「内に包まれた」主人公は「外に晒される」~両義的媒介項を作る伸縮の多様なモード-鳥の巣あさりの神話 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(104_『神話論理4 裸の人』-1)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第104回目です。

先日の103回目では、『神話論理3 食卓作法の起源』を最後まで読みました。
そしていよいよ今回から『神話論理4 裸の人』を読みはじめようと思います。

『神話論理』は全部で四巻、つまり、ついに最後の一巻にたどり着いたことになります。ところがこの第四巻、なんと日本語版では2冊に分かれているのです。つまり最後の一冊であるが最後の一冊ではない、という、「であるのかでないのか」不可得になっているという、実にそれ自体が両義的媒介項の様相を体現するかのような事態なのであります。

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というわけで、まず、上掲の書影にある「帯」に注目しよう。
「最も難解として知られるシリーズ最終巻第一分冊。」とある。
シリーズ中で「最も難解」。これまでの『神話論理1 生のものと火を通したもの』『神話論理2 蜜から灰へ』『神話論理3 食卓作法の起源』の三巻も極めて難解だと思うが、ここへ来ていよいよ最難関とある。果たしてその「難解」なものを、私のような者が読めるのだろうかと、戦慄することしきりであるが、ここで本書を開いてみると、口絵に次のような図像が掲載されている。

これはなんと、どこからどうみても二重になった四項関係である。

これまでの記事で筆者は、弘法大師空海が『吽字義』で論じる二重の四項関係からなる論理を手がかりにして、神話の論理を「マンダラ」に変換して読むということを試みてきた。
口絵にこの二重の四の図が掲げられているということは、最難関第四巻も、おそらくこのマンダラ・モデルで読み解く…というかレヴィ=ストロース氏の意図からはかなり脱線したところに向かいつつ“創造的に誤読”することが可能かもしれない、と思わせてくれる。
動的マンダラ伸縮モデル
ここで初めに、このマンダラ・モデルについて説明しておこう。筆者らはマンダラという言葉で次のようなことを考えている。マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図としての曼荼羅のように直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、あるいは古の時代から伝承された神話の語りや、現代人が日々みる夢について報告する言説の中で、自/他の間が近づいたり離れたり、分離したり結合したりする距離感の伸縮に関わる述語的な様相としてあらわれることもある。
我々が日々みている「夢」もまたマンダラ状のパターンを描くように動いている、という話は別の記事で紹介しているので参考になさってください。
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マンダラを生成するのと同じ、私たちの心の深層の動きは、「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として、言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合、語りの終わりで、上図におけるΔ1〜4、を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたようなパターンを描き出すことを目指している。Δは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項を表すものとする。
神話の語りはじめには、まだΔ(経験的感覚的に何であって何でないか分別できるもの)はない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない(ないでもなくないでなくもない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そのときに動いているのが野生の思考の神話論理である。
結合を分離に転じるように動き、分離を結合に転じるように動く神話の主人公たち「両義的媒介項」
Δたちが収まる「余地」を切り開くように動くのものを、上の図では仮に「β」と記しておく。これは神話の語りのなかであちらへこちらへと動き回る「両義的媒介項」のことである。
βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする(図1ではΔに対するβ)。

神話の語りはしばしば次のように展開する。
まず神話の語りは、経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作る。
そして冒頭の図1で「β」と表記した両義的媒介項が、ぎゅっと集まったようになっている場面から語り始める(下の図2における1)の様相)。

次に、両義的媒介項のうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、またその軸と直交するような第二の軸上でながーく伸びたり、(縮んで 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く伸縮運動をする(図2における2)〜3)の様相)。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
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さて、この両義的媒介項βたちが繰り広げる伸縮運動は、やがてなにかのはずみで、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせるようになる(図2の4)の様相)。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

これは例えば、以前の記事でご紹介した話では、燻製、煮込み、串焼き、天日干しという四つの調理する動き(自然のものと文化のものを分離→結合→分離と伸縮させる動き)によって、遠/近、間接/直接(分離している/結合している)という、私たちの経験的で感覚的な空間を分節するシステムを織りなす基本的な対立関係が析出される、という例が示されている。
(遠く間接:燻製 ) 遠 (遠く直接:天日干し)
間接 直接
(近く間接:煮込み) 近 (近く直接:串焼き)
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死。時間も空間もあるもないも、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない=対立二極は際立たないのである。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
*
こうして私たちにとって経験的に意味ある現実世界の諸存在者たち(一切諸法)というものは、二重の四項関係、八項関係からなる定常化した「マンダラ」の姿をした安定的な意味分節システムとして示現するのである。ここで「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。

