中沢新一 著『いま、ここにある神話』を読む(前編)
中沢新一氏の著書『いま、ここにある神話』を読む。
*
いま。
ここ。
「神話」と聞くと、なにやら遠い過去の人類が残したものであり、いま、ここ、現代の私たちとはあまり関係のないもの…、と思われているふしがある。「神話」という言葉からして、「xxxx安全神話〜」など根拠の無いことを深く思考することもなく信じ込む非科学的態度という意味で用いられたりもする。
ところが、実際の神話というものを詳しく読み解いていくと、そこには非科学的どころか、現代の科学的な思考がよって立つ論理とは別の、見方によってはより複雑な論理に依拠した思考が行われていることがわかる。さらに言えば神話の論理こそが、現代の科学的な思考を可能にしている記号の体系、物事の意味を分節することができる言語や記号の体系そのものを生み出すプロセスで働いていることもわかってくる。
『いま、ここにある神話』のプロローグに次のようにある。
エリザベス女王の死からグローバリズムに揺れる世界の右傾化まで、現代的事象の奥で活動する神話的思考が、この本の主人公である。
「現代的事象の奥」で「神話的思考」が動いている。
今日の世界、今日の人類においても神話的思考は柔軟に躍動している。
それでは神話的な思考というのは一体どういうシロモノなのか?
神話的な思考はどのような論理で動いているのか?
この問いに取り掛かるためには、まずはじめに「思考」ということをいくつかの種類に分けることができると知っておく必要がある。そうして神話的な思考と、神話的ではない思考とを区別できるようにするのである。
現代は正確なデータの蓄積とその合理的解析を重視する。
そこにしか真実はないとすら考えられている。
それにもかかわらず、現代的事象の多くの領域で、旧石器時代に花開いて以来人類の共通財産となってきた神話的思考が、あいかわらずの活力を維持し続けているのである。
神話は死んでなどいない。
それどころか、混迷する世界の中で、政治ばかりか経済の動きにまで、いよいよ大きな影響を及ぼしている。
これは驚くべき現象である。
現代社会でしっかりと「思考する」ということは、「正確なデータ」を取捨選択し、分類し、整理し、蓄積すること、そしてそのデータを根拠にして「合理的」に因果関係を解析した上で、「因」となることを技術的に制御して、予測される「果」を正確に得ることである。データを根拠にしてなにをどうするとどうなるのか、いつどこで誰がやっても同じように展開する「法則」を記述する。そしてその法則に従って自動で動く機械を多数使うことで、望ましい結果につながる原因となるものごとを高速で大量に操作していく。
このような科学的、技術的、エビデンスとなるデータに基づいて再現可能な法則性を機械的に動かしていく合理的な思考こそ、近代以来の人類の思考の精華であった。
では思考というのはもうこの合理的な思考だけが全てなのかと言えば、そういうものでもない。今日でも「神話的思考」が、私たちの心の中では生き生きと活動している。
神話的思考とは
では神話的思考とはいったいどういうことなのだろうか。
神話的思考は、通常の論理的思考とは異質な仕組みで動いている。神話には独特の論理があって、それが通常の論理とは違うやり方で、世界の意味について考える。
中沢氏が書かれているように、キーワードは「論理」である。
通常の思考は、ものごとは一貫性のある論理で思考されなければならないと考える。
ところが神話の論理は、一貫性のある論理では、世界の真の姿はとらえられないと考える。そこで一貫性のある論理が破綻するバグの穴の箇所で、積極的に矛盾や飛躍を組み込んだ「神話の論理」が浮上してくるのである。
神話の論理と、通常の論理。
二つの論理の対比に注目しよう。
通常の論理、一貫性のある論理では、Aと非Aの区別は固定していて、Aが非Aになったり、非AがAになったりすることは、ナンセンス、ありえないとされる。例えば「私」は生まれた時から死ぬまでずっと「私」であるし、何者かの非-私、他者が、「私」になってしまうということはない。
+ +
ところで今日でも、たとえば物語の世界では、しばしば二人の人間の心と体が分離して入れ替わったりする話が描かれる。例えば時間と空間を超えて、ひとりの少女とひとりの少年の魂が入れ替わって…といった話である。
「私」が他者になったり「他者」が私になったりする。
