見出し画像

UFO(空飛ぶ円盤)は現代の「マンダラ」である-C.G.ユング『空飛ぶ円盤』を読む~真如の月 まどかならん(1)

C.G.ユング著『空飛ぶ円盤』を読む。

この本は、ユングの晩年の著作である。

ユングが「個性化」、特に、人の心における意識の四機能が調和(「思考」「感情」「感覚」「直観」の協調)ということについて深い洞察に達した時期の著作である。

それにしても、「空飛ぶ円盤」とは、興味深いタイトルである。

人間の心の深層について、深く探究した心理学者のユングが、
晩年に至り、突如
宇宙人との遭遇の話を始めるのか!?

・・・なにやら不安になるかもしれないが、しかし、安心して欲しい(?)
この本で論じられるのは宇宙人ではなく、地球人の話である。

とはいえ、そこで問われていることをよくよく考えていくと、地球人とは、どうやら宇宙人に勝るとも劣ることない謎めいた存在であると思えてくる。

地球人の「心」とは

地球の人類の心の深みの動き(=表層の意識が直接自覚することがほぼ不可能な動き)のパターンが、現代という時代において、他の時代のそれとは異なる象徴的表現を巻き込みながら、個々人の差異を超えて共鳴し、大きなうねりとなって動いている。そしてこのうねりが、「UFOを見る」という主観的な経験を出現させる、というのがユングの『空飛ぶ円盤』の話である。

現代の神話 Ein moderner Mythus

この本『空飛ぶ円盤』の原題を見ると

"Ein moderner Mythus von Dingen, die am Himmel gesehen werden"

とある。moderner Mythus、つまり「現代の神話」である。

UFOについて語り聞くことは、現代の「神話」なのである。

ちなみに、von Dingen は「“もの”について」である。
その「もの」がどういうものであるか、それを説明するのが「die am Himmel gesehen werden」である。これはこの意味するところは「空の上に(am Himmel)、見られる(gesehen werden)」ということである。

UFO、あるいは空にみられる丸くて光るものについての語りは現代における「神話」であると、ユングは論じているのである。

この本でユングは、UFOをめぐる人類の経験の表現を、
(1)「噂話」として語られ広まり信じられるUFO目撃談
(2)「」にみられたUFO
(3)絵に描かれたUFO
という、三つの事例ごとに検討していく。

↑全てAI生成画像

噂話、夢、神話

噂話も、夢について意識的に報告する言葉も、そして絵も、人間の言語能力やイメージ形成能力、つまり人間の「心」が生み出したものである。ユングは、この本で、私たち人類の「UFOについて語り聞くという経験」、「UFOを見る(見たと確信できる)経験」について探究する。

この『空飛ぶ円盤』でユングは、物理現象(?)としてのUFOではなく(つまり、長さを測ったり、重さを量ったりできる、地球人類の科学では未だに作ることができない脅威的な分子構造の材料で建造された円盤状の乗り物としてのUFOのことではなく)、人間の心的な現象としてのUFOを扱う。

物理的に測定したり観測したりすることができるUFOが客観的な事実として実在するかしないかという問題は傍に置いて、「空に光る丸いものが見えた。あれは絶対にUFOだ」と確信し報告する人がいるということ自体が、心理学的な客観的に報告された確かな資料=“事実”なのである。

AI生成

まるいものの幻視ー神話マンダラ

なぜ、われわれ人類は、UFOとして報告される“もの”=“空に浮かぶ丸いものを見るのか、というのがユングの問いである。

UFO体験にともなう心理的体験の中心をなすものは、円いものの幻視ないし伝説である。

ユング『空飛ぶ円盤』p.209
※ページ数は朝日出版社版(1976)のものである。以下同じ。

ユングが扱うUFO体験とは、空にみえる「まるいもの」について、幻視し、語る、という人間の心的活動である。

まるいもののビジョン。そして伝説。
まるいものについて、語ったり、聞いたりすること。
この主観的に意味深い心的体験がこの本での分析対象となる。

UFO=マンダラ?!