経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する、というところがポイントである。さきほどから使っているマンダラの図1の「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)が、上の引用でレヴィ=ストロース氏がいうひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そしてさらに、この対立の両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。
経験的世界の意味分節=存在分節を可能にする
「分けること」それ自体の起源を思考する神話
例えば、私たちが「私は居る」とか「犬がいる」とか「カレーが一皿ある」などといったことを意識し、言語でもって報告するとき、その前提として私と非私とが区別できていなければならないし、犬と非犬、"その"犬とその他の犬、カレーと非カレー、"その"カレーとその他のカレーとが区別できていなければならない。
区別するということは、二次元で考えれば、真っ白な紙にくるりと丸を描くように、境界線を引き、閉じること。さらに高次元で考えれば、三次元空間にシャボン玉が浮かんでいるような具合で境界"面"を広げて、そして閉じていくことである。
そしてこの境界線、境界面を閉じるところで、「閉じる/開く」の対立が区別できていなければならない。
また、この閉じる/開くは述語的な相を呈する。
そこには、閉じつつある途中、開きつつある途中、ということがある。
この時、閉じつつあるが完全に閉じてはいない状態があり、そこに「入口/出口」の区別が出てくる。
そしてさらに、この境界線や境界面を境にして、二つの側、境界の「こちら/あちら」の区別が出てくる。そしてここに別途区別された「自/他」の対立が重なると、境界の「こちら/あちら」の対立は、「内/外」の対立になる。
こちら/あちら
|| ||
自/他
↓
内/外
私たちが、経験的感覚的に、なにかがあるとかないとか意識したり語ったりできているときには、このような「内/外」の対立がすでに無意識裡にでも区別されていなければならない。
この辺りの話は先日の2記事に詳しいので、ご参考にどうぞ。
* *
起源神話・・・あるΔxが非-Δxと結合しつつ分離されること
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
神話の語りを紡ぐ野生の思考が、例えば「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を語る、ということになる。
「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するように感じられるものや事柄について、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず、区別があるということそれ自体の起源を問うことになる。
区別があること / 区別がないこと
この区別である。この区別を他の感覚的に似たような言い方に言い換えることもできる。
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
これらの対立は、すべて単純に同じではなく、厳密に言えば、時間的空間的な前後関係("もともと"の状態が分かれているか分かれていないか、そこから分けられた二次的な状態が分かれているか分かれていないか)によって相が異なる・区別できるのであるが、いったん大きく「区別があるか/区別がないか」と、まとめて考えておこう。
*
この主語的に固まった様相として分かれているかいないかの対立を考えようとすると、分かれているところを分かれていないようにしたり、分かれていないところを分けたりする、「分ける」動き、述語的様相が際立ってくる。
そこから神話は、
区別すること / 区別しないこと
この対立の起源を問うことになる。
ここで「区別しないこと」は、しばしば神話では、経験的にはっきりと分離されているべき二者の間が過度に結合されてしまった状態として表現される場合もある。
区別すること / 区別しないこと
この対立は、
分離すること / 結合すること
結合状態を分離状態に転じる / 分離状態を結合状態に転じる
この真逆に対立する動きのペアにも置き換えられる。
分けることと繋ぐこと(分けないこと)
この二つの動きの組み合わせで、
人間にとって経験的に意味ある「現実」が意味分節される
私たち人類は、こうした区別を用いて、抽出された観念を「つなぎ合わせる」(区別できるなにかとなにかと結合したり分離したりする)ことで、意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる。「その観念をつなぎ合わせて命題にする」のである。
Δ1,1ーΔ1,2ーΔ1,3ーΔ1,4ーΔ1,5ーΔ1,6ーΔ1,7ーΔ1,8
|| || || || || || || ||
Δ2,1ーΔ2,2ーΔ2,3ーΔ2,4ーΔ2,5ーΔ2,6ーΔ2,7ーΔ2,8
このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」を考えるのが、レヴィ=ストロース氏が『神話論理』の冒頭に掲げた課題であった。
意味は自在に変容する
人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えていくことができる。
「意味すること」 =/= 「意味されるもの」
記号 =/= 意味内容
この関係を、
分離したり、結合したり、
分けたり、分けなかったり
その分け方・繋ぎ方を、自在に組み替えることができる。
記号になりうるものと意味内容になりうるものを、次々と結合したり分離したりする。
例えば、下記のように配列される意味分節の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す。
そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。
Δ1 ー Δ2 ー Δ3 ー Δ4 ー…
このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列の、ありうる可能性が高い並び方である。
*
ところで前述のようにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っていた。

また、Δ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )とも繋がっている。下図中「=(||)」で表現した関係である。そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

* *
人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば、自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる。
人間の言語の潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。
人間にとっては、
「/」(結合する動きを分離する動きへ転じる)も
「=」(分離する動きを結合する動きへ転じる)も
「ー」(既に分離済みのモノを並べるという結合の仕方)も、
このいずれも、すべて大切である。
このどれが欠けても(あるいは膠着しても)、意味分節の最小単位を産みつづけ、リニアに並べ続けることは難しくなる。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と自在に切り替えることができるが、特に「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうーは、ーあめーが、ーふってーいる」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、意識的なプロセスである。これは既に分離済みのモノ、つまり分離する動きや結合する動きが動いているという述語的様相を見ないモードで分別されるものを、並べていく繋ぎ方であるが、それは私たちが普段意識的にものを考えて言葉を並べることができるように、意識的なことで、無意識的ではない。
一方、「きょう」と「非-きょう」を分かれていないところから引き離す動き「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語を、互いに異なりながらもの同じもの、非同非異の関係で結合する動き「=」は、しばしば無意識的なプロセスである。
ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」であり「神話」であり、あるいは「夢」である。
神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになるだろう。
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神話は、語りの終わりで、いくつもの「Δ」たちを、「Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ」の連鎖を安定的に反復して生成できるような、Δモードの“他と分離済みのもの”を、たがいに分離しつつ、しかし過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結びつけておくことを目指す。
人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。
神話の語りは、語の線形配列をブリコラージュして、マンダラを描く
意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて、「/」と「||」の無意識的な動きを仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。
/
|| ||
/
↓
←β→
↓ ↓
β β
↑ ↑
←β→
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたり、分離と結合の伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

+ +
現に生きられる時空間もまた「マンダラ」として存在分節・意味分節される
以上を踏まえつつ、『神話論理4 裸の人1』の内容に入っていこう。
『神話論理4 裸の人』の冒頭は、地形と生業の描写から始まる。
北米大陸の「ロッキー山脈から太平洋にいたるおおよそ北緯四〇度から五〇度までの地域」の地形の形成、特に河川のネットワークの形成、さらに山と海とをつなぐ河川のネットワーク、その山と海との川を介した関係の季節的で周期的な様相の転換、そしてその河川の流域で営まれた生業、大規模な採集と狩猟、食品の加工と保存に関わる日々の人々の暮らし。

