足を使ってうまく動けなくなる夢ふたつ/押しているのに押せないハンコ【マンダラ夢分析】
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。
Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。
オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。
しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。
特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇
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・
・
今回は研究グループのメンバーの方から提供していただいた夢の記録を分析する。
深層に潜り込み、四即一一即四の四人組の会食を経て、巨大な円形空間に入る
夢見手(女性)は、アリの巣のような地下空間にいる。
いくつものトンネルが分岐している迷路のよう。
そのなかで、人の気配や聞こえる生活音を頼りに歩く。
夢見手は、もう一人友達を連れているらしい。
友達は、セミロングヘアの女性である。
*
人が会話する音が聞こえてきたので、そちらに向かって進んでいく。
来た道を覚えていないと、帰れなくなりそうだ。
進んだ先中華レストランで、夢見手の父と母と祖母が机を囲んで飲み食いしている。ビールと、大皿のおつまみを食べている。
街の台湾料理屋のような雰囲気である。
夢見手は、思いがけず再会した家族に驚き、一緒にいる女性を「こちら、友達です」と紹介する。
夢見手とその友達も、家族と一緒に食事をすることにする。
あいにくテーブルに席がないので、すぐ後ろのソファーに横並びにすわる。やけに背もたれが後ろで、生地に張りがないため、座ると後方に倒れ込みそうになる。
夢見手は、店員の女性に、「おすすめは何ですか?」といったことを尋ねる。
こちらの問いかけが通じているのか、通じていないのかよくわからない。
彼女は、スマホで、とある動画を見せてくる。
それは女性(店員さん自身)が服を脱いだり、自宅で無防備に過ごす様子を盗撮した動画だ。
脱ぎ捨てたパンツに赤い染みが付いている様子まで映っている。
夢見手は「これのどこがスーベニアなんだ」と冗談めかして応答する。
+
+
場面が変わって、アリの巣迷路の中。
家族といた料理屋から、ここをこっちに曲がって…と道順を記憶しようと努める。
大浴場の更衣室に出る。
入浴することにするが、シャンプーもタオルも何も持ってこなかった。
大丈夫だろうか、と思う。
更衣室には荷物がいくつか置かれているほかは誰もいない。
しかし浴室のドアを開けると、驚いたことに広大なアリーナか、コロッセオのような風呂がもうもうと湯けむりを上げている。アリの巣のような地下通路からは想像できない巨大空間。
たくさんの人、男女数千はいそうだ。
コロッセオの中央が、人工湖のように超巨大風呂になっている。
階段を降りて、私はそこに入りたいと思い、階段を降りて行こうとする。
コロッセオの客席にあたる部分には大教室の収納式椅子のようなものが付いていて、自分で引き出すことができる。
なぜか、ビート板のような質感で、ぐらぐらと不安定。
先へ進もうと、この椅子を階段式に渡って移動しようとするも、バランスが取れず中腰で怯んでしまう。
階段がブヨブヨしていてうまく降りれない。
それを見た周りの人が「そんなんじゃダメだね」といった冷たい言葉を向ける。
二人一組で深層に潜り込む
両義的媒介項の生成
冒頭、女性二人組で、二即一一即二になって、「アリの巣のような地下空間」に入っている。
地下空間は、感覚的に経験できる日常の表層の世界、つまり「地表」の世界に対する深層である。
・・・
表層の世界は、ものごとの存在と意味が、定常的にいつも同じように分節されている。これをΔ四項関係と呼ぼう。
Δ=/=Δ
/ /
Δ=/=Δ
・・・