二つに分けて、どちらであるかを選ぶというのが通常の思考のやり方だとすれば、神話の思考は、二つに分けたと思ったら一つに結合し、一つに結合したかと思ったら二つに分ける、一方を選んでみるとそれは途端に他方に変身する、といったようなことを考える。
[…]空にみごとな虹が立つと、昔の人々の思考は分裂した。いっぽうで虹の出現は、この世に偉大なもの、善きものが出現したことの瑞兆だと考えられた。そのいっぽうで、虹が現れたせいで、病気や悪が地上に広まる、とも考えられた。美しい自然現象である虹の中には、偉大な善とおそろしい悪とが、同時に潜んでいると、ミトロジーは考えたのである。
善/悪のような、それこそ善なるものは宇宙の始まり以前からずっと固定的に善で、悪なるものは宇宙の始まり以前からずっと固定的に悪だった、と通常の思考ならば考えたくなるような二元的な対立についても、神話の思考は、その両極が二つに分かれつつも一つにつながっているあり方を思考しようとする。
前の引用にあるように、神話の論理は一貫性=Aと非Aの区別を固定することにこだわらず、むしろその一貫性が「破綻する」「バグの穴」でもって、「矛盾」や「飛躍」を積極的に引き起こす。
神話の論理は、通常の論理でははっきりと分離されて結合されることのないものたちの間を結合したり、通常の論理でははっきりと結合したまま分離することのないところを分離したりする。
そうすることで、合理的には完全に別々に分離されたふたつの事柄のあいだに予想もしなかったような「つながり」を見つけたり、あるいは合理的にはたがいに区別できない同じようなものだと思われていたものたちのあいだに互いに相容れない違いを発見したりすることができる。
なんらかの作品を創作、創造する活動に携わっている方ならば、こうした分離の仕方と結合の仕方、繋がっているところを分かれているところを、つなぎかえる表現が、従来の意味や従来の価値とは異なる新たな価値や意味を産むことがあるということはあり得る話だと納得いただけるのではないだろうか。
非同非異を至る所で生じたり滅したりすることができる「神話的思考」は、私たち人間にとっての意味ある世界を意味あるものにする意味分節システムを発生させたり消滅させたり、柔軟に生成させ続けようとする。

通常の思考の論理と神話の思考の論理
「神話的思考」は、人類の世界、人類にとって経験的感覚的に意味のある世界というものを、存在分節=意味分節の体系として発生させるアルゴリズムそのものである。
神話の思考が動かしている論理は、人間が現にそれを意味あるものとして経験する世界を、所与のものとは考えず(ものごとの間の区別がはっきりと分かれ済みで、あるものAはずっと自己同一的にそのものAでありつづけることを前提とせず)、意味ある世界を意味ある世界として意味分節している、その意味分節のシステムそのものの発生のアルゴリズムを思考しようとする。
そういうわけで、神話の思考は人類にとっての経験的に意味ある世界の「起源」を語る神話を地上の至る所で語らせてくれるのである。
エビデンスに基づく根拠ある分別こそが唯一可能なあるべき「思考」で、それ以外には「真実はないとすら考えられ」るのが現代である。しかし実は、エビデンスに基づく合理的な分別の根底で、あるいは裏側で、政治的、経済的、社会的、ありとあらゆる価値の判断、意味があることと意味がないことを分別して、意味がある方を選ばなければならない、とする心が動くときには、いつでもどこでも神話的な思考が無意識のうちに動いているのである。
遠い過去はもちろん、いま、ここでも。人間がものを考え、言語で思考し、そして現に生きるリアルな世界の経験になんらかの意味を感じたり見出したり納得したりしている時、そこには古来より人類に「神話」を語らせてきたのと同じ心が動いている。
神話的思考について知ることは、政治でも経済でも社会でも、人類が意味のあることとないこと、価値のあることとないこととを分けて、意味のある方、価値のある方を選ぼうとするときに動いている心の深みの情報処理の様式、動作モードをリバースエンジニアリングするようなことなのである。
現実は複雑
人類は古来、通常の論理と神話の論理、このふたつの論理を組み合わせて、現実を生きてきた。
人工的な、至る所が緻密に分節「済み」の情報空間に生きる現代人からすると、AはAであって非Aであるはずなんて絶対にない!という通常の論理だけがあれば十分生き延びていけるという気がしてくるが、しかし通常の論理は、しばしば頻繁に、エラーを起こす。「現実は複雑」だからである。
