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軍事教練中にひとり迷子になって焦るも、揚げパンを食べて待機するよう勧められ、納得する夢【マンダラ夢分析】-「思考」「感情」「感覚」「直観」の均衡へ

はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。

神話も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方

この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・

うまく結合できない

あるいは

結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・

うまく分離できない

実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。

夢は、いや、夢として記憶の残像を表層に残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。




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以上を踏まえ、筆者自身の夢を分析してみよう。

軍事教練中に迷子になって焦るも、
揚げパンを食べながら待機するよう勧められ、納得する夢

夢見者は男性である。

学校、中学校か高校の校舎の中の、とある教室にいる。

私は男子生徒で、他にも何人か、男子生徒ばかりが集められている。

なんでも軍事訓練を受けることを志願した一部の生徒が、特別クラスに編成されたという
夢見者(私)は志願したつもりはないのだが、「やってできないことはない」という様子で話を聞いている。この日は、教室に集められてなにかの座学を聞き、そして教官ふくめて生徒たちでなにか議論をすることになっているらしい。

議論といっても、いうべき決まり文句・決め台詞をいかに格好良く、威勢よく言うか、という側面に重きが置かれているらしく、意見交換が行われるわけでもなく、論じられていることの内容については誰もよくわかっていないらしい。演技的に発せられる決まり文句を聞きながら「みんな大きな声で元気が良い!」と思う。
夢見者も一緒になって決まり文句のスローガンを叫んでみるが、言ったことの中身は覚えていない。

さて、その訓練が終わったらしく、次の場所に移動するという。

一斉に駆け足で、次の教室か、訓練場に向かう。
どこへ行ったら良いのか夢見者はまったくわかっていないが、他の連中について行けば大丈夫だろうと思っている。



ここで誤算が生じる。
仲間たちは、教室から校舎の廊下へと一斉に走り出す。

夢見者も、一緒についていこうと走り出そうとするのだが、一瞬、これから無人になる教室内の様子をチェックしている隙に、他のメンバーたちはすごい速さで廊下のはるか先へと走り去ってしまった
そして廊下のかなり先の方で、横に曲がって階段の方へ行ってしまう。

教室の出入り口に立って、走り去っていく仲間たちの姿が見えなくなるのを眺めながら「まずい」と思う。
彼らが階段を上がったのか、下がったのか、不明である。

私は次にどこへ行ったら良いのかわからないのだから、彼らについていかねばならず、彼らを見失ってはならないのだ。

ひとり、教室に取り残された形になった夢見者私は焦る。

取り残されるなんて、もしこれが本当の戦場ならたいへんなことである。

私は急いで見失った仲間たちを追いかけようとする。



夢見者私はひとりで、訓練仲間たちが向かった方向へと廊下を駆け足で移動していく。他の生徒たちの姿は見当たらない。教室はどこも無人であり、薄暗い。

ふと、とある教室の前を通りかかると、一人の女子生徒がいて、何やら途方に暮れている様子である。

夢見者は、軍事訓練中の仲間たちを追いかけるのをいったん休止して、この女子生徒に声をかける。

「困っている民間人を見捨てることはできない」

などと言いながら声をかける。

詳しくは覚えていないが、彼女はなにかの判断に困って、どちらを選んだら良いかわからなくなって途方に暮れていた。それに対して夢見者私は、それならばこうしたらいい、あっちに行ったらいい、と方向性を一つに絞り込むような助言を与える。女子生徒は納得をしたようで、お礼を言われる。



再び、私はひとりで廊下を走り、仲間を追いかけようとする。
しかし、連中がどこへ行ったのか、皆目見当がつかない。
走りながらも、正しい方向に向かっているのかどうかさえわからないのである。

いまごろ、一名行方不明になったと大騒ぎではないか。
あるいは脱走したと思われていたら不本意である
向こうから探しに来てくれたら助かるが、しかしそれも不名誉な気がする
こちらから追いつきたいところである。

どこへ向かったら良いのかもわからないまま、夢見者私は校内の廊下をあちらこちらへと走り回る。

全体像はよくわからないが、どうやらこの学校には複数の校舎があり、その間を渡り廊下で繋いでいるらしい。そしてかなり広大な学校である。これは探し物は簡単には見つからないだろうな、と思う。