山が聳え、河が流れ、海が打ち寄せ、朝が来て夜が来て、季節は巡る。それぞれの地域に生活する人々が、その生きることのできている「現実」の世界の起源について語る神話は、時間の分節の起源や空間の分節の起源から語り始めることになる。そして今回見る神話では、空間の分節の起源は河川の流れによって画される空間の起源として語られ、時間の分節の起源は季節的に現れたりいなくなったりする魚と漁の起源神話として語られることになる。
まず、レヴィ=ストロース氏は、南米で記録された河川の起源神話に言及する。
造化の神でありトリックスターであるタウクフワフには妻がいなかったので(M、Métraux 3, p. 39-40)、彼はペニスを自分の腕に突き立て、男の子を身ごもった、と語られる。
(引用者注:造化の神から生まれた男の子=)少年は老女によって育てられ、驚くべき漁師になった。
その当時、世界中の水と魚は巨大な木の幹に封じこめられ、そこでは一年中漁をすることができた。
しかし、度を過ごした行動によって、主人公(引用者注:造化の神から生まれた男の子)は幹を裂き、世界中を覆う洪水をひき起こした。水に沈んでいないただ一本の木のてっぺんに彼は避難した。最後にはこの木も水に沈み、主人公は押し流されて死んでしまった。
造化の神である彼の父は洪水を吸収することに成功し、「現在ブエノスアイレスの近くを流れる川床へと」水を導いた。すでにみたように、クラマス=モドック神話は隠された子供と漁の起源および河川ネットワークの起源を結びつけていた。
詳しくみてみよう。
まず冒頭、妻がいない夫がひとりで子どもをみごもる。男性による単性生殖である。ここで「ありえない!」と拒絶するような、もったいないことはしないで、じっくり神話の言葉に耳を傾けてみよう。そもそも神話は、すでに出来上がった(分節済みの)現にある経験的で感覚的な世界を構成する諸項の間の合理的な関係を記述したり客観的に報告したりすることは目的としていない。そういう現世の経験的で感覚的なものたち(Δ)が、未だないところからあるようになるための意味ある世界を分節する動きそれ自体を観察し、言語に変換してシミュレートしてみようというのが神話の思考なのである。
そうであるからして、神話に登場する「男」とか「腕」とか「老女」とか「漁師」といった名詞たち、主語たちは、実は私たちが経験的に知っている男でもなければ腕でもなければ、老女でもなく漁師でもないのである。言葉でもって、ある何かがあれではなくこれ、これではなくあれ、などと分別することがまだできない状況こそが、神話においては問題になっているのであるが、あいにくその様子を言語でもって語ろうとすると、どうしても主語と述語の関係を立てざるを得ず、仮に、まだないのだけれども、あるということにして、主語を立てて語らざるを得ない。
つまり、神話を語る言葉を聞くときに重要なことは、主語的なものたちのインパクトに驚かされることなく、その述語的な動きの相と共鳴できるように八識をチューニングすることである。
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このことを踏まえて上に引用した箇所を読んでみると、まず、「妻がいない」男神が自分で自分を妊娠させるというのは、経験的には結合関係にあるはずの妻=/=夫の二項関係が、まだない、ということである。つまり経験的に結合していて欲しいところが分離したままである。
しかし、妻=/=夫の二項関係が分離したままでありながら、男神は体内、特に自分の「腕」、四肢のひとつの子供を宿すことができ、無事に出産(?)することもできる。子供を親の身体の内部に結合し、そして出産=分離する。分離しているのに結合しており、結合したと思ったら分離する。
分離と結合が伸縮自在に切り替わっている。
これは図2でいうところの1)〜3)のモードである。
ここではつまり
分節することと / 分節しないこと
この区別が、ようやく分節され始めた、ということになる。
分節することが分節しないことと分けられて初めて、分節することが可能になる。
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木の幹=巨大な容器に閉じ込められた無尽蔵の食糧
さて、単身男神から生まれた男の子は、母親よりは経験的には世代的に「遠い」=相対的に分離している“老女”によって養育される(つまり経験的に分離しているところが結合している)。ここでも分離しながら結合する、という分離と結合が不可得になる様相を見ることができる。
そしてこの男の子は「驚くべき漁師」になる。もちろん、この神話の時代には、まだ世界中の「魚」が、いや「水」さえもが、一つの「巨大な木の幹に封じこめられ」ていたのであるからして、彼が漁師であるといっても、それは今日の私たちが経験的に知っている漁師とは似て非なるβ漁師である。
魚と水が、巨大な木の幹に閉じ込められている、ということはつまり、この木の幹の外には水も魚もなかったのである。
水がないなんて、ありえない!と思われるかもしれないが、前述の通り、これは世界の起源神話であり、つまり経験的に意味ある世界が起源する手前のことを話しているのであるから、「もともと水はありまして」というわけにはいかない。水はなかったのである。いや、正確に言えば「ある/ない」の区別もあるでもなくないのでもないので、水は「なかった」わけではなく、あるでもなくないでもない。そのことをなんとかイメージできるように工夫すると、水はあったけれど、一箇所にまとめて封じ込められており、この「木」と過度に結合しつつ、世界の他の部分とは過度に分離していた(つまり巨大な木以外のところには「なかった」)のだという話になる。
そして「魚」も、経験的な魚のあり方、つまり水の中にいたりいなかったりする、というあり方ではなく、この木の幹のなかに大量に詰まっているのである。あらかじめ生簀に入れてあるようなものである。
このとき、単身男神から生まれた男の子=漁師は、この木の幹の中から自由自在に、好きなだけ獲物=魚を取ることができた。
これは経験的な狩猟者と獲物との距離感と比べると、極めて過度な結合である。通常、狩猟者と獲物はまず分離されている。その分離を様々な手段を用いて結合に転じていくことによって、狩猟者は次第次第に獲物に接近し、そして最後、獲物と結合し、獲物の身体を背負って運ぶに至る。
狩猟者 /分離/ 獲物
↓
狩猟者→結合←獲物
経験的には、狩猟者と獲物の間には、分離を結合に転じる、という動きが生じる。ところがこの神話の場合、獲物である魚たちは初めから生簀のような木の幹の中に詰め込まれている。ここでは狩猟者と獲物は、初めから過度に結合したままなのである。
この点でも、神話は、経験的感覚的な区別(分離)をあえてひっくり返して結合することによって、世界が未だ存在分節意味分節される前のことを、言語でもって表現しようとする様子を垣間見ることができる。
+ +
「裂」
ところが、ここで事件が起きる。
この男の子は「驚くべき漁師」は、世界の水と魚を一点に閉じ込めた「木の幹」を「裂」いてしまう。そうして一点に凝集=過度に結合していた物たちが、ばーっとあふれて広がっていく。
これが「大洪水」という、神話によくあるモチーフなのである。経験的感覚的倫理的にあるべきものごとの区別が曖昧になっている状態から、一転、大洪水が世界を押し流し、その後に、今日の秩序=存在分節意味分節の体系が改めて起源する、というのが洪水神話である。
いま読んでいる神話でも、大洪水が起きる。
大洪水となると世界すべてが水没する。それは依然として物事の区別が際立っていない状態=すべてが結合している状態と等しい。これは下記の図2で言えば、原初の巨樹に全てが閉じ込められた状態が1)で、この大洪水は2)のモードであるということにしておこう。

