えた。

私が後ろを振り向いて上を見上げると、だれか人がいて、傍に映画の映写機があった。そこにはホテルのような建物があって、この人たちは上のほうの高いところにいて、空にこの場面を映写しているのだった
私はこのことをまわりの人たちに教えてやった。





それから今度は、私はスタジオのようなところにいた。
二人の「プロデューサー」(たがいに競争相手らしい)がいて、二人とも年輩であった。私は二人のあいだを行ったりきたりしてそこで 撮影する私の役柄について打合せをした。たくさんの少女も共演することになっていて、なかには知っている人もいた。

プロデューサーのひとりがこの空飛な円盤ものの指揮を取り、 二人でサイエンス・フィクション映画を作っているのだった
私はその主役に定められていた。

ユング『空飛ぶ円盤』pp112-113

ユングによれば「この夢はカリフォルニアという、いわば古典的な「円盤の本場」からのもので、夢の主は二十三歳の女性である」とある。

この夢は冒頭からいきなりマンダラに入っている

女性である夢見者は、「たぶん」男性である人と「いっしょに」「立って」いる。このいっしょに立っている、というところが重要である。つまり男女二人の人間が、歩いていない、走っていない、動いていない。つまり二人の間の距離は伸びたり縮んだりと変化しておらず、等距離を保ち続けている。

β   β

そしてこの二人が一緒に動かず立っているのは「円形の」「広場」のような場所であった。

夢の冒頭、夢見者は、すでにマンダラ状の「円」すなわち「四」の均衡のなかにいると思われるが、ここではまだ「円」は意識されていない。

β   β

β   β

揺れ動く振り子を静止させる

この場面について、ユングは次のように書いている。

この女性は四方を見渡す地点にやってくる。それは対立物への分裂を補償し、分裂を克服する手段となるべき中心である。しかし一点に集中した状態を得るためには強い興奮が必要であって、興奮のなかで、左右の対立物の間を自動的に揺れ動く振子は静止し、二律背反のない状態が得られる

ユング『空飛ぶ円盤』p.117

夢見者がいる「広場」は、「四方を見渡す地点」である。夢の中で、四方を見渡すことができるひらけたところにいるということは「対立物への分裂を補償し、分裂を克服する手段となるべき中心」におのれがいることを自覚できはじめている状態だということになろうか。

ここでユングはマンダラを示現させる上での要訣を述べている。
まずこの広場の中心、「四方を見渡す地点」にいることを自覚し続けることは「一点に集中した状態を得る」ことであって、それには「強い興奮が必要」であるという。

分けて選んでこだわる自我の分別に任せてしまうと、自/他を分けては、他と分離している状態を結合状態に転じようと「縮」の動きをとり、そうかと思えばまた他との結合を分離状態に転じようと「伸」の動きをとり、と、分離と結合の伸縮で右往左往するばかりになる。分離するでもなく結合するでもない緊張モードを高めておくために「強い興奮」が必要である。

そしてそのときはじめて「興奮のなかで、左右の対立物の間を自動的に揺れ動く振子は静止」することができる。

左/右の「対立物」の「間」を、自動的に揺れ動く振子を静止させる。

ここでユングが「自動的に揺れ動く振り子」と書いているところは、まさにマンダラを動的に理解することの核心である。

自我は、こちらの用語で言えば、分離と結合を分離したり結合したりと伸縮し続けるのであるが、これが「自動的に揺れ動く振り子」のあり方である。そしてこれを「静止」するとは、すなわち分離するでもなく結合するでもない「緊張」して動きつつ止まる、止まるという動きを動かすモードである。

