動き周ることでマンダラ状の空間を浮かび上がらせる夢を二つ【マンダラ夢分析】-意識から無意識へのインターフェースとしてのマンダラを建立する伸縮系の述語たち
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方
この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を表層に残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
前回の記事では、学校のような空間のなかを歩き回る夢をご紹介したが、この夢見者(私であるが)は、しばしばこの巨大な空間の中を動き回るパターンの夢を見る。
下記の記事でご紹介した夢でも、巨大なショッピングモールのような建物の中を、エスカレーターで上がったり下がったりする。
今回は巨大空間を動き回る夢の分析を二つ、ご紹介しよう。
その1.巨大な箱が、さらに巨大な箱の中に入っている夢

夢見者(私)は、とても広い建物の中にいる。
大規模な美術館のエントランスかホテルのロビーのような、がらんとした空間である。
そとは夜で真っ暗。この建物の中の空間もかなり暗い。
ところどころ白熱灯のような色合いの灯りが灯っているが、壁は黒や深紅の重々しいデザインで囲まれており、深い闇に包まれている感じがする。
しかし、ところどころにみえる小さな灯りのおかげで、どこか暖かい雰囲気もある。
闇に対する恐れのようなものは感じない。
むしろ、なにか大きな温かみのある存在に包まれているような安心感がある。
*
私は建物の中を歩いて移動している。
どこかへ向かっているようだが、はっきりと意識された目的地はない。
他の人の様子から、いま自分がいる場所が、どうやら建物のエントランスから入って、いくつもの階層を上ったか、下がったか、どちらかわからないが、とにかくエントランスがあるフロアからは上下後方にかなり離れたフロアにいるということがわかる。
+ +
夜も更けてきたので、宿泊をしようということになる。
私は、自分の部屋を探す。
巨大な建物の中をあちこち動き回り、フロアを上から下へ、次々と昇降する。
+
あるフロアのエレベーターホールなどは人が誰一人おらず、灯りもひときわ少なく、ほぼ真っ暗である。
天井だけがやたらと高く、がらんとしている四角い空間。奥には廊下が続いており、その先も真っ暗でよく見えない。
ここには泊まる場所はなさそうだ、と思い別のフロアへ移動する。
+
+
次のフロアはホテルのバーのような場所であり、何やらたくさんの人がいる。みんな大人しく小声で会話している。
飲み物を作ったり運んだりしている、食器がカチャカチャなる音も聞こえている。
このバーのような空間を通り抜けると、宿泊エリアらしいところに入るが、何やら戦前の外洋航路の客船のような感じで、部屋はいくつも区切られて、一部屋に三段ベッドがいくつも並んで、すでにたくさんの人が寝ていたり、うろうろしていたりする。
この部屋も黒と深紅を基調としており、劇場のステージの裏のような雰囲気でもある。
++
+
私は自分のために用意された寝台を見つけて安心するが、ずいぶんと人がたくさんおり、混んでいる様子である。
これでは眠れないだろうと、一応場所を確保したことに安心しつつ、今度は風呂を探しにまた出かける。
また人がいない広大なエレベータホールに降りてみたり、エントランスからこの巨大な建物の外に出て、数人の人たちがまばらに歩いている広大な広場を通り抜けたりしながら、時々近くを通り過ぎたり、すれ違ったりする人たちと挨拶を交わす。
誰一人知人ではないが、しかし疎遠な感じもせず、仲間という感じである。
上を見上げると空が白い。
いや、これは空ではなく、高いところにあるコンクリートの天井のようである。
巨大な黒の建物は、広大で、どこまでも続くように見えるが、この建物自体が、白いコンクリート製の巨大な容器のようなものの中に入っているようでもある。
私は特に不安も、恐ろしいと思うこともなく、慣れた気持ちで歩き回り続ける。
この夢は全体として、次のような展開を見せている。
夢のはじめ、夢見者は自分の周りが真っ暗な空間であることに気づく。
そこから動き始めて、上ったり/下がったり、入ったり/出たり、探しているものと分離したり/結合したり、という動きを繰り返す。
そうしているうちに、自分がこれまで動き回ってきた巨大な建造物が、それよりもさらに巨大な箱状の建造物の中に包まれていたことに気づく。

