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中沢新一 著『いま、ここにある神話』を読む(後編)

中沢新一氏の著書『いま、ここにある神話』を読む。

前編はこちら。


私たちが生きる「いま」、「ここ」でも、一見すると「神話」だとは思われない姿をした表現が、実はその基層を神話の論理に支えられて、神話の論理からその生命力を得て現れていることがある

デパートの物産展に集まる海山の珍味、メタバース、アニメの聖地巡礼、毒舌芸、昭和歌謡に箱根駅伝に、アンパンマン、ゴジラ、水戸黄門、量子力学に、法医学を題材にした映画やドラマ、魔法にアニミズム、おむすびに、渋谷、そして世界各国の政治の「右傾化」と呼ばれる現象。

こういう一見すると、いわゆる「神話」とはかけ離れたことに思える現象の深層で神話の論理が動いている。

通常の論理
神話の論理

神話の論理について、中沢氏は次のように書かれている。

通常の思考は、ものごとは一貫性のある論理で思考されなければならないと考える。

ところが神話の論理は、一貫性のある論理では、世界の真の姿はとらえられないと考える。そこで一貫性のある論理が破綻するバグの穴の箇所で、積極的に矛盾や飛躍を組み込んだ「神話の論理」が浮上してくるのである。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.I

神話の論理のおもしろさは、神話の論理では無い通常の思考の論理と比較をしてみると際立つ。

二つに分けて、どちらであるかを選ぶ、というのが通常の思考の動き方である。「あれか、これか」。あれを選んだらこれは選べないし、これを選んだらあれは選べない。

通常の思考の一貫性のある論理では、Aと非Aの区別は固定していて、Aが非Aになったり、非AがAになったりすることは、ナンセンス、ありえないとされる。例えば「私」は生まれた時から死ぬまでずっと「私」であるし、何者かの非-私、他者が、「私」になってしまうということはない

それに対して、神話の論理は、通常の論理でははっきりと分離されて結合されることの“ない”ものたちの間で結合を引き起こし、通常の論理でははっきりと結合したまま分離することの“ない”ところに分離を引き起こしたりする。

例えば、神話の語りでは、人間と動物が別々に区別できつつも、一方が他方に変身したり、異種間で会話したり結婚したりする。人間が人間のまま動物になったり、動物が動物のまま人間になったりするのである。動物でもなく人間でもない、Aでもなく非Aでもない分別の手前で分かれようとしたりしなかったりする動き。

人間と動物が分離しつつも結合している、異なっているが同じである、といったことを考えるアニミズムの思考もまた神話の論理による。

あれか、これか、選べない時にどうするか

通常の論理が「分けて」「選ぶ」ことに追われている間に、その裏で、深層で、背後で、高次元のモードで、神話の論理「分けるでもなく分けないでもない」「選ぶでもなく選ばないでもない」を伸縮させている。

この非同非異を至る所で生じたり滅したりすることができる「神話的思考」こそが、私たち人間にとっての意味ある世界を意味あるものにする意味分節システムを発生させたり消滅させたり、柔軟に生成させ続けている。

神話の思考が動かしている論理は、人間が現にそれを意味あるものとして経験する世界を、所与のものとは考えない(ものごとの間の区別がはっきりと分かれ済みで、あるものAはずっと自己同一的にそのものAでありつづけることを前提としない)。神話の論理は、意味ある世界を意味ある世界として意味分節する、意味分節システムがあるでもないでもないところから発生してくるアルゴリズムを言語でもって思考する。

「分けるでもなく分けないでもない」「選ぶでもなく選ばないでもない」神話の論理は、Aと非Aの分節を、一旦「矛盾」に送り返す

Aでもあり非Aでもある、そして、Aでもなく非Aでもない、といったところへ対立するAと非Aを巻き込んで、そこから通常の思考が予想もしなかった、“Aでもなく非Aでもない”あり方をした新たな項たち、両義的な媒介項たち対立関係を出現させる。その両義的媒介項の対立関係に既存の様々な二項対立を結合したり分離したりする処理を通じて、私たちの心の深みでは、新たな意味分節が試され、意味ある世界が新たに創造され続けていく

そんな面倒なことはしなくても、通常の思考で十分ではないか、という意見もあるだろう。もちろんその通りである。通常の思考で「あれか、これか」高速で分別をしていくことで、私たちは日常生活を迷いなく円滑に回していくことができる。

ただし、人生にはいろいろあるもので、分けたくても分けられない、選びたくても選べない、といったこともよく起きる。選びたい方を選ばせてもらえず、選びたく無い方を無理に選ばされる。よく考えてみると「生老病死」の人の一生はそんなことばかりかもしれない。そして私たちは途方にくれる。

