叶わぬ全体性願望の補償としてのUFO -UFO(空飛ぶ円盤)は現代の「マンダラ」である-C.G.ユング『空飛ぶ円盤』を読む~真如の月 まどかならん(2)
C.G.ユング著『空飛ぶ円盤』を読む。
下記の記事の続編である。
C.G.ユングは晩年の著作『空飛ぶ円盤』でUFOを、現代に現れた、神話的なイメージとして読み解いている。そしてそこで、UFOは「マンダラ」であると述べているのである。

UFOが物理的に、重さを測ったり長さを測ったりできる物体として実在するかどうか…という問いに答えを与えることは、ユングの役目ではない。ユングはそのような問いを離れて、そもそもなぜ20世紀の人々がUFOを見たと言葉で報告するのかということを考える。UFOを見たと証言する人々の主観的な経験が存在することこそが、心理学的にはまぎれもない事実なのである。

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ユングのモデルでは、人間の心は、表層/深層という二項対立に託して仮に説くならば、自覚的意識的な「自我」と呼ばれる表層の下に、広大な無意識の深層が広がっていると考える。
この無意識で生じている心の動きは、強いて煎じ詰めるならば“結合したいものと分離してしまう様相を結合に転じようとしたり、分離したいものと結合してしまう様相を分離に転じようとしたりする”動きなのであるが、このような動きはそのまま直接表層意識によっては自覚されない。例えとして適切かどうかわからないが、例えば私たちが意識的に随意で、胃液の分泌をオン/オフしたり血圧や血糖値を自在に上げ下げしたりすることができないように、心の深層の分離と結合を伸縮させる動きもまた、意識的に動かせるものではない。しかし、心の深層と表層は隔絶しているわけではなく、その間はつながっている。
心の深層の動き、分離と結合の様相を分離したり結合したり伸縮させる動きは、しばしば象徴的なイメージ・神話的なイメージとして、想像されたり、夢に見られ、覚醒後まで記憶され、意識的に自覚されるようになる。
象徴的なイメージ・神話的なイメージは、心の深層の動きの消息を、表層意識に伝えているということもできる。
ちなみに神話の語りを生じる人類の心の深みの動き方のパターン(「構造」)がどうなっているかということについては、下記の記事などにも書いているので参考になさってください。
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さて、象徴的なイメージ・神話的なイメージにもいろいろとあるわけであるが、その中でもとくに代表的なもののひとつが「(空にうかぶ)丸いもの」のイメージなのである。
「丸いもの」のイメージは、古今東西、人類が存在するところにはいつでもどこでも現れる。東洋の曼荼羅、西洋のキリスト教とその周辺の図像、錬金術の象徴図像、宗教的な光輪や聖なる輪など、文化を越えて繰り返し「丸いもの」のイメージが現れる。

そして、現代人が主観的に「見た」と経験するUFOもまた、古来、世界各地の人類が見てきた「(空にうかぶ)丸いもの」の一種なのである。

現代人は、古代の人とは全く異なった最新版の心を持っていると考える向きもあるようだが、少なくとも、心の深層、人が意識的に自覚することができない心の深みでは、かつてと変わらず、古来からの心が生き続けているのである。
「全体性」の象徴
ユングは、この「丸いもの」、円や球体を、心の全体性を象徴するイメージとみる。
円形のイメージは、人間の心が統合、調和、均衡を目指して動くときに立ち現れる、その動きが動きつつあることを表層意識に伝えようとする元型イメージである。
「元型(archetype)」というのはユングの用語で、心の動き方の傾向・癖(?)のようなものと仮に読んでおこう。心が自ずから統合、調和、均衡を目指して動くというのも、動き方の癖としての元型(特に「自己Self」と呼ばれる)である。
これも例えとして適当かどうかわからないが、私たちの身体は、例えば暑いところで体温が上がれば、汗を分泌し、それを蒸発させることで体温を下げようとする。上がれば下げる、下がれば上げる。上がりすぎたり、下がりすぎたりしないようにする仕組みが私たちの身体では意識的な自覚に関わらず動いている。元型もまたそのような具合に、心の表層がなにか特定の分節機能による特定の分節の仕方だけに凝り固まってしまったとき、それを解すように動くのである。
この「自己」元型の活動が、表層意識に投げかける影のようなものが、「丸いもの」のイメージ、円環などの象徴像なのである。「丸いもの」は、この「自己」元型が動いていることを意識に知らせるイメージである。このような元型から投げかけられるイメージを「元型イメージ(元型イマージュ)」と呼ぶ。

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UFOもまた「丸いもの」である
空に浮かぶ円盤状の物体を「みた」という報告が世界的で語られ始め、世界中のひとびとの関心を集め始めたタイミングが、ちょうど20世紀の半ばという、第二次世界大戦後の冷戦、イデオロギーによる世界の分断と、科学的な合理主義が躍進した時代とちょうど重なっていることにユングは注目する。
すなわち、表層の合理的意識、はっきりと分けて、片方だけを選んで、選んだ方にこだわり続けることを要求されるモードが集団的に亢進し、固着し、いつも緊張して張り詰めた状態になったとき、その表層意識のアンバランスな状態に対して、無意識の方が、自己(セルフ)元型の動き、すなわち調和と均衡、全体性を取り戻そうとする動きでもって応答する。その時そこに「全体性の象徴」である「丸いもの」が浮かび上がってくる。
この本『空飛ぶ円盤』でユングはUFOが「矛盾分裂」する「われわれの時代」に出現したことに注目する。
古代的な段階ではUFOは単純に「神」と考えられる。
それはきわめて印象深い全体性の顕現で、その単純な円形は、一見統一不可能な対立物を統一する働きをもった元型を現わしているから、われわれの時代の矛盾分裂に対するまさに格好の補償ともなるのである。
さらにそれだけでなく、混沌状態に秩序を与え人格に最大限の統一と全体性を赋与するという、他のもろもろの元型にはない重要な役割をも果す。
「単純な円形」すなわち丸いものは、「一見統一不可能な対立物を統一する働きをもった元型を現わしている」とユングは書いている。その丸いものは「矛盾分裂に対するまさに格好の補償」になる、というのである。
20世紀の半ば、1950年代に至り、人類が世界各地で「UFOをみた」と報告し、UFOについて語り合うようになったころ、世界は東西冷戦の只中での戦争への不安、特に核戦争への不安にさらされていた。敵と味方、あちらとこちら、西と東が対立し、どちらが先に相手方を殲滅することができるか、どちらが後に生き残ることができるか、といったことを常に念頭に置いておかざるを得ない状況が世界を覆っていたのである。
冷戦という、いつ戦闘が開始されるか分からない不安なモードの戦争とは、まさに、「統一不可能な対立」が亢進する状態である。敵か味方か、勝ちか負けか、生か死か、どちらか一方を選ばざるを得ない。
そうした「分裂」モードに対して、「まるいもの」のビジョンは「一見統一不可能な対立物を統一する働きをもった元型」が、私たち人類の心の底で動いていることを、表層意識の固着した分別に伝えているのであった。
つまり人類には分裂を、対立の亢進を、調停する可能性が残されているのだ、ということを無意識が意識に教えようとしている。
そのために無意識が、合理的現代人のために選んだ「方便」が、UFO、宇宙の彼方の超科学文明から派遣された使者が登場する丸い乗り物のイメージだったのである。

