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【マンダラ夢分析】バス→ジェットコースター→タンデム自転車/タクシー→原付四人乗り:運転手のいる箱型の乗り物が頼りないものに変容し、自分で運転する羽目になる夢。そして最後は自分で走る!

はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。

神話も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

神話論理と夢分析

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。

経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。

分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。

しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

* *

伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起

「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる

この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。

特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

夢の登場人物たちは主語の位置に据えられて報告される。

つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである

『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8

結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方

この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・

うまく結合できない

あるいは

結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・

うまく分離できない

実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。


表層の固まった分節体系を解してゆく

今回は、動的マンダラ伸縮モデルでうまい具合に意識化できそうな、よく似た三つの夢を分析してみよう。

* *

どの夢でも、冒頭、「自我」は乗客として、運転のプロである他者が操作している、比較的安定感のある乗り物に乗っている

しかし、夢の途中で、乗り物が少々「頼りない」姿に変身してしまう。

さらには、運転のプロである運転手がいつのまにか居なくなる、あるいは運転することをやめてしまい、代わりに「自我」が、不慣れなまま、「自分がやっていいのかな?」と不安に思いつつも、しかし同時に「自分でやるしかない」と観念し、運転を引き受ける。

そうして結局は、目的地に到着する

このような夢である。


まず第一の夢である。

バスに乗っていたはずが、気がつくとタンデム自転車をこいでいる夢

私は、とある大学に、だれか偉い先生の講演を聞きに行くことになる。

その大学は、神奈川県の西部、丹沢山地のふもとの方面にあるらしい。

私は家を出て、神奈川県西北部のターミナルである「橋本」駅に行く。
そして橋本駅のバス乗り場に集合する。
たくさんのバスがひっきりなしひ出入りしており、乗降する人も多く、賑わっている。

私はここから、大学の送迎バスで向かうらしい。
ターミナルの端の方の、指定されたバス乗り場で待つ。
まだバスは来ていない。
他にも何人か、同じバス乗り場で待っているらしき人もいる。

そこへバスがやってくる。
ごく普通のバスである。安定感、安心感がある。

私を含めて、並んでいた人たちがぞろぞろと乗り込む。

車内の内装をみると、よくある路線バスとは違っていて、何やら夜行高速バスのようなつくりになっている。
一人一人独立した座席が一列になっている。

・ ・ ・

私はその先頭ドライバーのすぐ後に座る。

バスは動き出し、順調に市街地を走行していく。

途中、添乗員のような引率者のような、大学の関係者の人がなにか放送で言っているのが聞こえる。喋っているのはわかるが、内容まではよく聞き取れない



バスは市街地を離れて、山の中の狭い道、昔からの街道のような道をゆっくり走っていく。ちょうど橋本駅から、「相模湖」の方面に向かっている様子である。私はこの辺りには土地勘があるので、安心して景色を眺めている。

道の両側には木々に覆われた山林がひろがっており、緑色の表情の下に暗い森の中の気配を感じさせる
かなり暗い森の中を、バスだけが、一本道を走り続けていくイメージである。

* *

バスはさらに進み、森に囲まれたダム湖のようなところに出る。
山の急斜面らそのままダム湖の中に続いており、「平地」はない。
上/下、天/地。空と、暗い森に覆われた地上と水界とが、斜面で一挙につながっているイメージである。

そしてバスは、ダムの堰堤の上の一本道を走る
他に道はなさそうである。

バスが不安定に揺れる。
私はこのまま堰堤から転げ落ちて、ダム湖の底へ沈むのではないか、と一瞬不安になる。
右に落ちたらダム湖の水の中へ落ちてしまうだろうし、左に落ちたら堰堤を転がって地面に激突だろう


ふと、森から道へ、霧があふれ出ててくる。
道路が完全に暗い森に飲み込まれたかのようだ。

バスは霧の中をすすむ







ここで私は、ハッとする。
この日、私が目的とする大学に行くルート上にダムはないはずだ、と。

しかし、引率者の人は「当然」という感じで「ダム湖ですね、もうすぐつきます」などと言っている。
バスが道を間違えているのではない?
引率者が言っている目的地と、私が想定している目的地は、同じだと思っていたが、違うのかもしれない?!

私は、頭をひねる。そしてふと思いつく。

「今日、私が向かっている大学には、実は二つのキャンパスがあるのだ」

私は、会合が開かれるのとは別のキャンパスに行くバスへ、間違って乗ってしまったのだ、という気がしてくる
失敗した、これでは講演に間に合わないな、と思う。

とはいえ、今更この森の中でバスを降りても引き返しようもない。
おとなしく乗って、終点についてからルートを考えよう。





バスはダム湖に沿った森の中の一本道を、引き続き走行しているようだ。

そう思ったのも束の間、ふと、車体の様子を意識すると、いつのまにか、バスの車体が消えいて、ジェットコースターのような、ボブスレーのそりのようなものになっている
高速バスの座席が、一人乗りのカゴに変容している

このようなもので、いったいどうやって道路を走行しているのか?

前方を見ると、道は先ほどまでのアスファルトの舗装道路ではなくなっていて、ジェットコースターのレールのようなものに変容している。

しかも、このジェットコースターのコースは、ダム湖の湖面の上に建設されている。
ダム湖の湖面の上で、ジェットコースターのレールは上へ下へ乱高下する。

カゴが脱線したら、ダム湖の中へ、落ちるだろう。

どうも、スピードの制御も効いていないようである。
このままでは危ないとおもう。

しばらくすると、ジェットコースターのコースは乱高下を脱して、山道、登山道のような景色の中にはいる。



ここでジェットコースターが、今度は自転車、観光地に昔よくあった複数人で前後に並んでるこぐタイプの自転車が長くなったようなものに変容していることに気づく。

私たちは一列に、たくさんのサドルが並んでいる長い自転車に乗っているような具合である。

ふと気づくと、バスにはいたドライバーがいない。
そしてわたしがこの、一列自転車の先頭の席だ。
後ろには何人か座っているようだ。
正確な人数はわからないが、せいぜい五人くらいだろう。

進行方向を左右に調整できるハンドルは、先頭だけについている。

私がぼーっとしていると
自転車はふらふらと、登山道を外れて滑落しそうになるので、仕方なく、私がハンドル操作を担当することにする。

こういう危ないことはやりたくないのだが、仕方ない。





私のすぐ後ろの席には疲れた様子の男性がだらりとしておりゆらゆら揺れるサドルから落ちそうである。彼は自転車をこぐこともせず、ハンドリングに興味をもつこともない様子である。
かれは相変わらず「乗客」をやっている。
すでに彼の上着はずり落ちて、地面を引きずられる形になっている。

