#15 「ノスタルジア」からの気付き。ココデハナイドコカへ旅立つ手段としての美術展 11月某日 誤り交換日記
人。人。人。
もちろんゴッホの名画が来日した時ほどの人だかりではないにしても、田中一村展を見に集まる人々の多さに私はとても気圧されていました。
心を失いそうなくらい仕事で消耗していたその日、田中一村展に赴き、彼が終の棲家としてたどりついたという触れ込みの奄美大島の南国の植物を、ただぼーっと眺めたかったのです。
私は彼のことをこのイベントの告知を見るまでは存じ上げず、大変失礼な話ですが、きっとそれほど混んでもいないだろうと思っていました。
しかしながら私は見誤っていました。
作品の1つ1つが余すことなくすばらしいことは間違いないのですが、そして間違いなく行って良かった美術展だったのですが、ゆっくり1枚の絵を眺めるような余裕が、その空間にはありませんでした。
それはもう、動物園のパンダを見るような忙しなさ。
「はい、もう見たでしょ、次の絵に進んで」と言わんばかりの列が絵の前にできていました。
うーん。絵はよかったけど、どっと疲れた……。
そこで、「田中一村展に行った方はこの半券をもっていけば無料でこちらの展示もご覧いただけます」とスタッフの方に案内いただいた展示が、「ノスタルジア─記憶のなかの景色」でした。
都美術館の地下で開催されており、通りがかりの窓越しにその展示内容が上から見えるようで、少し覗いてみました。
そこに広がっていたのは、巨大なキャンバスに的確にライトアップされた作品群が展示される、人のまばらな開けた空間。
なんだかとっても居心地がよさそう。
展示を見てどっと疲れた際には、そそくさと帰宅するか、カフェでまったりするのが定番なのですが、気付けば吸い寄せられるように受付で半券を渡し、展示エリアに足を運んでいました。

これがもう、最高だった!というのがこのnoteでお伝えしたかったことの1つ目です。まどろっこしくてすみません。

ノスタルジアとは、「故郷へと帰りたいが、けっして戻れない心の痛み」のことを意味し、特に現代では「二度と戻ることができない過去の記憶を、現在の風景や情景に重ね合わせて味わう、切なくも複雑な感情」のことと記載されています。
けれど、田中一村展での膨大なインプットと気付きで頭がいっぱいだった私は、ノスタルジアってなんだろうと考えるより先にとにかく作品の方へ向かいました。
「街と風景」「子ども」「道」の3章で構成されていて、第1章は「街と風景」です。

最初に目に飛び込んでくるのが南澤愛美さんの作品たち。どこか懐かしい街の風景の中に、よく見ると「人」のようなシルエットの動物が描かれ、現実には存在しない異空間が生み出されています。特にこのメリーゴーランドの絵は、夜の街の温かい光がキャンバスの外にまであふれるようでとてもひきつけられました。

現実の釣り堀はこんな幻想的な美しさは感じないはずなのですが、水面の煌めきの描き方もあいまって、あの頃のまぶしい記憶のような気がしてくるから不思議。けれど、そこに描かれる、少し不気味な動物たちが決して戻れない風景であることを物語っているように感じます。

第2章は「子ども」。確かに幼いころの思い出や小さいころ過ごした場所はノスタルジーの象徴のようにも感じるのだけど、そんなありきたりなテーマ……と思いかけて絵を見て打ちのめされます。
芝康弘さんのこの子どもが描かれた風景の美しさ、大きなキャンバスでできればじっくり見ていただきたい神々しさでした。


特に教室にいる様子の子どもたちにお日様が差し込む作品がとてもよかったです。写真のようでありながら、生々しさが排除されてより現実離れしているというか。「もう戻れない切なさ」をその風景に重ねて見てしまう「ノスタルジア」というテーマにぴったりです。
宮いつきさんの作品もまた違った視点を持ちながらも、夢と現実が重なるような、ノスタルジックな風景がキャンバスいっぱいに広がっていて、何をどうしたらこんな視点で世界を眺めて絵にできるんだろうと思ってしまいます。

特にこの南国らしい(?)植物に囲まれて微睡む様子は私が今日美術展にきた目的そのものというか、ああ、癒しを求めるこの気持ちもノスタルジアだったのかも、などと考えさせられました。

第3章は「道」。「道」とはどういったものをさすのか。
と考える前に上から見て気になっていたあの開けた空間がここであることに気付き、圧倒されます。
見ている人はまばらで、ほぼ独り占め状態。

