【マンダラ夢分析】はじめて訪れたはずの民泊が、祖父母の家のようであった夢。火にかけられたスープ鍋から空間、時間が発生する・・
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。
Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。
しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。
特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇
◇
◇
結合を分離する動きと、分離を結合する動きに注目して夢を語る・記述する
以上を踏まえ、今回は、私自身の夢を分析し、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。
私(夢見者)は家族と二人で旅行に来ている。
夢見者は男性であり、もう一人の家族は女性である。
兄・妹か、姉・弟の関係であるらしい。
*
我々はあらかじめ予約してある今日の宿泊先を目指して、街なかを歩いている。(分離から結合へ)
目指す宿は、初めて泊まる所であり、場所もルートも不確かである。
私たちは二人で、地図情報を片手に眺めながら、目的地を探して歩く。
時は夕方、空は綺麗な夕焼けである。
坂の街の住宅密集地といったところである。
観光地という感じではない。
こういう場所にホテルがあるのだろうか?
近頃よくある、住宅地の中の普通の家を宿泊用にした「民泊」というやつだろうか?
私たちは一般的なホテルのような宿を予約したつもりだったので、
「思っていた様子と、ちがうかも」などと話している。
* *
私たちは移動しながら都度の地点の住所を確認し、目的地付近に到着していることを確認する。
両側に家々が並ぶ狭い坂道を登ると、住宅密集地の中に、他の家々に囲まれて、古びた小さなマンションというか、四角い箱型のビルがある。
周囲にも家が建て詰まっていて、ビルが何階建かよくわからないが、おそらく四階建てくらいである。
そのビルのおそらく三階か四階に、我々の予約済みの部屋があるという。
私たちは建物のエントランスに入る。
フロントのようなところを通ったかどうかよくわからないうちに、私たちはこの団地風の建物の、とある一室の入り口の扉の前にいる。
部屋の鍵は、いつの間にかすでに手の中にある。
部屋の扉をみると、どうみても昔ながら公団の団地、集合住宅の玄関という風情である。開放型の廊下に数軒分の玄関が並んでいる。
ふと開放廊下から部屋のドアとは反対の側を振り向く。
坂の上の建物だけあって、眺めが良い。眼下に住宅街が広がり、涼しい風が吹き抜けて、空は夕焼けの始まりである。
家々の窓に灯りがともり始めている。
なにやら夕食の香りなども漂ってきそうである。
* * *
私たちは宿泊先となる部屋に入る。
鍵がかかっていたのかどうかも微妙であるが、同行者が開けてくれたのかもしれない。いや、最初から鍵はかかっていなかったのかも?
+
部屋の様子はどうみても、誰かが現に暮らしている個人宅といった感じである。昭和風の家具や什器がいろいろと置いてある。
おそらく間取りは正方形の1DKである。台所つきの食事室と、襖をへだてて隣に六畳くらいの畳の部屋がある。どちらの部屋も生活感たっぷりである。
玄関を入るとすぐにダイニング兼キッチンで、何やら細い4本脚のテーブルにはビニール製のテーブルクロスがかかっていて、その上にはポットやら、お菓子が入っていそうな丸い大きな木製の蓋付きの鉢やら、なにか果物とか、処方薬の袋みたいなものもありそうである。
台所の方はついさっきまで料理をしていたようで、鍋や調理器具が使用中のまま置いてある。
宿泊先の部屋で、誰かがさっきまで料理をしていたとは不思議な感じというか、現実ならばすぐに部屋を替えてもらうところであろうが、今回に関しては、嫌な感じはしない。
なんというか、他人のものという感じはしないのである。
まるで元々ここが私たちの家であったような感じがする。
キッチン&ダイニングの隣には、六畳くらいのたたみ敷の部屋がある。
たたみ敷といっても、瀟洒な旅館といった風情ではなく、どうみても誰かの個人宅。
畳の上に何やら絨毯のようなものが敷いてあり、四本脚座卓が置かれ、座布団が並び、座卓の上にも日用品がいろいろと置いてある。
壁を背にして箪笥や背の低い棚にものがぎっしり詰まってが並んでおり、畳まれていない洗濯物が山盛りになって置いてあったりする。
+
ダイニングと和室のあいだから左手をみると、その先はベランダになっている。カーテンなどはまだ閉じられておらず、夕暮れ時の外がよく見える。
ベランダのサッシも開け放たれていて、いい風が吹き込んできている。
+
+
私と同行者の女性は、思い思いに部屋の中をうろうろしながら
「ええ、ここに泊まっていいの?!
ホテルじゃないよね?誰かの家だよね?」
と困惑しつつ、状況を楽しんでいる。
自分たちのものではないが、ここに泊まって、いろいろ使っていいというのであれば、案外落ち着くかもしれない、と思う。
いや、しかしよく考えてみると、こういう部屋には以前にも居たことがあるような気がする・・。
ここは、私たちがとても幼い頃の、今はなき祖父母が住んでいたマンションの一室の様子そっくり…、いや、そのもののようである。
実に懐かしく、充足した感じがする。
台所の方からは、何か野菜を煮ている香りが漂ってくる。
加熱調理の途中だったらしい。
炉の火も弱くつけっぱなしだったらしい。
おわり
この夢から「結合する」述語的様相と、「分離する」述語的様相を拾い集めて、下記の図を参考に並べてみよう。