つぎに「造化の神」が動く。
神は「洪水を吸収」し、残った水を「川床へ」誘導する。つまり水が流れているところと水が流れていないところの区別、川と陸地の区別、水界と陸界の区別が区切られたのである。これは上の図でいうと空間の分節における5)である。
そうして川の中に、魚たちもバラバラに、あちこちに、点在、散在するようになる。その魚たちが水の中にバラバラに散った状態こそ、今日私たちが知る経験的な世界である。川が遠くから流れてきて、その川のなかに探せば見つかる程度に魚が散在している。
こうして経験的に知られている、あの河、あの漁が起源する。「漁の起源および河川ネットワークの起源」である。
*
これは南米の神話の話であるが、北米で河川に依って生業をたてていた人々が語る世界の起源神話にも、これとよく似た分離と結合の伸縮を見ることができる。しかし、おもしろいことに、南米の神話と北米の神話とでは、その述語的な分離と結合を伸縮させる動きはほとんど同じであるのに、その動きを担う主語たちが、真逆にひっくり返っていたりするのである。
『神話論理4 裸の人1』から、「M529 クラマスモドック 英雄の誕生」をみてみよう。
少々衝撃的な描写があるが、主語の経験的な様相に意識を持っていかれないように注意しながら、分離と結合の伸縮する述語的様相に意識をチューニングしていただけるとよいと思う。
M529 クラマス=モドック 英雄の誕生
むかし、レトカカワシュという名の若い女が、インディアンの母親がするように背中に赤ん坊を背負って、とあるひとりの魔女を火葬すると称して、薪の山を用意した。実のところ、彼女は子供を道連れにして火の中に飛び込もうとしていたのだった。
造化の神クムカムチュは、彼女がまさに炎のなかに身を投げようとしたときに、二人を助け出そうと掴みかかった。
が、赤ん坊しか救うことができなかった。
*
助けた小さな児をどうしようか困った造化の神クムカムチュは、とりあえず、赤ん坊を自分の膝のなかに押しこんだ。
そして家に帰り、膝に潰瘍ができてとても痛くて仕方がないと、自分の「娘」に訴えた。
「娘」は父の膝から、膿を抽出しようとした。
すると彼女がとても驚いたことに、傷口からひとりの赤ん坊が出てきた。
*
生まれた赤ん坊は休みなく泣きつづけた。
「父親」は赤ん坊をなだめるために、名前をつけることにした。
いくつか名前をあげてみたが、効果がなかった。
そしてついに「身体のなかに隠された人」を意味するアイシラムナシュという名前で呼ぶと、赤ん坊の泣き声に間隔があくようになった。
そして赤ん坊が「アイシシュ」という名を聞いて気に入ったとき、泣き声は完全にやんだ。
その後、赤ん坊は養父の近くで成長した。
彼は見事な衣服をつくる達人、そのうえゲームの大競技者となり、父親をすらもつねにしのぐようになった。
父親は、そのことに対して嫉妬を抱くようになった。
※元の文については文献を確認してください。
衝撃的な記述が続くが、述語、それも分離したり結合したりする述語に注目していこう。
まず「若い女が[…]背中に赤ん坊を背負って」というところ、子供が母親に背負われて、背中に密着している。これにより結合の様相、それも過度な結合の様相を示している。さらに、「魔女を火葬する」というところ。これは立ち上る煙を媒体として、天/地のあいだの分離を結合に転じるということであろうか。この冒頭のところでは結合の様相が際立つ。図2の1)、β結合の様相である。
ここでレヴィ=ストロース氏はこの「女主人公の名前」(レトカカワシュ)が「 頭の赤いフウキンチョウ(Pyranga ludoviciana)を指す」ことを指摘する(p.23)。赤い頭は別の神話にもしばしば登場したが、頭皮が頭から分離していること、つまり頭と尻という身体の両端のうちの片方の極が剥がれていること、取れていること、通常ありえないほど過度に分離している様相であり、これは経験的感覚的Δ存在を長く引き伸ばして両義的媒介項βに変換したものである。
*
経験的感覚的Δの両端の一方(足の先と頭の頂という両端のうちの頭頂の方)だけを切り離した=分離したもの。
足先β←Δ→β頭頂
これは経験的感覚的な存在者Δを長く引き伸ばして、その極端にフォーカスして作られた両義的媒介項βである。
「若い女が」というと、なるほど、若い女性ね、ということで、すでに存在分節・意味分節が完了した後のこの現世で経験的感覚的に存在するΔ若い女性のことだと誤解されてしまうので、あえてそのΔを引き伸ばして切り離して、両義的媒介項に変換するのである。
+
次に、この結合状態に分離を引き起こすのが「造化の神クムカムチュ」である。「造化の神」によって火の中から助け出されるも、母親から過度に分離してしまった子供は、「造化の神」の「膝の中」に「押しこ」まれる。