この時はじめて、人は「二律背反のない状態が得られる」ようになる。

二律背反のないとはつまり、分けて選んでこだわらない、ということである。分けるのは構わない。選んでもいい。しかし、どちらを選んでもよいしどちらを選ばなくてもよい。

こうした張り詰めた状態、緊張において、分別する意識を保ったままそこにマンダラの「円」を浮かび上がらせる「二」つまり「四」付かず離れずの均衡が維持される。

まさに夢見者は、この「広場」で、男/女で一緒に立ち止まっている付かず離れずの均衡状態において、「円」であるUFOを意識することになる。

夜で、空を見上げていると、突然何か円いものが、螢光を発しながら遠くのほうからこちらに向かってくるのが見えた。

近づくにつれてそれは大きくなり、私はこれが空飛ぶ円盤だと思った。

それは巨大な円い光の輪でしまいに上空をすっぽり覆ってしまった。

UFOは「遠くのほうからこちらに向かって」くる、「近づくにつれてそれは大きく」なる、という様相で、夢見者の全体を包み込むようになる。

この円盤の接近が、

夢見者 対 UFO
||
主観 対 対象

という、対立する二項の間の関係ではないことに注意しておこう。
もちろん、UFOは最初はあたかも夢見者の主観的意識にとっての対象物のような姿で、夢見者の認識の対象として、夢見者から「遠く」離れたところに現れるが、それは次第に接近し、そして夢見者を包み込む。夢見者だけではなく、広場で一緒に立っているもうひとりの「おそらく男性」も包み込む。

この包み込みにおいて、夢見者とUFOの関係は主/客の二元的な対立の両極に分離されたものではなくなっている。そうではなくて、この「広場」の「上空をすっぽり覆って」いるUFOは女性である夢見者の自我と共にいる謎の男性からなる対立関係を包み込んでいる。この場合のUFOが、二項対立の一方の項ではなく、二項対立関係そのものを包含する全体性であることに注目しておこう。


さて、この上空を覆い尽くすUFOを、恐ろしいもの、得体の知れないもの、つまり「感情」機能にチューニングされた自我によって、結合状態から分離状態に切り替えなければならないものと分別してしまうのが、しばしば通常の自我がやりがちなことかもしれないが、この夢見者はそうではない。

この夢見者は、このUFOを、おのれから分離すべき対象だとはみなさない。

むしろ、UFOを、とても馴染みのある、身近なもの、何の脅威でもない、特にそこから分離する必要もないものとして受け入れる。

即ち、このUFOは広場を囲む「ホテルのような建物」から「空に投影された映像だったのである。

このUFOは、未知との遭遇でもなく、驚異の宇宙人でもない。

実に身近な「映画」の一種、現代の技術でいえばプロジェクションマッピングのようなものだったのである。映像技術によるビジョンであれば、逃げ出す必要はない=分離しようと焦り狂う必要はない。その映像に没入して、次に何を見せてくれるのか、楽しみ味わったら良いのである。



ここで場面が変わる。

夢見者は、「広場」ではなく映画の「スタジオ」にいる。

先ほど、空に投影されたUFOが映画のような映像であったことがすでにわかっている。そうなると映画スタジオとは、さきほどのようなUFO映像を生産する、作り出す、生み出す場所だということになる。

夢見者の女性は、なんとここで、いわば「UFOクリエイターズ」のひとりとして活動するのである。

この映像作本としてのUFOづくりは、夢見者が「ひとり」で行うものではない。映画のように、複数のスタッフが協力してこそ、UFOを作ることができる。

まず夢見者は「二人の「プロデューサー」」を意識する。

おもしろいことに、この二人の「プロデューサー」は、「二人とも年輩」で、つまり一見すると似たような、同じような二人に見えながら、しかし互いに「競争相手」であるという。一つに結合しながら二つに分離している。分離するでもなく結合するでもない。異なっているでもなく異なっていないでもない。非同非異の関係がここにある。

β →←・→← β

そして夢見者は、この「二人のプロデューサー」の「あいだを行ったりきたり」する。

β ←→・←→ β

非同非異の二人の間であちらからこちらへこちらかあちらへ、一定の振幅で振動する。この一定の振幅を描く振動を通じて、夢見者の自我は「私の役柄について打合せ」をする。

夢見者の「私」、自我が何者であるのか(=役柄)。それはこの非同非異の「二人のプロデューサー」の間を行ったり来たり定常的に振動する動きを通じて、仮に設定されていくのである。