私は彼に対して、しっかりつかまっているようにいう。
また、ずり落ちた上着が車輪に絡まると全体が止まってしまうので、しっかり引き上げて持つように言う。

登山道の路面には大木の根がたくさん露出し、とても自転車で走れる感じではないが、不思議と転ぶこともなく、力をかけることもなく、ズンズン進んでいく。

そうしているうちに引率者が、「そろそろ目的地に着きますよ」と言う。
私は思わず、「あんた、居たのかい!」と思う。

私は、そもそもの目的地とは違うところにきてしまったから、ここからまた乗り換えて、本来の目的地へ向かわないと行けないなあ、とおもう。
引率者がいう目的地と、私が思う目的地は、違うのだ。
・・・

登山道をしばらく行くと、山中にしては不釣り合いに、大きくて立派な門がある。高さ3メートル、横幅3メートル、コンクリート製でよく整備されている。防犯カメラや通信装置、センサーなどがついている

相当な有力者の別邸と言う感じである。

門の扉がしっかりと閉められており、中の様子はうかがえない。

門の前で、引率者が何やら通信装置を使って中に連絡すると、巨大扉がしずしずと動いて中に入れるようになる。

私たちの長い自転車は、私を先頭に中へと入っていく。

敷地の中には広大な日本庭園が広がっている。

引率者が「ここは当大学を運営する法人のオーナーでもある、有力な政治家の先生の山荘でして、今日はここで、その先生による特別セミナーが開催されます」と言う。

ここで私は、「もともと私が参加する予定だった会とは、このことだったのではないか??」 と思う。

そうなると私は、乗るバスを間違えたと思ったが、実は、間違えていなかったと言うことになるし、目的地ではないところに来てしまったと思ったが、実は目的地に着いていたことになる。

おわり

動いているが、安定した、四角形

マンダラ状の伸縮に注目して行こう。
冒頭、この夢は非常にリアルな光景を見せてくれる。夢見者自身にとっても土地勘のある、ターミナル駅の光景が広がる。

ここでポイントは「バス」である。

バスは、四角形で、動くものである。
その運転をプロフェッショナルなドライバーさんに任せることができれば、バスは安定して動くことができる。

動いているが、安定した、四角形。

Δ Δ
Δ Δ

バス、即ち「動いているが、安定した、四角形」は、動的マンダラ伸縮モデルの展開図の6)に相当するものである。この6) のモードは日常生活の意味ある現実を安定的にコードする、意味分節システムの構成単位の定常性が実現している状態である。

一列になった座席の変容

ところが、このバスにも一点、日常的な経験とは異なる、違和感を与える部分がある。一列になった座席である。通常の路線バスであれば、座席は車内の両側に並んで、中央には通路が広く取られているが、この夢のバスは、中央に一列に、座席が並んでいる。

この「一列に並んだ席」という構造は、この後、この夢の展開の中で一貫している。

バスの一列の座席 → ジェットコースター → タンデム自転車

この変容は我ながらよくできていると思うところである。
もちろん、意図して考えたわけではない。
無意識のビジョンである。

プロドライバーにおまかせ

まず、バスには運転手がいる。プロのドライバーである。
そして夢見者私は乗客である。そこではバスを「動いているが、安定した、四角形」として示現させる役目はドライバーに託されており、私はただ寛いで座っていれば良い

これは「動いているが、安定した、四角形」、つまり経験的な世界の意味を安定させておくための活動を、「プロ」に任せておけばよい、という状態である。

つまり出来合いの、すでに「プロ」たちの力で完成状態にされた「動いているが、安定した、四角形」=意味ある世界を安定的に再生産する、意味分節の最小構成単位であるΔ四項関係を、私はただ利用させてもらうだけである。そこでは夢見者は、Δ四項関係を解体したり、組み換えたり、新たに再構築したりするような、いわば「バスそのもの」を作ったり、走れるように整備したり、実際に走らせたりする役割をまったく果たしていない。

この出来合いの意味分節システム=Δ四項関係に満足してしまい、Δ四項関係自体をβ項たちの分離と結合の伸縮を通じて生成変化させるような活動には積極的に関わろうとしないというのが、この時点での自我の特徴である。

ところが、このバスの走行が、しだいしだいに不安なものになっていく。

不安定にゆれる動く四角形が水・霧の中へ

まず、夢見者私は、バスを乗り間違えたのではないかと不安になる。

ただし、はっきりと「乗り間違えた」と分別できるわけでもない。

乗り間違えているか/いないか、はっきりと分別できない曖昧な状況である。

「なにか違うような??」という違和感である。

そしてバスは、ダムの堰堤の上の道を走る。
走行自体は安定しているが「水の中に落ちそう」という感覚を夢見者は覚える。さらにバスは、薄暗い霧の山道を走る。これも周囲が見えないと言う点で、走行の安定性に不安をつきつけるものである。

つまり、バスは、Δ四項関係は、ここで「霧」や「水」に取り囲まれて、その安定性を妄信することができなくなりつつあるのである。

私が日々依拠している表層の日常を意味あるものとして分節するΔ四項関係を、安定して揺るぎないものとみなすことができなくなりつつある。

水というのは絶対無分節モードの象徴であり、動的マンダラ伸縮モデルの展開図でいえば1)〜6)すべてのモードの「地(図と地、の地)」そのものである。

運転手の消滅/レールの上を自動で走るが、レールそのものが壊れているかも

さて、ここで乗り物が変容する。
バスだと思っていたものが、ジェットコースターになっている。

ジェットコースターには運転手がいないということに注目しよう。
そして私は、ジェットコースターの最前列、先頭、バスでいえば運転手が座っているはずのポジションに図らずも位置してしまうことになる。
私は「運転手ではないけれど、運転手の位置にいる」ような具合になる。
運転手であるか運転手でないか、不可得。

また、この時点で「四角形」がぐにゃりと潰れている。
動いているが、安定した、四角形」=意味ある世界を安定的に再生産する、意味分節の最小構成単位であるΔ四項関係が消えてしまい、後には上/下に激しく上がったり下がったり、左/右に激しく振り回されるジェットコースターによる動き、上/下、左/右を、垂直軸を、水平軸を、伸縮させるような動きが出てくる。これは動的マンダラモデルの展開図でいうところの、5)や4)のモードである。

なぜ、2)や3)ではなくて、4)5)の伸縮であるかと言えば、ジェットコースターは上/下に振幅するといっても月や太陽のところまで行ってしまうほどの振れ方はせず、あくまでも、レールを用意された上での制御された振幅で動くからである。

ジェットコースターにおいては、上/下の上端・下端も、左/右の振れ幅も、コースのレールによって固められている。その水平・垂直の限定された場の中で、スリリングではあるが、あくまでも安心して楽しむことができる程度の振動を動かすのである。これはまさに上の図でいえば5)の様相に相応しい。

とはいえ、ジェットコースターは、特にダム湖、の上を激しく動く今回のジェットコースターは、夢見者をバスの乗客として景色を眺めていた時に比べれば、はるかに不安な状態へと連れていく。

不思議なタンデム自転車のハンドリング役を務める自我・・私が運転するの?!