神話の論理、神話の思考に通達した人は、この「分けたいのに分けられない」「選びたいのに選べない」に直面しても途方に暮れないし、動じない

通常の思考の分別がうまく効かなくなった瞬間に、意識を変容・モードチェンジして、神話の論理で動かせばよいのである。


分別が固まる手前で思考する「無分別智」

神話の論理の分けるでもなく分けないでもないモードを扱えるようになるとき、人類の思考も感覚も感情も直観も、飛躍的に覚醒する。

例えば中沢氏が『いま、ここにある神話』で言及されているとおり「量子力学」の思考、考え方は神話の論理に通じるものがある。

ある/ないの「ある」を徹底的に再現可能な方法で観測する自然科学の本丸とも呼べそうな物理学は、今日、その理論の中心に、あるでもなくないでもないところからあるようになったりないようになったりする動きのモデルを組み込んでいる。

意識が介入する以前には、全宇宙はお互いつながりあいながら運動しているので、小さい範囲(局所)での「状態」というものは、決まっていない

しかし意識は物事を「分別」しようとする本性をもっているので、状態がないところにも状態を見つけようとする。

その結果、実験で一つの状態が決められると、もともとそこにあったはずの全体運動は、とたんに消えて見えなくなってしまう。

この分別する能力をもった人間の意識は、それだけで宇宙に激変をもたらしてしまう。

分別する知性(これが常識をつくっている)を発達させたおかげで、宇宙のほんとうの姿が見えなくなっている

そうしてほんとうでない宇宙の姿を「ほんもの」と妄想して、自分たちの世界をつくっている。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.32 ※改行は引用者による

観測すること=分けることによって、分けられたものたちが区切り出されてくる。あれこれの対立関係を組む諸項たちは、分けるから分かれたのであって、分け方が異なれば分かれ方もまた異なる。

しかし、分けたあとに残された分けられ済みのものたちを起点に据えて思考をすると、「あるものはある」、「ないものはない」、「あるのか、ないのか、どっちだ?!片方を選べ」ということになる。何が「ある」で何が「ない」なのかはあらかじめ決まっているに違いないという感じがしてくるのである。しかしそうすると、「宇宙のほんとうの姿」は「見えなく」なってしまう。なぜなら宇宙は分けられ済みのものが並べられている場所ではなくて、いままさに、分けるでもなく分けないでも無い動きが振動しており、「ある/ない」が分かれつつある動きそのものなのである。

この量子力学の世界における「あるでもなくないでもない」を垣間見せてくださるのが、理論物理学者の堀田昌寛先生の近著『無とは何か』である。この本もあわせて読むと非常に勉強になります。

われわれ人類は通常の感覚では、分けられ済みの「ある」だけをみて(ある/ない、が分別できるようになった後で、「ある」の側に置かれたものたちだけをみて)、それが「ほんもの」で、逆に「あるではない」ものをあるものだと勘違いすることは、正しくない、間違っている、と思考する。

しかし、そういうやり方では「全宇宙はお互いつながりあいながら運動」している、あらゆることが分離しつつ結合し結合しつつ分離する、分かれるでもなく分かれないでもないモードにある「ほんとうの姿」を、妙観察智的に思考することも、成所作智的に感覚することもできなくなる。

+ +

「分けるでもなく分けないでもない」動きに自心で共鳴する

ここで、全宇宙の「お互いにつながりあいながら」の運動を思考し感覚しようとするならば、重要なのは「分別の働きを一瞬でも止める」ことである。

そうして分けるでもなく分けないでもないモードの思考を動かす。

中沢氏が書かれているところを詳しく見てみよう。

キーワードは「分別」と「無分別」である。

言葉の影響を受けて周りの世界を分別するように働くとき、私たちの常識の世界がつくられてくる。個体性をもった事物は実在するし、そういう事物を積み上げるようにして、常識の世界はできあがっている。

ところが、心が分別の働きを一瞬でも止めることができると、そこにはまったく違う「無分別」の世界があらわれてくる。そこではあらゆる事物はたがいに関係しあって、孤立しているものはなく、宇宙の一部に起こった出来事の情報は、瞬く間に全体に波及していく

こういう無分別の心が見ている世界に、分別する心が一瞬でも介入してくると、ほんらいの世界の姿は見えなくなってしまう。人間の心は、そういう二種類の心の合成体としてつくられている、と仏教は考える。この考え方は、本心を開いた量子力学とそっくりではないか。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.33

「常識の世界」では、「個体性をもった事物」つまり分けられ“済み”のものたちが端的にそれ自体として「実在する」と思考され感覚される。そこでは分けられ済みのものたちにスポットライトがあたる一方、それらを分けている動き、分けるでもなく分けないでもない、分離したり結合したりする動きの方は、見えないようになっている。