過度に結合した母子が火の中に飛び込み、天→地を結合しようとしたその時に、子供を掴み取り、母親から分離して、地上に残したのである。ここで母は天に昇り、子は地上に残ることになり、両者の間は地上で共に暮らす場合に比べれば、相対的に分離した状態に固定される。元々結合していたところを分離するのである。
+
その一方で、母から「分離」された子は、今度は育ての父となる「造化の神クムカムチュ」といったん過度に結合する。ここで面白いのは、「造化の神クムカムチュ」は火の中から助け出した赤ん坊を、一旦自分の「膝の中」に隠す。「造化の神」と子供とは一方が他方の体の中に入り込むという点で経験的にはありえないほど過度に結合するのである。
これは上で紹介した北米の神話の、自分の腕の中に子どもを妊娠する男神とおなじである。もちろん、腕と膝では、手/足が逆になっており、また実子/養子という違いも際立つが、その主語的な相が経験的な対立の「どちらであるか」ということは脇に置いておこう。父親が、体内に(四肢)に、子供を宿す、という過度な(通常男性は妊娠しないので)結合の様相に注目しよう。
* *
泣き止まない子
そしてこの父親の膝の中に隠された子は、無事に膝から取り出される。結合したかと思えば、またすぐに分離する。「造化の神」の膝に隠された子供は、「造化の神」の娘の手によって、すぐにまた「造化の神」の膝の内から外へ出される。外から内へ、内から外へ、入ったり出たりと大忙しである。
ところが、こうして「産まれた」子は、泣き続ける。
泣き続ける赤ん坊の神話といえば、素戔嗚を思い出すところである。
ベビーが泣くのは、親を呼ぶためである。
親との結合状態が分離に転じたところを、改めて結合状態に戻そうとする、結びつけるための動きが「泣く」である。しかし、この神話の場合、伊奘冉もそうであるが、分離はすでにこの世とあの世ほどの距離にまで開いているので、泣いて呼んでもすぐには元の位置にまで結合してはこない。分離を結合に転じようとしても、分離し続けたままになる。したがって、この過度な分離を結合に転じるべく、さらに過度に泣き続けることになる。
* *
名付ける
何者かであり、その者ではない者ではない
造化の神は、子供をなだめようと、名前を与えることを試みる。
泣き続ける子供は、はじめのうちはどんな名前を貰っても泣き続けていたものが、ある名前をもらうと次第に泣き声に「間隔があく」ようになり、そしてついに泣き止む。その名前「アイシシュ」とは「「隠れる、保つ」という動詞から派生しており、それゆえに、「隠されたもの」または「包蔵されたもの」を意味する」とレヴィ=ストロース氏は書いている(p.23)。
ここで前の引用に登場した、世界の全ての水と魚を包み込む木の幹というのを思い出そう。あの木の幹は、内蔵するもの、包むもの、隠すもの、である。この内蔵する、包む、隠す、というのは過度な結合を思わせる述語的様相である。
母と過度に分離されたところを、再び(過度な?)結合状態へと転じようとして泣いていたのであるが、この結合を、母との実際の結合ではなく、名前によって、「包蔵されたもの」という言葉を纏うことによって達成する。母との結合を回復できなくても、すでにその名によってこの子は「結合(過度な結合)」を体現することができてしまうのである。
神話において、主語的な存在者は、分離と結合を伸縮させる述語的様相においてのみ存在するのである。
)) ← β → ((
両義的媒介項が振幅を描く述語的様相が、その振幅の両端に、Δ経験的感覚的存在者の収まる余地を浮かび上がらせる。
連続/非連続
おもしろいのはこの名前をつける過程で、最初は休みなく泣き続けていたものが、次第に泣き声に「間隔があくように」なり、そして最後に泣き止む、という様相の変化である。
ここで「休みなく泣き続ける」ということは、
連続 / 非連続
という対立でいえば「連続」の方、不連続ではない方の極を表現している。それに対して次第次第に「間隔があく」ところで、連続に切れ目が入り、不連続が生じる。
連続/不連続の対立は、未分離/分離、無分節/分節 の対立でもある。
これはあらゆる区別、対立、分節のうちでも最も根源的な区別である(つまり区別があることとないことの区別)。
そしてついには、
泣いている/泣いていない
という対立、つまり
有 / 無
の対立もはっきりと際立つ。
こうして泣き止んだ子は「見事な衣服をつくる達人、そのうえゲームの大競技者」ということで分離と結合を自在に動かすことができる、伸縮自在の存在となる。これは下記に再掲する図2でいえば、5)の様相であるが、この5)のモードにある存在者は、勝/負でも、自然/文化でも、鋭く対立する二極の間を自在に行ったり来たり、Δを如何様にでも生滅させること自在である。