さて、このジェットコースターが、今度は自転車に変容する。
それもただの自転車ではない。バスの座席が「一列」に並んでいたものを踏襲するように、以下に示す画像のような、いわゆる「タンデム自転車」になっている。

言わずと知れたAI生成

観光地などに昔よくあった、複数人で一列になって乗る自転車である。

さて、この状態になってなお、私たちは当初と変わらず、とある大学で開催される講演会へと向かっているのである。

この自転車のポイントは、バスには居たドライバーがいないということである。しかも自転車の先頭にのっており、ハンドリングができるのは、他ならぬ夢見者「私」なのである。

バスの時には、運転はプロのドライバーに任せっぱなしにして、自分はただただ出来合いの仕組みの中で運ばれるだけであった夢見者私、ジェットコースターの時も一応は座っているだけで済んだ私は、ここへきてついにドライバー・運転手と遠からず近からずの役割を果たすことになる。

夢見者私は、この先頭のハンドル担当の役割を好んで務めるものではなかったが、たまたま最初にバスに乗った時に、客席の最前列に座ってしまっていたがために、図らずもハンドル担当をせざるを得なくなっているのである。

ここに来て夢見者「私」の自我は、経験的世界の意味ある関係を、それが未だに存在しないところから発生させて、安定させる動きを、自ら引き受けざるを得ないことになってくる

四人いる?

そして私は、私のすぐ後ろに座る人が、自転車のサドルから落ちそうになっていることに気づく。夢の中なので、知らない人が山道に転がり落ちようがどうなろうが知ったことではないという話なのだが、夢見者私は律儀な人間なので、彼に声をかけ、しっかりつかまっているように言う。

AI生成

サドルの位置が微妙

タンデム自転車は山道を、上がったり下がったり、右へ曲がったり左へ曲がったりする。これも先ほどのジェットコースターと同様の、上/下、左/右、水平方向・垂直方向を区切り出す伸縮運動である。

ただしこのタンデム自転車は、ジェットコースターに比べると、さらに振れ幅を描く自由度が高い。このモードは動的マンダラ伸縮の展開図で言えば4)であるが、しかし同時に、3)や2)にふれるモーメントを大いに秘めた状態であろう。

決められたコースの上で、振れ幅を限定されているジェットコースターは4)である。
どこにでも自由に登ったり降ったり、右へ左へと曲がることができる、振れ幅を限定されていないタンデム自転車は4)の様相で動いてはいるが、3)や2)になる可能性に開かれている。


さて、ここでもう一人の登場人物が声を発する。

引率者」である。

この人は女性であるが、最初のバスの場面から、私たちを案内していたガイド役である。この人はバスがジェットコースターになっても、多人数乗りのタンデム自転車になっても、まったくお構いなしのようで、「ちゃんと目的地につきますよ」とアナウンスをしつづけている。

元バスの乗客である夢見者私としては、このタンデム自転車のハンドリングなども、私ではなく、この引率者の彼女が行えば良いだろうと思うが、そのつもりはないらしい。

そして目的地に着くと言われても、なにより私が、他の皆さんのために、頑張ってタンデム自転車をコントロールしてその目的地なるものに向かっているのであるが、そもそもこの道の先にあるのは、私自身の目的地とするところとは違うのではないか、と引き続き思っている。

全力で目的地に向かっているのであるが、実は目的地ではないところに向かっていると思っている。

目的地であるのかないのか、不可得。

門の開/閉

さて、そうしているうちにタンデム自転車は「山中にしては不釣り合いに、大きくて立派な門」の前に辿り着く。

最初、門、ゲートが閉じられていて、中に進んでいくことはできないのだが、すぐに「引率者」が無線機を使って門の向こうと連絡を取り、門を開けさせる。この「引率者」は言葉の力で、整然とこの旅を仕切っていく

AI生成

扉が閉じられた門は、

内/外
開/閉

分離したり結合したりする動きの象徴であり、動的マンダラモデルの伸縮運動そのものの象徴でもある。即ち開閉する門、ゲートは、結合していることと分離していること、結合することと分離すること、この二つの対立関係自体を分離しつつ結合するのである。

分離 / 結合

この分離と結合を分離したり結合したりできることこそが、マンダラを自在に生成させ変容させることができるアルゴリズムである。それは即ち、ありとあらゆる意味分節の最小構成単位、Δ四項関係を発生させたり、維持したり、また組み替えたりするアルゴリズムである。

神話の場合であれば、この分離と結合を分離しつつ結合し結合しつつ分離する動きは、動的マンダラ伸縮モデルの展開図、1)〜3)の様相で語られる。夢でも事情は同じだろう。

目的地ではないと思ったら、目的地だった

最後に「引率者」が、ここが終点、目的地であることを告げる。
そして私も、ここが夢見者私自身が当初から向かおうとしていた目的地に他ならないのだと思うようになる。


この夢をまとめてみると、夢見者私は、(1)バスの乗客として、出来合いのΔ四項関係に安住していた図の6)のモードから、(2)バスが「水」に囲まれ不安定に揺れ、ジェットコースターに変容することで、Δ四項関係の安定感が消え、両義的媒介項βが伸縮する図の5)〜4)のモードに入り、さらに(3)自転車が上下左右に運動する3)〜2)のモードへ、そしてついに(4)分離と結合それ自体の分離と結合という、マンダラ生成の最も基本的なアルゴリズムを象徴する門扉の開閉の場面に至る。

そして最後に、この最終的な到着地点が、もともと私自身が目的地としていたものであるということを知らされ、安心する。

意識的な自我、Δ四項関係の安定性を「乗客」のように享受している普段のΔ自我からすると動的マンダラ伸縮モデルの展開図の1)〜3)のβ脈動の様相は、不安で、時に恐ろしげで、自我の思い通りにはいかないこと、つまりΔ自我の「私」とは分離された疎遠なこととして感じられてしまう。

しかし、実はこの1)〜3)、β脈動こそ、ありとあらゆるΔ四項関係を、「私」にとって疑い得ない安定した「リアル」である経験的で感覚的に意味ある世界を意味分節するΔ四項関係を、それとして作り出している動きなのである。1)〜3)のβ脈動モードは、Δ自我にとって疎遠なものでもなく、Δ自我と敵対するものでもなく、むしろΔ自我を他ではないそれとして区切り出してくることを可能にしている基本的な構えなのである。

ユングの用語を借りて敷衍すれば、1)〜3)のβ脈動モードは「自我」にとっては恐ろしげで、思い通りにならない、自我とは異なる「他なるもの」に見えるが、しかしβ脈動こそ「自己」であり、自我はその中の一メンバーとして仕事を与えられて、はじめてその姿を表すものである。

なお、今回の夢から、しばらく後に見た夢でも同じく「バス」が登場する。

こちらの夢では、「四者」の間の距離感がより明瞭に伸び縮みしていて、絶対無分節からマンダラ状の意味分節体系の基本単位が生成される様を、展開図の1)の方から辿るような具合になっている。