ある校舎の一階の廊下を走っている時、校舎と校舎の隙間の中庭の様なところに、不良グループの様な連中が三、四人たむろしているのが見える。連中はこちらをじろりと睨んでくるが、こちらも睨み返して通り過ぎる。

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また別の校舎の一階の廊下を走っていると、昇降口があり、その並びに職員室か保健室のような部屋がある。昇降口は無人であるが、職員室か保健室の中には大人が何人かいるのがわかる。白衣を着た人もいる。養護の先生という感じである。

その職員室か保健室のような部屋から、養護の先生に見送られ、一人の、小柄だが、髪の毛を固めて立てているいかにも不良という感じの男子生徒が一人出てくる。

その男子生徒は、私の姿をみつけるやいなや、いきなり私の方に突進してくると、喧嘩を売り始める。
何を言っているのかはっきりと聞き取れないが「なんだてめーは〜」とか「こっちみんなやー」とか、「やんのかこら〜」とか定型的な言葉を反復しているらしい。さらに「金を出せ」のようなことも言っているので、これは喧嘩ではなく強盗かもしれないと思う。不良少年は私を昇降口の土間にまで追い詰め、何やら脅迫しながら怒鳴りつけてくる。

こちらは黙ってうんうんと聞いてみるが、話が通じる様子でもない。

夢見者私は、「ふーん。先ほどまで先生に絞られていたのではないのかな?反省が足りないね。」と思いながら、この不良くんに飛びかかり、柔道のような感じで技をかけてひっくり返し、押さえ込んで動きを封じると、羽交い締めにして、降参するかどうか迫る。私は不良くんにきゅっと関節技をかける。不良くんは「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いて謝る。

私が強い言葉で散々説教をすると、不良少年は恐縮し、私の舎弟になるという。民間人を舎弟にしても意味はないが、ちょうどいま、私は人探しの途中だった。この改心した不良少年を私の用人として徴用することにする。

そして改めて、不良少年を従えて舎内を歩き回って訓練中の仲間を探すことにする。が、やはり、どこにも私の仲間の軍事訓練クラスの面々はいない。



ふと、ここへ来て、闇雲に探し回っても埒があかないと判断する。

そして、校舎全体の地図を描きながらくまなく移動し、しらみつぶしに、チェック済みと部屋とそうでない場所とを分けて行こうと思いつく。
適当な用紙をみつけて、校舎の地図を描きはじめる
元不良少年も興味深そうに、地図を描く私の手元を眺める。

まず元いた教室を四角形で描き、そこから長方形の廊下を伸ばし、女子生徒と会話した四角形の教室を書き加え。
隣の校舎に異動して、昇降口と保健室か職員室を描き加える。

そうして次第に校舎の平面図が描かれていくが、描きながら、どうも紙がくしゃくしゃだし、線がぐにゃぐにゃと曲がってしまい、描いた地図も不恰好だし、そもそも学校の全体像がわからないので、このサイズで描いたら紙に入りきらないかも、と不安になる。
とはいえ事前に全体像が掴めないからこそ地図を描いているのであって、見当がつかない状態から、見えるところから、スポットライトを当てる様にして全体を少しづつ構成していくしかないが、どうもうまくいかない気がする

地図作戦はうまくいかない気もするが、他にプランΒがあるわけでもないので、地図つくりを続ける。そうして中途半端な地図を書き加えながら校舎内を歩き回って、元いた教室の近くにまで戻ってくる。

そこで、先ほどとは別の女子生徒が一人でいるのに出会う



彼女は夢見者私と既知の間柄らしく、「なにやってんの」という感じで親しく会話する。

私は、仲間からはぐれたこと、仲間から脱走したと思われているかも知れず不本意で、不安であること、仲間を探すために地図を描きながら、此の部屋にはいない、次の部屋にもいない、とやっているが、考えてみれば向こうもずっとおんなじ場所にいるとは限らず、移動しているかもしれない。そうなると、いくら地図上で「いない」とチェックした部屋を集めていっても、実際に「いるか」「いないか」は一方には決まらず不確定なままである。
この地図作りは本質的には意味がないことをやっているとわかっているのだけれど、ほかにやりようがない、といったことを相談する。