特に玉虫良次さんの絵巻物のように横に広がる、昭和の情景を描いた作品は、遠くから見て、近づいて見て、また遠くから見て、を繰り返してしまいます。
ここに置くことを考えてつくられたのかと思うくらいに展示室の雰囲気とも調和していました。

油絵だからなのか、近づいてみてみると、どこかヨーロッパの街並みを連想するようなオシャレ感も醸し出していますし、描かれる一人ひとりがいきいきとしていて今にもアニメーションになって動き出しそうです。
写実的というよりは思い出加工が施され、どこか現実離れした印象があるところに「ノスタルジア」があり、それゆえの美しさがあるんだろうと思いました。
そして、同じ展示空間に全く違った角度からノスタルジアを表現されていたのがベラルーシ生まれの近藤オリガさん。色味の少ない砂漠のような殺伐とした場所に描かれる命を想起させる瑞々しきものたち。

特にこの檸檬がむしょうに好きです。柑橘系は苦手なのに、ここに描かれる檸檬はとてもおいしそうに見えます。その感覚は近藤オリガさんがこの絵に込めた心象とリンクしているんだろうな、と思います。
さらにいえば、私にはない感受性だけれども、この殺風景な背景も近藤オリガさんにとっては懐かしい気配を漂わせているのかもしれません。