合理的現代人の「思考」を維持しつつかつ絶妙に不可得にするUFO
ユングは、UFOが伝統的な宗教的幻視としてではなく、「工学的な物体」として語られた点にも注目している。
現代人の合理的な「思考」は、伝統的な神秘的象徴には反射的に懐疑的になるが、技術や宇宙開発の言葉には熱心に耳を傾けるように開かれている。
無意識はその時代の表層意識を主として担う機能(ユングは意識には主要な四機能「思考」「感情」「感覚」「直観」があるとモデル化する)にとって無視できない姿の元型イメージを浮かび上がらせるらしい。
UFOは、「何であって、何でないか」を「思考」できるでもなくできないでもないものであり、「あるか/ないか」を「感覚」できるようで感覚できるでもなくできないでもなく、という不可得な様相で現れる。
ちなみに「不可得」という語は、伝統的な「丸いもの」の代表である「マンダラ」に通達した弘法大師空海の用語から拝借させていただいたものである。
UFO現象においては、この不可得、曖昧さそのものが重要である。
「思考」や「感覚」だけでは、UFOはあるともないとも言えない、なにであるともなにでないともはっきり分別できない。この不可得さゆえに、分けて選んで固まろうとする表層意識は動揺し、ある意味でマッサージされるわけである。
そうして特定の分別が尖ったままで固まった心を、円満に調和した全体性へとほぐしていくように心の深みは動くのである。
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ここは重要なところなので少し詳しく書いておくと、次のような話になる。
即ち、私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そしてさらに、この対立の両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。このようにお互いに他方ではない限りで存在する二項のあいだを区別するということは、二次元で考えれば、真っ白な紙にくるりと丸を描くように、境界線を引き、閉じること。さらに高次元で考えれば、三次元空間にシャボン玉が浮かんでいるような具合で境界"面"を広げて、そして閉じていくことである。
そしてこの境界線、境界面を閉じるところで、「閉じる/開く」の対立が区別できていなければならない。
またこの閉じる/開くは述語的な相を呈する。
そこには、閉じつつある途中、開きつつある途中、ということがある。
この時、閉じつつあるが完全に閉じてはいない状態があり、そこに「入口/出口」の区別が出てくる。
そしてさらに、この境界線や境界面を境にして、二つの側、境界の「こちら/あちら」の区別が出てくる。そしてここに別途区別された「自/他」の対立が重なると、境界の「こちら/あちら」の対立は、「内/外」の対立になる。
こちら/あちら
|| ||
自/他
↓
内/外
私たちが、経験的感覚的に、なにかがあるとかないとか意識したり語ったりできているときには、このような「内/外」の対立がすでに無意識裡にでも区別されていなければならない。
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そして、レヴィ=ストロースが『神話論理』で分析しているような人類の「神話」は、まさに人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとするものである。例えば、神話の語りを紡ぐ野生の思考が、「人間の起源」を思考しようとすると、まずは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するように感じられるものや事柄について、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず、区別があるということそれ自体の起源を問うことになる。
区別があること / 区別がないこと
この区別を他の感覚的に似たような言い方に言い換えることもできる。
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
主語的に固まった様相として分かれているかいないかの対立を考えようとすると、分かれているところを分かれていないようにしたり、分かれていないところを分けたりする、「分ける」動き、述語的様相が際立ってくる。
そこから神話は、
区別すること / 区別しないこと
この対立の起源を問うことになる。ここで「区別しないこと」は、しばしば神話では、経験的にはっきりと分離されているべき二者の間が過度に結合されてしまった状態として表現される場合もある。
区別すること / 区別しないこと
この対立は、
分離すること / 結合すること
結合状態を分離状態に転じる / 分離状態を結合状態に転じる
この真逆に対立する動きのペアにも置き換えられる。
先日の記事では「内/外」「入る/出る」、そして「入口/出口」といった、私たち人類にとっての意味分節=現実分析を支える基本的な二項対立関係の起源を思考しようとする神話を見てきた。「料理」と「消化」をめぐる神話は、人類を含む生き物の身体が食事をしたり、排泄をしたりする、という極めて感覚的な区別の経験を用いて、内/外、入れる/出す、入口/出口、開く/閉じる、といった対立関係を意識の前面に引っ張り出して、そしてこれらの区別を用いて、「分離すること/結合すること」「一であること/異であること」の区別、区別することと区別しないことの区別という、おそらく分別する思考にとってもっとも基本的な最初の区別の動きだしをシミュレートしようとする。
その時神話は、次のようなプロセスで動き、「マンダラ」状の動的な関係を浮かび上がらせる。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(下の図ではΔに対するβ)という。

