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消える片方の靴、一が二へと転じる-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(88_『神話論理3 食卓作法の起源』-39)M489石の子

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第88回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に伸縮しながら振幅を描く動きが語られる。この伸縮する動き、振幅を描く動きを体現実演するのが、神話に登場する「両義的」な者たちである。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

上の図で仮に「β」と記した極が、両義的媒介状を表していると仮定しよう。β項両義的媒介項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。それらは

人間 / 人間ではないもの

分離していること / 結合していること

といった経験的感覚的にはっきりと二分された二項対立関係の両極を短絡したような姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そのために、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、まだはっきり分かれていない状況から少しづつ伸縮しながら分離していくプロセスを言語化するために、当の経験的感覚的に対立する二極がひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。

こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


石の子の動きの述語をよむ

前回の記事で取り上げた神話に引き続き「石の子」の登場である。兄弟たちから取り残され、たったひとりでいる女性が、石を飲み込んで、石の子を産む、というくだりからはじまる神話である。『神話論理3 食卓作法の起源』から、M489 「オグララ・ダコタ 石の少年(二)」をみてみよう。

世界に四人の兄弟が自分たちだけで住んでいて、女の仕事もすべて自分たちでこなしていた。
一番上の兄が足に怪我をして、指が腫れてきた。
彼は指を切開し、そこから小さな女の子を取り出した

この娘は大きくなると兄弟たちの家事を引き受け、兄弟たちはこの娘を妹として扱った。兄弟といつまでもいっしょに暮らすため、娘はすべての縁談を断った



そんな日々であったが、なぜか、兄弟たちはひとりひとり姿を消していった。

ある日、娘はのどの渇きを癒そうと水を飲んだが、水といっしょに白くてすべすべした石を飲み込んだ。
娘はこの石を飲み込んだことによって孕んだ
息子が生まれ、大きくなり、彼女は息子を教育した。

この息子の肉は石のように硬かった

彼女は、兄たち同様、この石の子もいなくなってしまうのではないかと恐れた。石の子は若者に成長し、母親が泣いて止めるのをふりきって、おじたちを探しにいくことにした。



長くつらい旅ののち、 彼は「イヤ」の隠れ家を見つけた。
イヤとは、鬼が小さな老婆に変身したものである。
この鬼は石の子を殺そうとしたが失敗した。
皮をなめそうとおじたちを死に追いやったのもこの鬼であった。
主人公はおじたちを生き返らせ、老婆と戦った
戦いの最中に老婆は巨人の姿となったが主人公が勝った。

それから、石の子は「陰毛」を燃やし、その煙で鬼の犠牲となった多くの者たちを生き返らせた。「陰毛」は旅に出るとき、彼の婚約者である処女たちが彼の髪とモカシンを飾るのに使ったものである。

おじたちとともに自分のところに帰る前に、主人公はイヤを乾いた革のように踏みつぶすぞと言って脅す。イヤは若者の足に噛み付く
若者はなんとか逃れたが、片方のモカシンをなくしてしまい、二度と見つけることはできなかった
イヤが見えなくなってしまったからである。

M489 オグララ・ダコタ 石の少年(二)

見どころ満載の神話である。
石を呑み込んで妊娠するとか、陰毛を燃やして死者を蘇らせるとか、良識ある紳士淑女の皆様におかれましては、「なんと非科学的、しかも下品な話だろう」と眉を顰められることであろう。

しかし、この表面的な「石」や「陰毛」といった主語的なものたちの奇妙さにひっかからずに、すみやかに「述語」たちへ、焦点をあわせ直そう

即ち、「石」といった主語的なものからピントを外して、「飲み込む」「出産する」といった述語(動詞)にピントを合わせる。「陰毛」という主語的なものからピントを外して「燃える」「煙が立ち上る」といった述語(動詞)にフォーカスする。