改めて、第3章の「道」の解説を読むと、第1章は具体的な街の風景だったのに対してこの「道」は心の原風景に近い、個々に描き手の心を捉えて離さない何かなのかな、と思いました。
ここで触れていない方の絵もとても素晴らしかったので、あとはぜひ現地でご覧いただきたい思いです。
私はこの最後の「道」の大きい部屋に30分くらい腰かけて、ようやく今日の目的を果たせたような気持ちになりました。あまりに素晴らしくて珍しく受付で画集を買い、大満足で帰宅しました。
「ノスタルジア」に想う、美術展に浸かりたくなる理由
そしてここから今回お伝えしたかったことの2つ目に入ります。それは私にとって美術展にいく意味。
最近妙に美術展に通うようになってしまった自分を内省して、先にも書きましたが、つまり私もある種の「ノスタルジア」からの「癒し」を美術展に求めていたのかもしれない、そしてそのためにはこうした広い空間で夢想する時間もとても大切なのではと思いました。
美術展のいいところは、まず学芸員の方が考えた展示のストーリーを楽しむという意味では、本や映画などのコンテンツを楽しむのと近しく、展示空間とセットで作品を堪能することで、五感を使って没入できるということ(それゆえどのくらい混雑しているかで見た後の感覚も変わってきてしまうのですが)。
しかも、映画を1本見るのと同じくらいの価格で、上映スケジュール的な時間の縛りもほぼなく、友達を連れて行かないと気まずいこともなく1人の時間を楽しめること。
一方、その場に行かないと絶対見られないので、物理的に家を出る動機にもなるということ。引きこもりがちな私にとってはいい外出理由になります。
端的にいうならば、私がコンテンツに求める要素として重視しているのが、「ココデハナイドコカ」(ある種のノスタルジアを感じる風景)へ気軽に旅立てるということで、そのコンテンツ欲が美術展にいくと満たされるのです。
ですので、世界的に評価された作品を的確に観賞するよりも、その現代アートの社会的な意義を理解するよりも、その欲求を満たすような学芸員さんの空間やストーリーづくりのプライオリティが高く、そういう観点でツボにハマる美術展を探したいのです。そして、アートニュースをただ追っかけているだけだと、それはけっこう難しかったりします。
今回のように、まったく行くつもりなかったのに、突然入った場所がまさにそれだったということもあるわけで。
美術展の“伝わる”レポートを書く練習も積み重ねていきたい
すっかり美術展にいく素晴らしさに気付いてしまった私はもっと多くの人にこの良さを言語化したい!という思いに現在駆り立てられています。
ただ、本の感想は長いこと書いてきているけれど、美術展の感想を書くのは慣れていなくて言語化がすごく難しい。これは勉強しなければいけません。
ひとまずよかったレビューは収集するようにしているのですが、最近一番好きなのは中山ゆかりさん。
このレポートを読んで全く興味なかった「カナレットとヴェネツィアの輝き」に絶対に行かなければ、という気持ちになりました。
終わってから、今回の展示、ノスタルジアのレポートがよくまとまっているものを探したのですが、これも「ぴあ」の記事でした。「ぴあ」はアート専門メディアでないのにレビューに力を入れているのが素晴らしいと思いました。
短めなのに、きちんと必要な情報と写真でレポートを届けてくれているTomorebiさんのサイトも注目しています。
田中一村展に興味をもったきっかけはTomorebiさんのレポートからでしたし、今はレオ・レオーニ展に行きたくなっています。
ここには書いていませんが、切り取り方を学ぶためにいくつか関連する本も購入しました。
今後はもっと美術展レポをかいて、レポートの書き方を洗練させてゆきたいと思い、ひとまず冒頭で人が多すぎて疲れてしまったと書いた、田中一村展レポートも書いてみました。
ここに書いたように疲れてしまったものの、展示はとてもよかったんです。
「誤り続けるオンナたち」の2人の交換日記でした。
こちらはPodcast「誤り続けるオンナたち」の2人の交換日記です。
交換日記のルール
・相手への質問を一つ書く
・内容はなんでもOK
つまり、今日あったことかいても、ポエムかいてもなんでもOK。
毎度もはや日記でなくてすみません。何を書いたらいいか迷ったあげく、本について書きたくなったので、新生活にあわせてまとめてみました。
一緒にやっているポッドキャストはこちらです。
1個前のかやこさんの日記はこちらです。
こちらの感想は下記につぶやいてましたが、いいですよね。日常の感じ。
日常なのに、私にとってはちっとも親近感のわかない日常なところがいいです。
アメリカでは「カフェ」より「ビーチ」で本を読むらしい……!?ってえ!?そもそもビーチがそんな身近じゃないのですが……と思いながら読みました。日常の感じ、いいなぁ。「誤り続けるオンナたち」の2人でやってる交換日記かやこさんの番、更新です。 #あやまリスナー https://t.co/hFpWJPgllQ
— Kana | 広報PR | Podcast (@KanaLapislazuli) August 17, 2024
前回かいていただいてからすっかり季節は移ろい、冬になってしまいました。一応これには理由がありまして……というのもかやこさんのnoteを見ていただくとわかりますが、今回質問の代わりにお題をいただいていたんです。
noteで書くテーマをつくってもらえないか?と私が打診したら、それを快諾いただき下記5つのお題をいただきました。
いっそ無様でありたかった
合わない体温
通り過ぎていった雨の日のこと
迷子になれる路地を探して
開くまで忘れていた扉の話
とても素敵なものばかりだったので、全部の記事を書いてからnoteの交換日記を書こうと思っていたのですが、さすがにそれほどのスピード感では筆が進まず、2本書いて誤り交換日記をひとまずお返しすることにしました。
個人的なお話ばかりで少し恥ずかしい気持ちもあるのですが、「合わない体温」についてはポッドキャストで今度深堀する内容が上がる予定です。
最後に質問「かやこさんの『日常の言葉たち』のエッセイが読みたい」
もはや質問ではない(笑)。
実はかやこさんにいただいたお題とは別に、「日常の言葉たち」をリスペクトして、同じテーマで文章を書こうという試みを実践中です。
この作品は、「コーヒー」「待つこと」「ゆらゆら」といったさまざまな日常の言葉に対して、背景も活動分野も異なる韓国の方4名がエッセイを書いています。
これが本当によくて。一つの言葉の持つ意味や描かれる日常からその書き手の人生が見えるというのが、まさに「事実は小説より奇なり」。
順番にかいていて今3つ書いたのでこの中のどれかでかやこさんも1本noteを書いていただけないでしょうか?
かやこさんの少し特殊で唯一無二の経験をすることに貪欲な毎日の中で、これらの言葉に詰まった「日常の風景」はきっと私の思い描くそれとは大きく異なる意味合いをもつのだろうと思うのです。
コーヒー
靴下
ご飯
私の書いたものの1例として、テーマ「ご飯」のnoteをはっておきます。なぜほっこりしそうなテーマで、こんなにおぞましい内容でしか書けなかったんだろうと無念ながら、なんだか私らしくなった気もしています。
個人的には、書いてみるとなかなか難しかったのですが、エッセイ「日常の言葉たち」ではお題「靴下」の捉え方が4者4様で興味深かったので、かやこさんバージョンが読んでみたいです!
(もちろん着想がわくものでどれを選んでいただいても大丈夫です!)