β二項のペアからはじまる
まず夢の冒頭、夢見者(わたし)はもう一人の人物とペアになって、二人で、二人一組で行動している。私ともう一人は男/女の二項対立においては「異なる」者同士であるが、兄弟姉妹関係でもあるという点では、「同じ」である。
異なるが同じ。非同非異の二者がペアになって動く。この様子を
ββ
と表記しよう。神話であれば、しばしばこういう兄弟姉妹は「結婚」と言う形で過度に結合する場合もあるが、この夢ではそこまでの結合感ではなく、付かず離れずではある。つまりββからβ=/=βへと向かう傾向にある。
上の図でββが収まるのは1)〜3)のモードである。これが4)に向かおうとしている動きが感じられる。
◇
現在位置→目的地
分離を結合に転じる
私と姉妹の一人は、宿泊先あるいは帰宅先を探しながら移動している途中である。「目指す宿は、はじめて泊まる所であり、場所もルートも不確か」である。私と姉妹ββの現在位置と、目的地とは、円滑に繋がってはおらず、分離されている。この分離は単に空間的、距離的に離れているというだけのことではない。目的地がどこにあるのかよくわからないというというのがポイントである。仮に、いまここから何千キロメートルも離れた場所であっても、その場所に何度も通っており、行き方、ルートがはっきりと既知である場合、その目的地と現在位置の間は結合している。一方、すぐ側にありそうだと分かっていても、そこへ辿り着くルートが不明だったり、近づいてみたら思っていたのと様子が違って見つけられなかった、という場合、こちらのほうがより分離している。
β現在位置 →→→ー/ーーーー (目的地)β
||
→ β β →
どこにあるのか不確かな、あるのかないのかあいまいな「目的地」はβである。この不確かなものを探索しながら、そこへ接近していこうとするモードは、上の図で言えば2)→4)である。夢見者たちββが移動することで、「現在位置」と「目的地」とが分離していた状態から結合状態へと転じていく。夢見者たちの「現在位置」が変化していくことで、目的地と現在位置の距離が縮まっていく。
とはいえ私たちは、自分たちが本当に目的地に近づいているのか、結合する方向で動くことができているのか、不安を感じている。ほんとうにこのあたりに目的地があるのだろうか?と。
四階建ての四角形の建物を
下から上へ上がる