上の引用に続けてユングはさらにおもしろいことを書いている。「曼荼羅」という言葉が登場するのである。

それ(※引用者注:空に幻視されるまるいもの)は全体性の象徴であり、曼陀羅形成のうちにその存在を告げる元型である。曼陀羅は普通、困惑や無力感をともなう状況にあって出現することが経験から知られている。そのような状況によって布置される元型は秩序の図式を表わしている。それはたとえば心理的な十字照準、つまり十文字で四分割された円として、いわば心の混沌の上に照準を合わせる。それによって個々の心的内容はおのおのその所を得、ばらばらに拡散していた全体性は、この包みこむ円のうちに収められ守られるのである。そこで大乗仏教圏における東洋的曼陀羅は、宇宙的、時間的、心理的秩序を現わしている。同時にそれはヤントラ、すなわち心の統一を助ける道具でもあるとされている。

ユング『空飛ぶ円盤』p.209

「全体性の象徴」、「曼荼羅形成のうちにその存在を告げる元型」というところに注目しよう。なんとなんと、UFOのような、人類が「空に幻視」する「まるいもの」は「曼荼羅」なのである。現代版の曼荼羅としてのUFO

ユングが論じる「元型」としてのマンダラとは、単に円形をモチーフに描かれた図形やイメージそのもののことではない。ユングが問題にする元型としてのマンダラは、あの円をベースにした図形や図像そのもののことではなく、それを「形成」する心的な活動である。

「元型」と呼ばれる人類の心の広く深い領域での活動が、私たちの表層の意識にいわばその動きの陰を投げかける時に、私たちの意識は「十文字で四分割された円」のようなイメージを自覚するのである。

元型としてのマンダラ

幻視され、語られる「まるいもの」とは、われわれ人類の心の様々な内容、様々な機能が調和した状態としての「全体性」を象徴するものである。

人間の「心」は、自覚的に意識できる「自我」の部分だけでなく、広大な「無意識」の広がりをもつ。

特にユングは、無意識には、個人の経験に由来する個人的無意識と、個々人のちがいを超えて、人類に普遍的に共有される“元型”と呼ばれる構造、動き方のパターンとしての集合的無意識があると考える。

マンダラ状のパターンを意識の表層にまで浮かび上がらせる無意識の「元型」の動きは、個々人の差異を超えて、いわば種としての人類の心がもともと備えているアルゴリズムというか、基本的な働き方の傾向のようなものである。

ここでユングが「個々の心的内容はおのおのその所を得、ばらばらに拡散していた全体性は、この包みこむ円のうちに収められ守られる」と書いているところに注目しよう。

ユングによれば、人類の心は、単純単一均質なものではなく、いくつかの異なる機能がそれぞれ別個に働いている。ユングはそれらを密教の五智如来のマンダラなども参照しつつ「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能に整理している。

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は安定した調和のとれた状態になる。一方、四つの心的機能間の距離が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できないことになる。

そして私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。

例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。あるいは例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。

そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
上の引用にある「困惑や無力感をともなう状況」である。
これについて、ユングは次のようにも書いている。

分解(引用者注:四機能の分解)によって意識のなかの各々の機能は洗練され、他の機能の制肘を免れるようになる。そしてついには一種の独立をかちえて、おのれの世界を確立するに至る。そこでは、他の諸機能は、主たる機能の隷属に甘んじるほか、容れられる余地がない。しかし、それによって意識はバランスを失っている。思考が優位に立てば、価値判断をする感情は引き退らねばならず、その反対もまたありうる。感覚という現実機能が支配すれば、なによりも直観が排斥されるだろう。直観は手で触れられる事実をいとも簡単に無視してしまうからである。そこで逆に直観が勝つと、 確証のないたんなる可能性の世界を生きることになる。こうした一面的な発達は、専門家にとっては有利かもしれないが、一面性という狭さも生じかねない

ユング『空飛ぶ円盤』p.70

そうした状況に至ると人類の「心」は(自我ではない、自我を含む心の全体は)、無意識のうちに亢進した自我の「機能」を宥め、沈黙を強いられた「機能」の判断にも耳を傾けるよう促すように動く。「ばらばらに拡散していた全体性」を、「包みこむ円のうちに」集め直すのである。

意識の四機能という観点からすれば、「マンダラ」の夢や幻視、あるいは神話的な語りは、意識の表層にたいして、四機能の均衡をとることの大切さを告げているのである。

心は、自ずから「全体性」に向かおうとする傾向を備えている。それは自我が意識的に行なう活動ではない。

マンダラは、心が全体性へ向かうように動くときに、意識の表層に投げかけるパターンである。

AI生成

かつて「まるいもの」はUFOではなく、曼荼羅だった

まるいもののビジョンを自覚するという様式で、心の全体性から、その一部分で硬直化している意識に対し、「個々の心的内容はおのおのその所を得、ばらばらに拡散していた全体性は、この包みこむ円のうちに収められ守られる」ということが知らされるのである。

このまるいものは、単にまるいだけではなく、「十字照準」のように、「四分割」された様相をみせることもある。

そしてそのような「まるいもの」は、現代においてUFOという姿で見られるようになるはるか以前から、すでに多くの人類によってみられてきたのである。その一つの例が「東洋的曼陀羅」である。