もしこの分けている、分けつつある動きを意識しようとするならば、分別“済み”のものたちをめくったり、剥がしたりして、その直下で動いている分けるでもなく分けないでもない動き、つまり「無分別」の世界を観察しなければならない。この無分別の世界とは「あらゆる事物はたがいに関係しあって、孤立しているものはなく、宇宙の一部に起こった出来事の情報は、瞬く間に全体に波及していく」世界である。

より複雑で多様な、世界の「ほんらい」により近い姿を、思考したり感覚したりしようとするときには、あるでもなくないでもないところからあるようなないようなことが浮かんできたり消えて行ったりする様相をじっくりと観察する智慧、無分節の分節を振動させるような心の動かし方ができるとよい。

無分別の心でみる、観察する
眼にもろもろの不浄をみて心にもろもろの不浄を見ず、ということである。

なんというかぼんやりと、第八阿頼耶識の底の方から、何であるのかわかるようなわからないような雰囲気というか感じというか気配のようなことが蠢き出してくる。第七末那識はそれを安全か危険か、このまま自分に結合させてよいか、それとも分離した方がよいか、速やかに分別しようとするが、これを一旦黙らせる。第六意識もまた、それが「何であって」「何で無いのか」を分別しようとする、他では無い何であるのかを選ぼうとする。しかしその第六意識の分別も、一旦黙らせる。第七識と第六識を黙らせるというのは、分けるでもなく分けないでもなく、ただ阿頼耶識の底の「なにか」の気配のようなことが生/滅を繰り返す様相にただ即すようにして、「こわいなあ・・いやこわくないかも、うまそうかも!・・いや、毒かも・・。ああ、これはあれだ!・・いや、あれじゃないかも・・」という感じにする。前五識にはちょっと体幹を支えておくことに集中しておいてもらおう

そういう無分別智のあいまいで不可得で霊妙な明滅を覆い隠すように、あらかじめ、「ある/ない」を分節済み、分けられ済みのものをドンと持ち込んで、この出来合いの「ある」のことだけを考えましょう、この「ある」が何であって何でないのかを分別する思考を関与させましょう、というやり方をやってしまうのが通常の「あれかこれか」の思考である。そうすると、「ほんとう」の世界の消息はまるでほんとうに何もないかのように、消えてしまうのである。消えたことすら感覚させないままに。

仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るための修行のひとつのあり方として転識得智ということを考える。
分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容するのが「転識得智」の行である。

前五識(感覚) → 成所作智 に転じて:
「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ

第六意識(思考) → 妙観察智 に転じて:
「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ

第七末那識(感情) → 平等性智 に転じて:
「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ

第八阿頼耶識(直観) → 大円鏡智 に転じて:
「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ

密教では、分けて、選んで、拘って止むことのない人間の表層の分別心(識)が転じた四つの智をマンダラ状のフォーメーションに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かす方法を実践する。

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感覚と思考の言葉の言い換え先を固めない

毒舌
山ことば
アレ

感覚が分別した「ある/ない」。

思考が分別した「なにである/なにでない」、あるいは「なにであるべき/なにでないべき」。

ある/ない

なにである/なにでな

この二つの分別が結合して、ある何かが何であって何で無いのか、その意味が分別される。

この思考のなにである/なにでないの分別は、言語の上での分別でもある。

良い/悪い、正/誤、善/悪などなど、分別された言葉が、感覚が「ある」と分別したさまざまな印象に結合されていく。

これに対してそういう「分別の働きを一瞬でも止める」ことが、神話の論理の動きの影を、通常の論理の面に浮かび上がらせることになる。そこで思考も感覚も、分けるけれども分けない、分けるでもなく分けないでもない、無分節の分節、無分別の分別、といったモードになる。

無分節の分節モードでは、感覚は「あるでもなくないでもない」、思考は「なにであるでもなくなにでないでもない」、という分けるでもなく分けないでもないということができるようになる。

このモードに入ると、通常の感覚の分別と思考の分別の結合がゆるみ、通常がっちりと結合しているところが外れて、逆に通常分離しているところと束の間結合したりするようなことも起きる。神話の論理の発動である。

例えば『いま、ここにある神話』から、毒舌芸のくだりをみてみよう。

自分にとってなにか善い働きをするものが、外からやってくると、幼児は喜んで笑う

しかし不愉快なものがくると、それを拒否する

自分と他人、善いものと悪いものの分別が、笑いとともに発生している。

自分と他人を区別する意識から、言語が発達してくる。

ということは、言語はこの天使のような笑いに包まれながら、生まれてくることになる。

中沢新一『いま、ここにある神話』pp.89-90

感情の分別が、自分と結合すべきものと分離すべきものとを分別したところで、自分と結合すべきものと実際に結合できたとき、人の心は「笑い」を引き起こす。

自 / 他
善い / 悪い(つまり自分と結合すべき/分離すべき)