そして私たちはようやく目的地であると思われる建物に到着する。
私たちは典型的な宿泊施設に向かっているつもりであったものが、実際についてみると、一般の家庭であった。
私たちは目的地についたというのに「思っていた様子とは、とちがうなあ」という。
この実際の到着地は、目的地だと思っていたものとはかなり違う。
ここに
「目的地であるが、目的地ではない」
「目指していた目的地で、あるような、ないような…」
という曖昧さがひろがる。これもつまりβである。
β=/=β
|| ||
非-目的地=/=目的地
水平方向での伸縮、垂直方向での伸縮
ここで私たちは、上の図でいう3)の動き、述語的様相を呈する。上/下の垂直方向で分離を結合へと伸縮させる。先ほどの宿泊先を探索しているモードでは私たちは住宅密集地をおおむね水平方向に動いていた。
それが目的地であるようなないような場所に辿り着いたあたりから、上/下方向の動きに転換している。
私たちはまず「両側に家々が並ぶ狭い坂道」を「登る」。
この述語的様相に注目しておこう。
そしてさらに、宿泊先となるであろう部屋のあるビルを、地上階から「三階か四階」まで、昇るのである。

下から上へ。
(ββ目的地であるようなないような)
↑
/
↑
ββ
こうして水平方向の分離→結合への転換と、垂直方向の分離→結合への転換を経て、夢見者たちペアは、目的地であるようなないような曖昧な場所へと到着する=結合を完了する。
β
β β
(β)
なぜか鍵を持っている
この時、私たちは、いつのまにか、明示的に誰かから渡されたわけでもないのに、すでに部屋の鍵を手の中に持っている。
分離していたはずがいつの間にか結合している、という様相がおもしろい。
いや、この目的地である宿泊先と私たちは、どうやら初めから分離されてはいなかったのかもしれない。「鍵を元々持っている」部屋というのは、要するに私たちの部屋なのである。分離されていたとおもったら結合されていた。
分離と結合(非分離)という根源的な対立関係さえ、ここでは曖昧になっている。

◇
さてここで、ついに到着した目的地が「四角い箱型のビル」の「四階」であるというところにも注意しておこう。
マンダラ的調和を予感させる。
四角い建物の中の四角い部屋。
第一の四項関係の中に、第二の四項関係が入っている。

*
この部屋の入り口で、私たちは非常に良い眺望を獲得する。
水平線の向こうまで、いや、遠くの山の稜線まで見渡すことができる。
そしてまた、この四角い建物すぐ下の周囲の住宅街も俯瞰できる。
ふと開放廊下から部屋のドアとは反対の側を振り向く。
坂の上の建物だけあって、眺めが良い。眼下に住宅街が広がり、涼しい風が吹き抜けて、空は夕焼けの始まりである。
家々の窓に灯りがともり始めている。
なにやら夕食の香りなども漂ってきそうである。
この視点に立つ限り、
遠/近
上/下
これらの対立関係の両極がびよんびよんと伸び縮みすることはなくなり、一望のもとに固定した相を現し続けることになる。先ほどと同じ下記の図で言えば、4)のフェーズが安定したというところである。

そして室内へ
次に、夢見者私と同行者はこの宿泊先の室内に入っていくわけであるが、ここでは上の図でいえば5)の様相が浮かび上がるのではないだろうか。
まず、この部屋に入る前、私たちはどこで「鍵」を得たのかが不明である。宿泊施設であれば、何らかの方法で鍵の受け渡しが行われるはずであるが、そういうくだりはなく、いきなり部屋のドアを開けることができる。
私たちは宿泊先となる部屋に入る。
鍵がかかっていたのかどうかも微妙である。
経験的には、自分たちのものではない他人の家や部屋に勝手に入るということは、やってはならないことである(不法侵入)。
経験的感覚的には
自 / 他
の区別ははっきりしており、自分のものである自分の家と、他人のものである他人の家との区別もはっきりしている。
自 / 他
|| ||
自分の家 / 他者の家
しかし、この夢では、私たちはこの初めて訪れたはずの宿泊施設の一室が、まるで自分たちの家のようであることに驚くのである。
*
さらに、ドアをあけて部屋の中に入ってみれば、そこはどう見てもホテルの一室のような場所ではなく、誰かが実際に生活している、まさに煮炊きをしている途中のような、生活感に溢れる様相である。