この友人の女子生徒は極めて頭が良いらしく、次の様に返してくる。

双方動いていて遭遇できないなら、あなたは動いても動かなくても同じである。つまりあなたは、彼らがまたやってくる可能性が高い部屋で待機すれば良い。たとえば最初にいた教室か、あるいは食堂でもよい。揚げパンでもかじりながらまっとったらええねん

と。

従えている舎弟の不良くんが「揚げパン」に反応して食べたい食べたいという気配を発する。

じっさい、彼女のいう通りで、夢見者私が必死になって仲間を追いかけようとしているのは「脱走した」とレッテルを貼られることを恐れ、私がみずからの意思で彼らから分離しようとしていると思われるのが「不名誉」だと感じているから、つまり私のものではない意図を私に結合されることを、感情的に拒絶しているからである。

とはいえ、この「仲間から悪く思われているに違いない」というのもまた私がそのように思考して、感情を働かせて、分別しているだけのことである。

いずれにしても、仲間と再会して、お詫びをして事情を説明し、仲間たちの判断を仰いでみないことには、彼らが私が不明になったことをどう意味づけいるかは決まらないのである。とにかく重要なことは再会すること、分離が結合にもどるのを待つこと。感情で焦って、無理に結合を早めたり分離を早めたりする必要はなさそうである。

考えてみれば、困っている女子生徒に助言をして助け、悪の道に進みそうだった不良くんを更生させて(私の舎弟になることが更生といえるかどうかは不明だが)、懸命な助言者を得てその言葉に耳を傾けることができるようになり、と、私は大活躍しているではないか。訓練の仲間たちがこの話を理解できるかどうかわからないが、話して聞かせてあげようとおもう

こうして迷いがなくなり、校舎の窓から午後の西陽に照らされた空気を眺めて、穏やかな気持ちになる。

揚げパンはまだ売り切れていないだろうか。

この夢は、分離を結合に転じようとする述語的様相と、結合を分離に転じようとする述語的様相が、みごとに現れ、マンダラ状のパターンとして象徴化できるであろう関係性の均衡状態を浮かび上がらせている。

第一の結合→分離

夢の始め、スローガンを叫んでいた教室から、別の場所へ皆で移動するところで最初の結合から分離への伸縮がある。夢見者は仲間たちともともと一緒になって同じ様なことをして、つまり一つに結合していたのであるが、教室移動のタイミングで、仲間たちが先に走っていってしまい、夢見者だけがひとりぽつん取り残される

結合していたところから、分離してしまう

あるいは一つであった塊が、長く伸びてしまった、とも言える。

βーΔーーーーーーーーーーーーーーーβ

分離状態を結合状態に戻そうと必死になる

ここで夢見者は、分離されてしまった仲間たちとの結合を取り戻そうと、仲間たちを探すべく動きはじめる。この、分離してしまったところに結合を取り戻そうという動きが、この夢全体をうごかす基調の伸縮運動になっている。

ところが、この仲間探しは、夢の最後に至っても達成されない。

夢見者は、夢の最後まで、分離してしまったところを再び結合に引き戻すことはできないが、しかし、夢のおわりでは、分離を結合に戻さなければならないと必死になって焦ることをやめる。待っていれば、また向こうからやってきて、結合するだろう、と達観できるようになるのである。

そしてこの分離していても結合していても、どちらでも異なることがないという落ち着きに至るまでに、三人の人物たちと出会う。

この三人を、ユングの意識の四機能、「思考」「感情」「感覚」「直観」の象徴とみて読み解いてみてもおもしろそうである。

マンダラと『神話論理』と夢分析

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。


分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んだりする

そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである

ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。

しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

* *

伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起

「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる

この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。

特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

夢の登場人物たちは主語の位置に据えられて報告される。

つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである

『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8


四人の協力

ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる

一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。

私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。

例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。

そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。

+ +


ここで、今回の夢について、先に仮説を立ててみよう。

今回の夢に登場するものたちを、これら「感覚」「思考」「感情」「直観」、四つの分別、四つの分節する述語的様相を仮に担う主語的な様相(象徴)として割り振ってみよう。もちろん、こういう読み方自体が新たにもう一つの夢を意識的にみる、アクティブ・イマジネーションの試みのようなものであって、ここで「解釈」が「唯一無二の正解である」などということは全くない。これはレヴィ=ストロース氏が、ある神話を分析することは神話の異文を語っていることに他ならないのだと述べていることに通じる。