この分別が感情、第七末那識による分別である。

この自他のはざまで、善いものを結合に向かわせ、悪いものを分離に向かわせようとするところで子どもの「言語」が始まる

こうして始まった言語は、おさなごがしだいしだいに成長するに連れて(つまりフロイトのいう口唇期、肛門期で、自分の身体に結合すべきものと身体から分離すべきものの分節コードを、自然な心身の欲求にそぐわないかたちで刻み込まれて第七末那識がまさに「識」として体系化されていくと)、「分別の毒」になるという。

そしてこの社会からの言語が、幼児の天使的な笑いを歪めてしまう。
言語から分別の毒が分泌されて、その毒によって、笑いは人間特有の現象として、複雑な発達をするようになった。

自分と他人を区別する分別の毒を受けた笑い
は、自分は他人に優越していることを表現するための、「優越感の笑い」を生み出す。

他人を見下すとき、人間は内心でこの優越感の笑いを、声もなくうかべている。

こうして天使のような幼児の笑いから出発した人間の心は、いつしか自分のほうが他人よりも優れているはずと考える、迷妄の生きものに変貌してしまう。

こうして言語の毒が、人間の心をつくっていくことになる

そしてそういう言語の毒の「解毒剤」として、笑う毒舌の芸能は出現した。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.90

他人を見下す、優越感の笑い!

自/他の分別が、優/劣の分別、価値の高低の分別に結合する。

人は、自分が優れている、価値が高いものである、と意味づけることで意識を奮い立たせて生きることができるが、このときに分けて選ぶ分別の言語は、自分の優位を言うために、その裏返しで他人の劣位を言い立てることになる。

劣等感/優越感

他人を見下すことを言うことで、相対的に自分の価値を高める。

とはいえそういう活動に汲々としていても、実際には自分の価値はあくまでも相対的なものである。そうであるが故に、圧倒的に優れた他者が目の前に現れた途端、「優」と結合しておくべき自分が、瞬時に「劣」と結合されていることに気づき、人は悶絶するのである。

自分より優れた他者を見ていると、なんだか自分が劣等なものに思えて怒りが湧いて、その優れた他者をあえて貶めるようなことを思いついて、口にしてしまうようなことは、誰しも少なからず心当たりがあるのではないだろうか。あるいは自分より劣等だと見下していた他者が、自分よりもはるかに優れた人物として社会において遇されると、自分の惨めさに歯軋りをする、とか。

こうして優劣の分別にこだわってしまう人は、自分が優/劣の「劣」で(も)あるという事実から目を背けようと、必死になって他者を、それも実際には自分よりも圧倒的に優れている他者に、なんとかして「劣」のラベルを貼ろうと必死になる。・・実に苦しいことであろう。

これに限らず、無分節の分節のゆらぎであるはずの言語を、できあいの分別済みの自/他、優/劣の二項対立一辺倒で使ってしまうと、その言語は「毒」になり、迷いを生じ、人を苦しめる。分けて、選んで、こだわろうとすればするほど、分けたいように分けられない、選びたい方を選べない、こだわりたい物事にこだわらせてもらえないことが、全て「苦」として押し寄せる。

無分別智で考えてみれば、分けて選んでこだわりたいという酔狂な行いは、そもそも「分ける」ことができているところで仮に可能になっているだけである。たまたまあるやり方で分けたから、優劣も自他も分かれているだけであり、分けられたふたつのどちらかだけを選び続けなければならない義理はない。しかしなぜか人は、分けて、選んで、いや、選ばされて、その選ばされたものにこだわる。とはいえいくらこだわっても、そのこだわりの対象は分けているから分かれてくるだけの影のようなものであり、それ自体として確固として存在する実体ではない。選んでこだわっている対象との結合は、にわかに分離に転じるのである。

そう言う時に、「あれか、これか」の「あれ、以外ありえない!」と分別する心“だけ”で思考したり感覚したりしている人の心は、耐え難い負の感情に苛まれる。

およそ人の苦しみというのはこのようにして固着した末那識から浮かび続けるが、もし「心」が、選ばず、拘らず、分けるでもなく分けないでもない心のあり方に通達すれば、このような苦しみは影のようなものになるのである。