さて、後日。
上掲の夢とよく似た動的マンダラ構造の夢をみたのでご紹介しよう。

タクシーが原付に変容する夢

私は、自分の子ども二人と、一緒にタクシーに乗っている。

タクシードライバー

子ども1
子ども2

合計四人が乗用車の車内にシートベルトで固定されている形である。

走行中の車内から、外の景色を見る。
すると昔住んでいた地域にある、大きな病院の近くを走行中であるらしい。

その病院は以前住んでいた家のある地域では中核的な大学病院であり、日常的に通うことはなかったが、入院を要するような怪我や病気の場合、しばしば私の家族もお世話になったところである。

・・

タクシーは、私が以前、子供の頃に住んでいた家の方角へ走行している。

この時、私も、私の子供ふたりも、至って元気そうである。
病院の帰りようであるが、自分たち自身の用事ではなく、誰かのお見舞いが何かで行ったのだろうか。

タクシーのドライバーは気さくな人で、会話をしながらの走行となる。

途中、とあるT字路にさしかかる。

左に行くか、右に行くか。
ドライバーが一瞬迷う。

この道は私も普段利用する道ではないので、一瞬、どちらに行けば良いのか迷う

しかし、この地域の道路ネットワークを考慮すれば、左右どちらに進んでも、巡り巡って最終的に私の自宅に辿り着くこともわかっている。
ようはどちらの距離が短いか、どちらのタクシー料金が安いか、というだけのはなしである。

そしてドライバーは、右か左かよくわからないが、どちらかの道を選んで進む。

そこから、かなり、おそらく20キロメートルくらい走行しただろうか。
一向に家に辿り着かない。
道に迷っている。

途中、知っている場所に至り着く。
そこは自宅から5キロくらい離れたところにあるとある駅の近くの、見覚えのある場所である。
丘陵地の上の峠のような場所で眺望がひらけている。
みると、私の自宅の方もよく見える。

私はドライバーに、「ここまで来れば、あとは自宅への道を知っているので、私が案内できる。いうとおりに走行してください」と頼む。

ドライバーは「いや〜さんざん遠回りしちゃって」と言ったようなことを、料金メーターを眺めながらホクホク顔で言う。

大回りしたが、なんとか家に帰ることができそうだ。

私が道を案内する。

タクシーは着実に、私の家の方に向かっている。






ここで道はアップダウンの激しいルートになる。

そこで、私は、タクシーが坂を昇りながらみるみる減速していることに気づく。

アクセルを踏み込んでもエンジンが唸るばかりで、うまく坂を登れないようだ。上り坂で、時速15キロメートルくらいにまで速度が落ちている。

* * *

大丈夫かな、とおもって改めて自分たちが乗っている車体に注目すると、なんと、タクシーは自動車の姿ではなく、スクーター、原動機付自転車の姿になっているではないか!

アジアの諸都市でよくみるように、私たちは、スクーターに四人乗りしている形になっている。

先頭に下の子、次にドライバー、その次に私、そして後ろに上の子がいるようだ。

ドライバーさんがスクーターのスロットルを全力で回しているが、エンジンは「ぷいーん」と頼りない音を立てるばかりで、なかなか坂を登れない
時速5キロくらいまで速度が低下している。

私は、ガス欠なのではないか、と思う。
しかしドライバーさんによれば、ガソリンはまだあるという。

ドライバーさんもどうして良いかわからないと言う様子で困惑しているので、仕方なく、私が運転を代わることにする。

もともと私は、ドライバーさんのすぐ後ろに座っている形なので、二人羽織の方式で私は腕だけ前に出して、スクーターのスロットルを握る

私は、スロットルを回す。

確かにスピードは出ないが、スロットルを回す感触に応じて、エンジンの回転数が上がる感覚はある。
スピードは遅いが、これならまあ大丈夫だ、と思う。
不安な時ほど人任せではなく、自分でやってみるものである。

そうしてゆるゆると坂を登っていく。

しばらくいくと、今度は急な下り坂になる

四人乗りの不安定なスクーターは坂を降り始める。
ぐんぐんスピードが上がる。

先頭にいる下の子が「やめて〜」と悲鳴をあげる。
とはいえ、怖がっているというよりは、遊園地で楽しんでいるような笑い半分の悲鳴なので、そのまま走行を継続する。

とはいえ、スピードが上がりすぎてあぶないと気づいた私は、ブレーキをかけることにする

ところが、指を伸ばして探っても、ブレーキレバーが指にあたらない
ブレーキレバーがないのだろうか?!
と、大いに焦って手で探る。

先ほどは上り坂で走れなくなりかけ、今度は下り坂で止まれなくなりそう。

二人羽織方式なので、私の目の前にはドライバーさんのアタマがあり、それが邪魔になって手元が見えない。
とはいえ身長差があり、道路の先の方の様子は私にも見えている。

頑張って指を伸ばすと、左手の指に、ブレーキレバーがあたる。
右手の方にはブレーキレバーがそもそもないようだ。
左のレバーを強く握ると、ブレーキがちゃんとかかる。
スクーターは下り坂で減速して、安全に走行できるようになる。

そうするとまた、上り坂である。
またエンジンのパワー不足。フルスロットルで、ゆるゆると登坂
する。

そうしてまた下り坂、ごろごろと落ちるように走り、わたしはまたブレーキレバーを手探りで探し出しては、ブレーキをかける。

おぼつかないが、なんとか走行できるようになっている。
なにごとも、練習と経験である。

そんなことをしているうちに、最初に道に迷うきっかけになったであろうT字路に辿り着く。そこで私は、躊躇いなく右折する。
周囲は自宅近くの見慣れた光景である。

よかった、ようやく辿り着いた。と思う。

四人一組

冒頭、バスの夢と同様に、私はプロの運転手がいる乗り物に乗っている。
バスの夢では、バスの車体そのものが「動きつつ、しっかりと固まった、四角形」であったが、今回夢では四人一組の人間が乗用車の運転席と助手席、後部座席の右側と左側にそれぞれ座っているというフォーメーションで四角形を、即ちΔ四項関係を表現している。

AI生成
父親と子ども2の場所が逆になっているし
メータが裏返しになっているが、気にしなくていい

出発地点と目的地は明確だが、ルートに曖昧さがある

この状態で、夢見者たち四名は、経験的感覚的に実際に既知の場所の間を、出発地点から目的地へと移動しようとしている。

昔住んでいた家と、その地域の大学病院。

現実であれば、この間のタクシー移動は何事もなく淡々と実現するイベントになる。

ところが、この夢の場合、大学病院と自宅の間の移動が一筋縄ではいかない。タクシーは大回り、遠回りをしてしまうのである。

この大回りのきっかけは些細なことであった。とあるT字路を、左/右どちらに曲がるか、運転手が迷う。そして重要な点であるが、乗客である夢見者私も同じように迷うのである。