これに対して、深層の世界は、このΔ四項が非同非異の関係で付かず離れずに“関係しあう”ことを可能にしている項同士を分離したり結合したりする伸縮運動が述語的様相において活動するところである。この分離と結合の伸縮の述語的様相を仮に担う主語的なものは、経験的感覚的な表層の意識においては、対立するはずの二極を一つにまとめたような「両義的」な存在者の姿でイメージされる。この両義的媒介項をβと表記する。
β
β + β
β
・・・
四つのβどうしが近づいたり遠ざかったり、結合したり分離したりする伸縮運動を繰り広げる中で、この伸縮運動が一定の振幅と周期性を保つように安定したところにおいて、βとβの「すきま」に、Δが、すなわち経験的感覚的に「ほかではなくそれとしてある」と分節できるものたちが、収まる余地が安定的に開き続けるようになる。
Δ β Δ
β + β
Δ β Δ
この夢の冒頭では、夢見者は表層の固着した分節体系を解かれ、非-表層に(これを仮に「深層」と呼ぶが、実際には表層と深層の区別があるわけではない。表層を解くとそのまま非-表層になる)に入り込んでいる。
そこではΔ二項は過度に結合したり、過度に分離したりして、両義的媒介項βに変容する。
Δ→←Δ
↓
β
地下に潜り込み、夢見者自身が両義的媒介項へと変容する
夢の冒頭、女性である夢見者は、もう一人の女性の友達と二人一組で行動しているが、この様相が「Δ→←Δ」であり、こうして二人一組になることで夢見者はβモードに変容して、非-表層たる深層に入り込みながらも意識を保つことができるのである。
ここまでの話を下図にまとめてみよう。

定常的に意味分節される日常の表層の意味ある世界は、上の図でいえば6)である。それに対して、深層とは、5)〜1)の間で「β」と表記した両義的媒介項たちが近づいたり離れたり、分離したり結合したり、その距離感を伸縮させるように動く様相である。
*

深層で出会う「四」
そして夢見者は、深層の中で、会話する人々の声を聞く。そしてその人々の声に導かれながら、深層の迷路、ルートを見失いそうになる迷路の中を移動していく。この時、夢見者は「気配や聞こえる生活音を頼りに歩く」と報告されているように、通常の日常の、主に視覚に頼りがちな感覚的分節とは異なる「聴覚」中心の感覚を駆使して、この深層のトンネルを然るべき方向へと進んでいく。
もし導きの糸となる声が聞こえなければ、夢見者はこの深層の深みで迷子になってしまうだろう。しかしここにはちゃんと、人の声が聞こえている。
そして、その声の主は、夢見者の家族たちのものであった。
*
家族は、「父と母と祖母」の三名である。
ここに夢見者が加わることで、合計で「四人」になる。
マンダラでいえば「四」はΔ四項、β四項、つまり安定的な意味分節・存在分節の体系が維持されている状態である。
Δ β Δ
β + β
Δ β Δ
夢見者は、最初、一人だけ(友達と一緒で二人組にみえるが、両義的媒介項βとしてはΔ二人一組で一つのβなので「一人だけ」である)でアリの巣のような空間を動いていた。
ちょうど下記のように、夢見者だけが突出して、「四」から分離していた。
β祖母
β父β母
( )ーーーーーー ーー ー ー娘β
しかし、β父母祖母の微かな声に導かれ、娘である夢見者はβ四項関係へと近づいてく。
β祖母
β父 β母
・
・
β娘
さて、ここで興味深いのは、家族と合流した夢見者(とその二即一の影である友人)とは、父、母、祖母と、同じテーブルを囲むのではなく、「すぐ後ろのソファーに横並びにすわる」のである。テーブルには夢見者の席がない。
この状態はつまり
β
β + β
|
↓
β
という具合で、β四項関係の一極が相対的に他項らから「分離」しているモードである。
後ろに倒れそうな柔らかいソファー
しかもこの「ソファー」は、「やけに背もたれが後ろで、生地に張りがないため、座ると後方に倒れ込みそう」なものである。父母祖母との宴席にかろうじて「結合」してはいるもの、しかしどうも不安定で、「分離」しかねない危うさがある。
この微妙なブランコ、振り子のような振動状態は無意識の深層が夢に見せるビジョンの真骨頂である。
*
*
食事を注文するはずが?