そしてユングは、UFOが「曼陀羅」と「ときわめて似通っている」と書く。

目撃された円い物体(円盤状であれ球状であれ)にの原理を応用してみると、深層心理学に通じた人にはすでに馴染みの全体性のシンボル「曼陀羅」(サンスクリット語で円環の意)ときわめて似通っていることがすぐに分る

曼陀羅は決して新しい発明品ではない。いつの時代にもいわば遍在してつねに同じ意味をもってきたし、いままた現代人に、なんら外的な伝統がないにもかかわらず現われているのである。

それは垣をめぐらし、「囲い込む」魔除けの環であったり、石器時代のいわゆる「太陽の輪」であったりする。あるいは呪術の円、あるいは錬金術でいう小宇宙、あるいは魂の全体を包み秩序づける近代的なシンボルとして現われる。

別の論文で述べたことだが、錬金術の歴史が示すように、曼陀羅はここ何世紀かのあいだに次第に、明らかに心理的な全一性を示す象徴になってきた。

ユング『空飛ぶ円盤』p.33

特に東洋で描かれたマンダラは、それを見ながら(観想しながら)瞑想をすることで「心の統一を助ける」ことができると、明白に意識され、利用されてきた。もちろん東洋の曼荼羅だけがマンダラなのではない。魔除けの輪、
石器時代の「太陽の輪」、呪術の円、錬金術の「小宇宙」などなど、マンダラは時代の違い、文化の違いを超えて、人類が活動するところであればいつでもどこでも、よく似ているが異なった姿で、姿を現す。

それはマンダラが「元型」から生じているからである。上にも書いたように「まるいもの」のイメージそれ自体が「元型」なのではない。「元型」はイメージそのものではない。元型は、心の動き方のパターンである。その動きを、自我は何らかの経験的に分別できる物事たちの関係性が近づいたり遠ざかったりする経験として意識するようである。

「元型」が、心の深みで、表層意識の自我が分別感知できないところで動いているということ、その消息意識の表層の一番底に伝わったとき、意識は、「全体性」の象徴としての「まるいもの」を幻視したり、「まるいもの」について語らざるを得ないようになったり、「まるいもの」について他者が語ること(噂話でも)に妙に惹かれ興味を掻き立てられたりするのである。

かつては「東洋的曼陀羅」や「ヤントラ」を生み出していた元型と同じものが、20世紀には、西洋東洋の差異を超えて、世界各地の人々がUFOをみたと報告をしたり、その報告を聞かされて心を動かされたりする現場で動いているのである。

+ +


UFOは思考を「不可得」にする?

心の深層の動き方のパターンである元型が、表層意識によって自覚できるイメージや語りに変換されるとき、まさにレヴィ=ストロース氏が『神話論理』の冒頭で書いているように、「経験的感覚的」に日常身近なところで触れることができる事物や話題を材料として、素材として利用する

そういうわけで、例えば何百年か前のチベットの行者が、空にまるいものを見たならば、それを曼荼羅だと言っただろうし、西洋の錬金術師であればそれを「ミクロコスモス」と言っただろうし、あるいはどこか文化では、それを「太陽の輪」と呼んだかもしれない。そして現代人は、その空に見えるまるいものを、UFOと呼ぶのである。

私たちの「自我」が経験する主観的に意味深い体験としてのUFO現象について、ユングは次のように描写する。

大気圏に昼間あるいは夜間、従来の流星現象とはまったくちがう物体が見られる。流星でもなく、恒星の見誤りでもない。蜃気楼でも、雲の一変形でもない。渡り鳥や気球や球電ともちがう

ましてや酩酊や熱に浮かされての妄想でもなく、証人のうそでもない

原則として、それは一見燃えているか多彩な火のような光を放つ物体で、円型か皿状または球状、まれには葉巻型、つまり円筒状であり、大きさはまちまちである。

ときに人間の眼に見えないことがあるが、そのかわりレーダー上に点となって現れる。

この円型というのがまさに無意識が好んで夢や幻視などに現出させる形態なのである

この場合それは、 ひとつの思想を目に見える形で現わしたシンボルと見なしてよい。

その思想はまだ意識的に考えられているわけではなく、潜在的に、つまり見えない形で無意識のなかにあって、意識化の過程を経てはじめて眼に見えるものになるのである。

ユング『空飛ぶ円盤』pp.32-33
改行は引用者による

私たちの自我が「思考」か「感覚」か「感情」か「直観」か、どれか一つの機能だけで、複雑に動く日常の生活を切り抜けようとするも迷路に迷い込み行き詰まってしまった時、「心」の全体性は、「他の機能も統合したほうが、うまくいきますよ」と知らせてくれる。