昔住んでいた家と、その地域の大学病院とのあいだは、直線距離にすれば10キロメートルくらいのものである。ただし、その間は一本道で繋がっているわけではなく、途中で何度も、右左折を繰り返す必要がある。そして普段その辺りの道を通行しない私にとっては、近所ではあるが無案内なエリアなのである。

知っているようないないような、既知未知不可得。

とはいえ、多少道の選択を間違えても、いずれにせよ近所のいずれかの大通りに出るはずであり、そこに出れば、あとはいくらでも自宅方面へのルートをとることができるのだ。その意味では、私も、そしてドライバーも、迷っているようで迷っていない

そうして実際、かなりぐるぐると色々なところを通った挙句、私の自宅まで一本道でつながる場所に出る。この時点で私はまだ目的地にはついていないが、ほとんどすでについているようなものである。


迷っているでもなく迷っていないでもなく

ところで、夢見者私はごく小さい2〜3歳の頃、この夢に登場する病院で、実際に「迷子」になったことがあると、母親から聞かされたことがある。

当時、私の「としご」の弟が大きな病気をして、この病院のお世話になっていた。母は弟と私も連れて、つまり、男の子二人を連れて通院したことがあった。この点は、今回の夢の光景によく似ている。

そんな通院のある日、母と弟が待合室と診察室のあいだでバタバタと動いているうちに、ふと、私がどこかへ行ってしまったというのである。

私は、それほど遠くには行っていないはずで、待合室を歩き回って、ふと、入り口が開いているいろいろな検査室や処置室などの中をのぞいていたものと思う。しかし、母は、私がどこか遠くへ行ってしまったと思い、大いに焦り、大混乱になったという。

母は、私が階段を降りて、病院の外に出て、正面玄関のタクシー乗り場にまで走りでて、そのまま車に轢かれるのではと不安になったらしい。そうして外まで探しに行ったそうだが、いない

半狂乱で探し回るも、どこにも私の姿を見つけることができない。もうダメだと思ったらしい。

そしてふと、元々弟の診察を待っていた、最初の待合室に戻ってみると、元々座っていた長椅子の近くで、小さな私がちょこんと待っていた、ということがあったらしい。

この「子供がいなくなったと思ったら元いたところに戻っていた」という経験、結合していたはずが分離したかと思い、しかし実は分離しておらず、もともとの場所に結合したままだった、という、分離と結合の伸縮のリアルな体験は、私の母親の無意識を大いに刺激したらしく、後年までよくこの話を聞かされたものである。

ちなみに母親は、私のことを「一度いなくなったのに、またちゃんと元いたところに戻れて偉い、すごい、頭がいい」と褒めるのであるが、この「頭がいい」というのは、まあその通りだとしても、「いなくなった」には誤解があると思う。

母親は、私が一度病院の外に出て、タクシー乗り場や駐車場をひとまわりしたのちに、改めて元いた場所に帰ってくるルートを覚えていて、ちゃんと戻ってきた、と思っている。

しかし私は、もともとそれほど遠くには行っていないはずである。ちょっと姿が見えなくなっただけで、すぐ近くにいたのである。私は感覚的な外界については、目の前のものには関心があるが、遠くのものにはあまり興味がない性分である。わざわざ一人で階段を降りて、病院の外に出る理由がない

その病院は大きな大学病院で、フロアの中心に広大な待合室があり、その両側にいくつもの診察室や処置室、検査室などが並んでいるタイプの作りをしている。

わたしはおそらく、待合室を少し歩いて、そして母親が見ていないときに、どこかの診察室(弟を診察している診察室とは別の)に入り込んで様子を観察して、またすぐに元いた席に戻ったのだと思う。
それほど遠くには行っていない。

つまり、私が「分離」していったと言うのは、母親の思い込みというか、周囲をよく注意して探さなかったというだけの話であり、実際にはたいして分離などしていないのである。

いずれにしてもこの、物心つくまえの私自身についての伝承は、私自身の無意識においても、分離と結合の伸縮、分離するでもなく結合するでもない、というモードを象徴する記憶として蓄えられたのであろう。

アップ/ダウン ・ 減速/加速

さて、夢の話に戻ろう。

もう道は自宅までの一本道である。
すでに着いたようなものである。

そう思っていたら、なんと、タクシーの車両が不穏な動きをみせる。エンジンの出力が低下したらしく、坂道を登りにくくなってしまう。これではまた、目的地である自宅から「分離」されてしまう。いや、「分離」されたわけではなく、着実に「結合」に向かってはいるが、その「結合」がいつまでも先送りされて、「結合しながら分離したままになる」といった様相を呈しているのである。

そしてここで、乗り物の変容・運転者の交代である。

今回の夢では、乗り物は、タクシーからスクーターに変容する。
そしてもちろん、タクシーに乗っていた四人が、そのままスクーターに乗っている。

楽しそうなタクシー

ここで運転者も交代する。
夢見者自我が運転を担当することになる。この点もバスの夢の最後、自転車の先頭のハンドリング役を自我が意図せず引き受けることになるのと同じである。

運転を交代するといっても、一度座席から降りて座りかえるようなことはしない。「二人羽織」の体制になって、前が運転手、後ろが夢見者自我「私」である。私は、運転手の肩越しに前方を見ながら、手探りでスロットルとブレーキレバーを探してスクーターを操作する。なんと危険な。

運転手に運転を任せていた時は、エンジン出力が低下するこの車両の様子を見て、大丈夫かなと不安になったものである。

しかし、実際自分で運転をしてみると、確かにエンジンの出力は弱いが、一応ちゃんと動いていることがわかる。このまま運転していけば、家に帰れそうである。私は不本意ながら、このスクーターを信用して運転しようとする。

とはいえことは簡単には進まない。

次に夢見者自我「私」は、ブレーキレバーを手探りで探し出すのに苦労する。その間、スクーターはジェットコースターのように勢いよく下り坂を転がり降っていき、私をおおいに不安にさせる。

とはいえ、夢見者自我「私」は手探りでブレーキレバーを探し出し、そしてブレーキをかけることができ、スクータの速度を調整できるようになる。

こうしてぎこちないながらも、スクーターは坂道を登り下り、上/下方向、垂直方向での伸縮運動をする。これは前のバスのジェットコースター同様、マンダラ伸縮展開図の5)〜4)に相当する動きである。

また今回は上/下の伸縮にくわえ、加速/減速、という時間的な対立軸上での伸縮も動いている。

そうしているうちに、私たちはついに自宅へと到着するのである。

アスファルトを切りつけながら走り抜けるタイヤ

ユングの意識の四機能の観点から

これら二つの夢は、表層意識のΔ四項関係をはっきりと保ったまま、特にその「自我」の分別しようとする力を保ったまま、分離と結合の分離と結合が伸縮するモードを経験的感覚的な様相で体験し、そしてついには、「自我」が不慣れなおぼつかなさはあるものの、四項関係をマンダラをある程度自覚的に動かすことができる者として立ち現れる。

人類の心には、いくつかの異なる機能が別々に働いているが、C.Gユングはそれを東洋的なマンダラを手がかりに「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能として整理した。