不可得な両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
ここでUFOは、
なにであるか / なにでないか
をガチガチに分別して固めようとする「思考」に対して両義的媒介項としてはたらく。UFOはなにであるともなにでないともはっきり分別できないものである。
またUFOは
あるか / ないか
をガチガチに分別して固めようとする「感覚」に対しても、両義的媒介項としてはたらく。UFOは、あるようなないような、ないとはいえないがあるともいえない、はっきり分別できないものである。
Δある /β/ ないΔ
β UFO β
Δである /β/ でないΔ
このようにUFOという両義的媒介項が、ある/ない(感覚)、である/でない(思考)という、二つのそれぞれ独立して亢進する分節機能を、別々に働かせたまま接近させ、そのΔある/Δない、Δである/Δでない、Δ四項の隙間に、あるでもなくないでもない経験的な二項対立関係のどちらであるか不可得な、両義的媒介項が動き回る余地を開くのである。この両義的媒介項が動き回る余地を自覚的に意識することが、人類の心の表層の特定の分別への固着の亢進への「疲れ」から癒すのである。
ちなみに、もうお分かりのように、両義的媒介項が四つ集まり、その間の距離(分離しつつ結合しつつあるモード)が均衡し、
β
β β
β
という配置になったものが「マンダラ」である。
ユングが書いているように、UFOは、現代人の広く深い心が、その表層と深層を分けつつつなぐ元型イマージュを生み出す働き=密教でいう「意密」を加持した(イメージ形成能力を奮起させて浮かび上がらせた)ところから浮かび上がる、全体性の象徴、すなわち「マンダラ」なのである。
ここで「おや?」と思われる方もいらっしゃることだろう。
UFOは「ひとつ」であることも多く、別にいつもいつも四機同時に編隊を組んでいるわけではない、と。ここが実は両義的媒介項ということを理解するうえで重要なところで、両義的媒介項は「無量」、つまり数えられるでもなく数えられないでもないのである。両義的媒介項はひとつといえばひとつだし、四つといえば四つだし。二つでもいいし、三つでも良いし、さらに増えてもいい。それなのになぜ他ではなく「四」という数字が特によく出てくるのかといえば、要するに、意識の表層に無意識の元型の動きを知らせる上で「四」が比較的好都合だということなのである。意識の表層は通常、二項対立を複数組み合わせて現実の経験を意味付けて=意味分節して生きている。この覚醒した表層意識=分別心を明晰に保ったまま、そこへ深層の元型の動きの影を写像しなければならない。そのようにして浮かび上がったイメージが、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係、四者のあいだが分離するでもなく結合するでもない様相としてイメージされるのである。
別の説明の仕方をすれば、UFOは下記のマンダラの全体そのものなのである。UFOはマンダラであるということは、UFOはたったの「一機」(?)でも、両義的媒介項が四即一にして一即四になったものを包み込んでいる、ということである。


AIはUFO描くのが得意(?)
* * *
マンダラに抵抗する現代人
さて、ユングは『空飛ぶ円盤』で重要なことを指摘している。
人間の心には、UFOのビジョンを見るような、諸対立が付かず離れずに調整された調和と均衡を目指そうとする傾向もあるが、同時に、その反対向きの傾向もある。
即ち、均衡に向かう傾向に逆らい、むしろ特定の分け方に固執し、分けられたものたちのうちどれを選ぶべきかに固執し、選びたいと欲する方を選べない場合に「感情」を爆発させて、分離を結合に強制的に転じようとして、結局さらに激しく分離し、均衡を破壊してしまう・・・という残念な(?)傾向もある。いや、残念という言い方はよろしくない。
それもまた人間、それもまた人生なのである。
全体性願望
権力欲
性欲
ユングは、人類には一方で「心の全体性」を目指そうと求める心の動き「全体性願望」がある、と描く。下記の引用でユングは、全体性願望は「基本的な衝動」であると書いている。また他方で、心の全体性の建立に逆らうような傾向もある。それが下記にある「性欲と権力欲」といった、特定の対象を追い求めようとする傾向である。
ただひとつ確かなのは、基本的な衝動のなかで最も重要なものである宗教的な全体性願望が、今日一般の意識のなかで、最も目立たない働きしかしていないという事実である。
[…]他の二衝動[…]性欲と権力欲が誰でも知っている日常の事実のなかで常に示されているのに、こちら(引用者注:全体性願望)はそのつど、とぎすまされた意識や思慮深さ、省察や責任その他もろもろの美徳を俟たなければ、自己を明証することができない。
ユングの指摘によれば、20世紀の(おそらく21世紀を生きる現代人においてもなお)この「全体性願望」はうまい具合に意識の表層での表現を得ることができず、意識の中では「目立たない働き」をするばかりで、ほとんど無意識に沈み込んでしまっているという。
全体性願望が「目立たない」働きに追いやられる一方で、「目立つ」働きをしているのが、まさかの、というか、まあそうだろうね、という「性欲と権力欲」である。
人間の心には、いくつかの基本的な「衝動」がある。
主なものは三つ
全体性願望
性欲
権力欲
である。
全体性を目指そうというのも、人類の心の基本的な「衝動」のひとつである。つまりこの衝動を、ないものとして無視することはできないのである。古来、人類の全体性を目指そうという「衝動」は、人々を「宗教的」な営みへと人を駆り立てた。そして共同体の中で伝統的に受け継がれた「まるいもの」系の象徴(十字の象徴や二即一の象徴なども)を視覚的呪文的に用いる儀礼などは、その全体性を目指す衝動をじつにうまいぐあいに満足させてくれたのである。