そうしてみると「飲み込む」はもともと分離していた二極の距離が縮まり過度に結合するということであるとわかるし、「出産する」も一体的に結合していたところが分離する、結合が分離へと転じる(短かった距離が長く伸びる)ことだとわかる。「燃える」というのも、ある姿から別の姿、分離された二つの別々の姿のあいだで起こる変容であり、つまり元の姿と後の姿、異なり分離していた二極の間が「異なるが同じ」こととして結合する。「煙が立ち上る」も、天/地という分離された二極の間を結びつける=結合する動きである。

神話では、この述語たちは、「分離」を引き起こしたり、「結合」を引き起こしたりする。それも単に分離か結合か、そのどちらか、という二者択一の動き方ではなく、こちらを分離したらあちらが結合し、あちらを分離したらこちらが結合し、といった具合に、分離することと結合すること、この二つの対立する述語のペアのあいださえをも、分離したり、結合したりするという動き方をする。

← 分離 → 
分離   /   結合
→ 結合 ←

述語がどう伸縮しているか

ということで、述語たちが、経験的で感覚的な対立二項のあいだに、どういう伸/縮を引き起こしているか、という点にフォーカスして、上の神話をみてみよう。

四人兄弟、男だけ、単一家族

まず「世界に四人の兄弟が自分たちだけで住んでいて、女の仕事もすべて自分たちでこなしていた」というところである。

ここでは

男/女

という経験的な区別が、「男」だけの方に過度に寄っている。
言い換えると、男/女の対立二極のあいだが遠く遠く分離している、ということになる。過度な分離である。

過度な分離とくれば、同時にどこかで過度な結合が生じているはずである。
それは即ち、兄弟が「四人」であるということである。

四人兄弟は、兄/弟(年長/年少)の二項対立関係を二つ重ね合わせたものである。特に二番目と三番目の兄弟たちは「兄でもあり、弟でもある」という、兄/弟のどちらでもあるというあいまいな振動状態にある。

兄でもあり弟でもある
兄      /      弟
弟でもあり兄でもある

かれらは、確かに「四」に分かれているが、しかし彼らはみな同じ兄弟である。四即一・一即四の関係にある。四人は一人一人単独の存在としては際立たず、互いに過度に結合している。

男←/→女 / 兄たち→←弟たち
||          ||
過度な分離 / 過度な結合

つまり、この神話の冒頭では、

分離 / 結合

この二項対立自体が、過度に分離されつつ、過度に結合されている。

たんに分離といえば、多へとなっている、ということである。
たんに結合といえば、一になっている、ということである。

これに対して、分離でもあり結合でもある、あるいは分離と結合を分離するような結合するような、という状況は「不一不異」ということである。

この「不一不異」は仏教の、ひいては東洋思想の言語論理の体系の全体を編み上げる基本的なアルゴリズムであるとも考えられる。先日から清水高志氏の『空の時代の『中論』について』を読んでいるのであるが、まさにこの「不一不異」が龍樹の論理を読み解く鍵になっている。

切る・・過度な結合から過度な分離へ

さて、神話に戻ろう。次の一節では「一番上の兄が足に怪我をして、指が腫れてきた。彼は指を切開し、そこから小さな女の子を取り出した」とくる。

これは兄弟たちの一番すみっこ(足の指先)から、非-兄弟たちが分離する動きである。

この小さな女の子は、もともとは長兄の足の指にできた腫瘍である。

この腫瘍は長兄の体の一部であり、長兄とはまさに一体、長兄本人そのものである。長兄とこの腫瘍は不可分一体、過度というのでは足りないくらい過度に結合している。ただし、その結合場所は長兄の身体の中心部ではなく、身体の一番下の端である指の先である。

ここで長兄は思い切ったことをする。
腫瘍を「切開」するのである。
切り開く、刃物で切り開く、切り分ける。

これは端的に「分離する」の述語である。

過度に結合していたところを、「切開」という技によって、一挙に、分離へと転じる。結合を分離へと転じる。結合していたところを一気にびよーんと伸ばして引き離す、分離する。

おもしろいのは、この腫瘍が長兄の足の指の先にできていた、というところである。足の指の先端は、長兄という全体存在の中では、一番端っこ、すみっこである。つまり長兄そのものと一体化しているものの、一番端に寄っている部分である。そこは長兄と一体的に結合しているものたち(身体部位)のなかでは、相対的に一番分離に近いところ、といえよう。