昭和風の家具や什器がいろいろと置いてある。
おそらく間取りは正方形の1DKである。
台所つきの食事室と、襖をへだてて隣に六畳くらいの畳の部屋がある。
どちらの部屋も生活感たっぷりである。
玄関を入るとすぐにダイニング兼キッチンで、何やら細い4本脚のテーブルにはビニール製のテーブルクロスがかかっていて、その上にはポットやら、お菓子が入っていそうな丸い大きな木製の蓋付きの鉢やら、なにか果物とか、処方薬の袋みたいなものもありそうである。
台所の方はついさっきまで料理をしていたようで、鍋や調理器具が使用中のまま置いてある。
宿泊先の部屋で、誰かがさっきまで料理をしていたとは不思議な感じがするが、今回に関しては、他人のものという感じはしない。
まるで元々ここが私たちの家であったような感じがする。」
経験的には、つまり夢の中ではなく、実社会においては、
●他人に提供されるホテルや旅館のような宿泊施設の一室
●個人が居住している住宅
という、この区別もはっきりしているものである。
が、この夢ではこの区別がなくなっている。
誰か見知らぬ他人が居住している団地の一室が、私たちに宿泊用の部屋としてあてがわれる。しかも、よく見てみるとその部屋は私たち自身のものであったような、という展開。
この部屋、この団地の一室が、自/他の対立二極のあいだを行ったり来たりする。

自/他の分離/結合が伸縮
自 ←→団地の一室←→ 他
他人が住む団地の一室が、私たちの宿泊施設として提供されたはずが、しかし実はもともと自分たちの家だったような…。
この展開は、自/他の区別を、自/他の対立二極を区切り出す動きにも見える。上の図の5)のいずれかの一角、βの両側に二つのΔが出てくるところである。
ここでこの「私たちに宿泊施設として提供された他人が住む団地の一室が実は自分たちの家のような…」という部屋の“意味”それ自体が両義的媒介項βである。
ここで面白いことに、私たちは、このβ部屋について、「ホテルというにはちょっと変だよね(笑)」という感じを覚えつつ、これはこれで良いのではないか、と思っている。当初、自分のものではない、他人のものだ、と思いながら入り込むが、しばらくいるうちにすっかり馴染み、遠い昔の自分のものであったはずだ、と思い出す。つまり、自分のものか/他人のものかを早々に分別して、「他人のものが間違ってあてがわれたので、分離します」とはならない。
* *
Δ経験的感覚的なものたちの存在を確認していく
夢の中で、私と同行者は、この部屋の中を隈なく探索する。
人様の家の中をじろじろと探るのは失礼なことであり、通常そこははっきりと分離されているべきで、安易に結合しにいくところではないと思われるが、ここはなんといっても、ここは「私たちの」宿泊する部屋なのである。自分が泊まる部屋の設備をチェックするのは大いにありだろう。
この部屋の、四角いテーブルと座卓も気になる。
この空間はマンダラである。
二つの四項関係の周囲には、様々なΔ、諸々の経験的感覚的な存在者たちが静かに置かれている(私たち以外に動いているものがないことに注意しておこう)。