ところが、近代になりこの方法がうまく機能しなくなる。
近代・現代の「魔術からの解放」は、宗教的伝統を「迷信」「非合理」として意識の表層から退け、追い払い、無意識の底へと抑圧しようとしていう傾向をもつ。そこでは「全体性願望」は表層意識においてはっきりと自らを表現する機会を奪われてしまった。
* *
そして「全体性願望」が無視される一方、近代現代の世界は、基本的な衝動のうち「性欲と権力欲」については、むしろ過剰とも言えるほどにそれを強化し、派手に表現することを善しとした。
性欲の衝動に突き動かされて、欲望の対象を追い求めるように動き、欲望する者と欲望の対象とのあいだの関係を分離モードから結合モードに転じるために躍起になる。また権力欲に突き動かされて、権力の象徴を追い求めるように動き(この権力の象徴というのはゆるい意味合いで、学歴とか経歴とか年収とか保有している不動産とか、要は他人と比較してどちらが上でどちらが下だと「マウントをとれるもの」であればなんでもいい)、欲望する者と欲望の対象とのあいだの関係を分離モードから結合モードに転じるために躍起になる。
現代の日常には「性欲と権力欲」を増大させ亢進させるものと、それを満足させるものや情報(商品)が大量に供給されている。「性欲と権力欲」を満足させるために必要な「お金」、それと自ら増えていくお金=資本というものが、より直接的な欲望の対象になる。

増幅された性欲と権力欲を満足せる「もの」を際限なく手に入れるべく、現代の自我たちは瞬間瞬間、忙しく分別を、判断を刻み続けていく。
ところが、一つ残念なことに、しばしば「性欲」や「権力欲」は、永久に完全に充足されることがないという問題がある。
「性欲」や「権力欲」が、一旦何かでその欲望の対象との関係をうまく分離から結合へと転換するに成功したとしても、私たちの前には、すぐにまた別の、第二の、第三の、欲望の対象が出現する。一旦自分にとって最重要事項となる「欲望の対象」との関係を分離から結合に転じたというのに、また新たな「欲望の対象」との分離した関係がみえてしまう。しかたない、次はこれだ、と私たちは新たな欲望の対象に向かって、また分離を結合に転じようと必死になる。
こうして欲望する者と欲望の対象との間の、分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離…という伸縮が、肉体的に生きているかぎりどこまでも続くということになる。そしてこのような人間の心が伸縮する動きをいわば拍動・ポンプとして用いることで、ものの流れを作り、そのものの流れから交換価値という意味の高/低の分節が無数に切り開かれ、資本は増植してゆくのである。
ユングによる上の引用文の続きをみてみよう。
[…]そのため比較的無意識で、自然衝動のままに生きる人間にはまったく顧みられない。そういう人間は既知の世界にとらわれていて、日常的でじかに感覚に訴えるもの、要するにもっともらしいものや、まわりの人間も認めるものにだけしがみついている。
彼のモットーは「考えるのは厄介だ。皆のいうようにすればよい」である。
見るからに複雑で難解そうなものや、ふだん見なれないものが問題をつきつけてきても、それらを平凡かつ陳腐なものに還元してしまうことさえできれば、人生すこぶる安泰だし、それも思い切り簡単で、しゃれのめしたやり方で説明がつけば、なおさらである。
そこで、彼にとって手頃な説明方法は、いつでもどこにでもころがっている性であり権力欲なのである。これら支配的な基礎本能へ還元してしまうことは、合理主義や唯物論者流の考え方にも、並々ならぬ満足をひそかに与えるのが常である。
ここは晩年のユングによる、人類に対するなかなか厳しい苦言であるように思う。現代の自我たちは、「性欲と権力欲」に駆られて、それらをよりよく満足させるものと選ぶために、意識の四機能のうち、特に自我を担うものを酷使していく。
ある/ない の伸縮
一番簡単なのは「日常的でじかに感覚に訴えるもの」、ある/ないをみんなで同じように分別する「感覚」に頼る方法である。「全体性」を腕にぶら下げたり、頭にかぶったり、駐車場に停めたり、金庫に収めたりすることはできないというか、どうやったらよいのか見当もつかない難しいことであるが、1000万円の腕時計や、7000万円の高級車や、札束や、時価が鰻登り金の延べ棒などが「ある(ないではなくある)」ことは、感覚的に明らかであるし、なにより自分以外の他人たちも、同じようにそれを感覚して「ある」と認めてくれる。
求めるべきであるものか/求めるべきでないものか の伸縮
そしてそういう感覚的に「ある」と分別できるものについて、「それが求めるべき善きものであるのはなぜか」を「思考」し、その答えを他者たちに向けて言い合い、皆で答え合わせをしようと言う時、「手頃な説明方法」として「いつでもどこにでもころがっている性であり権力欲」が説得力をもつものとして引き合いに出されるのである。
「人間には支配的な基礎本能として、性欲があり、権力欲がある。
それを満たすために、あれこれの感覚できるものや情報が必要であり
それを求めることは肯定されるのだ」・・という具合の言説である。
そうして「性欲と権力欲」は、日常の社会経済生活の原理として管理されつつ、大いに増進されることが期待される。そこでは「性欲と権力欲」は、人間について理解し説明しようとする科学的な「思考」の原理、説明原理にまでなる。
・・・
表層での表現の機会を奪われた全体性願望が、UFOを呼ぶ
その一方で、「心の全体性」を求める全体性願望の方は、前近代的な魔術や迷信の一種として、現代人の意識の表層から追い出されかけている。
この、いわば人類規模の全体性の回復=個性化から“遠ざかる”状態が、現代の人類を、人類の社会を、苦しめているのである。
ユングは次のように書いている。
文明人は余計な重荷だといわんばかりに、それ(引用者注:全体性願望)から逃れようとしている。実際、全体性なしでもやっていけそうに見えるのである。
この現象の意義はきわめて大きい。それは一方では意識の識別能力の発展という肯定面をもっているが、他方では本来の全体性をたがいに拮抗する独立機能に分解するという、それに劣らぬ否定面をも持っている。
[…]しかも、近代に至っては、ますますその損失が痛感されるようになってきた。
「心の全体性」を希求する「全体性願望」は、それを表現するカ場を与えられないまま、無意識の深みへと沈んだままになる。
その結果、「本来の全体性をたがいに拮抗する独立機能に分解する」ということが起きる。「たがいに拮抗する独立機能」とは、後述するように、「思考」「感情」「感覚」「直観」といった経験的な現実分節・意味分節機能である。これらは「本来」、人間の心においては四即一に補い合い調和した「全体性」のもとにあるのであるが、しかしそれがバラバラに分解してしまう。そしてそれぞれの機能が独立して、他を顧みずに自らの分別だけで世界の全てを「分かった」つもりになって暴走していく。それは一面ではユングが書いているように「意識の識別能力の発展」という肯定的な側面も持っている。すなわち自然科学的な「思考」と「感覚」 の発展である。
とはいえやはり、心の全体性がバラバラになり、特定の機能だけで世界の意味を全て分別して固めようとすることは、人間を苦しめることになる。
その時、全体性願望は無意識の深みに溶けて消えてなくなってしまうわけではない。全体性願望は意識の深みで動き続ける。
それは象徴の秩序として整えられた意識の表層での表現形態を持たないが故に、かえって激しく、突発的に、爆発的な仕方で動き、突如として意識の表層に噴き上がってくる。
その表現が、UFOだったのである。