さらに言えば、足の指そのものを切開したのではなく、足の指に後から生えてきた腫瘍を切開している。足の指は体の一番端だが、そこから生えてきた腫瘍は端のさらに端。明らかな余剰である。

この過度な結合から一挙に分離された部分は、なんと兄弟たちの「」になった。妹の登場により、当初、過度に分離していた「男/女」の二極の距離が、一挙に短絡されて結合することになる。分離から結合への急転換である。

腫瘍の切開は「過度な結合から分離への転換」

家族内での妹の登場は、「(男/女)過度な分離から結合への転換」

「長兄の足の腫瘍を切開したら妹が出てくる」というとてつもない述語は、過度に結合していたところに分離をもたらすと同時に、過度に分離していたところに結合をもたらす。この二つ、「結合から分離へ」と「分離から結合へ」とのあいだの方向が、見事に真逆に対立しながらも、一体になって動いていることに注目しておこう。

過度な分離から過度な結合へ。この過度な結合を適度に分離する

長兄が体を切開して部分を分離するというが、なかなか過激な、過度な分離(つまり本来分離しなくて良いはずのところを無理に分離している)であるのと対照的に、妹は兄たちど過度に結合している(つまり、そこまで結合しなくて良いのに、がっちり結合している)。兄たちは「兄弟といつまでもいっしょに暮らすため、娘はすべての縁談を断っ」ているのである。

一方では、過度な結合から、過度な分離へ。
他方では、過度な分離から、過度な結合へ。

まだまだ振幅は「過度」である。
これでは現世の日常のような安定した(ようにみえる)意味分節システムのスタビライズには程遠い。

神話はここから、さらに何度か、過度な結合と過度な分離との転換を行いながら、付かず離れずに安定した対立関係を設立していくはずである。

八項関係のマンダラにまで編まれていない

妹が兄たちと分かれ一人に。そして謎の妊娠へ

さて、この兄弟妹の過度な結合生活は、原因不明の終焉を迎える。
「なぜか」、兄たちが「ひとりひとり姿を消して」行方不明になってしまったのである。

妹は、兄たちとの過度な結合関係から解き放たれたのである。

過度な結合の様相から、過度な分離の様相への転換である。

となると、次はまた別のところで、過度な結合へと転じるはずである。

それがこの娘と「白くてすべすべした石」の結婚である。

石といえば、経験的には無機物、非生命の代表のようなものである。

生命 / 非生命

この過度に分離された二極の間を短絡するように、石と娘は「結婚」し、子どもが生まれる。「石の子」の誕生である。

石の子の旅

石の子は、母がとめるのを振り切って、つまり母子の過度な結合の状態を急転換させて、行方不明の叔父たちのもとを目指し母から遠く分離していく。

石を呑み込んでの妊娠が、過度な分離からの過度な結合への転換であるのに対して、石の子の旅立ちは、過度な結合から過度な分離への転換である。

ここでも改めて、

過度な分離からの過度な結合への転換

過度な結合から過度な分離への転換

この真逆の方向の転換が、対立している。

山姥退治

母から分離した「石の子」は、遠くへ遠くへ旅をする。
この遠方への旅という述語的様相は、過度に分離した二極の間を結合するということで、これまた分離と結合、異なっていることと異なっていないこととの間をひっくり返す神話的β脈動である。

そして石の子は鬼=山姥の隠れ家にたどり着く(結合する)。
石の子は山姥との戦いに勝ち、おじたちを復活させる。

ここで山姥が、もともと「小さい」のに、「巨人」になる、というくだりにも注目しておこう。日本の「三枚のお札」の山姥も、大きくなったり小さくなったりするが、これは

大 / 小

という極めて経験的で感覚的、決して逆転することがなさそうな確かな二項対立の間をくるくると転換することで、「いまこの語りは神話の時空にあるのですよ(つまり感覚的な前/後、大/小、遠/近といった空間や時空の分節がまだ分別されているようないないような)」ということを聞き手に思い知らせるよい方便なのである。