さて、以上を踏まえて、今回の夢に登場するものたちを、四つの分別を仮に担う主語的な様相(象徴)として割り振ろう。

  • 軍事訓練と称してスローガンを叫ぶ男子生徒たち:思考?
    →言語でもって、「どういうべきで/どういうべきではないか」をかっちり区別する。

  • 一人目の少女:感情?
    →「不安」すなわち「離したいものとの結合」を分離に転じ、「結合したいものとの分離」を結合に転じようという分別

  • 不良少年:感覚?
    →身体的接触で「ある/ない」を際立たせる。

  • 揚げパンを食べて待てと言う少女:直観?
    →分離と結合を分別する必要はなく、現れるのを待ち観察せよという

この四者が調和した、マンダラ夢が、この夢なのではないだろうか。

スローガンを叫ぶ男子生徒たち
||
思考)
不良少年  = (感覚 × (直感)=二人目の少女 
感情
||
一人目の不安げな少女

この夢の全体像を見ておこう。

夢見者は、ふだんは「直観」を自我の主要機能とする特性があるが、今回の夢では、仮に「思考」に、ものごとがなにであって/なにでないか、あることについてどういうべきで/どういうべきでないかをかっちりと固めて、正しいとされることだけを連呼しようと言う「思考」に、自我のポジションを貸すのだけれども、やはりすぐに迷って迷子になってしまって、改めて、感情、感覚、直観(最後の揚げパンを勧めてくる少女))と出会いなおして、最終的に直観のいうことを聞く

  • 不良少年は「感覚」。
    感覚=不良は、「思考」と「感情」の分別により、最初は嫌な感じを呼び起こすが、けれどもすぐに自我と協働できるようになる。

  • 最初の少女は「感情」。
    こちらも最初は若干の緊張感が「思考」夢見者自我とのあいだにあるが、この「感情」は過度に自我を占拠することなく、あくまでも思考自我の言うことを聞いている。

    この少女は自己=私の感情そのものが分離して一つの姿をとって現れているのであって、いったん分離してしまっても、すぐに多少の会話をするだけで、また協力関係に入ることができる。

    この「感情」はいちおう思考によって諭されつつ、引き続き夢見者自我が迷い続けるというところでその不安感や焦燥感、分離を結合に転じようと右往左往する様相で主張もしつづける。

  • そして揚げパンを勧めてくる少女は「直観」。
    この少女は夢見者自我にとっては馴染み深い既知であり、つまり普段、夢見者の自我を担当してくれている人格である。

  • 思考」は、この場合は冒頭で軍事訓練を共に受けている仲間たちによって象徴されている。

    軍事訓練といっても、夢の中での彼らは武器を扱ったり格闘をしたりするのではなく、言葉を大きな声で叫んでいる。それも決まり文句や決め台詞をいかに大きな声で、格好良く、定型的に発声するか、というところに重きを置いている。なにをどういうべきか、なにが正しくてなにが間違っているか、問答無用で大声で叫ぼうとする「思考」。これは異なる意味分節体系を複数あつめ、それぞれずらしながらしだいに調和を探るといった様式の直観ベースの言語的コミュニケーションはとっていない。

このような「思考」が、あるべき分け方を固めようと、自我の分別で、分離と結合を動かそうと焦るのであるが、「感情」、「感覚」、「直観」と順番に出逢いながら、ふと、自我が無理して結合を引き起こそうとしても分離は分離したままであると気づき、マンダラ状の付かず離れずの均衡、分離しつつも結合したようなあり方は、自我が分別を休めて佇んでいれば、自ずから回復するのだと気づく夢である。

思考だけでなんとなかっていたところから脱落し、感情と向き合う

この夢で自我は、「正しい」ことを連呼することで意味の分別を定型的に固めようと「思考」するところから始まりつつ、その「思考」の言葉だけで関係性を保つことができる仲間たちから一人はぐれてしまい、(結合していたいのに分離されてしまって)、そうしてこの分離を結合に戻したいという強い「感情」が意識の前面に広がり、此の感情に突き動かされて動き回ることになる。Δ的に固めようとがんばってるんだけど、どうも本気になれない感じが、マンダラ加持へのスタートラインになる。