「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能がバラバラに働く
心の全体性と四機能への分離について詳しく見ていこう。
ユングによれば、人類の心は、単純単一均質なものではなく、いくつかの異なる機能がそれぞれ別個に働いている。ユングはそれらを密教の五智如来のマンダラなども参照しつつ「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能に整理している。

「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
この四機能について、ユングは『空飛ぶ円盤』でも次のように言及している。
無意識内容がひとたび現われると、つまり意識の領域に入ってくると、それはまたすなわち「四」に分裂したことにもなる。なぜならそれは意識の四つの基本機能によってはじめて経験の対象となりうるからである。
それは感覚によって存在を認められ、かくの如きもので他のものではないと思量分別され(引用者注:「思考され」)、「心地よい」とか悪いとか受けとられ(引用者注:「感覚され」)、さらにどこから来てどこへ行くであろうと予感(引用者注:「直観され」)される。この最後の予感のプロセスは、感覚によるものでもなければ、思考によるのでもない。時間における広がりや変化は、すなわち直観の対象にほかならない。
四機能は、個々バラバラに独立して動いているのではなく、もともと、といいうか「意識の領域に入」る手前では、分かれているでもなく分かれていないでもない様相にある。それが「意識の領域に入ってくると」「「四」に分裂したことにもなる」というのが実にマンダラ的な理解でおもしろい。
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は安定した調和のとれた状態になる。
一方、四つの心的機能間の距離が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できないことになる。
そして私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。
あるいは例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。
そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
上の引用にある「困惑や無力感をともなう状況」である。
これについて、ユングは次のようにも書いている。
分解(引用者注:四機能の分解)によって意識のなかの各々の機能は洗練され、他の機能の制肘を免れるようになる。そしてついには一種の独立をかちえて、おのれの世界を確立するに至る。
そこでは、他の諸機能は、主たる機能の隷属に甘んじるほか、容れられる余地がない。
しかし、それによって意識はバランスを失っている。
思考が優位に立てば、価値判断をする感情は引き退らねばならず、その反対もまたありうる。
感覚という現実機能が支配すれば、なによりも直観が排斥されるだろう。直観は手で触れられる事実をいとも簡単に無視してしまうからである。
そこで逆に直観が勝つと、 確証のないたんなる可能性の世界を生きることになる。
こうした一面的な発達は、専門家にとっては有利かもしれないが、一面性という狭さも生じかねない。
「思考が優位に立てば・・」
「感覚という現実機能が支配すれば・・」
「直観が勝つと・・」とあるように、表層の意識では、しばしばこれらの四機能のうちのいずれかが、他を黙らせるほどに強く我を張る場合がある。四機能のうち、どれか一つ(あるいは補助的にもう一つくらい働かせつつ)の分別だけで「現実」の意味を分節して処理しようとするのことがある。しかしそれは、意識が「バランスを失って」いる状態である。
分離と結合の伸縮を四つ重ね合わせてマンダラ状の調和を作る
そうした状態に至ると、人類の「心」は(自我ではない、自我を含む心の全体は)、亢進した自我の「機能」を宥め、沈黙を強いられた「機能」の判断にも耳を傾けるよう促すように動く。「ばらばらに拡散していた全体性」を、「包みこむ円のうちに」集め直そうとする。それが「全体性願望」の動きである。
意識の四機能という観点からすれば、「マンダラ」の夢や幻視、あるいは神話的な語りは、意識の表層にたいして、四機能の均衡をとることの大切さを告げていると言えるのだろう。
「思考」「感情」「感覚」「直観」という意識の四機能の均衡と調和による「個性化」を善きことと感じるのも、私たちの心が、全体性願望によって突き動かされているからである。