私たちの心は、「全体性」を目指して、その一部分である私たちの「自我(部分でありながら、俺が俺が!私が私が!と自己主張して主導権を独占しようとしてやまない主語)」に対して、仮に言うならば「いやいや自我さん、他の三機能、自我さん自慢のこだわり機能に、反対したり、文句を言ったり、邪魔をしようとしたりする他の機能たちとも、一緒に協力してやっていきましょうよ。なんといってもわれら四人で一人なんですから。一緒に協力ていかないと、カラダがボロボロになりますよ」という具合に、教え、知らせようとする。

とは言え、この知らせるというのが難しい

この「知らせ」を実現するためには、表層の意識(つまり自我)が自覚できて理解できる言葉かイメージを使わざるを得ないのであるが、それはつまり、自我を担っている分別の機能(思考か、感覚か、感情か、直観か)が、理解できるような表現が必要になるということである。

さらに、自我を担う機能に理解させた上で、さらに自我を担う機能の分別では「処理しきれない」、自我を担う機能による分別を「超えたなにか」があり、「しかもそれに耳を傾けるべきなのだ」と納得させないといけない。

言葉やイメージは、表層の意識においては、自我を担っている機能による分別に支配されている。そこで、他の機能や、「心」の全体性からのメッセージを言語化したり幻視したりするときには、まず、自我を担当しているいずれかの機能による分別に適合した姿をとることになる。自我を担当している主要な機能が「ありえない」と一刀両断してしまうような知らせ方では、聞く耳を持ってもらえないからである。

その上でさらに、その知らせは自我を担う機能だけでは、うまく扱いえないもの、わからないもの、理解を超えたもの、不気味なもの、不思議なもの、謎なもの、という感じを引き起こす必要がある。

この時、

遠い宇宙の科学技術が高度に発展した惑星から
宇宙人が、UFOに乗って、地球にやってきている!

というのは好都合なのである。

AI生成!パロディですよ。

宇宙のどこかの高度な科学文明からのコンタクトという語りやイメージは、しばしば「思考」にばかり頼りがちな現代人の合理的自我からすると、事実かどうかを判断することはできないが、全くあり得ないかと言われれば、そうも断言できず(人類だって、急速な科学技術のイノベーションを経験しているのだから、宇宙のどこかに地球の人類以上の高度な科学技術をもった生命体が存在する確率は、ゼロとはいえない!)、しかし、宇宙人と直接握手したり会話したりすることが日常的ではない以上、素朴に実在するとも断定できず。やはり「」。という具合に、思考できないことはないが、思考による判断を超えたこととして経験される。

AI生成!!パロディですよ!

UFOを見たという語りや、UFOを捉えたとされる解像度の低い写真は、「UFOとは何であって/何でないか」という「思考」機能による分別を大いに亢進させるが、しかし「思考」は結局のところ、UFOが何であって/何でないか、はっきりと分別を確定することはできないのである。

♠️

手で触れることはできないが、目で見ることはできるUFOは「感覚」も不可得にする

あるいは、しばしば「思考」は「感覚」を頼りにしようとする。

感覚は、まさに感覚器官に捉えられる様相だけで「ある/ない」を分別しようとする。「思考」が「何であるか/何でないか」の分別に迷った時、すかさず「感覚」を補助機能として呼び込む場合がある。手に触れたり目にみたりできるものは「あるからある」と確信することができる。

ところがUFOは、この「感覚」の分別をも軽くあしらう

UFOというまるいものは、色や形や、光り方、動き方、そのサイズなど、様々な視覚的な「感覚」による情報を伴ってビジュアライズされ、言語的に報告されるが、しかしUFOの噂を聞き、写真を見せられる私たちは、自分の指で直接UFOに手で触れてみたり、噛んでみたり、頬を擦り寄せてみたりすることはほぼ不可能である。



右の人:「へい、みろよ!この灰皿、重力に逆らって奇妙な重心で浮かびやがる


左の人:「これでUFO画像を作ってマネタイズしようぜブラザー!」


円盤型小型宇宙船の中の宇宙人:「巨大異星人に捕まった!もうだめだ…」

強いて言えば、空を飛んでいる状態のUFOであれば、これを書いている私自身も、それっぽいものを目撃したことはあるが、しかしそれも、「本当は地球人の飛行機なのに、みまちがえたのではないか?」「ソ連の極秘新型爆撃機なのではないか?」「イーロンマスクの人工衛星なのではないか?」「某国の事実上の人工衛星なのではないか?」といった具合の疑問を呼び起こし、UFOであるかUFOでないかを完全には分別できない曖昧さがのこる。
つまり、見えるがはっきり見えない。