思考」の分別を共鳴させていた仲間たちが先に行ってしまって、ひとりぽつんと残される感じは不安なものである。思考の分別、ものごとがなにであって/なにでないかを安定的に分別しつづけるには、同じ様なことを同じ様に言語化する仲間が大勢必要であるという感じは、意味の主観的経験を支えるコミュニケーション・メディアのあり方を考える上でも興味深い。

とはいえ、この不安。

不安といっても、今回の夢見者の不安はあまりつよいものではない。「正しい」こととそうでないことをかっちりと機械的に分別しようとする仲間たちから、「脱走した」=分離した、と非難されることを面倒だなと思っている。

結合すべきなのに分離してしまったところを結合に転じたいという強い感情でもなく。分離すべきなのに結合してしまったところを分離に転じたいという強い感情でもない。どちらかといえば「思考」が優位に立っているところへ、その思考に補助的に伴う感情である。夢見者は頭で考えて、思考して、「おまえは間違いをおかした」と非難を受けることが面倒だと判断して、それに伴って少々の不安の感情を覚えているのである。

「感情」と「思考」の協力関係は、最初の少女との会話の場面によく現れている。

ふと、とある教室の前を通りかかると、一人の女子生徒がいて、何やら途方に暮れている様子である。

この時少女は、途方にくれていて、何も言葉を発することなく佇んでいる。助けてくれとか、なにかがなくなったとか、なにかがやってくるとか、そういうことを言語化して「感情に任せて」激しく訴える様子はないのである。

これは冒頭のスローガンを声高に叫んでいる様相と、みごとにコントラストをなしている。

大きな声で言葉を発するが、何も感じず、何も考えていない

沈黙しているが、何かを感じ、考えようとしている

この少女の様子をみて、「思考」の立場からも言語的なコミュニケーションが可能であると判断した夢見者「思考」は、「感情」との会話を試みる。

彼女はなにかの判断に困って、どちらを選んだら良いかわからなくなって途方に暮れていた。それに対して夢見者私は、それならばこうしたらいい、あっちに行ったらいい、と方向性を一つに絞り込むような助言を与える。女子生徒は納得をしたようで、お礼を言われる。

ここで夢見者の自我、「思考」は、冒頭のスローガンを叫ぶ言葉遣いとは異なる様式で言葉を用いている。あれこれ考えているのである。

複数の可能性を選択肢に分けて、その一つを選ぶ。
いかにも「思考」らしい話の付け方である。
そしていまここでは「感情」も、その「思考」流のやり方に納得し協調するのである。

「思考」が「感情」を仲間にする

この「感情」の少女は、夢見者と一緒になって思考仲間を探し回ることはせず、おそらくそのまま教室に残って、その後帰宅でもするのだろうが、しかしこの「感情」の分離と結合の伸縮の残響は、「思考」自我に強く引き継がれる

夢見者自我は「不安」の感情、結合すべきところから分離されてしまったことの不安、分離を結合に戻したいのに戻せない不安を強く感じて、しかもそれをああでもないこうでもないと言語的「思考」に翻訳するようになる。

いまごろ、一名行方不明になったと大騒ぎではないか。
あるいは脱走したと思われていたら不本意である
向こうから探しに来てくれたら助かるが、しかしそれも不名誉な気がする
こちらから追いつきたいところである。

「脱走したと思われたら不本意」
「あちらから見つけてもらうのではなく、こちらから追いつく」
などなど、意味づけ、意図、どちらから、といったことを細かく分別して「どうあるべきか」を選びつつ、しかしその「あるべき」方を選びたくても選べないことに不安や焦りを覚える。

人間的、あまりに人間的である。

自我はもともとの「思考」に「感情」を仲間にすることで、どうあるべき/どうあるべきでない、といった分別で一人よがりすることは無くなったが、今後は少々「感情」に振り回されはじめている。

ここで次にもう一人の登場人物、不良少年と出会う。

「感覚」を仲間にする

途中で出会った不良少年は、まず言語的に話が通じない
この点で彼は「思考」の分別を共有できないということである。
また暴力的に過度に結合してくる不良少年の動きや言葉は「感情」からすると非常に恐ろしい、結合を分離に転じたいと分別するところのものであるはずだ。