そしてこの自在な力は、ついに彼の救手であり育ての親である神の「嫉妬」をかうことになる。
嫉妬というのは、他人の持っているものが欲しくて嫉妬するという現象にある通り、分離されているものを結合に転じたいと欲する(そしてたいがい無理に結合しようとして、かえって分離を決定づけることになる)ことである。
この神話では、引き続き分離と結合が激しく伸縮する。
+

内に-隠す/外に-晒す
この分離と結合の伸縮は「鳥の巣あさり」の神話にも繋がっていく。
M530a クラマス 鳥の巣あさり (1)
物語はつぎのように語られている。
時の始まりのとき、息子のアイシシュとともに暮らしていた造化の神クムカムチュは、物や生物、特に魚を創造しようと企てた。
南の風が川床を乾かすたびにインディアンたちが大量に魚をとれるように、彼はダムを築いた。
*
しかし、クムカムチュは息子の妻のひとりに心を奪われ、息子を亡き者にしようと決めた。
**
彼は、ケナワト /kenáwat/の苗木の上に巣をつくっているのはタカだと言い張り、上着、ベルト、額の鉢巻きを取ってから、それを捕まえに行くように命じた。
主人公は裸になってよじ登ったが、見つかったのはありふれた種類の雛鳥だけだった。
そうこうするうちに、苗はアイシシュが下りることができないほど高く生長してしまった。
彼は巣のなかに避難し、待った。
*
クムカムチュは息子の衣装を自分のものにし、息子の姿形をとった。
彼が欲望を燃やした嫁だけが、トリックにだまされた。
他の嫁たちは、彼が夫でないと確信し、はねつけた。
|
木のてっぺんに食べ物もなく置き去りにされ、アイシシュは骨と皮だけになった。
ふたりのチョウ娘が彼を見つけた。
彼女たちは、彼に水と食べ物を運び、その髪を洗い、やせ細った身体に香油を塗り、籠に乗せて彼を下ろした。
アイシシュは妻たちを捜しに出かけた。
彼は、野生の根菜を掘っていたチカ(アトリ、ズアオアトリ)とクレティシュ(カナダヅル)を見つけた。
チカの子供が父親を認めた。
ふたりの女は、トゥフシュすなわちバン(Fulica americana)という名の三番目の女とともに、死んだと思っていた夫を喜びをもって迎えた。
彼は三人全部に自分で殺したヤマアラシの針毛でつくった首飾りを贈った。
息子の帰還を知らされると、クムカムチュは彼を迎える準備をした。
主人公(アイシシュ)は彼の小さな息子に、祖父(クムカムチュ)のパイプを遊びながら奪い取り、火に投じるように命じた。
パイプが燃えてしまうとすぐに、クムカムチュは死んだ。
彼はのちに甦り、息子に復讐しようと決心し、矢に樹脂を塗りつけて、火を放った。溶けた樹脂の湖が大地を覆ったが、アイシシュは彼の小屋を安全に保つことができた。
彼の三番目の妻トゥフシュは外を見ようとした。
一滴の樹脂が彼女の額に降りかかった。
バンは今でもその跡を身にまとっている。
この神話でも、造化の神クムカムチュとその息子アイシシュが主人公であり、父が息子に嫉妬する。この神話は上掲の「M529 クラマス=モドック 英雄の誕生」の続きに相当する分離と結合の伸縮をしめす。
冒頭「時の始まりのとき」とある。つまり、それ以前は、その瞬間までは、まだ「時間」というものさえなかったということである。
時間は分節である。時を刻むとは、一定の単位で区切っていくことである。
分節すること区切っていくこと、区切りを入れていくこと。
この述語的な動きののちに、諸々の時間的な単位がΔ的に生成する。

時空間の分節の手前・存在分節意味分節の手前
この時間の分節もあるかないかあいまいな「時の始まり」においてはまだ、現実に人々が経験的感覚的に知っている日常に存在するあれこれの「物や生物」もまだ存在していなかった。
そうであるからして、造化の神はそれを「創造」しようとするのである。
この創造すべきもののうち、特に重視されていたのは「魚」であるという。
それも「南の風」が「川床を乾かす」といった、季節、一年周期の長い時間的分別が分節されていることを前提にしたところで、ある時期には大量に存在し、また別のある時期にはほとんど存在しない、という様式で有/無の区別がはっきりした様相で出現する「魚」である。この魚は、おそらく鮭のように、毎年同じ季節に川を遡って、遠くからやってくるものであろう。
ここに季節の周期的交代という時間の分節と、魚が旅をする遠/近の空間の分節という、この神話を語った人々にとって生きていく上でとても重要な経験的で感覚的な現実の分節が、造られようとしている。
*
さて、この間「造化の神」も「息子」と「ともに」暮らしている。
この神話では、上掲の神話のように、父と息子との結合関係の前段、父が息子と親子になるに至る過程は言及されていない(父がひとりで腕に子供を宿して産むとか、養子を迎えるといった話は省略されている)。
この父と子の間には、通常の経験的な父と息子の関係を超えた、過度な近さ、過度な結合がある。すなわち、造化の神は、あろうことか「息子」の「妻」(のうちのひとり)に「心を奪われて」しまうのである。そして父は息子から奪った服を着て、息子になりすまし、息子の妻と結ばれてしまう。一人の女性との関係において父である造化の神と息子とが、交換可能という意味で「別々に異なるが、同じ」になっている。非同非異である。
β
β β
β
そしてこの過度な結合の様相は、すぐに過度な分離の様相に転じる。
服を剥ぎ取って=包むものを剥ぎ取って、樹上へ晒す
造化の神は、息子アイシシュに嫉妬し、息子アイシシュを「亡き者にしようと」企てる。造化の神は、まず息子アイシシュの装束「上着、ベルト、額の鉢巻き」を脱がせ、裸にする。一つ前の引用で、アイシシュが服作りの名人だったという話があった。服との結合度が高い「包まれてある」主人公が、服を脱がされ「包まれていない」状態にされる。
経験的Δ人間は服を着ている
この『神話論理4』のタイトルも「裸の人」であるが、
裸である / 服を着ている
という区別は、安定的に意味分節された人間的な意味空間の内部において、
「人間的である」か / 「人間的でない」か
という区別に置き換えることができる。経験的な人間、Δ人間は服を着ているからである。
この神話のように、主人公が元々着用していた装束を脱がされるということは、つまりこの主人公が地上の人間的な意味で分節された世界から、分離されるということを意味する。
β裸の人 ← Δ人間 → β服
服を分離されたことでΔ人間の「服を着ていない部分」だけになった主人公は、分離と結合の伸縮運動を担う主語の位置に収まることができる両義的媒介項になる。
樹上(天/地の間)へ
地上の経験的な人間的世界からの分離は、この服を取られた主人公が木の上に持ち上げられて、地上に降りられなくなる、という描写でも強調される。
β
↑
|
|
|
β β
β
他の鳥の巣あさりの神話でもそうだが、主人公が地上から樹上へと上昇する動きは特に重点的に語られるところである。
今回の主人公も、まず最初に上がったのは「苗」木である。
これはそれほどの高さがあるものではなかったのだろう。しかし、主人公が登っているうちに、苗が現実にはあり得ない速度で成長して「下りることができないほど高く」なってしまう。こうして主人公は自分から望んだ訳ではなく、騙されて、樹上に取り残される。経験的なΔ天/Δ地の対立関係でいうと、ちょうどその中間のポジションに、いわば宙吊りにされるのである。
Δ天
/
(β高木の上)
/
Δ地