プロデューサー1 ←夢見者→ プロデューサー2

そしてこのスタジオに居るのは、もちろんこの三人だけではない。

共演者がたくさん居るのである。
共演者は、夢見者と同じような「少女」たち大勢であった。

そして夢見者がこの少女たちのうち「なかには知っている人もいた」と報告しているところも面白い。知っている、馴染みの、つまり警戒して分離する必要のない感じがする=しばらく一緒に結合状態にあっても大丈夫そうな人が混じっているのである。夢見者にとって既知の相手もまじる共演者の少女たちは、どうやら夢見者の自我と非同非異の関係にある。

ここに次のような四者の関係がある。

夢見者

プロデューサー1       プロデューサー2

知り合いの少女たち

そして夢の最後で、この四者の役割がはっきりする。

「プロデューサーのひとりがこの空飛な円盤ものの指揮を取り、 二人でサイエンス・フィクション映画を作っているのだった
私はその主役に定められていた。」

プロデューサーらしき人は二人いて、競争関係にあったわけだが、やはりそのうち一方が指揮を取る、監督のような役割であることがわかる。そうなるともうひとりのプロデューサーは、監督ではないということになる。プロデューサー二人はよく似た二即一のペアに見えたが、その役割には

主/従

の区別がある。

この主/従の区別は夢見者と他の共演者の少女たちのあいだにもある。

夢見者こそがこの映画の主役である。
そして共演者の少女たちは主役に対する脇役である。

主役(夢見者)

監督(プロデューサー1)       プロデューサー2

知り合いの少女たち

四即一の関係のなかで、自我は消えてしまうことはなく、しっかりと自分の役柄〜役割を演じようとしている。そしてそれはひとりよがりの俺が俺がの自我ではなく「監督」と相談しながらその役柄を作り上げていく、謙虚で自省的な自我であるようだ。

監督の背中にご注目

自我肥大

ところで、UFOのような全体性、「円」を意識したとき、しばしば自我は、単純に「自我」そのものをイコール円盤、UFO、「円」だと短絡してしまうことがある。それは「危険」なことにもなりうるとユングは書いている。

この種の体験は、かならずしも危険を伴わないわけではなく、しばしば個人の自我肥大(Inflation)をもたらしたりする実際には背景にひっこめられていたはずの自我(Ich)が、拡大し高められたかのように妄想するのである。

そして足もとの大地を失わないためには、自我は肥大(例えば選ばれた者だという感情)を必要とさえするようになる。しかしまさにこれこそが、自我をその基盤から浮き上がらせる自我肥大にほかならない。

高められたのは自我なのではない。
それよりも大きな存在が姿を現わしたのである

それはすなわち自己(Selbst, self)であり、自己とは人間の全体を現わすひとつの象徴である
自我はしかし、自分こそが全人間・全人格なのだと思いたがるものだから、自我肥大の危険を免れるためには相当の努力を払わねばならない

ユング『空飛ぶ円盤』p.128 ※改行は引用者による

自我はあくまでも、円に内接する正方形の四つの極のうちの「一つ」でしかない。

この夢の夢見者が正確に見ているように、自我はあくまでも四人一組のなかの一人なのである。

しかし、しばしば、自我はそのことを忘れてしまうことがある。

自分がひとりだけで、他の三者とは無関係に、自ずから自立単立独立していると思い込むことがある。そのいわば、無意識の消息に耳を澄ましたり目を凝らしたり気配を感じたりすることができない状態の自我が「UFO」すなわち「まるいもの」に出会ってしまった時、自我は単純にこのUFOをみずからと同一視し「自我(Ich)が、拡大し高められたかのように妄想する」ことになる。

これが「自我肥大」である。

自己の全体性の均衡ではなく、四のうちの一つである「自我」の肥大。

四のうちの一極だけが肥大化してしまうと、四の均衡は崩れ、また自我だけが、それも以前にもまして巨大化した自我だけが、この世界にごろりと転がり出ることになり、そうしてあちらと結合したいこちらと分離したいとゴロゴロと動き回って大騒ぎすることになる。残念な話である。