見えているとも見えていないとも言えない
見えているか見えていないか、どちらか不可得なのである。UFOは。

事実上のスターリン(ク)

経験的感覚的分別で捉えられない両義的媒介項としてのUFO

この曖昧さ。主に視覚的に「感覚」できるし、言語やイメージを用いて意識的に「思考」することができるが、しかしそこになにであるかないか不可得な曖昧さが広がり続ける。この曖昧さこそ、心の全体性が、意識の表層を独占しようとする自我が頼りにする機能をときほぐすうえで有益なのである。弘法大師空海が『吽字義』で書かれているように、「不可得」を四つ付かず離れずに円に内接(外接)する正方形を描くように配置することで、動的に多様なマンダラを自在に生成させることができる

ユングはこの本の冒頭に、次のように書いている。

この種の対象は、ほかに例を見ないことだが、意識的な空想と、無意識的な空想とを同時に刺戟する。

前者は思弁的な推測や作り話を生みだし、後者は神話的な背景を提供するが、その背景のもとにこれらの驚くべき目撃談はくりひろげられるのである。

そこで、はじめに知覚されたものが幻影を生んだのか、それともはじめ無意識のなかにあった空想が、錯覚や幻視となって意識にのぼってきたのか、どう考えても分らない、もしくは弁別の術がないという事態が生じてきたのである。

ユング『空飛ぶ円盤』p.13

UFOは「意識的な空想と、無意識的な空想とを同時に刺戟する」のである。

意識の側では、自我がUFOについて、それが何であって何でないかを「思考」して、興味ぶかい「思弁的な推測や作り話」を生み出していく。

方や、無意識の方からは、UFOをめぐる神話的な語りや、UFOを見たというが生じてくる。

この意識と無意識のあわいで消/滅する「まるいもの」は、

知覚された現実なのか  /  錯覚・幻なのか
||   ||
切迫して対処すべき問題なのか / 無視できることなのか


という「感覚」や「思考」にとっての大問題を、どちらか「分からない」「弁別の術がない」ままに宙吊りにする。


* *

なぜ「まるいもの」は、かつてのマンダラから
現代の超科学風のUFOに交代したのか?

様々な見られ、語られ、聞かれる「まるいもの」のイメージは、二者択一で分別しようとする対立(勝ちか負けか、負けたら終わり)の先鋭化ではなく、異なる分別をする四機能たちが、お互いに妨げあうことなく、それぞれ別々に働きつつ、しかしそれぞれがお互いを参照しあうような、付かず離れずに協調した「全体性」を意識するよう、自我に教えようとしている。

ではなぜ現代人は、この対立を調停し全体性の回復を目指す動きを象徴する「まるいもの」に、「UFO」、空飛ぶ円盤という意識的な意味付けを充当するのだろうか。

まるいものであれば、可能性としてはなんでも良いはずである。

しかし、現代人においては、なぜか地球の人類の科学力をはるかに凌駕する、宇宙人の技術で作られた宇宙船としての空飛ぶ円盤、というものが、空に見えるまるいものについての「語り」として選ばれたのか、という話である。

他の「まるいもの」ではだめなのか?

これについてユングは次のように書いている。

意識においては啓蒙的な合理主義が勝って、いっさいの「神秘的」傾向を排斥している。[…]この圧倒的な多数者の態度こそが、投影という無意識の自己主張をうながす絶好の条件なのである。

つまり底にひそんだ無意識が、合理的な批判にもめげずしかるべき幻視を伴ったシンボルの噂という形で表面にあふれだし、つねに秩序と解放と治癒と全体性をもたらすものであったあの元型を、ここでもまた活躍させるのである。

ユング『空飛ぶ円盤』pp.37-38

底にひそんだ無意識」が、表層の自我の意識の分別による「合理的な批判」に対抗して、その合理的批判に「めげず」、沈黙を強いられずに主張を続けるためには、表層の自我の意識がある程度納得できる、いや、納得できないにしても耳を傾けるくらいのことはできる程度の合理性をともなったビジョンや語りにならざるをえない

そして20世紀とは「意識においては啓蒙的な合理主義が勝って」いた時代である。

そこでは「いっさいの「神秘的」傾向を排斥」する傾向がある。

つまり、ある人の重い病が治ったとして、それについて「最新の薬と、家族が毎日病室に通って、患者さんの気持ちが前向きになるような言葉をかけ続けたからよかったのだ」と言われると、現代人の大多数の人は納得するだろう。しかし一方、「家族が一度も病院に見舞いなどいかず、ひたすら自宅に篭って毎晩神仏に祈り続けたのが効いたのだ」と言われると、大多数の世間の人は「いや、それよりも、もっとやることがあるのでは・・」などと批判される…。これは例え話であるが、こういう感じの意味分節で世の中が動いていくのが啓蒙的な合理主義の時代ということである(ちなみに、後者の方が効く場合もないわけではないが、ここでは詳しくは触れないでおこう)。