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる

一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。

私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。

例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。

そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。

それに対して、今回分析した二つの夢では、「自我」の機能と、他の意識の機能とのあいだの調和、付かず離れずに均衡した協力関係が、おぼつかないながらも立ち上がっているようである。

  • 最初のバス〜タンデム自転車の夢では、(1)夢見者自我、(2)運転手、(3)引率者、(4)私のすぐ後ろに座る乗客という四名がいる。これらがそれぞれ、直観、感覚、思考、感情を象徴する人物像なのかもしれない。

  • また次のタクシーがスクーターに変容する夢でも、(1)夢見者自我、(2)運転手、(3)子ども1、(4)子ども2、という四名を、直観、思考、感覚、感情のいずれかを象徴するものと言えるかもしれない。

どちらの夢でも、夢見者自我は、最初は運転を(つまり四機能が調和した「自己」の全体性の運行を)、「運転手」に任せていたが、途中から運転手に代わって、運転手の代役として、特に望んだわけではないが運転を引き受けることになる。これは夢見者の自我が、自己(四機能が調和した全体性)の運行の中で、相対的にただ眺めているだけの位置から主導的な立場に移動したことを示している。

♠️ ♠️ ♠️ ♠️

「直観」が「思考」に助けられつつ、四機能を協働させようとする

夢見者自我「私」は従来からの継続的な夢の分析により、ユングの四機能で言えば「直観」の分別に頼りがちであることがわかっている。感覚できなくても、思考できなくても(何があるとなないとか、何であって何でないと言えなくても)、感情的な好き/嫌いもよくわからないまま、なにかが「やってくる」あるいは「きえてゆく」気配をじっと感じていることができる、というのが私の意識的自我である。

そして、何か意思決定をする必要に迫られた時、特に二者択一の白か黒か、右か左か、どちらか選ぶというような選択を迫られた場合、私はその選択をほとんどいつも、アニマに託してきた。

自我の判断では何も選ばず(選べず)、代わりにアニマに聞いて、アニマが選んだ方に従うのである。そして私のアニマは、意識の四機能でいえば「思考」が優れている。

二つの夢では、アニマははっきりとは登場しないが、最初のバスの夢でいえば、あれこれ説明してくれたり目的地についていると宣言してくれたりする「引率者」の女性が、「思考」の機能を担っている。またタクシーの夢では、気さくにあれこれ会話できるドライバーが、言語的な「思考」とコミュニケーションを引き受けてくれている。タクシーの夢のドライバーさんは女性ではなく男性であるが、夢のなかでは男/女の分別のようなことも自在に転換する。

タクシーの夢でも、冒頭、私は、いつもアニマにそうしているように、思考的なハンドリングをすべて委ねている

しかし、どうも目的地の外周をぐるーりと回るばかりで、なかなか目的地に辿り着かないし、しかも四即一で移動する乗り物、タクシー自体の走行性能が低下しているような気がしてくる。

そこで私は、私の自我が、自らハンドリングすることを申し出る。

とはいえ私が一人で運転するのではない。
ドライバーさんとまさに「二人羽織」の体勢で二即一に密着した状態での運行となる。スクーターで私より前に座るドライバーは、私の「眼」を補完する役割を果たしてくれている。もちろん、私も前方を見ることができている。しかし私が一人で見るのではない。ドライバーさんもちゃんと前を見ている。

私は最初、運転に慣れておらず、加速する方法、減速する方法を実地で習得し、すぐにうまい具合、いや、少し危うくてヒヤヒヤするが、なんとか運転できるようになる。そうして目的地に辿り着くことができると確信する。

**

自我が仕事をせず、アニマに丸投げというのも、自己の全体性の確立という点では偏りがあるのである。

アニマと自我は二人羽織で協力すると、少々チグハグで危うい感じがしても、結局のところ四即一の全体性の運行はうまくいく

私の「直観」自我に対して無意識が、「ほら、もう少し動こうよ。その方が全体が円くおさまる」と、教えてくれているようである。

おまけ

ハガキに印刷して飾っておいてもよい

* *

さてさて、この記事の原稿を書いている途中、さらに関連する第三の夢のビジョンも授かったので、加えて報告しよう。

四角形の乗り物が消えて、自分で走る

夢見者である私は、とある地方都市の中心にある大きな駅に、列車に乗って到着する。私はホームに降り、乗り換えのために、東京の「ゆりかもめ」のような新交通システムのようなものの乗り場へと、歩いて向かう。

すぐに新交通システムの乗り場にたどり着く。
ホームドアの手前で車両が到着するのを待つ。

私の後ろに、外国人の男性が三人ほどいる。私と同じ乗り物を待っているらしい。彼らは私の知らない外国語で会話している。
何やら私の方を気にしながら、ヒソヒソ小声で会話している。
私に聞かれては困ることでも話しているのだろうか」と思うがあまり気にならない。

少々小ぶりの車両が到着する。
ドアが開き、私たちはゾロゾロと乗り込む。
私は車両の先頭に陣取って、前面展望を眺める。

車両は動き出し、高架線上をなめらかに前進していく。
繁華街を上から眺めおろしながら、乗り物は軽快に走行していく。

新交通システムなので、平面の上をタイヤで走っている感覚がある。
左右にガイドレールのようなものがあるはずだが、私がいる最前面からだと、車体の側面のタイヤのようなものがガイドレールを捉えている様子は見えない。それゆえに、車両が、レールに導かれているのではなく、自律して、両側の壁にぶつからないようにうまい具合に自動でハンドリングをしているような感覚を覚える。

車両は比較的水平に走りつづける。
そして、分岐ポイントを通過する。
分岐ポイントは三俣に分かれており、私たちの車両はその真ん中のルートに突っ込んでいく。少しでも左右に車体がズレたなら、ルートにうまく入れずに、側壁の始端に直撃しそうで不安になる。

しかし、車体はうまい具合に真ん中のルートに滑り込む。



次第に、走行路面を支える高架橋がアップダウン、上下にうねるようになる。

車体はジェットコースターのように、急に坂を登ったり、急坂を降ったりする。

そしていつのまにか、走行路面が見えなくなる。
最前列で下の方を眺めている私からすると、この箱型の乗り物が、宙に浮いているように感じられる。
どういう原理なのだろう?と思って見回すと、上の方に懸垂型のモノレールのような箱型のレールがあり、私たちの車体はそこにぶら下げられた状態で動いていることがわかる。

仕組みは面白いが、この乗り物は、上下、左右に振れること自体を楽しんでいるようである。私は「これではいつまで乗っても目的地につかないのでは」と思う。





乗車に飽きたと思った途端、乗り物はいつのまにか消えていて、わたしは山の中にいる。遊歩道が整備されていて、公園のように整備されている部分もあり、手付かずの森林が広がる領域もあり、多様である。
この山にはたくさんの人が行楽に来ているらしい。

