短編ミステリー「おふたりさま探偵」 第2話
第1話
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2
「門倉奈津季です。今更でごめんなさい」
長話に聞き入っていた奈津季は、我に返って小さく頭を下げた。
「いえいえ。もうひとつお尋ねしますが、門倉さんが恋人さんと出会ったのは……」
「なっちゃんって呼んで。いつもみたいに」
須和部が二度ほど目を瞬かせる。本気で戸惑っているようにしか見えず、奈津季は密かに落胆した。
「信じていただけなかったみたいですね、僕の話。照れ臭いのでせめて『奈津季さん』で勘弁してください」
「冗談ですよ。半信半疑ですけど、どちらかといえば信じているつもりです。思い返せば『春希さん』には色々不思議なところがありましたから」
「春希さんというのは?」
「須和部さんが言うところのドッペルゲンガー……ドッペル須和部さんのことです」
奈津季の視線がマンション上部を向く。少し前まで洗濯物を干していた――ひいては、男性物の下着を須和部の顔面めがけて落下させた――四階のベランダがそこにある。
にわかに頬が熱くなった。奈津季は今すっぴんの上、タオル地のルームウェア姿で初対面の男性の前に立っているのだ。彼が下着の持ち主たる春希その人である可能性も残されているとはいえ。
一五分ほど前、ベランダで洗濯物を干していた奈津季は春希の下着――彼が姿を消して二週間経つ今も、女性のひとり暮らしを悟られぬよう一緒に洗濯している――を取り落とした。それは運悪く風に煽られ、マンション脇の道路を歩いていた男の頭上に落ちてしまった。
奈津季は慌てて室内履きのスリッパで階段を駆け下り、男に謝罪しようとして、彼の姿が自身の恋人と瓜二つであることに気づいた。正確には彼が春希本人であると思い込んだ。
それからしばしの問答を経て、須和部を名乗る男は長話を始めたのだ。
「じゃあ、今度は私が春希さんについてお話ししますね。その前にひとつだけ。……須和部さんが彼と出会ったのはいつのことですか」
「ドッペルゲンガーさんに初めて会った日のことなら、五月二二日だったかと思います」
「やっぱり」
紺地に白のドット柄のボクサーパンツを四つ折りにしながら、奈津季は語り始めた。
*
私がドッペル須和部さんこと「春希さん」と出会ったのはその翌日でした。
二一時前、店じまいの後……ああ。私、アパレル店員をしていまして。
いつも通りに夜の寺町京極商店街を歩いていたら、挙動不審な四〇代くらいの男性に声をかけられました。ナンパとは少し違って、一言でいうならよくあるつきまとい。
ええ、本当によくあるんです。私ってこの通り背が低くて童顔で、弱そうな見た目でしょう。舐められやすいんですよ。
「今帰りですか。一緒に飲みませんか。奢りますよ」とまあ、その三言をひたすら繰り返していたでしょうか。
ちょっと強気に断れば引き下がってくれると思ったんですが、これが案外しつこくて。
一度コンビニに入って撒こうとしたのに、店を出た途端また合流されてしまいました。一緒に入ってこないところが余計に怖いですよね。
そのうち駅が近づいてきて、流石に焦りを感じました。最寄駅を突き止められてはかないません。誰かこの場に知り合いはいないかと、すがる気持ちで辺りを見回しました。
そのとき目に入ったのが、分厚い眼鏡をかけた優しそうな男性――春希さんだったんです。
……いえ、正直に言います。優しそうというより気が弱そうで、無害そうに見えました。この人なら助けてくれそうだというより、この人は私に危害を加えないだろうと感じて、咄嗟に彼に話しかけました。
「お久しぶりです」と、何のひねりもない言葉で。
眼鏡の奥の目がきょとんと丸くなって、私は焦りました。うまく知り合いのふりをしてくれればいいけど、そう器用な人には見えないし。