*
・ ・ ・ ・
「思考」の自我、「感覚」の自我
現代の人類は「性欲と権力欲」に突き動かされて、「思考」や「感情」や「感覚」や「直観」という意識の分節機能を、うまい具合に組み合わせて(?)動かしてきた。あれが好き、これが嫌い、こうするべき、ああするべきではない、こちらがしっかりしたもので、あちらはしっかりしていないものである、こちらは将来性があり、あちらは将来性がない・・、などなど、「思考」や「感情」や「感覚」や「直観」が分けたもののうちどちらか一方を「性欲と権力欲」を満足させる対象として選ぶのである。
注: ・・・このように書くと、なにやら人類の欲ぶかさを詰っているように読まれる方もいるかもしれないが、そういう問題ではないのでご注意願いたい。
褒めるか/貶すか
どっちがいいか/わるいか
そういう二元的な区別で「どっちだ、どっちだ」と選ぼうとするやり方では「全体性願望」のことは語れないよという話をしているのである。
ここで私は、「人間は、欲深いから、だめだ〜」といいたのではない。
分けて選んでこだわると、苦しいよね、癒されましょうよ、私たち自身の心がすでにその方向に向かって調整をかけてきているとおりに、というだけの話である。
我欲が転じて、大欲となるのを、静かに見守ろう、という簡単な話である。
また、自我の主張の強化は「意識の識別能力の発展という肯定面」を持つと、ユングも指摘しているとおりである。迷信や魔術で、ふんわりと意味付けたり、関係付けたりして分別納得するのではなく、徹底的に「思考」や「感覚」の分別を研ぎ澄ませて、何があって何がないのか、そのあるものは、何であって/何でないのかを、自我の集団的な活動として厳密に分別できるようにしていく。こうして現代に至る人類は高度な「識別能力」を覚醒させ続けることができ、それを用いて自然の法則を観測し、記述し、技術的に利用する力も強化していった。
・・
とはいえそれでも、意識的自我が特定の機能だけを過度に使役して一人歩きすることは、「本来の全体性をたがいに拮抗する独立機能に分解」してしまう結果をもたらすという前述のユングの指摘を忘れないようにしたい。
そうなると、せっかくの科学技術もまた「性欲と権力欲」、色、金、名誉への欲望と、それを満足させる対象との関係を分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離→結合→分離…と激しく引きちぎれんばかりに引っ張り回すことになる。もちろん、それもまた人の心の動き方であり、そのこと自体は良いことでもなく良いことでなくもないのであるが、とはいえそれは自我にとっても大変だよね、苦しいよね、ということである。
性欲や権力欲という欲望は、付かず離れず、分離するでもなく結合するでもない均衡を目指すよりも、ひたすら分離を結合に転じようと欲し、しかし結局結合することができずに分離され、さらにまた強く結合しようと必死になる、という形で心を伸縮させ続けるからである。激しい分離を激しい結合に転じようと力技を行使するも、激しく結合したはずものはまた激しく分離していく、という感じである。


因/果を分別する「思考」
「性欲と権力欲」が、自我と欲望の対象とのあいだで分離を結合に転じようとするも失敗し分離したままになるとき、しばしば自我は、自分を欲望の対象から分離し、遠ざけようとするものを、自我と対立し、自我を脅かす「敵」のようなものという姿で意識化する、名づけ、イメージする。
「私は、性欲と権力欲を満足させたいと欲しているのに、しかし、XXXXのせいで(XXXXが原因になって)、私を欲望の対象から分離しようとする!けしからん!」という具合である。
興味深いことに、ユングいはこの「XXXX」に、いわゆる今日でも諸々の陰謀論と呼ばれるものを賑わす主語たちが充当されると指摘する。
投影は、それがたんに個人の私的な事情によるものか、もっと深い普遍的な前提によるものかによって及ぶ範囲がちがってくる。
個人的な抑圧や無意識はごく身近なところ、身内や交友範囲に投影されるが、普遍的集合的な内容――たとえば宗教的な葛藤や世界観上の葛藤、政治社会的な軋轢は、それぞれにふさわしい客体を選んで投影される。
たとえばフリーメーソン、ジェズイット、ユダヤ人、資本家、ポルシェヴィキ、帝国主義者などがその対象とされるのである。そして、人々が人類全体の存亡にかかわることに気づきはじめている今日の世界状況にあっては、投影をうながす空想は地上の組織や権力を超えて天上に、すなわち、かつて運命の支配者たる神々が鎮座していた星宿からなる宇宙空間に、 その視線を投げかけるのである。
自我を担う意識の機能は、何かと何かを分別し、つまり、分けて、選んで、それにこだわろうとするという形で、欲望を充足しょうとする。即ち、分離を結合に転換しようとする。
しかし、分けただけで選べず、こだわることもできない(所有したり、保持したりすることができない)事態に陥ったとき(そして人生とはだいたいそういうものである)、自我を担ういずれかの「機能」だけでは、どうしようもなくなることがある。
この時、自我が「思考」の機能を使いこなしていればいるほど、ついつい「どうあるべきで/どうあるべきでないか」を分別しようとすることになる。
ここに原因/結果の分別が重なってくる。
合理的な「思考」からすれば、ものごとが「あるべき」結合状態になるためには、「あるべき」「あるべき」「あるべき」を正しく連鎖させ、あるべき状態を結果として得ることを可能にするべく、原因をあるべき条件に整えておきたい、ということになる。
原因/結果
これは同時に、「あるべきではない」分離状態が「結果」として生じるときにも、その手前に「原因」が隠れてあるはずだ、という思考でもある。それが自我にとっては、自我の敵役として意識化されるのである。自我が選びたいものを選ばせてもらえない結果になっているのは、他の誰かがそれを奪ってしまっているのが原因だからだ、という具合の「思考」の分別が効くことになる。
+ +
「投影すなわち客体への転移」
もし欲望の充足が阻害される経験が=結合すべきところを分離されてしまった経験が、玄関先に置いてあった今夜食べようと楽しみにしていた秋刀魚を、近所の野良猫が加えて走って行ってしまった、というくらいに「感覚」的にクリアーに判明している場合は、その「原因」を特定することは容易い(「儂が結合すべき秋刀魚を儂から分離したのはあの野良猫である、けしからん!」)。
とはいえ、例えば「なんとなく景気が悪い」とか「毎月これだけ保険料(税)を払っているのに、将来、年金はもらえなのではないか」とか「どうも最近、繁華街の雑居ビルのどこかで恐ろしい組織が暗躍している気がする」といった、近所の野良猫のように明確な「原因」をピンポイントで主語化することができない不安(結合したくないことと結合され、分離したくないことと分離される不安=欲望が充足されないという「直観」)に苛まれる時、「原因」のポジションを埋めることができるおあつらえ向きの主語として上述の引用にあるような既存の言説の中でしばしば活字化される陰謀論の主役たちが動員されることになる。
日常生活で、経験的感覚的に「これが原因です」と言えるもの(上の場合でいう野良猫)を同定できない場合、直接会ったことはなく、みたこともないけれど、なにか複雑な目に見えないネットワークで「私」の身近に隠れ潜んで、私から私が結合したいものを分離しようとする連中がいるはずだ・・、という具合に考えられることになる。ここに「投影」ということが起きるとユングは書いている。
無意識はきわめてドラスティックな方法でその内容を告げ知らせているといわねばならない。この現象の最も強烈な形が投影、すなわち客体への転移で、このとき客体に現われるものこそ、それまで無意識のなかに秘められていたものである。
ある意味で陰謀論のようなものは、現代の人類が、必死になって「思考」だけで、心の分離と結合の伸縮の動きをまるごとすべて統御しようと必死になっていることの表現なのかもしれない。
ユングは「投影が起るのは心的内容がその人間の個人的自我に属していることが気づかれないでいる場合にかぎる」と書いている(『空飛ぶ円盤』p.60)。
諸悪の「原因」たる主語を分別してきた「思考」の傍で、この時とばかり補助機能として覚醒した「感情」は、分離したい、結合したくない、と激しくその分別を走らせる。しかしそれもまた、私たち人類の心が、ある意味で極めて典型的な動き方を示しているということに他ならない。
+ +
特定の分節機能の固着から、全体性の回復へ
如実知自心
このような「投影、すなわち客体への転移」に苛まれる苦しみから離れるための方策が、ほかでもない「全体性願望」を充足する方向を目指すことなのである。
すなわち、「思考」「感情」「感覚」「直観」がいかにそれぞれの分別を先鋭化して固まろうとも、この四つを四即一にして一即四に均衡させることができるならば(マンダラを建立することができるならば)、「思考」「感情」「感覚」「直観」それぞれの機能がはっきりと際立って働きつつも常に互いに互いを参照ながら、あるひとつの機能が分離しすぎたところを別の機能が媒介して結合しなおし、ある機能が結合しすぎたところを別の機能が媒介して分離しなおす、といった動きを動かすことができる。