さて、不安定ながらもソファー席を確保した夢見者は、家族とともに食事をしようとする。
まず、何か食べるものを注文しなければならない。
ところが、料理を注文しようとして話しかけた店員の女性とは、どうも話が噛み合わない。
「こちらの問いかけが通じているのか、通じていないのかよくわからない」
分離しているのか結合しているのかどちらか不可得な関係である。
このコミュニケーションが成立しているようないないような、という状況も、やけにやわらかいソファー同様、β脈動のよい表現である。
上/下、入/出、内/外
空間の発生の手前で
さて、料理のメニュー表を見ることを期待している夢見者に対して、店員の女性は、料理ではなく、なんと彼女の下半身からの分泌物が映っている映像を、夢見者に見せる。
なかなか衝撃的な場面ではあるが、しかし、神話の思考、人類の心の深層で伸縮する両義的媒介項たちが示す運動の述語的様相としては、至極真っ当な光景である。
食事というのは、身体の「上/下」の「上」の方から、身体の「内/外」の「内」へ「入れる」述語的様相である。
これに対して下半身からの体液の分泌は、身体の「上/下」の「下」の方から、身体の「内/外」の「外」へ「出る」述語的様相である。
いまこの場面では、
上 / 下
内 / 外
入る / 出る
これらの空間的経験を可能にする意味分節・存在分節の基本的な対立関係が際立っている。即ち、経験的に食事と言えば「上」から「内」に「入る」述語的様相であるが、この食べることの要求に対して、「上」「内」「入る」をすべて反対にひっくり返した「下」から「外」へ「出る」という述語的様相が意識化される。このことによって、上/下、内/外、入る/出るという対立関係そのものの存在が暗に告知されるのである。
+ +
ちなみに、上/下、内/外、入る/出る といのは、我々人類の空間的経験のフレームワークをなす、極めて基本的な対立関係である。上/下、内/外、入る/出るの分節、分別ができなくなってしまうと、私たちは日常生活の意味あるリアルな空間を喪失しかねないことになる。
われわれ人類の昼間の意識は、ほとんどの場合、上/下、内/外、入る/出る といった空間的な分別を所与の現実の大前提として受け入れており、空間的な遠/近、ここ/そこの分別は、つねにすでにあらかじめ安定的に分かれていると思っている。
まさかそれが「分けられたから分かれたのだ(分けなければ分かれない)」などとは思っていない。
しかし表層の意識が経験する、この空間の遠/近、ここ/そこの分節もまた、非-表層(深層)において、分けたから、分かれてきたのである。
上 / 下
内 / 外
入る / 出る
この、空間的な分別の基調となる対立関係の両極を、くるっと逆転させてしまうこの「店員の女性」は、まさにこの深層における空間的分別のはじまりとなる「/」の動き、述語的様相を、夢見者に自覚させようとしているかのようである。
しかもおもしろいことに、この店員の女性は、あくまでも「スマホの映像」で身体の「上/下」の「下」の方から、身体の「内/外」の「外」へ「出る」述語的様相を見せてくる。夢見者の家族たちの食事の場で、その場で「下」のものを「出す」ということはせず、あくまでも、時間的、空間的にこの食事の席からは遠く分離した、店員の女性自身の自室の様子を、時空を超えて、映像記録としてもってきているのである。
遠 / 近
此 / 彼
過去 / 現在
この「過去に、遠くで、記録された(盗撮された!?)映像を、現在、目の前で、見る」という述語的様相においても、現在と過去、遠いと近い、という時間的、空間的な対立二極が分離しつつも結合されていることに注意しよう。
**
*
ところで、夢見者は、この食事の場で、「過去」の「遠く」で繰り広げられる身体の「上/下」の「下」の方から身体の「内/外」の「外」へ「出る」述語的様相を見せられても、嫌悪したり憎悪したりといった感情的な分離の反応を示すことはなく、「冗談めかして」笑うことができている。
上 / 下
内 / 外
入る / 出る
遠 / 近
過去 / 現在
こういう対立二極が結合したり分離したり、くるくるとひっくり返ったりする様相をみても、夢見者の自我は動揺しない。
+ +
さらなる深みへ
さて、ここまでで、経験的感覚的な世界の存在分節・意味分節の基本となる、時間空間の分節を自在に伸縮させるモードに入った夢見者であるが、ここからいよいよ、法界宮のような世界に入り込んでいく。
夢見者は、家族(四項関係)の食事の場から離れて、また「地下通路」の迷路を辿っていく。引き続き、「ここ」と「そこ」の分別、空間的な分別を分け続けようと「道順を記憶しようと努め」ながらの移動である。
この移動自体が、「分けるから分かれる」空間を、まさに「分ける」動きであろう。
+
そうして夢見者は「広大なアリーナか、コロッセオのような」大浴場へと辿り着く。
夢見者、この大浴場に入ることにする。
かすかな場違い感(結合しつつも分離する)