こうして「肥大」した「自我」は、「四」から、円から、即ち自我の「基盤」である全体性から、ますます「浮き上が」って、遠ざかっていく。

自我と自己

このような自我の肥大、自我の思い上がりの「危険を免れる」ために、なによりもまず「まるいもの」の正体を知っておく必要がある。

高められたのは自我なのではない。
それよりも大きな存在が姿を現わしたのである

それはすなわち自己(Selbst, self)であり、自己とは人間の全体を現わすひとつの象徴である

ここは重要なので再度引いていこう。

空飛ぶ円盤、UFO、丸いものは、自我ではなく、自己の象徴である。

自我は「俺が俺が」の「一人」であるが、自己は強いて言えば少なくとも四人一組である。それも、「思考」「感情」「感覚」「直観」それぞれ全く別々の分別をする四人の一組である。

心の全体性と四機能への分離について詳しく見ていこう。

ユングによれば、人類の心は、単純単一均質なものではなく、いくつかの異なる機能がそれぞれ別個に働いている。ユングはそれらを密教の五智如来のマンダラなども参照しつつ「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能に整理している。

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別

この四機能について、ユングは『空飛ぶ円盤』でも次のように言及している。

無意識内容がひとたび現われると、つまり意識の領域に入ってくると、それはまたすなわち「四」に分裂したことにもなる。なぜならそれは意識の四つの基本機能によってはじめて経験の対象となりうるからである

それは感覚によって存在を認められかくの如きもので他のものではない思量分別され(引用者注:「思考され」)「心地よい」とか悪いとか受けとられ(引用者注:「感覚され」)、さらにどこから来てどこへ行くであろうと予感(引用者注:「直観され」)される。この最後の予感のプロセスは、感覚によるものでもなければ、思考によるのでもない時間における広がりや変化は、すなわち直観の対象にほかならない。

ユング『空飛ぶ円盤』pp.180-181

四機能は、個々バラバラに独立して動いているのではなく、もともと、といいうか「意識の領域に入」る手前では、分かれているでもなく分かれていないでもない様相にある。それが「意識の領域に入ってくると」「「四」に分裂したことにもなる」というのが実にマンダラ的な理解でおもしろい。

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は安定した調和のとれた状態になる

一方、四つの心的機能間の距離が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できないことになる。

そして私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。

例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。

あるいは例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。

そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。

上の引用にある「困惑や無力感をともなう状況」である。

+ +

自我は、自らが孤立しているのではなく、全体の均衡の中で、より意識的自覚的に分別すれば四人一組の中で、自分の分別(あれと分離しこれと結合しよう!)を行いつつも、それとは全く違う分別をする他の機能たち(あれとは結合してこれと分離しよう)の主張にも耳を傾け、横目に眺めている必要がある

耳を傾けるといっても、それはもちろん、他の機能の言いなりになることではない。

自己の実現

思考なら思考で、はっきりと思考の分別(どうあるべきでどうあるべきでないか)を行いながらも、しかし例えば感情が、その傍らで思考の分別と相容れない分別をする(あるべき方は嫌いで結合したくない、あるべきではないほうが好きで結合したい)。さらに残り二つ機能もそれぞれの分別をしている。

みんなある意味それぞれ好き勝手に違った分別をする(分けて、選んで=結合する方と分離する方を選んで、こだわって=結合すると決めた方と結合しつづけ、分離しようと決めた方と分離し続ける)なかで、自我は、四者の分別を安易に“統一”などすることなく(そのようなことをしたら、四のうちのどれか一つだけを選ぶことになる)、四つのまま一つに一つでありながら四つに、均衡したりしなかったりする様を横目に眺めて意識し続ける

四機能の均衡に、ただ想いを馳せる

ここで四者の均衡を「どのように実現すべきか」を「自我」が「思考」しようとする必要はない。

四者が均衡したりしなかったりするのは自我によるコントロールに依ることではなく、「自己」を織りなすいくつもの分節機能の分けたり繋いだりする動き、分離したり結合したりする動きによる

「自我」が主/客の分別の「主」の側に立って、均衡を「対象物=客体」として立ててそれを制御したり、コントロールしたりしよう、などと「思考」することはできないのである。

もし仮に、自我が「思考」の機能で生きているならば、思考の分別の伸縮に浮かび上がるUFOの影のようなものを、横目に眺め続けるようなことでよいのである。ユングの次の指摘は非常に重要である。