ここまでくると、「心的内容がその人間の個人的自我に属していることが気づかれないでいる」ということはなくなり、つまり「投影、すなわち客体への転移」に苛まれることもなくなるのである。
この境地は、まさに如実に自心を知る、という感じである。
こうなると改めて、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)の言葉を思い出す。以下、下記の文献から大角修先生による現代語訳をいくつか引いてみよう。
菩提(さとり)とは、自己の心を正しく、ありのままに知ることである。
秘密主よ。それが阿耨多羅三藐三菩提(この上なく正しく完全のさとり)であるのだから、そもそも自己の心を離れて得られることは少しもない。
厳密に「思考」すると違うのであるが、ふわっと「直観」でいうと、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得ようとすることと、ユングのいう全体性願望とは非同非異の関係にある。ふんわり同じようなことだということに仮に方便を講じておこう(もちろん「思考」すればいくらでも「違う」といえるのであるが、いまは「思考」を休ませる方便を探索しているのであるよ)。
上述のように全体性を回復するためには、「自己の心」と向き合う必要がある。では一体、どのように自己の心と向き合ったら良いのか。まず「こういうやり方ではうまくいかないよ」という話になる。
秘密主よ。では、どのようにして自己の心を知るのか。
もし分類して菩提をもとめるなら、得ることない。
もし色彩や形などの知覚・認知する領域に菩提をもとめるなら、 得ることない。
もし色(物質)・受(感受)・想(想起・記憶)・行(意志・欲求)・識(識別)の五の集合(五蘊)によって分類して菩提をもとめるなら、得ることない。
もし我、もし我所(所有)、もし能執(認識する我)、もし所執(認識の対象)、もし清浄、もし十八界・十二処(六根と意識による種々の領域)などを分類・考察して菩提をもとめても得ることない。
あれこれの「分類」、即ち分けて選ぶやり方では、「自己の心」の「全体性」に近づくことはできないと繰り返し説かれている。阿耨多羅三藐三菩提を得ること=全体性願望をみたし、全体性を回復するためにはあれこれ「分類」するだけではダメなのである。「思考」で分類したり「感覚」で分類したり「感情」で分類したり「直観」で分類したり、いくらでも細かく分けて分けて選んで選んでこだわることはできるが、その先に阿耨多羅三藐三菩提が遠心分離されることはない。
なお、ここでいう分類には、分けることと分けないこと、分別と無分別、分節と無分節を分けることさえも含まれる。この全体性に至る境地は、分かれているの反対としての分かれていないではなく、分かれているでもなく分かれていないでもない、絶対無分節の分節、といったようなことなのである。二辺を離れるでもなく離れないでもない。
*
ちなみに、この引用で「秘密主よ」と聞き手に呼びかけているのは、他でもない大日如来である。大毘盧遮那大日如来は次のように述べている。
秘密主よ。
愚童凡夫(愚かな子どものような人々)は果てしない過去の輪廻のはじめから五官の感覚と衝動などにとらわれた我に執着して、それによって知覚し、自己の所有であるかのように認識するために心は千々に分裂している。
かれらは我の自性(自我の本性)をみないために我執を生じて、それを時のせいにし、あるいは地・水・火・風・空の五大の変化のせいにしている。
これがまさに、上述の「投影」の話でユングが指摘していたことである。「五官の感覚と衝動などにとらわれた我に執着して」とあるが、この「五官の感覚と衝動など」というのが「思考」「感情」「感覚」「直観」の分別を動かし、それに執われた=特定の分節機能に依存する「我」こそ、意識の表層で固まる「自我」に他ならない。
そして特定の意識の機能の特定の分別だけにこだわっても、苦しみは増しこそすれ消えることはないのである。
+
菩薩のこころがマンダラである
では、全体性への調和に向かうためには、どうすればよいのか。
大日如来は次のように明確に述べている。
摩訶薩(菩薩)の意(こころ)が曼荼羅である。
みな、意より生じる。
決定の心をもって歓喜するところに内心処(自証・本来の清浄心)というものがある。真言はそこから発現して広大な果を招くのである。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
菩薩の意(こころ)が曼荼羅である。
ここは108回くらい唱えておきたいところである。
まさにその通りで(と大日如来に申し上げるのは烏滸がましいが)、調和した全体性を、菩薩にすなわち阿耨多羅三藐三菩提に至ることを目指して修行する行者が自らの心(特に意(こころ))において建立しようとするとき、そこに「曼荼羅」が出てくる。
ここで“こころ”を「心」ではなく「意」と表記していることに注意しておこう。
「意」は三密加持の三密=身口意のうち「意密」の「意」、すなわち人の心のイメージ形成能力、元型イマージュを心の深みから意識の表層で自覚できるビジョンとして浮かび上がらせる働きのことである。
そうなると、摩訶薩(菩薩)の意(こころ)が曼荼羅である、これはつまり、行者の元型イマージュがマンダラである、ということになる。
そして最後に思い出してほしい。
マンダラが、合理的「思考」に頼り切りになった人の心に現れた姿がUFOであったことを。