しかし「シャンプーもタオルも何も持ってこなかった」ことに不安を感じる。この領域に入り込んで良いものだろうか(結合していってよいのだろうか)という場違い感、準備不足感、そういったかすかな感情的な「分離」の様相がみえる。
とはいえ、夢見者はこの大浴場へと入っていくことができる。
この空間は非常におもしろい。
アリーナ。コロッセオ。
つまり巨大な円形立体空間。
立体的な高次元のマンダラである。

「もうもうと湯けむりを上げている」
という様相もとてもよい。視覚的に、眼識における分別が効くような効かないような状態になっている。眼は、ほうっておくとすぐに空間を分別したくなってしまう分節器官であり、法界宮に入り込むには邪魔になることもある。そこで湯気で創造的な視界不良を起こすのである。

このマンダラ大浴場には数千の男女がいる。
お風呂で、男女が混在しているというと、表層の現実世界では「そこははっきりと分けるべきだ=分別=分節するべきだ(混浴という概念はあるが、それならそうと、浴場に入る前に分かる=混浴か非混浴か分別できるように明示しておくべきだ)という話になるはずのところである。
しかし、ここは非-表層。
感覚的で経験的なΔ対立関係が、分かれるでもなく分かれないでもないモードで振動しているところである。
そこでは男/女という経験的区別もまた、分かれているでもなく分かれていないでもない。ちょうど観音菩薩が、男性としてイメージされることもあれば、女性としてイメージされることもあり、そのどちらともはっきりしない姿でイメージされることもある、という具合である。そう、ここは諸尊が集会するマンダラなのである。
+
夢見者は、このマンダラの中で移動を試みる。
ところが、「階段」、つまり夢見者が移動するための基盤になる層は、「ビート板のような質感で、ぐらぐらと不安定」な可動椅子のようなものが並んでいるもので、転がり落ちて怪我をしそうな、不安定さがある。
夢見者はこの上をうまく移動することはできず「中腰で怯んでしまう」。
それに対して、「周りの人」は、「そんなんじゃダメだね」と「冷たい言葉」をかけてくる。
湯気煙る浴場=水界のような経験的様相を呈する法界の中を自在に動き回るには、「大地に足をつける」式の、天/地、液体/固体の分別を前提にした、そのうちの一方、地、固体の側で展開される足を使った動き方では、うまくいかないのである。
とはいえ、この夢見者はおそらく、ごく近い将来、マンダラを自在に伸縮させる述語的様相として「大地を二本足で歩く」以外の動き方を獲得することだろう。
+ + +
+ + +
足を引きずって移動する夢
さて、この夢を見る数日前に、同じ夢見者は別に次のような夢を見ている。
夢見者は女性であるが、夢の中で、足を引きづり、床を這うようにして移動する重度な身体障害をもつ若年男性になっている。
*
あるとき家に、小柄なおばあさんが訪ねて来る。
おばあさんは「障害者も自由意志を持って発言し、選択し、生活する力があります」という宣言が書かれた文書に署名捺印するよう、夢見者に求める。
この書類は重要なものであり、必ず自分で捺印する必要があるという。
小柄なおばあさんは小さな四角い紙切れを差し出し、そこにハンコを押せという。
夢見者は、まず、部屋の奥から、玄関脇まで苦労して這っていって、ようやく玄関に置いてある缶からハンコを取り出し、押印を試みる。
しかし、全く押せない。
何度押してみても、白紙のまま。
シャチハタ印のインクが切れているのかと思い、
ハンコの表面を指で触ってみる。
すると、たしかに赤いインクが付く。
インクが切れているわけではない。
しかし、紙に押印すると途端に押せなくなる。
押せるはずなのに押せない。
あれ、おかしいなあ??と何度も角度を変えて力を込めて押す。
夢見者は玄関に座り込むようになって、全身で指先一点に力を込める。
おばあさんは「シャチハタじゃないといけないんです」と申し訳なさそうにしつつも頑なである。
彼女も印鑑を持って帰る務めがあるのだろうと思われる。
夢見者は、別の朱肉を持ってこようと一旦自宅の奥に戻ることにする。
とはいえ、足が動かないので、大変な苦労をして這っていなかければならない。
ようやく、家の奥まで戻り、棚の引き出しを探して、長方形の朱肉台を見つける。今度はこれを持って玄関に戻っていく。這っていくので大変である。
おばあさんは、玄関扉を少しだけ空けて、その間に腰を下ろして待っている。
今度こそ、と目一杯朱肉に印を押し付けて、ぐりぐりと押印する。
しかし、やっぱり押せない。
何度も何度も同じように粘っても無理だ。
夢見者はだんだん疲れて、苛立ってくる。
なんで押せないんだと腹がたつ。
苛立ちのあまり声も大きくなる。
もしかすると紙の方に問題があるのかもしれない。
夢見者は、新しい紙をとりに、また自宅の奥に這って戻る。
そして別の紙を玄関まで持ってきて、数十分、いや何時間も格闘する。
その間、おばあさんは文句一ついわず、静かに座って押印を待っている。
玄関扉のすき間でうなだれて、寝ているのかもしれない。