この夢は、身の回り・目の前しか見えていなかった状態から、全体の見取り図のようなものを獲得するように展開していく。そしてその獲得された全体性とは、二重構造の立方体である。
詳しくみてみよう。まず、夢見者(私)は、ある空間の何いることに気づく。それは広い空間であるが、全体的にほぼ真っ暗で、どこがどうなってなにがあるのかよくわからない。しかし完全な真っ暗闇で何も見えないわけではなく、ところどころに灯る灯りのおかげで、「黒や深紅の重々しいデザイン」に囲まれていることがわかる。

この時、夢見者は、この暗闇を「怖い」とは思っていない。
怖いというのは、つまりそこから分離したい、結合していたくない、結合している状態を分離に転じたい、と分別することである。これはユングの意識の四機能モデルでいえば「感情」の機能=分別であるが、いまこの夢では、そうした感情は主張をしていない。
ユングによる意識の四機能モデル
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
+ +
いま、経験的にしばしば「怖い」という「感情」を喚起しがちな暗闇に包まれながらも、しかし、とりたてて怖いとは感じないモードにある夢見者は、感情の分別が緩くなっている、効いていない、ということもできる。
しかも、単に感情が機能していないというだけでなく、より積極的に、この夢見者の自我を包む暗闇を「大きな温かみのある存在」と感じ、それに「包まれている」ことに「安心感」さえ覚えているのである。このよくわからないものに包まれながらも安らいでいる状態は、「直観」が優位な心のあり方であると言えそうである。
この包み込む闇に対して、もし「思考」が優位に働いているならば、この闇が「何であって/何でないか」を分別しようと躍起になって、しかし結局なにであるともないともはっきり言えないとわかると、困惑し、無視し、この暗闇が意識の表層に上らないよう、無意識の深みへと沈め返してしまうことだろう。これは「ある/ない」を分別する「感覚」でも同じである。それ自体としてはただ不在、「ある」の否定としてしか感じることができないこの包み込む暗闇を、「感覚」が「ない」と分別し、意識の対象から追い払おうとしてもやむを得ないところだろう。
いまこの夢では、このような「感覚」も、「思考」も、そして「感情」も、それぞれの分別を際立たせて主張することがない状態になっている。こうなると「直観」が、あるともないともいえない、なにであるともなにでないともはっきり言えない、なにかやってくる・せまってくる・気配のようなことを、じっくりと待てる意識のモードになる。
これは、心のあり方をマンダラ状に組み直す上で好都合である。

「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別|前五識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「成所作智」「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別|第六意識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「妙観察智」「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別|第七末那識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「平等性智」「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別|第八阿頼耶識
→これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「大円鏡智」
そして、成所作智になった前五識、妙観察智になった第六意識、平等性智になった末那識、大円鏡智になったアーラヤ識が、どれかひとつだけ突出して自己主張して他を沈黙させたり無視したりすることなく、四つの「智」がそれぞれその得意とする分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける動きを動かしながら、四即一にして一即四に共鳴し合うモードが、いわゆる五智如来の曼荼羅なのである。この話に関するディスカッションを、下記の記事で紹介してくださっているのでこちらも合わせてご参考にどうぞ。
このマンダラを描くように、夢見者は、移動を開始する。
上/下
まず巨大な黒い建築物の中を、上へ、下へ、と動く。
上/下方向、垂直方向に伸縮する軸を打ち立てる動き、述語的様相である。
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ちなみに、この動きの途中では、自分が上にいるのか、下にいるのか、どちらかわからないと感じている。
これは“すでに出来上がった、かっちりと分けられた後の層状の構造体”の中を動き回っているのではないことをよく表現している。もともとある上下の区別の中を動き回っているのではなく、動くことによって上/下を分けつつあるのである。
内/外 入/出 分離/結合
つぎに、「入る」と「出る」という対立する動きが際立つ。
夢見者は、この巨大な空間の中で「自分の」部屋を探す。
部屋が決められているというのがおもしろいところである。
そうして自分の部屋に「入り」そしてまたすぐに「出る」。
この動きを通じて、空間的な内/外、中身/容器、といった区別が分節される=分けられる。
なお、この部屋探しによって、
夢見者 →/← 夢見者のものであるベッド
この対立が、分離状態から結合状態に転じ、そしてまた結合状態から分離状態に転じる、という具合に分離と結合が伸縮する。夢見者は、自分の部屋、自分のベッドを見つけるが、そこは賑やかな相部屋であった。「これでは眠れない」と判断した夢見者は、結合したばかりの自分のベッドから、すぐに分離する。とはいえ、自分の「場所を確保したことに安心」しており、この場所をキープしたまま、風呂に入ってくる、といって分離するのである。これはつまり結合しながら分離し、分離しながら結合している、ということであり、結合一辺倒でもなく分離一辺倒でもない、ほどよく付かず離れずになったモードである。
この分離と結合の伸縮の均衡は、マンダラ状の調和を浮かび上がらせるのにちょうど良い。