神話はこの二つのトポロジーを組み合わせて、現実の事象の意味を説明しようとするのである。現実は複雑で、一貫性をもった一つの論理で理解しつくすことができない。そこで飛躍や矛盾を許容する別の「超論理」をそこに接合することによって、現実の全体像を言葉の表現の中に出現させようとするのだ。
現実は複雑。
このひとことは非常に重要である。
人類の心はなるべく物事を単純化して(複雑ではないものとして)処理するように動いているが(人類がまだ野生動物の一種だったころには、安全か危険かよくわからない謎の気配に対してじっくり迷ったり観察したりしている余裕はなかったはずで、複雑な外界の情報を単純化して分別できる能力は危険を予知する上では効果があったはずだ)、それに対して現実は実際には複雑である。
例えば「私は一生、私である」というのはその通りだと思うが、しかし現実をよく見てみると、0歳のころのいたいけなベビーの私と、年老いた私とは、確かに「同じ」かもしれないが、しかし随分「異なって」もいる。同じではない、しかし同じではないでもない・・。年老いた私は「私」なのか「私」ではないのか、いや、ベビーの私が「私」ではないのか…。
非同非異
常なるものなど一切ない、この無常な現実の世界では、すべてがうつろい行き、変化していく。そういうところで「AはずっとAだ!」式の思考では、どうにも対応できない、意味がわからなくなることがある。手持ちの、所与の、出来合いの分節でもって「この謎のXはAか、それとも非Aか」を分けて、選べないとき、意味がわからんとフリーズしてしまうのではない、胆力のある思考を可能にするのが神話の論理である。
神話の論理は、Aと非Aの分節を、一旦「矛盾」に送り返す。Aでもあり非Aでもある、Aでもなく非Aでもない、といったところに対立するAと非Aを送り返して、そこから通常の思考が予想もしなかった、“Aでもなく非Aでもない”あり方をした新たな二項α/-αの対立を出現させて、ここに既存の様々な二項対立を結合したり分離したりする処理を通じて、新たな意味分節を行い、意味ある世界を新たに創造する。

*
神話的思考力を呼び覚ます
では、この賢いやり方、通常の論理と神話の論理のハイブリッドモードを起動するためにはどうしたらよいのかといえば、まず、通常の論理を「緩める」ことが必要になる。
[…]現実をつくりだす論理的一貫性の条件を緩めて(昔々の話だからときどき奇妙なことが起こっても不思議に思わない)、局所的につながっているように見える部分を貼り合わせていくことによって(世界が少しずつ別のものに変化していっているのを許容する)、神話はまるで3次元の現実と同じような相貌を持ち、それについて意味ありげなことを語り合うこともできる世界をつくりだせる。
一貫性、A1はAでA2もAだ…式に結合して同じだとされているものたちの密着結合を緩める。そうしてA1もAでA2もAだけれども、A1とA2はどうも同じではなさそうだ、異なっていそうだ、ということにする。そしてまた、もともとAと対立していた非Aを持ってくる。そうしてAと非Aは完全に分離した異なるものだと思っていたが、しかしよく見ると似ている、同じような感じがするところもある、という具合に「局所的につながっているように見える部分」を結合する「貼り合わせていく」。こうして元々通常の思考が結合していた二元的なもの同士の関係を分離し、元々の通常の思考が分離していた二元的なもの同士の関係を結合し、結合するところと分離するところ、同じところと異なるところを、元々の思考とは別のパターンに繫ぎ換えていくのである。
通常の論理は、Aと非Aを分けて、Aの一貫性を再生産するようなものを分けて選んできてはAに結合し続け、非Aの一貫性を再生産するようなものを分けて選んできては非Aに結合し続ける。そうして現実にはAなるものの中身も輪郭も、次第次第に別のものに変わっていっているのであるが、そのかわりゆく様はなるべく見ない様にして、AはAだと言い続ける。そういう通常の論理の分け方、選び方、こだわり方ばかりが意識の表層を固めていると、Aでもなく非Aでもないようなもの、通常の論理が分けて分離したものどうしをあえて結合するような動きに注意を向けることができなくなってしまう。
これに対して神話の論理は、通常の論理が別々に分離していると判断するところに、なんらかの「異なるが、似ている・・」といったことを鋭く発見していく。そしてわずかでも異なるが同じ、あるいは非同非異のところをみつけては、それをとっかかりにして通常の論理が分離しているところを結合したり、通常の論理が一つに結合して分けることができなくなっているところを分離したりする。