言葉の毒の解毒剤

言語の毒の「解毒剤」としての「毒舌」の笑いは、他者を蔑み、冷笑して、他者を下げることで自分を上げる笑いとは違う。

毒舌の笑いは、価値の高/低、優/劣を、くるりと逆にしては、またもとにもどし、そしてまたくるりと逆にする技である

毒舌の笑いにおいては、自も他も、優だと言われたものはすぐに劣だと言われ、劣だといわれたものは、すぐに優だと言われたり、優劣がくるくるとひっくり返っていく。

そして自他どちらも優劣のどちらか一方に結合されたまま固着することはない。

そうするうちに、自は他ではないが他でもあり、優は劣ではないが劣でもある、といった、どちらでもあってどちらでもない無分別智が意識を澄ませていく(第六意識が妙観察智に転じるといってもよい)。

言葉には、そういう力があるのである。感覚の分別と思考の分別の結合が固着したところを、分離して、もともととは逆に結合し直す。言葉はほんらい、分離したり結合したりが自在な動きである。

アレ 山言葉
意味するもの/意味されること

この本で中沢氏がとりあげる「山言葉」のようなものは、そういう言葉本来の動き方をあらためて経験させてくれる。

こういう山言葉を使う理由としては、暗号のような山言葉を使って狩人どうし会話しないと、山小屋の中に潜んでいるネズミが話の内容を聞き取って、仲間の動物たちに警戒を発して、狩がだめになってしまうからであるとも言われるが、ほんとうのところはコトバとモノを、山言葉という迂回路を使って、遠くに引き離しておくためである。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.121

感覚できるあるなにかを、本来的にはどう呼ぶこともできる、というのが言語である。言語が何かを意味するということは、感覚が分別する二極のどちらかと、他の語と分別される限りで“それではないなにかではないあるもの”として区切り出されるひとつの語とを、異なるが同じ、同じだが異なることとして、分離したまま結合する。

分別する言語をそもそも可能にしている、言語が「意味する」動きそのものは、分離するでもなく結合するでもない、無分節の分節の動きそのものに他ならない。

日常生活では、コトバとモノはふつうの感覚で直接結びついてしまっている。しかし狩人にとって山の中での狩は、山の神の世界でおこなわれる聖なる行為である。そこで人間の日常的なコトバを安易に使うと、神の世界のモノ(この中には動物たちが含まれる)を汚染してしまうと考えた。そのため、山に入ったらできるだけコトバを慎まなければならないが、それでも仲間どうしのコミュニケーションは必要だ。

そこで、コトバとモノの間の距離をうんと離した状態で会話するために、山言葉というものが必要になる。

コトバとモノをすぐに結んでしまうのではなく、遠い迂回路をへてやっと結びつけるやり方である。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.122

日常の言葉の意味作用が結合したまま固めてしまって、もう決して分離することがないかのように扱っている“意味する記号”と“意味されること”との関係を、山言葉や毒舌は、いったん分離して、分離したまま日常の結び方とは別の関係で結合し直し、またほどいて分離して、また結合して、という動きを伸縮させる。

アレ

山言葉のような言葉の「いま、ここ」での実例として、中沢氏は、某プロ野球球団の優勝のことが「アレ」と呼ばれた現象も挙げている。

日常の、いつもべったり結合して離れなくなってしまっている記号=言葉と意味内容のセットでは、まだ優勝するともしないとも定まっていない、どちらでもあってどちらでもない曖昧な中間領域のことを言語化しようがない。

「あれ」と呼ぶことで、なんのことを言われているか、わかるけれども、しかしまだ余白を、遊びを、もしかすると「いや、そのことは言っていません」と逃れる余地を、残しておく

そうすることで、優勝するかもしれないししないかもしれない曖昧な状態を、どっちつかずのまま残しておく

この曖昧などっちつかずの状態に、「優勝か、非優勝か、どちらか!はっきりと一方に決めよ」と言わんばかりの言い方で無闇に二分法を押し付けてしまうと、その柔らかいどっちつかずの状態は、たちまちにどちらか一方に固まってしまう。しかも望ましい一方を選んで固めようとすればするほど、このモードでは、捕まえよう=結合しようとしたことは、するりと逃げて分離していくのである。

無分節の分節はそういうどちらにでも転びうる振動モードであること、そして下手に選ぼうとすると、選びたいものの方は結合してこないで分離していき、選びたく無い方が結合してしまうという気配を、今日の私たちの心の深層(第八阿頼耶識の真如面)は、よくわきまえているのである。

深層心理学のアレ

ここで中沢氏は、別の「あれ」という言葉の使用例として、フロイトのエスのことにも言及されている。

心という人間存在の聖なる領域に踏み込んでいく心理学の世界でも、山言葉の原理は重要な役目を果たしてきた。

フロイトは人間の心の深層に、「無意識」の領域が隠されていることを発見した。この無意識は日常的には心の下に隠されているが、夢や芸術的創造によって、心の表面に引き出されてくる。だから無意識は、心にとって、聖なる領域である。