近代以前であれば、「まるいもの」は、容易に伝統的な「神秘的」なシンボルや神話の語りを用いて、人々の意識の表面に躍り出て、注目を浴びることができた。東洋の曼荼羅などはまさにそれである。

しかし、啓蒙的で合理主義的な近代人の意識を、「まるいもの」にフォーカスさせるには、どういうイメージや語りを用いたらよいのか

伝統的な神秘的シンボルや神話では、合理的な思考が先鋭化した近代人の意識は耳を傾けない。伝統的な象徴が醸し出す「曖昧さ」に震えることもないのである。そうなった時、代わりに人類の心の全体性が利用したものこそ、他でもない、科学的で「工学的」なイメージや言葉なのである。

この元型が伝統的な形姿をとらず即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。技術的工学的と見えさえすれば現代人に難なく受けいれられる

ユング『空飛ぶ円盤』p.38

ここは非常におもしろい一節である。

「技術的工学的と見えさえすれば、現代人に難なく受けいれられる」

AI生成
「遠い宇宙の彼方で、このような光景が繰り広げられている可能性がある」
と言われると、全否定することはできないのが合理的な現代人の性である。

技術的工学的っぽいものを
現代人の合理的「思考」は無視できない

現代人の少なからぬ人々の場合、ご神仏や精霊やご先祖の霊を理由にしてあれをすべき、これをすべき、と言われても、「迷信でしょう」と一蹴したり、困惑したり、怖がったりするばかりである。そういうモノは「思考」しようがないものとして「感情」によって遠ざけられることがしばしばである。

しかし「技術的工学的」に理由づけをされると、現代人の「思考」的自我は、「難なく」理解できてしまい、「その存在を観測することは現在の技術ではできていないが、存在すること自体の確率はゼロではなく…」と可能性を議論し、説得され、信じてしまう

UFOについての語りやビジョンが突如話題を攫い始めた、1950年代という歴史背景も重要である。

1950年代ごろには(現代でもそうかもしれないが)、科学技術の急速なイノベーションにより、つい数年前までは誰も考えもしなかったようなことが、あっという間に技術的に可能になる、といったことが経験されていた(21世紀のモバイルインターネットやAIの急速な普及も同じようなものである)。そうした時、人々は今日の技術よりも、まだ見ぬ明日の技術の方がすごいにちがいない!と容易に「思考」することができるのである。

技術は万能で、あっという間に今までできないと思われていたことが、簡単にできるようになる。

人類も、そう遠くない未来には、UFOのようなものを開発して、宇宙の彼方に旅行に行けるだろう」

「人類よりもはるかに発展した科学技術をもった生命体が、宇宙のどこかにいるはずである」

このような話が、例えば「ご先祖の霊が病気を治してくれた」という話よりも、はるかにリアリティのあることとして、公に堂々と論じられ、信じられ、ひろまっていくのである。

「某銀河の某星団には、地球人類の科学を遥かに凌駕する、超科学文明が存在する!」

ここでユングは“重力を無化する技術というものさえありえるのではないか”というSF的空想を可能にしたのが、他ならぬ「物理学」なのではないか、という興味深い指摘をする。

UFOが一見無重力であるのは解しがたいことではあるが、われわれの最新の物理科学にしてもほとんど奇跡に近いような発明をいくつとなく成し遂げている以上、知能の進んだ宇宙人が重力を超克したり、光速かそれ以上のスピードを出せるようになったとしてもなんの不思議があろうか――。

核物理学が一般人の頭に、判断力の不確実さという念を植えつけたので一般人は物理学者以上にそう思い込み、つい昨日までありえないとされていたことを可能だと思ったりしがちなのであるUFOもそこで、物理学の新たな奇跡とみなされて簡単に信じられてしまう

ユング『空飛ぶ円盤』p.38

UFOとして幻視される「まるいもの」は、そもそも幻視なので、三次元の時空で重力に制約されることはない。しかし、UFOを工学的な宇宙船や飛行機の一種だと思考しようとすると、どうしても、地球の重力圏で墜落せずに浮かべたり、時空間を超え瞬間移動させたりするための「技術」が必要だということになる

技術的工学的と見えさえすれば」なんでも信じる人類に対して、この重量の圏内を「無重力」であるかのように動き回る(ようにみえる、語られる)という事態を科学的、技術的に説明して納得してもらうのは不可能に思える。