人間が複雑な現実を生き延びていくためには、通常の論理は必須であるし、同時に通常の論理がエラーを引き起こすところ(分けるつもりが分けられない、結合するつもりが結合できない??)をすかさず補って、壊れかけた意味を別の様相で作り直す神話の論理もまた不可欠なのである。
今日、しばしば神話は「現実離れ」したものだと思われているふしがあるが、実は神話の思考を可能にしている動的な分節の論理こそ、通常の論理がエラーを引き起こしてうまく認識することができない複雑で多様な「現実」を、多様なまま、生きたまま、動くままにつかみとることができる、どちらかといえばより現実的な思考方法なのである。
姿を変えた神話
今日の私たちが生きるいま、ここでは、一見すると「神話だ」とは思われない様な姿をした表現が、実は神話の論理をその基層に隠して、神話の論理からその生命力を得ているということがある。
デパートの物産展に集まる海山の珍味、メタバース、アニメの聖地巡礼、毒舌芸、昭和歌謡に箱根駅伝に、アンパンマン、ゴジラ、水戸黄門、量子力学に、法医学を題材にした映画やドラマ、魔法にアニミズム、おむすびに、渋谷、そして世界各国に見られる政治の「右傾化」。こういういわゆる「神話」とはかけ離れたあり方をする物事の深層に神話の論理が動いている。
「こっちが正しくこっちが間違っている」「こっちを選べばよくて、こっちを選んではダメ」・・・という具合に簡単に分別をつけることができているうちはよいが、そう簡単には分けたり選んだりできない「複雑な現実」に直面するとき、現代の私たちひとりひとりが、その現に生きられている世界の意味、この世界を生きているという経験の意味を思考しようという時に、われわれが祖先から受け継いだ「心」は神話の論理を働かせて、複雑で多様に蠢く謎そのものである現実を、潜り抜けて、この束の間の生を生き延びようとしているのである。
ちょうど祖先たちが、森や、原野で直観を働かせ、五感でもってある/ないを未だ感覚できないあるともないともいえないことを、何であって/何でないかを思考で分別できないなんとも言えないことを、なんとも言えないままあるともないともはっきりしないまま捉えては、時にそれを求めて近づいて行ったり、それを恐れて逃げて行ったりしたように。
*
「あるのか、ないのか、どっちだ!」
「それはなにであるのか!なにではないのか!はっきりせよ」
というのが通常の思考、客観的という、要するにある一定の規則に則った条件のもとで処理を行えば、だれがやっても同じデータが得られるような現象を「事実」として扱おうという近代以来の科学的な通常の思考である。
感覚でもって、ある/ない、をはっきりと分別をして、そして「ある」もの、ないではないものの側に振り分けられる現象のことのみについて、それが「なにであって/なにでないのか」を思考する。そこでは幽霊とか妖怪のような、重さを測ったり、長さを測ったりできないものは、感覚的に「ない」側に分別され、現実的には思考しようもないものとされる。
しかし、感覚できなくても、思考できなくても、わたしたちは今でも幽霊や妖怪の気配を直観することはできる場合がある。そして感覚できなくても、思考できなくても、とはいえ「怖い」、「くっついてきてほしくない」、という具合に分離の感情を働かせることもできる。
感覚、思考、感情、直観
分別を多重に組み合わせて生きるのが人間
ユングがいうように、人間の心は、感覚と思考と直観と感情、この四つの意識の機能をハイブリッドで動かすことでよりうまい具合に複雑な現実の中で意味のある人生を実感しながら生きることができる。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
現代では、極めて限定されたやり方で分別を繰り返すように訓練された感覚と思考は、かえって広大な感覚できないこと、思考できないことの広大な領域を城壁の外に区切り出しては、その「外」の襲来を直観で予感し、感情で恐れる。
*
ところで、感覚や思考も、直観や感情と同じく、あくまでも「分ける」働きである。
分けるから、分かれる。
あるもないも、なにであるかなにでないかも、はじめからそれ自体として客観的に“分かれ済み”のものに反応するのが感覚や思考ではない。あくまでも分けたから、分かれた二つのあちらとこちらが感覚できたり、思考できたりするようになる。