フロイトは悩んだ末に、無意識のことを「アレ(仏Ça/独Es)」と呼ぶようにした。これはこれから心の森ともいうべき無意識に踏み込んでいこうとしている、後発の心理学者たちにたいして、この森では日常の意識を捨てて、感覚を研ぎ澄まして注意深く進んでいくように、というフロイトの命令をあらわしている。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.124

「山言葉」のように、意味するものと意味されることとの関係を、分離するでもなく結合するでもない、無分節の分節の動きが固まらないモードに保つ。これが「無意識」という心の深みの動き方である。

フロイトの精神分析は、そのあり方を直接感覚的に観察したり、日常の言葉だけで思考したりすることができない、なんとも言い難い心の深みの動き方を「感覚を研ぎ澄まして注意深く」観察し、表層意識が理解できる言葉に記述、あるいは仮に翻訳していこうとする。

そうした時に「XはAだ」式に記号と意味内容があらかじめ密着して結合し離れなくなってしまっている言葉だけを用いていると、あらかじめ分けられ済みの固まった項ばかりが整然と分かりきったような当たり前の顔をして並ぶようになり、その背後に、分けるでもなく分けないでもない、無分節が分節しつつある動きを隠してしまいかねない。

中沢氏の言葉を辿ってみよう。

無意識は言葉ではつかまえられない、深層の心の働き(モノ)であるから、不用意にコトバとモノをすぐに結びつけてしまうと、すっと逃げていってしまう。心理学者はそれゆえ、コトバとモノをすぐに結びつけないで、長い迂回路をへた末に、ようやくモノ(深層の心)に触れていくことができる

中沢新一『いま、ここにある神話』p.124

無意識は言葉ではつかまえられない」というところに注目しよう。

無意識の「動き」を、表層意識の日常の一定の結合パターンで固まった言葉でもって表現することは容易ではない。

主語的なものの硬さに意識を持っていかれずに、分離する述語と結合する述語が響き合うようなあり方で、言葉を使う必要がある。そうしたときには、日常の言葉の意味が結合して固まっているところを、あえて引き離し、分離するような、また逆に日常の意味においては分離しているところをあえて結合するような、「長い迂回路」を引き回すような言葉の使い方、非同非異の動かし方が望ましい


二元論を超える神話の思考

通常の思考はあらかじめ分け終わったものたち、分けられ済みのものたちを並べては、その並べ方を固定することで意味分節の仕組みを安定させる。

一方、神話の思考は無分節の分節、分けるでもなく分けないでもないところで、分けたり分けなかったりするように動く。

通常の思考は、白黒はっきりつける「二元論」で物事を分別するのが得意である。 あれかこれか、分けて、選んで、こだわる。自分か他人か。敵か味方か。勝ちか負けか。善か悪か。はっきり分けて自分がそれと結合するに相応しい方を選ぶ。

一方、現実の世界の複雑で動的に変化する現象は、しばしば二元論ではうまく処理できないことがある

例えば、ある人にとっては「正しい」ことが別の人にとっては「正しくない」ということがある。自分が「正しい」と選んだことに対し、他者たちから「それは正しくない」との非難が寄せられることもある。

そういうときに「自分」が「正しい」と思う方を、他の全ての人々も同じように「正しい」と信じるようになるべきだ、と主張するのは日常の表層意識の人情かもしれないが、実際にはうまくいかない。なぜなら自分が自分の分別を正しいと思うように、他者は他者でその分別を正しいと思っているからである。私たちは一体どのようにすればこの複雑な“私にとって正しいことが他者たちにとっては正しくない”という状況で、怒らず、怯まず、淡々と、佇むことができるのだろうか。その時に活躍するのが神話の思考なのである。

中沢氏は観音菩薩は男か?女か?という文脈で、次のように書かれている。

[…]二元論はすでに、社会を構成する原理としては、解体している。二元論を超えた文明として、現代はつくり直さなければいけなくなっている。そうなると、両性具有の出番である。

そういう現代にあって、日本人は忘れかかっている自分の特技を思い出すべきである。私たちの文明は、深層では両性具有を原理としている。[…]私たちは未来的な「どちらかわからない《もの》」の先駆けになれるかもしれない。文明の深層に潜む両性具有性は、いまだに健在である。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.146

両性具有。経験的にはっきりと分かれていて、ある人物がそのどちらであるかを一意に決められると信じられている「男/女」のような対立も、神話の思考であればどちらも選ばない、どちらか一方だけを選びようがない、「どちらかわからない」曖昧な状態を保持する余地を開く。

このどちらかわからない、分けるけれども選びようがない、というモードを人間と自然、人間の内的な現実と外的な現実との対立のあいだに励起すると、神話の思考の真骨頂ともいえる「アニミズム」になる。