+
さらにこの部屋探しの途上で、夢見者は引き続き「上/下」方向の軸を描くように、昇ったり/降りたりする述語的様相を呈する。
そうして動きながら、
無人(誰もいない) / 人が大勢いる
静か(無音) / 賑やか(有音)
といった区別を意識していくことも興味深い。
全体を眺める
そうして夢見者は「エントランスからこの巨大な建物の外に出て」みることにする。そうしていままで自分が動き回っていた建物の全貌を意識するのである。

いままで夢見者がその中を動きまわっていた黒い四角形の建物は、それ自体が、さらに大きな白い(おそらく)箱状の空間の中に、すっぽりと包まれていたのである。
夢見者を包む暗闇は、実は明るい光に包まれていたのである。
闇が光であった。
この状況を見ても、夢見者は、「感情」で怖がったりすることなく、逆に過度に喜んだりすることもなく、「感覚」で何があって何がないかに細かくこだわることもなく、「思考」でなにであってなにでないかを決めないと気が済まないということもない。ひきつづき、「感情」も「思考」も「感覚」も、いちおうものごとを分けてはいるが、ゆるい感じに分けるでもなく分けないでもないモードに揺蕩っている。
この状態で、夢見者は、いろいろな人と行き合う。
すべて知らない人だが、しかし疎遠ではない仲間という感じがして、お互いに挨拶をする。現世では、人間が複数集まれば、すぐに敵/味方に分かれて、選んで、こだわるのと対照的である。

◇
その2. 246号線を飛び回る夢
さて、次の夢では、同じ夢見者が、さらに大きなスケールで動き回る。
夢見者(男性)は、温泉地にあるような巨大な和風ホテル旅館にいる。
四角形の部屋がいくつも連なっている。
グリッド構造の中にいるような感覚を覚える。
私がこのホテル旅館に来ているのは、とある大学の研究室のゼミ合宿に呼ばれているかららしい。
宴会場のような広い和室に、いくつもの座卓がぐるりと並べられて、大勢の参加者が盛んに議論を繰り広げている。
*
夢見者は、議論に加わらず、席を立って建物の中を歩いてみる。
なかなか広大である。
*
歩いていくと、銭湯のような大浴場につく。
大浴場に入ってみると、中には数人の男性がいる。
外国人の男性たちがいて、先ほどの研究会のメンバーだと気づく。
彼らは風呂でもなにか議論しているようである。
議論が白熱しているようで、私はその議論に加わりたくないのであるが、湯に入ろうと思うと、彼らの近くに座らざるを得ない。
仕方がないので、すべての意見にうんうんと相槌を打つ。
次第に、彼らから「あなたのどちらの意見にもうなづいているが、あなたの立場はどちらの味方なのだ、はっきりしてくれ。」という問いが、向けられるようになってくる。
私は、どちらの味方をするつもりもないので、これはまずいと、浴場を出る。
外には別のメンバーもおり、会釈しつつホテルからも出る。
*
*
少し歩くと、国道のバイパスのような道に出る。
私は、歩行者として、その道を歩いていくが、次第に速度が速くなる。
速く歩いているのではない。
浮かび上がって飛行しているようである。
グライダーで滑空すると、こういう気分なのかもしれない。
風を切りつつ車道の上を滑るように飛んでいく。
車はほとんど走っていないが、こちらが速すぎるので、前を走るトラックなどに追いついてぶつかってしまったらまずいなと思い、加速しすぎないよう速度と調整する。
不意に「この道は国道246号線だ」と確信する。
道路は緩やかな下り坂がどこまでも続き、私は滑るように道の上を飛んでいく。
やがて道路は山岳地帯に入り、道はくねくねとカーブする。
螺旋状のループもある。
私の滑空はカーブに合わせて曲がるのは苦手らしく、ここで飛ぶのはやめて降りる。
途端に道が煤けて汚れていて、空気も悪いことに気づく。
よし、帰ろう。とおもう。
**
ふとみると、道路脇に地下道の入り口がある。
ボロボロの換気塔よのうな風情だ。
中に入り、階段を降りていく。
すると地下には鉄道の駅がある。
昔よく乗った小田急線の車両が来る。
ああ、ここは「秦野」の近くだ、とおもう。
自分の地図上での位置が確定され、もう家に帰ったような気分である。
自宅のある新宿方面に乗る。
列車は途中、どのかの駅で長時間停車して、ゆっくり後から来る優等列車の待ち合わせをする。
私は、大屋根の下の広いホームに出て、がらんとした空間を眺める。
この駅をよく来たことがあるような感じがする。
+
そしてふたたび、先ほどのゼミ合宿の旅館に戻ってくる。
相変わらずみんなが居る。
先ほどの激論を交わすような感じがなくなり、どちらかと和気藹々というか、何気ない感じで人々がいろいろな場所に佇んでいる。
私は何事もなかったように、広大な建物のなかを歩き回って探検する。
どこに何があるか、地図作りをしている気分である。
グリッド構造。→すでにマンダラに入っている。