自我はしかし、自分こそが全人間・全人格なのだと思いたがるものだから、自我肥大の危険を免れるためには相当の努力を払わねばならない

自我肥大の危険を免れるためには相当の努力。
それは分けて選んでこだわろうとすることに、全力で抗することである。

いや「抗する」というのは誤解を招く表現かもしれない。分けちゃダメだ、選んじゃダメだ、こだわっちゃダメだ、ということでもない。

分けたらいいし、選んで良いのである。もちろん大いにこだわって良い。

それと同時にふと「・・・という、役柄を任されているんだよね、いまは。ねえ、そうでしょう?監督」という感じで、自我以外の機能たち、自我と同じように分けて選んでこだわってやまない連中に、一声かけてはなしの腰を折るくらいのことである。

・・・

この真剣なゆるさ。

この落ち着いた身軽さ。

この柔らかさ。

これを演じるのは「自我」にとっては「相当の努力」を要することであるかもしれない。

いや、そもそも、分けて、選んで、こだわる、という述語もまた、その主語があらかじめ存在するかのような感じを与えてしまうであれば都合が悪いかもしれない。

  • 分けるというか、勝手に分かれる。

  • 選ぶというか、勝手に選ばれている。

  • こだわるというか、気がつけばいつも同じ方ばかり見ている。

分けることも選ぶこともこだわることもその主語が出現する前に、分離したり結合したりする動き、述語的様相が展開しているのである。主語的なものはこの述語的様相の伸縮する動きが意識表層に、つまり特定の意識の機能がものごとを分け終わったあとのモードへと、投げかけられた影のようなものであった。β

大切なことは「不随意の現象」を待つこと、不随意の現象を傍観することであるとユングは書いている。

このような危険から人を救うものは、個人を抑圧したり破壊したりせずに、むしろ全体性に導くような感動しかない。

しかしそれは意識的な人格に無意識的な人格が加わるときにしか起りえない

この統合過程はある程度われわれの意志の及ぶ範囲にあるが、それ以外は不随意の現象である。

意識で到達できるのはせいぜい無意識的な事象の近辺までで、そのさき起ることはただ待つほかなく、傍観するほかない

ユング『空飛ぶ円盤』p.129

このような危険」つまり先ほどの自我肥大、自我があれこれ主語の位置に立って、全体を思うように分別しコントロールできると思い上がって誤解して、結局絶望の淵に叩き込まれるという危険を回避することができるのは「感動」であるという。感動、それも「個人を抑圧したり破壊したりせずに、むしろ全体性に導くような感動」である。そしてUFOを見たという体験は、このような感動のひとつなのである。

そしてこの感動というのは、「不随意の現象」であるという。
つまり、ああしようこうしようと主語的な自我が画策してどうにかできることではない。「意識で到達できるのはせいぜい無意識的な事象の近辺まで」である。意識は無意識を支配して制御するようなことはできないのである。

では、何もできない時、自我はいったいどうすればよいのか?

このような問い自体が思考する自我らしい問いであるが、できることは、強いていえば、「待つ」ことであり「傍観すること」である。

この待つこと、傍観することは、意識的自我の分別を走らせつつも、その分別を転用して不可得モードに入る、ということに他ならない。

そうして待っていると、傍観していると、一体どうなるのか。

そういうことをあらかじめ思考しても仕方ないのだが、とはいえ「個人を抑圧したり破壊したりせずに」行くためには、思考してはいけないとこだわる必要もない。

待っていると、何か、何者かがやってくる。

彼女ら、彼らは、「意識的な人格」に加わろうとする「無意識的な人格」である。

そうして四機能それぞれが、経験的で感覚的な区別が不可得な微振動に、即ち分かれるでもなく別れないでもない、分離から結合へ結合から分離への伸縮が付かず離れずの微振動に均衡する様を、いわばマンダラをイメージするかのごとくに眺めていることができるならば、そこに主語的なものの命令も管理もコントロールもなく、おのずから、「自己」の姿が不生不滅するのであろう。

まさに弘法大師空海が『即身成仏義』で「四種曼陀各々離れず」と説いているとおりなのである。





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