*
父が息子に変身?!
さて、息子が樹上に閉じ込められている間に、父である造化の神は、息子の妻を自分のものにしようと、息子の装束を身にまとい、息子に変身して、息子の妻たちのもとへと向かう。
主人公から分離された装束は、その父である造化の神に着用され=結合され、父を息子に“変身”させ(もちろん完全に変身できず、化けているのを見抜かれる変身である)、息子でもなく父でもない微妙なあり方を作り出す。
ここで、息子とその装束は分離し、しかしその装束が今度は父と結合し、そして息子と父は樹上と地上に分離するも、父自身が息子と見分けがつかないようになるという意味で、いわば父と息子を過度に結合して一つにしたような「息子になった(変身した)父」が出現している。
息子 ← 分離 → 装束
父 ← 分離 → 息子
息子 ← 分離 → 妻たち
父 → 結合 ← 息子の装束
父 → 結合 ← 息子
父 → 結合 ← 息子の妻
あちらで分離したかと思えばこちらで結合し、こちらで結合したかと思えばあちらで分離し。分離から結合へ結合から分離へと激しく伸縮する。
さてこのようにして分離しているところを結合し、結合しているところを分離し、そうすることで父=造化の神は、もともと分離していた息子の妻と結合しようと謀るわけだが、この結合にはある意味で成功し、ある意味で失敗する。
息子の装束で変装して息子になりすましている偽物であることを複数いる息子の妻たちに見抜かれる。とはいえ、父=造化の神がそのターゲットとしていた息子の妻は、まんまとその変装に騙されてしまう。
こうして分離と結合を伸縮させた挙句、結局、結合しようとしたところとは結合できていない、しかし完全に分離している訳でもない、という、分離か結合かどちらか不可得、分離するでもなく結合するでもないモードに落ち着くことになる。
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
*
地上への帰還/籠に乗せられて降りる
さて、樹上に分離されたままの息子アイシシュはどうなるのか。
樹上に分離された息子は、さらにその食べ物からも分離される。
通常、経験的、感覚的に、人は生きている限り何か食べる必要があり、食べ物と適度に結合されている必要があるのだが、この結合が過度な分離に転じてしまっている。そうして息子アイシシュは「骨と皮だけ」の姿になる。
ーーーーーーーーー→β
こうして経験的に程よく結合しているありとあらゆるところから激しく分離された主人公であるが、過度な分離へと伸びたあとには、かならず結合へと縮むのが神話のならいである。
Δ→ β ←Δ
二人組
この主人公、息子は、経験的で感覚的にありえる主語的様相から、過度に引き延ばされたあり方になっている。
β ← Δ → β
||
装束 ← よくある地上の人間 → 裸で樹上に
神話が両義的媒介項をつくるとき、どうやら二つの方法があるらしい。
神話はまず経験的感覚的に他と区別されているある存在者Δをみつけてくる。そしてこれを両義的媒介項に変換する訳だが、そのひとつの方法は、Δをながーく引き伸ばすことであり、もうひとつの方法はΔを二つ通常はあり得ないほど過度に結合することである。
Δを長く引き伸ばして両義的媒介項βを作る: β←Δ→β
Δを二つ、過度に結合して両義的媒介項βを作る: Δ→β←Δ
Δを長く引き伸ばして両義的媒介項βを作る(β←Δ→β)パターンとしては、例えば、 頭皮を剥がすであるとか、髪の毛を取るとか、装束を脱がせるとか、靴を紛失するとか、獲物が全く獲れないとか、食べ物が全くない、といったことがある。
Δを二つ過度に結合して両義的媒介項βを作る(Δ→β←Δ)パターンとしては、親子や兄弟姉妹や双子が二人だけで暮らしていたり二人だけで旅をしていたり、通常別々であるものがピッタリくっついて離れなくなってしまったり、一方が他方の体の中に入り込んだりする、といったことがある。
*
*
この神話の場合、裸にされて樹上に取り残された主人公はΔを長く引き伸ばして両義的媒介項βを作る(β←Δ→β)パターンであり、この主人公を助けにきた「ふたりのチョウ娘」は、Δを二つ過度に結合して両義的媒介項βを作る(Δ→β←Δ)パターンである。
「ふたりのチョウ娘」は、樹上に取り残された息子に、まず「彼に水と食べ物を運」ぶ。そうして食べ物との過度な分離状態を適度な結合状態へと調整する。
β
β→ →→→ ←←← ←β
β
そして「髪を洗い、やせ細った身体に香油を塗り」、つまり主人公の姿を地上で暮らす人間らしい人間の姿に、つまり人間である/人間でないという意味分節において人間よりであると分別されるものへと戻す。
β
β→ ←β
β
そうして彼を「籠に乗せて」、樹上から地上に戻すのである。
* *
地上に降りた息子アイシシュは、「妻たちを捜しに」出掛ける。
息子アイシシュは、いったん分離されていた地上とあらためて結合し、いったん分離されていた妻たちと、あらためて結合する。
結合から分離へ、そしてまた結合へ。
これが神話における分離と結合の述語的様相の伸縮(仮にβ脈動と呼んでおこう)である。
頭や顔の色が体の他の部分と著しく異なる鳥
さて、この息子アイシシュが再会、再結合する妻たちは、次の三種類の鳥である。
ズアオアトリ
カナダヅル
バン
これらの鳥には共通点がある。それは頭の上や顔の色が、体の他の部分と著しく異なる、ということである。