途中、印の左脇周縁だけ、わずかに押すことができた。
やった、もう少し!と意気込むもそれ以降は全く変化なし。
おばあさんにこれではだめか、良しとしてくれないかと問いかけるがダメだという。
とうとう私は子どものようにぐずりはじめる。
その場に崩れ落ち、地べたに転がる。
全身をくねらせて「やだ〜なんで〜!!う〜!!」と悶絶する。
とても興味深い夢である。
動的マンダラ伸縮モデルでは、分離したり結合したりする、伸縮する述語に注目する。下の図にある1)〜3)あたりの様相が、調和的4)〜5)へと向かっているかどうかを観察するのである。

あちらからこちらへ、こちらからあちらへ
振幅を描きながらうごく
この夢では、足を使って移動するのがうまくいかない、ということが全体の伸縮運動のベースのリズムを刻んでいる。家の中と玄関との間を幾度も行ったり来たり、這って移動する夢見者の動きは、減速された振動の様相である。

ちなみに、神話的なβ脈動の世界で「跛行者」といえば、かの有名な「オイディプス」がいる。
ここで、先ほどのコロッセオ大浴場マンダラで、足場となる椅子がぐにゃぐにゃで移動が困難になった話を思い出そう。
どちらも足での移動が困難になる、這って移動するが、どうにも身動きをとりにくい、というよく似た述語的様相を示している。
この夢では、二つの分離と結合の伸縮がゆっくりと振動していく。
第一の分離と結合の伸縮 : 室内 / 玄関
第二の分離と結合の伸縮 : ハンコ / 紙
夢見者は、不自由な足を庇いながら這って室内と玄関という空間的に分離された二点のあいだを行ったり来たりする。
→→
室内 β 玄関
←←
玄関先に来たおばあさんの対応のために、室内から玄関に移動し。
朱肉をとりにいくために、玄関から室内に移動し。
朱肉をもって、室内から玄関に移動し。
また紙をとりにいくために玄関から室内に移動し。
今度は紙をもって、室内から玄関に移動し。
この室内と玄関の間の往復運動、一定の周期で一定の振幅を描くような動き方を夢見者に強いているのが「ハンコを押しているのに押せていない」ということである。
押しているのに押せていない。
結合しているのに結合していない(分離している)。
これは分離と結合が不可得になっている様相である。
分離と結合の分離と結合
紙に印を押すことができれば、分離していたふたつのもの、すなわち印鑑と紙のあいだが結合したことになる。
印章というのは古代のメソポタミアやインダスなどでも物品の所有者を記録するために用いられていたというが、まさに印を押すことで、ある物品は、その所有者の手元から「分離」していても、しかし引き続きその所有者のものとして、所有者と「結合」している。分離しながらの結合・結合しながらの分離、ということを可能にするのが「印を押す」ということなのである。
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印、しるし、意味するものと意味されるもの
この夢で夢見者は、印を押すことを繰り返し繰り返し試みるが、しかし、印鑑から紙へ、印はなかなかうつらない。分離を結合に転じようと繰り返しているが、結合しないのである。いや、印鑑を紙に押し付ける=結合する、という動き自体は繰り返しその述語的様相を呈しているが、実際に「印」がうつらないのである。つまり結合しているのに結合していないのである。単に結合しないのではなく「結合しているのに結合していない」。
いや、しかしまったく「結合していない」ともいえない。
「左脇周縁だけ」は、朱肉の赤が、紙にうつっているのである。
この部分に限って言えば結合している。
結合しているのに結合していないが結合しているが結合していないが結合している…
結合しているか、いないか。
この極めて不可得な様相を、無意識は「ハンコを押す」という経験的な状況のイメージをブリコラージュして描いている。
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意味分節体系の発生ポイント
ところで、この分離するでもなく分離しないでもない、つまり分離と結合が不可得になるモードは、経験的感覚的に安定した意味分節・存在分節のシステム
Δ=/=Δ
/ /
Δ=/=Δ
を、自在に生成消滅させる動きの起点になる、最初の分節である。
下記の図でいえば、2)〜6)は全て、「分離」と「結合」(分離と非分離、結合と非結合といってもよい)とをはっきり分離できることを前提としないと現れてこないモードである。
逆に言えば、分離と結合が不可得なモードは、下図でいえば1)である。

1)において、分節と無分節の分節じたいが、絶対無分節から動き出す。
まさにこのハンコを押しているのに押せていない、ということは絶対無自性が分節する瞬間、分節と無自性の分節、分離と結合の区別自体が「はじまる」ところを夢見者に経験させている。
その状態で夢見者は、ゆっくりと、あちらからこちらへ、こちらから彼方へ、2)の様相を演じるように、水平方向での伸縮運動を繰り広げ、あちらとこちら、二辺のあいだを開いていく=分離していくのである。