ここで夢見者は、柔道の心得を生かしてこの少年と対峙し、これを組み伏せ、仲間(舎弟)にする。ここで夢見者は「思考」につづいて「感情」そして「感覚」も統合するのである。

地図を描こうとするが、うまく描くことができないと思うようになる

さて、ここで夢見者は、これまでのように、どちらかと言えば「感情」に突き動かされて、結合したいというのに分離してしまったところを探し求めて右往左往するばかりでは「埒があかない」と思い至るようになる。

おそらく不良少年君のおかげで「感覚」、ある/ないの分別をかっちりと区切る機能が自覚されるようになったので、感覚的に「ない」と判別されるものたちを(どこかへ行ってしまった訓練仲間たち)闇雲に求めても、「ない」を「ある」に転じることは難しいだろうと気づいたのである。

そうして校舎内を一部屋一部屋確認して、いるか、いないか、「ある」か「ない」か、しっかりと「感覚」で分別して回ろうじゃないかということになる。

そしてこの記録を校舎のフロアマップにまとめていこうとする。実に分別が効いた話である。

しかし、この感覚的なある/ないの分別を固めるフロアマップも、どうもそれほどしっかりしたものではないだろうと、「思考」や「感情」は気づきはじめる。

適当な紙に描き始めた手書きのフロアマップは、なんだかボロボロで不恰好で、「感情」的に気分よく「結合」していられる感じでもない。

また「思考」からみても、一枚の紙にすべてを整理して描いていくのに失敗しているように見えて、これでは結局描かれたもので「何であって/何でないのか」が、はっきりしないだろう、と思われる。

「直観」との再会

「感覚」と「感情」と「思考」が合体して地図作成に右往左往しているところに、「直観」が現れる。この直観は、夢見者の自我が普段から頼りにしている主要な機能である。そのため夢でも、この直観を人格化した少女は、はじめから夢見者にとって既知の親しい人という関係で登場する。

夢見者は、すぐに「直観」に対して自分の置かれた状況を説明し、この先どちらに向かうべきかを相談する。

それに対して直観は、直観らしい回答をする。

夢見者と訓練仲間たち、「双方動いていて遭遇できないなら、夢見者は動いても動かなくても同じである。つまり夢見者は、訓練仲間らがまたやってくる可能性が高い部屋で待機すれば良い。たとえば最初にいた教室か、あるいは食堂でもよい。揚げパンでもかじりながらまっとったらええねん

この直観からの助言を聞いて、真っ先に「感覚」が従う。そして「思考」も、「たしかに直観の言う通りだよね、合理的だな」と思う。「感情」だけは、それでもまだ、「いやいや、早く仲間のところに戻らないと、逃げたと思われるのが嫌だ」と感じてはいるような気がするが、しかし動き回っても動き回らなくても、仲間と再会できるときはできるし、できないときはできないのだという直観の言うことは正しく、あえて動き回って、自分から分離を結合に転じようとしても、結局結合を早めることにはならない、と気づく。

こうして「直観」による至極真っ当な助言のもと、「思考」「感覚」「感情」は、「揚げパン」という「まるいもの」のもとに結集して、じっとしていることにする。

グルテンで覚醒

こうして「思考」「感情」「感覚」「直観」という意識の四機能は、そのうちのどれか一つだけが声高に我を張ることなく、付かず離れずのフォーメーションを描くことになる。

:::

まとめ

この夢の記録を共同研究者の方に一読していただいたところ「一晩で個性化を追体験してしまった」ようであると評していただいた。
まさにその様である。

夢見者は、まずはものごとがなにであって/なにでないかを鋭くはっきり問答無用に分別しようとする「思考」と共にある。

次にこの「思考」の象徴のような者たちは、夢見者から分離してしまい、代わりに不安や困惑の様相(分離すべきものと結合してしまったところを分離に転じようとする分別であり、結合すべきmののと分離してしまったところを結合に転じようとする分別であり)を呈する「感情」と邂逅する。