まとめ
私たち一人一人は、表層的には社会から迫られて「性欲と権力欲」を満足させようと爆進していると自我自身が信じてやまないようになっているが、実はその心の深層というか全体では、かすかに自覚できているかいないかを問わず「全体性願望」もまた動き続けているのである。
ここがUFOという「まるいもの」が全人類的に語られ、イメージされるようになる出発点である。
「全体性願望」が、「性欲と権力欲」といった自我の分別の直下から湧き上がってくる時、自我はUFOについての語りやイメージに、驚き、しばしば困惑し、あるいは恐れ、そして魅せられるのである。
ユングは次のように書いている。
心的内容は、無意識の状態にあるかぎり見ることができないし、第一、心はおのれ自身を知ることができないからである。
無意識が意識に知られるのは、それが意識されたときにかぎる。
意識化の過程で無意識内容がどんな変容を受けようが、われわれにはまったく分らず、せいぜいこうでもあろうかと想像されるばかりである。
「心的内容は、無意識の状態にあるかぎり見ることができない」
「心はおのれ自身を知ることができない」というところが重要である。
「見る」とか「知る」とかいうことは全て分別、表層の機能である。大日如来が説法されているように、分別する機能では阿耨多羅三藐三菩提を得ることができない。これをユングは「心はおのれ自身を知ることができない」というのであろう。如実に自心を知ること能わず、といった感じである。
無意識は、あくまでも意識された時に、意識される。
仮に無意識を如来の境地だとすれば(この言い換えも「思考」からするととんでもないのだが)、人として意味ある主観的経験を意識していることの究極にあるのが菩薩の境地である。密教のマンダラにある通り、四如来の境地(四智)も、そして四菩薩の境地も、大日如来の境地(法界体性智)と非同非異である。言い方として妥当かどうかわからないが、人間が人間の身と口と意のままでは決してそのまま経験することも感覚することもできない如来の境地が、人間用のモードに変換されたものこそが我々のあれこれの心の機能、分別する心、分別する「思考」であり「感覚」であり「感情」であり「直観」である。その分別してやまない人間的な心の機能を転用(ブリコラージュ)して四即一にして一即四のマンダラ状に均衡させた時、我々人類は生きたこの身のまま、如来の境地と共鳴することができる(密教行者の方であれば入我我入、弘法大師なら即身成仏とおっしゃるところであろうか)。
ユングは次のように書いている。
心理的に言えば、円型ないし曼陀羅は自己の象徴である。
心的に見て自己は、この上ない秩序の元型である。
曼陀羅の形成は算術的な性格をおびる。
というのも数は全部、どれをとっても原始的な秩序の元型だからである。
とくに四の数がそうで、ビュタゴラス派のいうテトラクテュース (Tetraktys)である。混乱状態は原則として心的な葛藤から生ずるのが普通だから、曼陀羅にはまた、二個一対(Dyas)という、対立の統合を意味する概念も経験上結びついている。アンジェルッチの幻視にもそれが現われた。
この象徴は中心的な位置をしめているため、高い感情価をもっていて、たとえばアンジェルッチの聖痕体験にそれが現われている。自己の象徴は神の像とつねに軌を一にしている。
たとえばニコラウス・クザーヌスの反対の一致(complexio oppositorum)と二個一対は類比できるし、「神は一つの輪である。その真中はいたるところにあり、その端はどこにもない」という神の定義と、アンジェルッチの「水素原子のマーク」も同じである。
彼に刻された聖痕は、主なるキリストの聖痕ではなく、絶対的な全体性の象徴であり、宗教の言葉でいうなら神の象徴にほかならない。
こうした心理的な関連のもとに、錬金術におけるキリストと賢者の石(Lapis Philosophorum)との類比ないし同一視も生じるわけである。
この中心はしばしば眼として表わされる。(錬金術では)常に開いている魚の眼であり、一方ではまた良心の眠ることなき神の眼である。あるいは万物を照らす太陽で象徴されることもある。
我々人間が、自覚的な「意識」=分別心という、現世を生き抜くために食べ物を探し生殖の相手を探し、その相手・対象との関係を分離から結合へと転じる用に特化してチューニングされた「心」を使って日々あくせくと暮らし、あれこれを欲望し、欲望が叶って満足したり、欲望が叶わずに不満を抱いたりしながら、同時にまたそのような分別心や執着心もまた、全体性の一つの側面、ひとつのもつれ込み方のモードなのだということを如実に自覚するために、「意識」=分別心が作り出す二項対立を最小構成で二つ重ね合わせて、マンダラ状の付かず離れずの関係を作る。
こうして人類は、古来、如実に自心を知るということをやってきて、全体性願望の求めに応えることができていたのである。
+ +
そして現代人も、しらずしらずのうちに、極めて限られたリソースを頼りに、なんとかしてそうしようとしている。
その時、UFOが現れるのである。
・・・

「昨夜、夢を見まして」
「四羽目はどこにいったのですか?」










つづく
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