議論に参加しない。
「思考」
なにであって/なにでないか
をいかに分別するのが「正しい」かをめぐって、敵味方を分け、敵を論破してやろう、という心持ちで言葉を発している人たちから距離を取る。
議論が展開されている場から離れるのである。
そうして夢見者は大浴場に入るが、しかしそこでも、先ほどの「思考」の連中の仲間が言い合いをしている。

論争のどちらの味方をするつもりもないので、近づきたくないのであるが、しかしお湯に入るためには彼らの近くでじっとしてる必要がある。
最初は、どちらの意見にも相槌をうつという曖昧な態度を決め込むが、そのうち、論争に巻き込まれそうになりその場から分離する。浴場から出るだけでなく、このホテル旅館自体から分離する。
あるものごとが「なにであって/なにでないか」を分けて、選んで、こだわろうとする「思考」から、繰り返し距離を取ろうとしているのがこの夢の自我である。
+ +
次の場面で、夢見者は、飛ぶように走る、そして地面から浮かび上がって高速で移動する。空中浮遊の夢である。
ただし、空高く舞い上がってしまうことなく、ちょうど舗装された道路から、1〜2メートル浮かび上がるくらいの高さで移動する。前を走るトラックにぶつからないようにしようと考えたりもする。空を飛べるのであれば、トラックを飛び越えたら良いと思うが、高く飛びすぎてもいけないのだろう。
天/地の区別について、地にべったりくっついているわけでもなく、天に昇り切ってしまうでもなく、地面に着いているわけでもないし天に昇っているわけでもない、天/地のどちらでもあるようなないような領域にちょうどはまるようにバランスをとっている。

数字のビジョン 246
そしてここで、この道路が単に「感覚」的な対象であるだけでなく、「246」という意味深い数字で、名前を与えられている=言語的に「思考」の対象として意味づけられていることも意識される。
ちなみに、国道
2 4 6
は、いわゆる大山街道、東京都から神奈川県にかけて通じる、江戸時代の大山街道が元になっているルートであるが、この夢の中ではこの数字の組み合わせ自体が示唆的である。
2 4 6
は、「4」を、2と6、つまり合わせて「8」で囲んでいる。
つまり、下記のようなマンダラ構造を象徴しているものと考えられる。
ββ
Δ Δ
ββ ββ
Δ Δ
ββ
経験的感覚的に互いに区別されるΔの対立関係の対立関係である四項関係を、付かず離れずに、分離しすぎて無関係になることもなく、結合しすぎて区別がつかなくなることもないように均衡させるべく、両義的媒介項「β」が分離しつつ結合し結合しつつ分離するよう作用する。ちなみに両義的媒介項βは、意識的自覚的に認識できる対象物としては、任意のΔを二つ過度に結合したような姿をしているので、ひとつのβはいわばぼやけてββ、二つにみえるようになっている。