このことは生/死にもいえる。

死んでしまったはずの登場人物がいとも簡単に蘇るという、現実にはありえない話が神話にはよくあるが、これは生/死の分別・二項対立ですら、神話にとっては分離と結合を分離したり結合したりする述語的脈動を言語化して意識の表層に感覚させるための素材のひとつである、ということになろう。

毛を燃やして

さて、この神話では、生/死の両極のあいだでの転換を引き起こすために「陰毛を燃やす」という術が出てくる。もちろんこの毛はただの毛ではなく、「旅に出るとき、彼の(石の子の)婚約者である処女たちが彼の髪とモカシンを飾るのに使ったもの」という、特別なものである。

生と死は、通常鋭く分離されていて、両極のあいだを自由自在に行ったり来たりすることは難しい。

この経験的にかっちりと分離された両極の間を自在に結合したり分離したりするためには、なにか圧倒的に両義的で媒介的で中間的なものが必要になる、と考えるのが神話の思考である。

石の子にとっての「婚約者である処女たち」は、まだ結婚する予定であるが、まだ結婚していない、ということで「結婚している/していない」の両極に対して曖昧な中間状態にある。

そしてその中間的婚約者たちの身体の上/下のちょうど「中間」あたりの位置から「分離」されたもの(毛)が二つに分けられて、石の子の「髪」と「モカシン」(靴)に、つまり石の子の上端と下端に結合されている。この毛は石の子の「髪とモカシンを飾るのに使った」ものである。

かなり複雑なので、図解してみよう。

女性
||
上 (中間) 下
↓(分離)↓
""
|
(結合)/\(結合)
:上  ←   → 下:
||
男性

大枠となる対立関係は

男性 / 女性

の二項関係である。石の子とその婚約者の間は、男/女の二項関係であり、しかもこの関係は「結婚することになっているがまだ結婚していない」、という結合しているがまだ分離しており、分離しているがもう結合しているのと変わらないような…というこれまたあいまいな様相で振動している

この神話の冒頭、男四人兄弟のみで女性はおらず、男/女は過度に分離されていたのであった。

そこに、長兄の腫瘍から分離された妹という女性が登場したが、この妹は長兄の一部であり、兄たちから分離することなく過度に結合していた。ここでは家族ということで男/女は過度に結合した様相になっていた。

  • 男女が過度に分離していても結婚ということが成立せず。

  • また、男女が過度に結合していても(兄妹)結婚は成立しない。

結婚は、もともと別々の家族に分離していた男女の間の関係が結合へと転じることである。結婚ということを可能にするような、分離した状態と、結合した状態を、はっきりと区別しつつ、必要に応じて適切に切り替えられるということが、人間の社会、自然に対する文化の起源である。

そのためには、男/女間が過度な分離と過度な結合の二極の間で激しく振れるような状況を落ち着かせて、付かず離れずの安定した距離を保持させる程度に冷却しなければならない。

  • 結合しすぎたところを分離しつつ、しかし分離させすぎず。

  • 分離しすぎたところを結合しつつ、しかし結合させすぎず。

このことを可能にするのが、ちょうど女性の側で身体の上/下の中間あたりにある「毛」分離して男性の側の身体の上/下の両極分離しながらそれぞれと結合する、という謎の手の込んだやり方なのである。

この場合、くだんの「毛」は、男/女あいだ、遠い危険な旅にでた石の子とその婚約者の「分離」状態を、分離したまま結びつけるような働きをしている。

この分離しながらも結びつけておき、つまり過度に分離するでもなく、過度に結合するでもない、ちょうどよいバランスを実現するために、くだんの毛は上/下の中間に凝集したあり方から、上/下の両極に広がったあり方へと、変容するのである。