そして夢見者は「思考」の残響でもって「感情」の迷いをある程度晴らすことに成功する。「感情」は「感情」だけの分別で我を張ることなく、「思考」の分別にも耳を傾ける。そうして夢見者は、いわば「思考」の残響と「感情」の残響とともに動きはじめるが、このあたりから感情の動き、分離すべきものと結合すべきものをはっきりと分けて、結合すべきものと分離してしまったところをいそいで結合に戻さなければならない、という焦りが自我のものになる。

この感情+思考の状態で、夢見者は次に「感覚」と出会う。ここで夢見者も殴りかかってくるのを柔道の技で受けてひっくり返したりと、肉体的、身体的な距離感の伸縮、分離からの過度な結合への展開を演じることになる。そして夢見者は、この感覚をすぐに従える。

ここへ来て、「思考」+「感情」+「感覚」で一緒になって動きはじめる。
ここで「思考」+「感情」+「感覚」となった自我は、あてどなく右往左往しながら分離したものを結合に転じようと迷うのをやめようと思い立ち、「地図」を作ろうとする。

地図すなわち「全体性」を俯瞰する見取り図を作ろうとするのである。これがマンダラへの願望であろう。

とはいえ、「思考」+「感情」+「感覚」でうろうろ動き回りながら少しづつ描き足していく見取り図に不満を感じる。うまく「全体性」を表現することができないとすぐに気づくのである。

そうしたときに、「思考」+「感情」+「感覚」は「直観」と出会い直す。

直観は、夢見者自我(「思考」+「感情」+「感覚」)に対し、動き回る必要はなく、待っていれば、探し物は自ずと向こうからやってくる、ということを教える。分離と結合の距離の伸縮、近づいたり離れたりすることは、相対的な現象なのである。分離を結合に転じようと自分から焦って動き回るのも、自分はただじっと止まって向こうからやってくるのを待っているのも、どちらも全体性を俯瞰する高みからみれば、同じことである。

こうして四者は付かず離れずの位置を取り、マンダラとして象徴化されるようなあり方に入る。


+ +

述語の様相に注目

このマンダラを示現させるに至る、分離する述語、結合する述語の伸縮という観点からしても、今回の夢は面白い。

  • 「思考」の言葉はいわば「正しいこと」を決まり文句的機械的繰り返すだけで、他者の言葉を聞く耳を持っていない。言葉でコミュニケーションが成立しているようでいて=結合しているようでいて、実は分離している

  • 「感情」は言葉を発することができずに沈黙している。言葉でのコミュニケーションは成立しておらず、分離の様相でありながら、しかしなにやら強く訴えかけるものがあり、思考の側からの働きかけを誘発する=結合へと引き込む。

  • 「感覚」の言葉も、これまた決まり文句を機械的に繰り返している。他者の言葉を聞く耳を持っておらず、コミュニケーション的に分離しているが、しかし柔道の技をかけるといった物理的な接触を経て、コミュニケーションが成立するようになる=分離が結合へ。

  • 「直観」の言葉は、対立する二つの事柄を分けつつも、どちらを選んでも違いはない、もちろん真逆に異なるが、しかし異なったままどちらも違いがない、と言うことをいう。これは分離したところを実は分離していないと言い、結合したところを実は結合していない、と言うことができる言葉である。

「思考」と「感覚」の言葉は当初、Δ二項対立の固着した状態を前提としたところで、あらかじめ分けられ済みのところで、いつも同じ選択肢を選び続けるような分別の仕方をする。分け方、選び方が固まっていて、分けるでもなく分けないでもないとところで分ける動き=述語的様相を伸縮させるようなことはできていない。特に当初は。

一方「感情」は、分離してしまったところを結合に転じようとするところで、分かれ方、選ばれ方を変えよう、動かそうとはしている。ただし、これはこれで選ぶべき選択肢がいずれであるか決めなければならないといった様子ではあり、分けるでもなく分けないでもないとところで分ける動き=述語的様相を自在に伸縮させたままにしておく余裕はなさそうである。

それに対して「直観」だけが、あらゆる分けられたものたち、分けられ済みのものたちが、実はその様に分けたから分かれて、分けられ済みに見えているだけなのだ、ということを教えることで、分かれているでもなく分かれていないでもないところでの分離と結合の伸縮の気配を、言葉を透かして到来させようとしている。

ここまでくれば、ユングのいう「個性化」、つまり「心」を曼荼羅へと変容させることができる、その一歩手前まで辿り着いているという感じである。


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