自然に対峙するのではなく自然力に一体となって巻き込まれ、その渦の中に美しい身体運動の形象を注ぎ込むことで、不調和に陥った自然を整えるのである。これは同じ魔法といっても、自然魔法と呼ばれるもので、その背後にあるのは、アニミズムの思想である。

アニミズムは、人間と自然を、ひとつにつながった一体のものとして考える。その考えによれば、天候の変化が人の暮らしに大きな影響を及ぼすように、人間の活動や思念も、自然の運行に影響を与えることになる。自然の運行のバランスを支えているのは、科学的な原理だけではなくて、人間の倫理的で美的な行動も、大きな働きをするのだ。

中沢新一『いま、ここにある神話』pp.240-241

アニミズムでは、通常の論理があらかじめ分離しているものとしてあつかう人間の内的な心と外部の世界の物事の間を分離しながらも結合しており、情報交換ができたり、共鳴できたりすると考える。

ここでふと思い出すのが、アニミズムをそれ自体がアニミスティックなことばで描き出す岩田慶治氏の著作たちである。

中沢氏はアニミズムについて、さらに次のように書かれている。

[…]アニミズム的な世界では、音楽や舞踏が大活躍をする。音楽はカオスにみちた音響世界に、美しい旋律やリズムの秩序を作り出す。それを身体の動きに注ぎ込むと、美しく動き変化していく舞踏が生まれる。お神楽を舞うことによって、アニミズムによって生きていた日本人たちは、人間と自然が一体になったもの(それをカミと呼んだ)に、活力と均衡を取り戻させることができる、と考えたのである。

中沢新一『いま、ここにある神話』p.241

神話の論理、アニミズムの論理、分けるでもなく分けないでもない、自在に分離したり結合したり、関係のネットワークを動的に変容させていくようなこととしてイメージされる思考のあり方は、身体において、さまざまな表現で感覚的なものとして現れる


右寄り?左寄り?

そして中沢氏は今日世界各国を席巻している「右傾化」の潮流についても、神話の思考の観点から説明ができるとする。

[…]今日の世界の右傾化には、深い道理があるのだ。その道理は[…]ミトロジーの論理を組み込んだ思考によるのでなければ、とうていこれを解き明かすことはできない

中沢新一『いま、ここにある神話』p.268

左派の人は右傾化を批判し、右派の人は左傾化を批判する

政治の話はどうしても「右か、左か、どちらを選ぶのか?!」という、まさに「分けて、選んで、こだわる」分別を有権者の意識において先鋭化させる。

有権者にとっては選挙で投票をして政権を「(どれか一つ)選ぶ」ということが政治参加の形になる。そこで「右でもあれば左でもある」とか「右でもなければ、左でもない」という「あいまい」で「どっちつかず」の立場では、誰を選んだら良いのか不明になってしまう。政党は政党で選挙となれば「自分達か、それ以外か」をわかりやすく区別して、自分達を選ぶと良いですよ、と有権者に訴求する。

もちろん実際に当選した政治家の皆さんが集まる場では、民主主義の国家の場合、右と左は鋭く対立しながらも同じひとつの意思決定の場に参加し、議論を交わし続けることで、結果的に「右でもなければ、左でもない」落とし所を見出していく場合が多いのであるが。

しかし選挙となるとどうしても、「どちらがよいか(どちらがダメか)」「分けて」「選ぶ」分別を迫られる。

ところで人間の心の動きを鑑みると、ここで苦しみが生じることになる。

私たちは、右であれ、左であれ、どちらか一方を選ぶことになる。
真剣に考えて、真剣に選ぶ。

そうして選挙の結果をみてみると、自分が選んだ方が、他の多くの人には選ばれなかった、ということが起きる。

右派にとっても、左派にとっても、自分が大切にしている価値が、自分たちのもとから奪われ、自分たちとは「逆」の人たちの方に持っていかれてしまったように感じるのである。

これを意味分節の形式として読み解いてみると、そこには次のような分節システムが動いていることがわかる。

自分たち / 他者たち
||      ||
選びたいものが結合→分離 / 選びたいものが分離→結合

すなわち、本来「自分たち」と結合していた(と信じられる)大切なものが、「自分たち」から分離されていき、その分離されたものが「他者たち」の側に結合されていく。

今日の私たちの心の底でも、元々分離していたところと結合されて、もともと結合されていたところと分離される、といった分離と結合の伸縮に敏感に反応する直観が、厳然と働いている。そしてそこからまず第七末那識=感情の反応が起こる。結合したくないものと結合される嫌な感じ。分離したくないものと分離される嫌な感じ。しかも、自分たちから分離された価値あるものが、よりにもよって自分たちと真逆の敵対者たちに結合していく。
それが恐れ不安怒りの感情を掻き立てる。