足の指の腫瘍と、体の上下の中間の毛

このような「毛」のあり方が、この神話のはじめに出てきた足の指の先端の腫瘍と対立していることに注目しよう。

(女性の)身体上下の中間の毛 / (男性の)身体下端の腫瘍

足の指の腫瘍は、身体の、上/下の両極でいえば、下のさらに下、端のさらに端であった。

それに対してくだんの毛は、身体の、上/下の両極に対してまさに中間、上端と下端の中間領域を占めるものである。

ほんとうに神話は、実に細かい経験的で感覚的な区別をブリコラージュしては、不一不異、分離と結合の分離と結合のような高度に抽象的な述語的様相を思考する

* *

ここでこの神話の最後に、再び「足」にくっついているもの、”下の下”が出てくる。「片方の靴」である。

石の子との戦いに敗れた山姥を、石子のは「踏み潰そう」とする。これは石の子の身体の上/下の「下」のさらに下に、山姥を結合するということである。これが上/下の「下」のさらに下から、妹を分離した、という冒頭の話とみごとに真逆になっていることに注目しよう。

* * * *

おもしろいことにこの結合、もともと石の子の方が主体的能動的に山姥を踏み潰す(足の裏に過度に結合)という形での結合に向かっていたのであるが、そこからくるりと転じて、山姥の方が能動的主体的に、石の子の足に「しがみつく」ということになる(足への過度な結合)。

実に細かい。二者の関係のあいだで、同じ動きを、逆向きに繰り返さないと気が済まないのである。

片方の靴。こちらで分離し彼方と結合し

そしてしがみつくやいなや、山姥は、石の子の片方の靴を奪って、どこかへ消えてしまい、そして二度と姿を現さなかった

石の子 ← // → 分離→/片方の靴=結合=山姥

神話の冒頭の腫瘍と同じように、石の子の足の先から「靴」が分離される。そしてこの靴は、石の子から離れたところへ、山姥の手によって運びされる=分離される。

結合から分離への転換。

冒頭の四人兄弟の長兄の足から分離した妹は、すぐに分離から転じて、兄たちとの過度な結合状態に入った。

それに対して、最後の石の子のは、石の子から分離して、そのまま分離したままになった。この分離であるが、山姥が隠れているから靴が見つからないのだ、と断られていることに注目しよう。

探そうと思えば見つかりそうな

なくなった片方の靴は、宇宙の彼方へと遠く遠く飛んでいったわけではない。

山姥にとられた片方の靴は、おそらく、まだ石の子のすぐ近く、どこかに隠れている。ただ、隠れ方が上手いので、近くにあるはずなのに見つからないのである。

見つけられないというのは、有/無の二極のうちの一方である「無」とはすこし違う。見つけられないだけで、決して無くなったわけではない。どこかに有ることは間違いない。

しかし、有るけれども、見つけられないので、無いのと同じである。
有るけれども無い、無いけれども有る。有無不可得であるけれども、さしあたって、石の子にとっては「有るではなく無い」である

とられた靴はすぐ近くに隠れている

主語的なものではなく、分離したり結合したりする述語的様相に注目する

レヴィ=ストロース氏は、この「石の子」の神話と、その直前に分析している「赤い頭」の神話が、同じ話であると指摘する。

二つの神話は、登場する主語的なものたちに注目する限り、まったく異なる別々の話に見える。

しかし、神話は、経験的で感覚的な区別(二項対立)を日曜大工仕事のためのありあわせの材料のように流用、転用して(こういうのを「ブリコラージュ」とレヴィ=ストロース氏は呼ぶ)、分離と結合を分離しつつ結合しつつ、人間にとって意味のある世界をそうでないことから安定的に区切りだし続けようとする。

このとき、経験的で感覚的に対立するものたちは、言語で語られ、イメージで思考される限り、何らかの個的な輪郭をもった姿形の主語的なものとして呼ばれることになる。ところが神話は、この主語的なものたちを、すぐさま、激しく分離したり結合したりする動きへと赴かせる主語的なものたちを用いて(転用、流用して=ブリコラージュ)、その動きとしての述語的様相を浮かび上がらせるのである。

この主語的なものたちの”動き方”に注目すると、たしかに「石の子」の神話と「赤い頭」の神話は分離と結合の分離と結合、経験的な二極の間の距離を短絡したり引き伸ばしたり伸縮させるという動きの様相に関しては、”同じ”動きのパターンを描き出している。

つづく


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