わたしはこの山の中に縦横に張り巡らされた登山道や遊歩道を、自分の足で、ものすごいスピードで走る
乗り物には乗っていないし、私一人である。

足元の、丸太で組んだ階段や木の根をリズミカルに踏みしめながら、トントンと跳ねるように走っていく
私の走る速さは相当なもので、「もしバランスを崩したら転んで大怪我だな」と不安に思うが、夢の中の私はまるで千日回峰行の行者さんのように、慣れた様子で凸凹の山道を走り抜けることができる。


しばらく走っていると、遊歩道の途中で、三、四人の高齢者のグループが、何やら困った様子でああでもないこうでもないと言い合いながら、うろうろしている。
何かをなくしたか、道に迷ったか。
わたしはしばらく彼ら彼女らの様子を見て、困っている様子だと判断し、「どうしましたか、なにかお手伝いしましょうか」という具合で声をかける。
しかし、この高齢者たちは私の話をまったく聞いていないで、相変わらず自分達同士で何かああでもないこうでもないと好き放題に言い合うだけで、お互いに相手に話が通じないことに不満げである。

私の声は聞こえていないようである。

わたしは、これ以上自分が何を言っても無駄であると思い、諦めて彼ら彼女らから離れ、また走り始める。






こんどは開けた芝生のエリアに出る。

芝生の広場の中心には大きな磐がある。
様子からして磐座のようであるが、鳥居もなく社殿もなくしめ縄もなく、公園に置かれた彫刻オブジェのような、なんというか宗教的な気配を全く発しないように調整された磐座である。

私は「お祀りされてしかるべき磐座さんであろうに、このように何も祭祀がなされていないのは、これでよいのだろうか?」と違和感を持つ。

すると、若い女性が、岩の後ろをうろうろしている。
姿を現したり、隠れたり、誰かを待っているようでもあるが、何をしているのかはっきりしない。かくれんぼでもしているのだろうか?ともう。

私は、この女性に声をかけようかと思ったが、しかし私にできることは少ないだろうな直観したため、特になにもせずにまた走り出す。



わたしは走って、山の中に入っていく。
そしてしばらく走ると、ついさっきも走った同じ登山道のルートに戻ってくる。この辺りはひとまわりしたなあ、と思う。どうやらこの山の登山道や遊歩道はどこをどう走っても、ぐるりと円環状につながっていて、前にいた場所に戻ってくることになるらしい

立ち止まって、周囲の気配を感じる。
緑の木々の葉が鬱蒼としており、生命の気配に満ちている。

ふと、「ここまでに出会った人間たちは、どうも余り重要ではない些細なことで迷っている感じがしたが、それに比べて草木は小さいものでも堂々と根を張って生き生きとしている」と思う。

そして、「植物と人間の違いといえば、植物は根を張って個を超えたネットワーク全体で共鳴して生きるのが重要なんだわ」、と思う。
喰い喰われる動物的な個の生の不安と、植物的な生の個を超えたイブキのようなものを比較してしみじみする。それと同時に、「動物といっても、特に人の場合、言葉というものが、地中で絡まり合う植物たちの根の繊維たちとそう異なるものではないのかもしれないな」と思う。

この夢でも、夢見者「私」は、列車、そして新交通システムという、いずれも箱型の四角形の乗り物に乗って、受動的に運ばれている。電車も新交通システムも、上の夢の「バス」や「四人乗りのタクシー」と同じ無意識の分離と結合の伸縮の調和モードが、経験的で感覚的な記憶のストックから適当にフィットしそうなものを持ってきたと言うことになろう。

四即一にして一即四の四角形

さて、新交通システムの乗り場では、「何を言っているかわからない」「言葉が通じない」三人ほどの男性と一緒になる。この人たち以外には誰も近くにはおらず、私と、その言葉が通じない人たち三人の、合計四人で一つの小さな車両に乗ることになる。

これもユングの意識の四機能の図式で言えば、私の自我を担ういずれかの機能(おそらく「直観」)は、他の三つの機能、思考、感覚、感情の「言うこと」を聞いていない、あるいは聞けていない状態であろうか。とはいえ私の自我(直観?)と思考、感覚、感情の三人は、争ったり、危害を加えあったりすることはなく、お互いに関心があるような内容な、曖昧な距離感のまま四人一組で四角形の箱状の乗り物の中に入って移動していく。この乗り物に乗っている限り、誰かが車外に転がり落ちることでもない限り、この四人の間の距離は付かず離れずを保つことになる。

直観
思考 + 感覚
感情

水平方向に振幅を描く

さて、「四即一にして一即四の四角形」である新交通システムの車両は、左右二辺二つの際(きわ)、そのちょうど真ん中を、左右どちらの壁にも衝突することなく=結合することなく、滑らかに、いや、少々不安な感じで走行していく。左右の壁の間中間の領域を若干不安定に左右に揺れながら、振幅を描きながら、進んでいく「四即一にして一即四の四角形」。二辺を離れるでもなく離れないでもない、β脈動の述語的様相。

三つの方向に分岐するポイントでも、ルートを分離する壁にぶつかるかなという不安を抱かせつつ、うまい具合に真ん中のルートに滑り込んでいく。

上下方向に振幅を描く

そうしているうちに、乗り物が、いつのまにか路盤の上を車輪で走る新交通システムではなく、上からぶら下げられて移動する足元になにもない形の懸垂型モノレールのようなものに変容する。

そしてこの乗り物は上がったり下がったり、垂直方向に振幅を描いて移動する。

ここまでのくだり、「四即一にして一即四の四角形」が、左右=水平方向に安定した振幅を描き、また上下=垂直方向にも安定した振幅を描く、という動き方は、動的マンダラ伸縮モデルの下記の図でいえば、4)のモードである。このモードにある精神は経験的な世界の意味を自在に変容させることができる、しなやかな意味分節の構えにある

さて、ここでマンダラ状のパターンを安定的に描き出すことができる振動モードに励起されたところで、夢の述語的様相はがらりと切り替わる。

山の中、森の中の遊歩道や山道を走り回る、というビジョンになる。

ちなみに、夢見者は現実には登山や山歩き、いや、いかなる種類のジョギングなども行ったことがないほどインドア人間であるので、山の中を走るビジョンが見られたことは覚醒後に思い返すと意外な感じがする。

さてここでも重要なことは「何が見えたか」ではなく「どう動いたか(あるいは動こうとしたか)」である。

自分で走る

ここへ来て、夢見者はついに、いかなる乗り物にも乗っていない。
バスにも、タクシーにも、電車にも。
ジェットコースターにも、タンデム自転車にも、非力で不安定な原動機付自転車にも乗っていない

ついに、夢見者は、「自分で走る」ようになる。

乗り物によって運ばれていた夢見者が、自分で走る。

前二つの夢では、冒頭、バスあるいはタクシーという「四角形」の乗り物が、タンデム自転車やスクーターという、バランスをとりながら進み続けなければならない乗り物に変容し、その運転を夢見者がやむをえずしぶしぶながら引き受けることになった。、プロのドライバーの運転で運んでもらうことに比べれば、若干の能動性はある。しかし、最後の夢の、何にも乗らずに自分で好きなように走るというのは、やはりとても能動的である。