守られるべきものが自分たちから引き剥がされ、結合すべきでないものが結合されようとしている。この時に生じる恐れや不安や怒りは、右であれ左であれ対立するどちらの陣営でも惹起される。

その立場が右派であれ、左派であれ、人間の心そのものは、分けて選ばなければならないと強制される場面では、誰においても同じような第七末那識の分別を掻き立てられる。

そして人の心は、望まずに分離されてしまったところとの結合を回復しようとし、望まずに結合されてしまったところとの分離を目指そうとする。

分離してしまったところと結合を回復しようとする。
結合してしまったところと分離を回復しようとする。

中沢氏は『いま、ここにある神話』で、今日の「右傾化」と、「カーゴ・カルト」に通じるものを読み取りながら、両者の基底で動く神話的思考を明らかにしていく。どちらも実は、人類の普遍的な心の深みの自然な動きの発露という側面がある。

神話の論理に通じておくことの効用が、ここにある。

神話の論理がわかっていれば、ある人の心の深みが(もちろんあるいは自分自身も)、分離と結合のどのモードでどこに固着して苦しんでいるのか、見えるようになる

「あの人はなぜあれほど怒っているのか」
「私はなぜこれほど不安なのか」

こういう問いに対して、第六意識の分別、善/悪、どうあるべき/どうあるべきでないといった分別で正解を導こうとするのではなくて、「望まぬ分離」と「望まぬ結合」がその人の心でどのように固着した結び目をつくっているのか、観察できるようにするのが神話の論理である。

そして固着の在り処がわかるなら、その固着もまた分けて選んだからこだわることができているのであって、分け方、選び方を変えることで、固着を解くこともできるのだと、皆で共同で感得することもできる。

なにより大切なことは、分けて選んでこだわるだけが、人間の心の可能な動き方では無い、ということを知ることである。

分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードで動くこともまた、人間の心には可能なのだ。分離と結合の伸縮を固定した分別のモードで使うだけでなく、対立しあう者同士でありながらも付かず離れずの共同性を自在に立ち上げたり解体したりまた立ち上げたりできる。それは実は、私たちの祖先が「アニミズム」ですでにやってきたことである。

・・・古代の森の中を狩猟者として、獲物になりそうな動物を探して歩いていたら、突然、後ろからジャガーに噛まれ、気がついたら自分の方こそ「獲物」にされているかもしれない・・という状況を潜り抜けつつ、ちゃっかり獲物を得て、また自分の拠点に戻ってくることができるのが人類の精神の力である。

分離と結合の伸縮を、分別に従属させないことで、同一性と差異性の対立、分離と結合の対立を超えて、種の区別や、生者と死者の区別さえも超えて、非同非異なものたちの共同性であるようなないような共同性を自在に編んだり解いたりすることができるようになる。できるようになる、というか、人類の心の深層は、もうすでにいつもそういうふうに動いているのである。そういうふうに動いていなければ、言葉をやりとりすることもできなければ、夢を見ることもできないのである。


というわけで、中沢先生(私淑する者として先生と書かせていただく)の『いま、ここにある神話』は、人類が100年後に、1000年後に、いや、せめて3万年後くらいまでには目指すべきところを、すでに明かしてくれているのである。



おわり



一番左:大円鏡智:ボウルの中でホイップされている生地は阿頼耶識。まだ一枚のパンケーキとしても分節されていない、あらゆるパンケーキがそこから現れうる無分節の白い深み。それを泡立て器でくるくると攪拌しながら、現れる/消えるの渦をただ映している大円鏡智。

左から二番目:平等性智:無分節の生地をお玉で一杯ずつすくい鉄板の上に配置し、そのままでは食べたいと感じにくい(個人差あり)生地そのものから、美味そうなもの=人がその口で結合したいと思うものを分別していく。ただしこの時点ではまだあくまでも生地であり、食べたいがまだ食べたく無い、自分との分離と結合を不可得にする平等性智。

左から三番目:成所作智:すでに焼き上がって皿に積まれた完成形を、まだガツガツとは食べずに保持し、付かず離れずで眺める。

右端:妙観察智:いままさに焼き色を見極めて、ひっくり返すべき一瞬を観察しているへら使い。早すぎれば崩れ、遅すぎれば焦げる。その微妙な機を捉える妙観察智。

中央の鉄板の上で白い無分節の生地がきつね色の一枚一枚へと分節されていくプロセス全体が、そのまま転識得智のマンダラになっている。焼き上がりが八枚であるところにも注目されたし。
さすがの平等性智。心頭滅却すれば



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