重力を克服するとは、どう考えても「技術的に不可能」なことであり、無重力に見えると言う時点で工学的なUFOの実在性を強く否定する根拠になる・・・はずなのだが・・・、ここでUFOについての語りは超科学文明の宇宙人を連れてくる。

地球の人類の技術では、まだ無理かもしれないが、「知能の進んだ宇宙人」であれば、なにか人類が思いもつかないような極めて高度な科学技術を用いて重力くらい克服することもできるはずである、ということになる。

地球人レベルでは、まだ「技術的に不可能」であるが、宇宙人のレベルなら「技術的に可能」だということは「あり得ない話ではない」と思考し納得するのである。

+ +

不確定性原理

ここでユングが「核物理学」のことを持ち出しているのもおもしろい。「核物理学」が人類にもたらしたのは、人類の「判断力の不確実さ」という教訓であるという。

つまり、みんなが「粒子」だと思っていたものが、「実は波動でした」といった話を聞かされ続けると、われわれ一般人は、自分が見ているもの、自分が感じているものは、科学技術の知識がアクセスできる本当の世界とは別の仮のものに過ぎないのだ、と思うようになる

そうなると、20世紀の地球人が、しかも科学者ではない一般の地球人が、そのアタマで理解できないことや「ありえない」と判断してしまうことであっても、もっと高度な天才的な科学技術にとっては十分に「ありえる」ことかもしれない、という話になる。ユングが「一般人は[…]つい昨日までありえないとされていたことを可能だと思ったりしがちなのである」と書いている通りである。そして宇宙人のUFOも「物理学の新たな奇跡とみなされて簡単に信じられてしまう」に至る。

・・・

この指摘は「一般人」の分別のなさをユングが批判しているように読めるかもしれないが、これは決して、ダメだとか、悪いとか、お説教をしようというところではない

大切なことはまさに「個性化」に向けて、私たちが知らず知らずのうちに行っている分別が、どのようなものであるのかを、俯瞰することなのである。

私たちの「心」は、客観的な自然法則を利用する科学技術的な思考さえも、「全体性」の均衡を図ろうとする神話的思考の素材として自在に利用できるのである

まるいもの、あるいは円運動の幻視としての
マンダラ夢

ここで、ユングが『空飛ぶ円盤』で分析している、一つの夢を詳しく見てみよう。

この曼陀羅が現代人にどのような現われ方をするかを、私はある七歳の少女の夢を例に示してみよう。

彼女は見知らぬ大きな建物入口に立っている。そこにはひとりの妖精が彼女を待っていて なかに招き入れ、列柱のある長い廊下を通って中央に位置する部屋にまで行くが、その部屋からはいくつもの同じような列柱の廊下が放射状に伸びていた。部屋のなかほどに進み出ると妖精はたちまち高い炎となって、炎の囲りを三匹の蛇が輪になって通うのだった。

これは幼児期の古典的な元型の夢である。しばしば夢に現われるばかりでなく、まわりが教えたわけでもないのに絵に描かれることもまれではない。そして、うまくいっていない家庭環境のもたらす不快や困惑から自分を守り、内心の平衡を得ようとするはっきりした目的ももっている。

曼陀羅が魂の全体性を描き、包み込み、外に対して守り、内部の対立を融和させようとする限りにおいて、それはまた明確に個性化のシンボルでもあって、われわれがそう呼ぶようなものとして、すでに中世の錬金術でも知られていた。

ユング『空飛ぶ円盤』pp.33-34

なかなか見事なマンダラ夢である。

夢見者は7歳の女の子である。

夢の冒頭、彼女の自我は、「見知らぬ大きな建物」の「入口」に立っている。

この自我にとっては「見知らぬ」「大きな建物」は、意識の四機能のうち、自我を担っている機能とは別の、残りの三機能との邂逅の場を予感させる。

案の定、その「見知らぬ大きな建物」の中から「ひとりの妖精」が出現して、自我を建物の中へと連れていく。この妖精は、残り三機能のうちのいずれかの象徴であろう。

「ひとりの妖精」は「自我」を連れて、「見知らぬ大きな建物」の「中央に位置する部屋」にいく。建物の「中央」に入ることで、自我は周囲の四方を、どこでも自在に眺めることができるようになる。

ここで建物の「中央」から、周囲を眺めると、その中央の部屋から「いくつもの同じような列柱の廊下が放射状に伸びて」いる。まるでマンダラの中心に立って、360度周囲を眺めたような光景である。