これらは以前にみた神話に登場した「赤い靴下」「赤い頭」と同じで、「Δを長く引き伸ばして両義的媒介項βを作る(β←Δ→β)」可能性を強く示唆する、存在の全体性の一方の極端に、他の部分との分離を思わせる特長があるパターンである。この三種類の鳥は、いわば、分離と結合の伸縮モードが落ち着いた、他と付かず離れずに均衡できるモードに入った両義的媒介項なのである。
頭皮以外の身体β← Δ →β頭皮
そうして、樹上から降りたばかりの、香油こそ塗られているがおそらく裸のままの主人公と、三人の妻たち、ズアオアトリ、カナダヅル、バンは、四者いずれもが均衡モードにはいった両義的媒介項なのであろう。
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
この妻たちと主人公アイシシュとの関係をしっかりと付かず離れずに、分けつつ繋いでおくために、「ヤマアラシの針毛でつくった首飾り」の贈与が行われる。一方から他方に贈り物を贈るということ、アイシシュの物が妻たちの元にあるという状態。この贈与こそ「分けつつつなぐ」を体現する述語的様相であろうか。
こうして付かず離れずに均衡した四つの両義的媒介項からなる四項関係は、その付かず離れずに微妙に振動する両義的媒介項どうしの隙間から、ありとあらゆるΔを、経験的感覚的に安定的に意味分節存在分節される項を、自在に発生させることができる。付かず離れずに均衡した四つの両義的媒介項からなる四項関係は井筒俊彦氏の用語に強いて言い換えるならば、真妄和合識としての言語アーラヤ識の心真如の相である、と言えるかもしれない。
内/外・容器/中身
さて、
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
のモードに入り、現世の意味分節としての存在分節を自在に生/滅させることができるようになった主人公アイシシュは、ついにその父と対決することになる。自分を樹上に閉じ込め、妻を奪った父との対決である。
まず主人公アイシシュは、父クムカムチュがタバコを吸うための「パイプ」を、自分の小さな息子をつかい、遊ぶふりをして奪う。そうしてそのパイプを燃やしてしまう。
火をその内に保つはずのパイプが、あべこべに、火の内に投じられる。
内 / 外
あるいは包むものと包まれるものとの区別がくるりとひっくり返っている。
容器 / 中身
このひっくり返しにより、どういうわけか造化の神クムカムチュは倒されるのであるが、しかし彼は蘇り(神話は生/死の二極のあいだもくるくるとひっくり返す)、息子である主人公アイシシュに復讐をしようと、大地を「溶けた樹脂の湖」で覆い尽くす。
いったん地上のすべてのものが、いわば大洪水のように全てを溶かす高温の液体に飲み込まれるのである。ここでいったん世界はあらゆる区別が解けた無分節モードになる。過度な結合モードへの最後の収縮である。
+ +
経験的な世界の存在分節・意味分節の起点
しかしその中で、アイシシュと妻たちのいる小屋だけは安全に保たれており、そこが現世を、意味ある経験的世界を、新たに生み出すための起点になる。
この神話は、主人公と三人の妻が揃った時点で、β四項関係を用意することができていたが、しかしその時にはまだ、主人公の父、造化の神が、ひきつづき健在で君臨していたのである。
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
主人公の距離が過度に結合したり過度に分離したりする父・造化の神が居ると、「付かず離れず」に均衡した対立関係は安定性を保つことができない。
そこで、内/外、生/死のような、経験的にかっちりと区別され両極が混じり合うことがないような二極のあいだをくるくるとひっくり返すようなことをして、そうして世界を高温の樹脂で覆い尽くすという、絶対無分節のモードに切り替えるのである。こうなると、父と息子の対立関係も溶かしてしまうことができる。
そうして父を倒したことで、あらためて、絶対無分節の上に主人公と三人の妻の四者がぎゅっと集まっている小屋があるという状態、絶対無分節の只中から意味ある経験的世界の存在分節意味分節を発生させる意味のジェネレーターである四項関係を浮かび上がらせるのである。
そして最後に、主人公の三人の妻のうちの最後のひとり「バン」の「額」に、「一滴の樹脂」の痕跡が、絶対無分節の痕跡が、微かに残される。

分節された世界は絶対無分節と不即不離であることを、この痕跡、消息は、分節された世界の内で分けら済みのものとして暮らす現世の人間たちに伝え続けているのであろう。
まとめ
この神話でも、冒頭、父と子、夫と妻、人間と装束、といった経験的にペアになったものたちをもってきて、それを「ブリコラージュ」して、引き伸ばしたり、過度に結合したりして、両義的媒介項を作り出した。

その上で、両義的媒介項どうしの関係を近づけたり離したり、分離を結合へ、結合を分離へと伸縮させるように動かした。この時、上の図の2)3)のような激しい分離と結合の伸縮もあれば、4)のように付かず離れずに分離しつつ結合し結合しつつ分離するよう均衡するモードもある。
そうして地上世界が高温の樹脂に飲まれるというところで両義的媒介項たちを1)のモードにぎゅっとあつめたあと、あらためて、5)安定的に分けつつつなぎつなぎつつ分ける、意味分節体系が均衡する現世のモードを浮かび上がらせる。
そして最後に、経験的感覚的にそのようなものとして現に存在するすがたになったΔバンが強調されつつ、そのΔバンが、β脈動の痕跡をはっきりとその顔に残していることが明らかにされて、神話の語りは閉じる。
つまり、現世の起源、現世を経験的に意味あるこの世界として発生させることを可能にするアルゴリズムの種明かしは終わるのである。
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