マンダラと『神話論理』と夢分析
ここで「マンダラ」について説明してこう。
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。
Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる。

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする。
そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである。
+
ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。
しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。
特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
+
さて、先ほどの夢の話にもどろう。
2 4 6 は、「4」を、2と6、つまり合わせて「8」で囲んでいる関係、下記のようなマンダラ構造を象徴していると論じた。
ββ
Δ Δ
ββ ββ
Δ Δ
ββ
国道を長距離にわたって移動するということは、出発地点から到着地点へ、一筋の線の上を移動するという空間の構えになるだろう。
Δ出発地点 →→→→→→→→→ Δ到着地点
この夢も、ただ道路上を高速で滑空している、というだけでは、このリニアな、線形の、線状の移動という述語的様相になる。
しかし、二地点間を線で結ぶのでは、マンダラは描けない。
ここへきて、この一見すると二地点間を結ぶ線でしかない道路が、実は「4」を「2と6」で挟み込んだもの、つまりマンダラである、ということが暗に告げられるのである。
このようなマンダラを思わせる数字が現れる夢は、ユングが『空飛ぶ円盤』で紹介している夢の事例にもある。
夢の終りのほうで、私はもうひとりの少女に出会う。
ことによると、さっき籐椅子に腰かけ、 ノートに夢中だったあの有能でしっかりした若い女なのかもしれない。今度は彼女はもっと大きく鮮明に見えた。顔立ちも分ったし、私に話しかける声もはっきり聞き取れた。
彼女はきっぱりした調子で私の姓名を言い、「あなたは十一と八まで生きるでしょう」と言った。
この八語はあまりにも明瞭で、権威たっぷりの調子で言われたので、まるで私が十一と八まで生きると信じていないのを叱られているみたいだった。
ここでユングは「十一と八」の「八」が「曼陀羅における個性化の象徴」であることを指摘する。八項関係、二重の四項関係こそ、二項対立関係を対立させ四項関係をつくり、さらにその四項のあいだを過度に結合することなく過度に分離することなく、分けつつ繋ぎ繋ぎつつ分けるように動く第二の四項関係で結びつける。こうすることで、私たち人間は表層の分別心が作り出す諸々の二項対立たちをそのまま転用=ブリコラージュして、意識的自覚的に「マンダラ」を、つまり四つの分節、「感情」「思考」「感覚」「直観」が付かず離れずに調和した心の全体性を組めるようになる。
行きは滑空、帰りは地下から
さて、この国道が246、つまりマンダラであるとわかったところで、夢見者は滑空をやめる。山間部でカーブが増えて、飛びにくくなったということもあるし、元いた場所へ帰ろうと思い始めたらしい。
滑空をやめて地面に降り立った夢見者は、途端に地面そのものが「煤けて汚れて」、澱んだ空気に押しつぶされていることに気づく。これは「感情」的に、あまりいつまでもそこに結合していたいとは思えない、そこから早く「分離」したいと思わせる様相である。
そして夢見者は、今度は道路脇の換気塔のような建物から「地下」へと降りていく。先ほどまでの往路では空中に浮かび上がっていており、いまから帰路では地中に潜って行こうと言うのである。
天上
←←←←←滑空←←←←←
折り返し地点 地上 出発点にして到着地点
→→→(半)地下鉄→→→
地下