三匹の蛇が輪になって

するとそこで、先ほどの「妖精」が、「高い炎」になる。
そしてその「」の「囲りを三匹の蛇が輪になって通う」のである。

ここで「三」が輪になって出現することに注目しよう。

この三は、自我を担っている機能以外の、残りの三機能だろうか。

部屋の中央で、下から上に立ち上る炎の周囲を、三匹の蛇が輪を描きながら動く。夢見者の自我も、その輪の中に誘われているのである。

この夢についてユングは、「幼児期の古典的な元型の夢である」と書く。
こうした夢は、子どもたちによって「まわりが教えたわけでもないのに」見られ、絵に描かれたり、語りとして報告されることがある。

こうした子どものマンダラ夢は、それがしばしば、幼い子どもの心の全体が「うまくいっていない家庭環境のもたらす不快や困惑から自分を守り、内心の平衡を得ようとするはっきりした目的」をもって見られるのだ、自我に与えられるのだ、というユングの指摘には重みがある。

こうしたマンダラ、まるいものは、「魂の全体性を描き、包み込み、外に対して守り、内部の対立を融和させようとする」わたしたちの心の全体性が、その部分である自我に対して、ごく幼い子どもである自我に対しても、授けるものなのである。

無意識が意識にみせる「まるいもの」は、「意識と無意識とが統合された一個の全体」の象徴である。

そしてユングはその全体性を「自己」と呼ぶ。

したがってUFOを単純に「魂」と解釈して一向にさしつかえない。もちろんUFOが現代風に理解された魂であるというのではない。そうではなく、ある無意識内容、つまり個人の全一性を表わす「円環 rotundum」の、自然発生的な元型的、神話的なイメージなのである。私はこの自然発生的な像を、自己 (Selbst, self) の象徴と定義づけて論じてきた。自己とは意識と無意識とが統合された一個の全体のことである

ユング『空飛ぶ円盤』p.35

ここで「UFOを単純に「魂」と解釈して一向にさしつかえない」とユングは踏み込んで書いている。

心の四機能、意識的な分別を担う機能と、無視され沈黙を強いられ「無意識」へと隠された機能たちが、協調して動けるようになった状態である「自己」を産み育てていくことは、「不快や困惑」に苛まれる個々人の魂にとって切実な課題である。そして特に「不快や困惑」が、個々人の個人的な事情によるものばかりではなく、全人類に共通するものであった場合、世界各地で、人類の多くが、同じような「まるいもの」に惹かれ、魅せられる、というUFOブームのような事態に至るのである。

* *

UFOについての語りが人々の心を動かす時代

ユングはUFOが「矛盾分裂」する「われわれの時代」に出現したことに注目する。

古代的な段階ではUFOは単純に「神」と考えられる。それはきわめて印象深い全体性の顕現で、その単純な円形は、一見統一不可能な対立物を統一する働きをもった元型を現わしているから、われわれの時代の矛盾分裂に対するまさに格好の補償ともなるのである。さらにそれだけでなく、混沌状態に秩序を与え人格に最大限の統一と全体性を赋与するという、他のもろもろの元型にはない重要な役割をも果す。

ユング『空飛ぶ円盤』p.36

20世紀の半ば、1950年代に至り、人類が世界各地で「UFOをみた」と報告し、UFOについて語り合うようになったころ、世界は東西冷戦の只中での戦争への不安、特に核戦争への不安にさらされていた。敵と味方、あちらとこちら、西と東が対立し、どちらが先に相手方を殲滅することができるか、どちらが後に生き残ることができるか、といったことを常に念頭に置いておかざるを得ない状況が世界を覆っていたのである。

ここで改めて、なぜ現代人は、この「自己」の象徴を、「UFO」、空飛ぶ円盤なるものとして見るのか、という話になる。

戦争、それも冷戦という、いつ戦闘が開始されるか分からない不安なモードの戦争とは、まさに、「統一不可能な対立」が亢進する状態である。
敵か味方か、勝ちか負けか、生か死か、どちらか一方を選ばざるを得ない。

そうした「分裂」モードに対して、「まるいもの」のビジョンは「一見統一不可能な対立物を統一する働きをもった元型」が、私たち人類の心の底で動いていることを、表層意識の固着した分別に伝えているのであった。

つまり人類には分裂を、対立の亢進を、調停する可能性が残されているのだ、ということを無意識が意識に教えようとしている

その方便がUFOだったのである。

= =

空に見られる「まるいもの」は、私たちの心の深みが、工学風の用語を方便として転用しつつ、私たちの心の混沌を包み、対立を均衡させ、まどかにする、それこそ究竟なる方便、「真如の月」なのであると言えるかもしれない。


AI生成
現代科学風UFOギャラリー

* *

つづく



関連記事



いいなと思ったら応援しよう!

way_finding 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。