・・・
両義的媒介項としての動きを自我意識が引き受けることの困惑
そうはいっても、付かず離れずのβ伸縮を直接引き受ける自我は、それを悲劇として経験する。
両義的媒介項としての述語的様相を「自我ひとり」で引き受けようとすると、「自我ひとり」で分離と結合のどちらか不可得な伸縮を「主語として引き受ける」ことをしようとすると、それは自我にとっては苦しみになる。
一方、この夢より後に見た、アリの巣状の迷路で向かう家族との食事の場や大浴場では、夢見者は「友達」や「店員の女性」と「二人」でこの伸縮を引き受けている。
経験的で感覚的なΔ存在者を、両義的媒介項βへと変換する方法として、二つのやり方がある。
一つには、二つのΔを結合して、Δ→←Δ、完全にシンクロして動く二人一組、ふたつでひとつのペアを作り出して振幅を描くように動かすこと(最初の夢の夢見者と友達の女性のように)。
そしてもう一つは、Δを半分に切り分けて、分離して、Δ/2として、その切り分けられた片方を、振幅を描くように動かすこと。これが神話であれば、例えばレヴィ=ストロース氏の『神話論理3 食卓作法の起源』の冒頭に掲載された狩人モンマネキの神話で、彼の人間の妻が上半身と下半身を分離して、上半身だけで河に飛び込み、流れる血液で魚たちを誘き寄せて、それを漁る、という話などである。
自我の意識の同一性をある程度、夢の中でも、β脈動の只中でも、保ったままにしておきたい場合、後者のパターンでは自分自身の存在を分割される経験を引き受けざるを得ない
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意識の四機能のセットを付かず離れずに協働させて、自我に両義的媒介項としての役割(分離と結合を伸縮させる述語的様相)を引き受けさせる
ところで、ハンコの夢の場合、この身動きが取れず、ハンコが押せない時に「どう感じるか」を見てみると、ユングのいう意識の四機能のうち、自我を担っているのが当面、四機能のうちの「どれ寄り」なのかが明らかになりそうである。
人類の心には、いくつかの異なる機能が別々に働いているが、C.Gユングはそれを東洋的なマンダラを手がかりに「感覚」「思考」「感情」「直観」の四機能として整理した。

「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別
「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別
「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
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私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。
さて、この夢の場合、自我が仮に「直観」ならば、ハンコが押せなくてもあまり気にしないだろうと思われる。「不思議なハンコだなあ」と、眺めることもできる。
一方、「感覚」(=なにである/ない)や、「思考」(=どうあるべきである/でない)が自我を担っているとしたら、「押しているのに押せない=ハンコであってハンコでない」ということに困惑したり、「なぜ押せないのか。押せないはずがない!」とその非合理性を前に焦ったり怒ったりするのではないだろうか。あるいは「感情」なら、この押しているのに押せていないハンコを、不気味なもの、恐ろしいものとして、すぐにでも放り出したくなったりかもしれない。
この夢について、夢見者の方にインタビューしたところ、ハンコを押せないことでとても難儀したが、しかし「それが当たり前であるような感じもした」との報告を得た。
この夢は即ち「思考や感情どころではなく」、状況をひたすら観察し、結合しても結合しないハンコをいつまでもいつまでも眺め続けているという点で「直観」優位の自我による観察だったと言えそうである。
この夢では、ユングの四機能に引き寄せて言えば、四機能がそれぞれ動き出しつつ、付かず離れずに調和した「セルフ」の全体性が、夢見手と「太母」のように優しくも厳しく待ってくれる「おばあさん」の間から開き始めている。
四機能の調和は、下記の図でいえば、4)に示す四つの「/」の均衡に該当する。直観、思考、感覚、感情はそれぞれ分別する機能であり、図の表現でいえば「/」である。

この四つのうちどれか一つだけが意識の全面に迫り出すのではなく、四つがそれぞれ動きつつ、連動し、響き合うようになるとき、ひとの心はその深層からマンダラ状の調和に至ることができる。



今回ご紹介した夢では、どちらも心の深みの伸縮から、マンダラ状のパターンが浮かび上がってくる様子をみることができる。
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