この夢を見ながら夢見者は、ふと、「千日回峰行」ということを想起している。

表層の「四」との付かず離れず

さて、走り抜ける夢見者は、途中で「三、四人の高齢者のグループ」に出会う。先ほど新交通システムに乗った時には、「夢見者にはわからない言語でヒソヒソ会話する、三、四人の外国人男性のグループ」と一緒になったが、これの変形が「三、四人の高齢者のグループ」であろう。

三、四人の「外国人男性のグループ」に対しては、夢見者は若干の警戒感、距離感を覚えた。もとより夢見者も大柄な男性であり、彼らを怖がるということは一切ないのだが、「急に絡まれでもしたら、三人相手にやり返すのは面倒だな」という感じを覚えている。

それに対して山で出会った「三、四人の高齢者のグループ」は、そうした敵対的な関係に転じる可能性がありそうな警戒感を呼び起こすものではない。

私は逆に、彼ら彼女らが困っているのではと思い、こちらから、夢見者の方から、何か手伝おうと声をかける。夢見者の自我(たぶん直観)の方から、残りの三機能たち、思考、感覚、感情の方に歩み寄って、その話を聞こうとする。

直観
思考 + 感覚
感情

しかし、思考、感覚、感情を象徴する「三、四人の高齢者のグループ」の皆さんは、私が話しかけても聞こえていないようで、私のことを無視して、なにやら噛み合わない言い合いを続けている。

私は、「みなさん、私の声は聞こえないようだし、無理に介入しても、かえって皆さんを困らせてしまいそうだ」と思い、また走り出し、その場を離れる。

とはいえ、夢見者は同じ山の中をぐるぐると回っているのであり、「三、四人の高齢者のグループ」とは、このあともずっと、付かず離れずの距離感を伸び縮みさせ続けることになろう。

磐座・・表層に突出した深層のあらわれ

走る夢見者は、次に「開けた芝生の」広場に、「大きな磐」が鎮座しているところに至る。

夢見者は一見して、その磐座様を神的な存在であると直観するが、祈りや祀りの痕跡になるような人工物が見当たらないことに違和感を覚える。

「お祀りされてしかるべき磐座さんであろうに、このように何も祭祀がなされていないのは、これでよいのだろうか?」

と、はっきりと考える。

すると、夢見者から見て磐座の反対側で、若い女性がなにやら動き回っているのが見える。一見して、彼女がなにをしているところなのかわからなかったが、決して祭祀者という感じでもない。「かくれんぼ」で遊んでいる人なのかな、と夢見者私は思う

私は、この女性に声をかけたり、磐座に触れたりすることはなく、また走り出す。この場合も、夢見者は同じ山の中をぐるぐると回っているのであり、「磐座とその周りをうろろする女性」とは、このあともずっと、付かず離れずの距離感を伸び縮みさせ続けることになろう。

この磐座と、その周りをうろうろして姿を現したり隠したりする女性は、マンダラ状の二重の対立関係が開く以前の、手前の、より「深い」無意識の消息であろう。表層の意識はあくまでも表層において、人間の経験において分節された意味ある世界の中を四即一で動き回るものである。この表層モードの「構え」を固めたまま、深層に沈潜していくことはできない。いや、実は表層/深層とか、浮かび上がる/潜り込むといった対立する表現自体が表層に特有な方便なのである。いまここの表層は、これをこのように分節する構えを解いた瞬間、そのまま「深層」になる。

どっしりした磐座と、その磐座に触れながらその周りで姿を現したり消したりする女性の様子を眺めながら、夢見者の自我は、そうした深層と表層の関係を直観する。

同じところをぐるぐると回る

そして最後に、夢見者は、この山の登山道〜遊歩道が、ぐるりと円環状につながっていることに気づく。つまり、どこをどう走っても、結局同じところをぐるぐると回っていることになるのである。

そこで私は、走るのをやめて、山の気配、森の気配を精密に観察することにする。木々や小さな生き物たちや水が流れる気配を感じる。

さて、この辺りで夢見者はかなり覚醒に近づいてくる。そして言語的思考が優ってくる。とはいえ、ここはまだ夢の中。言語的思考は「の力」を自在に発揮する。

「ここまでに出会った人間たちは、どうも余り重要ではない些細なことで迷っている感じがしたが、それに比べて草木は小さいものでも堂々と根を張って生き生きとしている」

「植物と人間の違いといえば、植物は根を張って個を超えたネットワーク全体で共鳴して生きるのが重要なんだ」

といったことを、言語で思考するようになる。

レム睡眠時の私が想起し、思考しているのは、目には見えない地中深くに縦横無尽に広がる「根」というビジョンである。あの磐座の下に広がる広大な地中に細かな根を無量に張り巡らせている植物たちの気配。目に見え、香りを嗅ぎ、感覚することができるこの地表の植物たちの緑をありありと感覚しながら、その感覚的印象の「向こう側」に、あの磐座の下に広がる広大な地中につながっており、そこから養分を得ている、ということを直観する。

そして夢見者私は、このような深層につながって絡まり合う植物たちのあり方と、「喰い喰われる」不安の中を生き続ける動物のあり方を分けつつ比べるように思考して、植物的なあり方への強いシンパシーを感じる。

動物は、互いに個体個体に分離されていて、「食うか/食われるか」という繋がり方でしか、お互いに結びつき、命のネットワークを広げていくことができない(というように夢の中で考えていると言う話である)。

それとともに、人間の言語ということを思考する。

人間もまた動物であるが、人間には「食うか/食われるか」というやり方以外にも、繋がりを生成する方法がある。すなわち言葉である。

そして思う。

もしかすると、人間の場合は言葉というものが植物たちの場合の地中で絡まり合う根と、同じようなものなのかもしれない、と。

言葉は、植物の根と同じように、人間の感覚では見えない次元で絡まり合い、響き合い、流れ続けていて、それが不意に束の間、私たちの口から発せられ、そして音として感覚され、聞かれたり、聞かれなかったりして、また感覚できない次元に染み込んでいく。

感覚と、思考と、直観。そしてしみじみと味わう感情とが、実にうまい具合に共鳴している感じがする。

+ + +

この第三の夢の最後の場面に至り、夢見者は、二重の四項関係の伸縮の只中に巻き込まれてありながら、同時にこのあらゆる「四」を抱え込む「山」の全体構造を俯瞰できており、なおかつ、この山の「下」「底」の不可視の深層にも直観的に想いを馳せている。表層の「四」は、マンダラ状の開いて分節され八識の対象となった世界である。そしてこの表層の分節世界は、表層に対する深層に、そこに無量に広がった「根」あるいは「根としての言葉」によって支えられ、そのルーツのネットワークから生えてきているのである。

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