ということは当然ながら、分ける動きが鋭く働く場合と、あまり鋭くは働かない場合がある。感覚にも思考にも分け方がゆるい場合があって良いのである。
そうしたゆるい分け方、分けるでもなく分けないでもないモードにおいて、思考や感覚は、
あるでもなくないでもない
あるようなないような
よくわからないけれどあるような気がするような…
価値があるようなないような
正しいような正しくないような
間違っているような間違っていないような…
といったことを経験する。

分けて、選んで、こだわる心を緩める“Aでもなく非Aでもない”を活かす智
ところが近代〜現代の通常の思考は、はっきり分けられることだけを善とするところがある。「あるようなないような」よくわからないことについて、ああでもないこうでもないと感覚を研ぎ澄ませて向き合ったり、思考を巡らせたりすることを、非効率、時間の無駄、はっきりしない態度だとして合理的な討議の場から追い出そうとしてきた。
しかし実は、人類の心にとっては、この「どちらかよくわからない」、わかるようなわからないような、というモードが非常に重要なのである。
感覚、思考、感情、直観。この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
そして多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする。
ここでせっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって恐ろしくなったり逃げようとするも、逃げられないことに苦しむ。
およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。この二辺を離れるでもなく離れないでもないモードのことを、鈴木大拙は「霊性」と呼んだのである。
分別と無分別
中沢氏もこの本で「分別」と「無分別」という言葉を用いて次のように書かれている。
しかし人間の心は「ひとつ」ではなく、じつは「ふたつ」の働きの共存でできていることが、昔から考えられてきた。たとえば仏教では、人間の心が理性や論理を働かせることのできる「分別」と、理性や論理を超えてものごとを直観的に把握する「無分別」との、組み合わせでできていることを、確かな方法で明らかにしてきた。分別の働きのおおもとをなしているのは、無分別の働きである。そうなると、理性や論理だけでとらえられた世界は、一面だけということになる。
「理性や論理を働かせることのできる「分別」」のモード。
そして「理性や論理を超えてものごとを直観的に把握する「無分別」」の
モード。この二つのモードを重ね合わせて、同時に連動させるような「心」の動かし方が人の意識を真に覚醒させるのである。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るための修行のひとつのあり方として転識得智ということを考える。分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容するのが「転識得智」の行である。
前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
特に密教では、分けて、選んで、拘って止むことのない人間の表層の分別心(識)が転じた四つの智をマンダラ状のフォーメーションに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かす方法を実践する。

分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
この伸縮自在な心の深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができるならば、私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
神話や夢は、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。
・・・さて、肝心の『いま、ここにある神話』からすっかり脱線してしまった。改めて続きを読んでいこうと思う。
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