ここで私たちは、窓が開いていて、外からいい風が吹いてくることに気づく。この窓から、私たちはかなり遠方までの眺望を得ることができる。

ダイニングと和室のあいだから左手をみると、その先はベランダになっている。カーテンなどはまだ閉じられておらず、夕暮れ時の外がよく見える。ベランダのサッシも開け放たれていて、いい風が吹き込んできている。
自分たちのものではないが、ここに泊まって、いろいろ使っていいというのであれば、案外落ち着くかもしれない、と思う。
部屋の中から窓の外を見ることによって、先ほどここにやってくるまでに伸縮させて引っ張り出した、遠/近、上/下の安定的な対立関係があらためて無意識裡に意識される。しかもそれが非常に安定した、好ましい、調和したコスモスを思わせる感じで肯定的に感覚されるのである。
過去と現在を分離したまま結合する
過去と現在の調停
そうして最後に私たちは、この部屋が「私たちがとても幼い頃の、今はなき祖父母が住んでいたマンションの一室の様子そっくり…、いや、そのもののようである」と思い至る。もちろん、厳然と祖父母の家である!という感じはしない。
かつての祖父母の家の一室であるようなないようなといった曖昧な感じである。とはいえ、実際にそれが祖父母の昔の家で「あるか」「ないか」はどうでもよく、いずれにしても「実に懐かしく、充足した感じがする」というところが大切である。
この懐かしさ、あるいはデジャヴ感は重要である。
「懐かしさ」は現在と過去という、時間という分節システムによって経験的にはきわめて動かしがたく完全に分離されたと思われる二極の間を、二つに分離したまま、ひとつに結合する。過去と現在がごちゃごちゃになったわけではない。あくまでも「現在」である。しかしその現在が、どうやら過去と異ならないのである。
まとめ
空間的な分離と結合の伸縮と調停
私たちは、自/他のあいだが、分離しきることもなく結合しきることもない、という分離と結合が微妙に距離を伸縮させる状態を生きている。
この自/他の間には、「空間」的な近さ/遠さがある。
時間的な分離と結合の伸縮と調停
そしてさらに、現在/過去のあいだも、分離しきることもなく結合しきることもない、という分離と結合が微妙に距離を伸縮させる状態になっている。
現在/過去の間には、「時間」的な近さ/遠さがある。
時間と空間というのは、私たちの経験的感覚的分別の体系を規則立てる、最も基本的な分別であると言えるだろう。そういう時間と空間が、この夢では伸び縮みしているのである。
この夢はいわば、時空間の起源神話とおなじような動きをしている。
*
そして最後に、いままで動いているものの気配がなかったこの部屋の中に「台所の方からは、何か野菜を煮ている香りが漂ってくる」ということで、いいかおりの湯気がたちのぼってくる動きが感じられる。

お鍋の中で、スープのようなものが煮込まれているのである。
鍋は、それも水分を入れた状態で火にかけられた容器は、神話によく登場する典型的な両義的媒介項である。
β容器は、火/水という経験的に鋭く対立する二極の間さえも、付かず離れずに(分離しつつ結合する様相に)調停することができ、しかも容器というあり方は、内/外、ここ/そこ、という空間的時間的な区別の原型を最初に区切り出す動きの具現化でもある。
スープの香り
この鍋の中で煮込みが沸いている動きが、「眼に見える」動きではなく、「鼻でかぐことができる」動きであるというところも面白い。
視覚が認識する動きは強固で、思考で持って「なにである」「なにでない」とはっきりと言えてしまえる。そこでは思考分別的に、動き、述語的様相が、「それが何であるか」という動きの主語にあたるものへと転換されて、主語の相のもとに固着してしまう。
しかし、嗅覚で知覚される動きはその姿が見えないが何かの気配が「やってくる」感じがありありと立ち現れる。そこには述語的様相が実感されるも
、「その動きの主語は何であるか」という思考分別を分けて選んで固めることはできない。なんとも直感的な、β振動モードに適合した無分節の分節という気配がある。
+ + +
この夢では、自我がアニマと連れ立って、「自己」のマンダラ状の調和へと帰ってくる。
そこは、遠/近、上/下、内/外、自/他、といった、時間や空間といった経験的感覚的に意味ある世界を分節することを可能にする極めて基本的な二項対立が、まさに水を火にかけている途中のβ容器から、まるで湯気のように立ち上る。
・・・・私たちの目覚めた意識の日常の経験をガッチリと固める遠/近、上/下、内/外、自/他、といった分別が、実は、おばあちゃんの家の台所で立ち上る「湯気」のようなものであるとしたら?!
・・・いずれにしても、この室内の感じと、ビルの外の風が吹き抜ける街の感じはとても滑らかに連続しており、満ち足りた感じを「わたし」にあたえてくれる。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はそれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
しかもその驚嘆すべき動きを、私たちは日々「夢」という様相でありありと、多くの場合それと知らずに、目撃しているのである。
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