そして、滑空といえばグライダーのような感じの空飛ぶ乗り物がイメージされるが、地下の移動となると「地下鉄」がちょうどよい。
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ここで突如「秦野」という地名が意識される。
246号線を東京から小田原方面に向かって走ると、ちょうど秦野の先で、道はカーブが連続する峠越えになる。そのあたりがこの夢の折り返し地点になる。そして秦野の近くから乗り込んで、246号線と並行して元来た道を帰ることができる路線といえば、小田急である。
夢見者は小田急線にのって、もともとやってきた方向へと戻っていく。
ちなみに、小田急は地下鉄ではない。秦野の先にトンネルはあったと思うが、すぐに地上を走るようになる。
これもおもしろいところで、先ほどの滑空が天/地のあいだで、完全に天に昇るでもなく、完全に地表にくっついているでもないところを移動したように、地下の駅から乗り込んだ電車は、ずっと地下を走るのではなく、すぐに地上に出て走行し、しかしその後「大屋根」が覆い被さった駅で長時間停車する。
大屋根に覆われた場所というのは、地上にありながら、ある意味で地上の下に隠されているような場所であって、地上/地下のあいだでいえば、完全に地下でもなく、完全に地上でもない、という領域である。
この状態もさきほどの滑空と正確にコントラストをなしている。
天上Δ
←←←←←β地面すれすれを滑空β←←←←←
Δ折り返し地点 地上Δ 出発点にして到着地点Δ
→→→β地下から発車し、大屋根の下で停車β→→→
地下Δ
こうして関東地方南部を、ちょうど垂直平面に描かれた円を、いや、垂直平面に潰れた楕円を描くように移動して、元いた場所に戻ってくる。

この移動経路全体で描く円(かなり潰れているが、空間の分節じたいが固まっていないので、これでも立派な円である)が意識の四機能が調和した全体性の象徴としての「まるいもの」になっている。

+ +
そうしてどうやら電車を降りて、夢見者はもとのホテル旅館に帰ってくる。
駅にいるところから、どうやってホテルにまで戻ったのかよくわからないが、突然、大屋根の下の駅の空間自体が、ホテル旅館に変容したような気もする。
いずれにせよ、これは夢である。
どちらがどこにあると細かく分けて選んで配置する必要もない。
そこがマンダラの中なのであれば、起滅辺際不可得、ここはそこでそこはここ、ここはどこでもありどこでもここである。


さて、ホテル旅館に戻ってみると、さきほど論争していた人たちは引き続きなにか喋っているようだが、対立的な感じが少し和らいでいるようにも思われる。
なんとく和気藹々と、いろいろな人がいろいろな部屋に佇んでいる感じである。
対立を分けて、どちらか片方だけを選ぼうとするモードではなく、対立を分けつつも、付かず離れずなっている、という感じがする。

「アルミ缶の底はこんなんなってんのか」
「スマホの背面ってこんなんなってのね」
夢見者は、先ほどまでは「思考」で議論をふっかけてくる人たちから逃げ回るようにしてこのホテル旅館の中を移動していたのであるが、今度は落ち着いて、自分のペースで、このホテル旅館を「探検」するようになる。その探検は、「地図作りをしている」ように感じられる。
おそらく、第一の夢と同じような全体構造が浮かび上がってくるのだろう。
広大な建物の中を動きまわっての地図作りは、下記の記事で分析した夢にも登場したモチーフである。
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まとめ
二つ目に紹介した夢を、ユングの意識の四機能のモデルで読み解くと「思考」「感情」「感覚」「直観」のうち、どうやら「直観」が自我の役割を演じているように見える。不意に脈絡なく「246」号線を滑空していると直観したり、「秦野にいる」と直観したり。そしてこの「直観」は、当初「思考」の圧から逃れようとしていた。「思考」があまりにも、敵/味方、正/誤を鋭く分けて、「正しい」「味方」の方を選ぶようにと強要するので、「直観」自我はうんざりして逃げ出したのであった。
しかし、逃げて滑空しているうちに、自分(「直観」自我)もまた、大きなマンダラ構造の中にいるのだ、ということに気がつき、そして「246である」「秦野である」といった具合に「なにであって/なにでないか」を分別する「思考」の声にも耳を傾けるようになり、また道路上の微細な煤や埃に注目する「感覚」にも、その煤や埃があまりきれいなものではないと感じる「感情」にも意識を向けるようになる。
そうして「思考」「感情」「感覚」「直観」が、それぞれの分別を利かせつつ、
同時に分けられたものたちのどちらを選ぶかにこだわらないという、分けつつ分けず、分けないが分けるモードに励起された時、四つ分別は、連携して同時にはたらき、どれか一つだけが強く主張するということがなく「マンダラ」状の調和に入っていくことができる。ここで大屋根の下の駅が、ホテル旅館に変容する。「マンダラ」の中では、時間と空間の分別もまた、自在にやわらかくなり、いつでもどこでも自在につながることができるようになる。

「一羽、足りないね」
「足るも足らぬも、一即多にして多即一」
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