ところが彼は「ああっ」と素っ頓狂な声を上げ、「お久しぶりです。仕事帰りですか」なんて風に話を合わせてくれたんです。
「はい。夕食はもう取られましたか? よかったらお茶だけでもご一緒に」
彼はひとしきり悩む様子を見せて、「コーヒー一杯だけなら」と頷きました。なかなかの役者です。さりげなく背後を窺うと、不審者の姿は早くも見えなくなっていました。
「あ、もう大丈夫そうです。すみません、お付き合いいただいて」
「大丈夫そうです? よく分かりませんが、お茶には行かないということでしょうか」
「いつの間にやらどこかへ行ってしまったようなので。……私がさっきの人につきまとわれているのが分かっていて、お芝居に付き合ってくれたんですよね?」
「えっ? いや、そんなことがあったとはつゆ知らず。つまりあなたはぼくの知り合いじゃないんですか。そんなあ」
彼は何故かひどくがっかりした様子でした。
落ち着いて彼の姿をよく見ると、衣服はところどころ破れたり汚れたりしていて、手のひらは擦り傷だらけ。
……もしかして私、怪しい人に声をかけてしまったかしら。後悔しそうになりましたが、助けてもらった恩もあり、きちんと彼の話を聞いてみることにしました。
曰く、彼は記憶喪失。その日の夕方以前のことは全く覚えておらず、気づいたら傷だらけで街を歩いていたのだそうです。たぶん階段から転げ落ちるなり何なりして頭を打ったんだと思います、とのことでした。
私はすぐに救急外来へ行くことを勧めましたが、しどろもどろに拒否されました。大した怪我じゃないし、今は夜だし、保険証を持っていないしと。
「保険証がなくたって受診はできますよね。お金が心配なら私が一時的に立て替えます。助けていただいたお礼です」
そうまで申し出ても彼は頑なでした。
「お金のことはいいんです。お礼も何も、ぼくはあなたが本当に自分の知り合いだと思ったので……ぼくの同僚や家族の連絡先でも教えてもらえないかと期待して、ちょっと話を合わせただけなんです。何だかすみません」
つまり彼は、私を助けるためにお芝居に協力してくれたどころか、逆に私に助けてもらうつもりだったのです。
そのことが私には妙に嬉しく感じられました。何せ私の人生、人に頼られることなんかほとんどなくって。
しかもこの人は記憶をなくして一人きり、私にしか頼れない状況なんです。庇護欲をくすぐられたというか、使命感に駆られたというか……とにかく助けてあげなくちゃと思ったんですよね。
とはいえ、病院への同行もお金の立て替えも固辞されたばかり。
何か他にできることはないかと思案して、ひとまず連絡先を渡すことにしました。トートバッグから仕事用の名刺を取り出し、裏にプライベートの携帯番号を書きつけて。
「このようなものを頂きましても。ぼくはスマホを持っていませんし」
「お守りみたいなものだと思って。スマホがなくたって公衆電話は使えるでしょう? 何かあったらいつでも私を頼ってください。いえ、できれば何もなくても一度連絡してください。頭の怪我は心配ですから」
彼は困惑した様子でしたが、やがて名刺をそっとポケットにしまいました。
私たちは一旦そこで別れました。
もう会えない可能性のほうが高いと思っていたのですが、案外早く、ほんの二時間後くらいに連絡が来ました。
何事かと思えばビジネスホテルに泊まりたいのだそうです。それで住所氏名と電話番号を書く必要があるので、私の名刺に書かれた情報を使ってもいいか、という確認の電話でした。
住所はともかく、電話番号は忘れ物をした際の連絡などに使われる可能性がありますよね。だから全くの他人の番号を使うわけにはいかないと。
律儀な人だなと思いました。私が快諾したら、今度は恥ずかしそうに小さな声で言うんです。
「よろしければ名前も門倉さんのをお借りしたくて。いい偽名が思いつかないので」
「いいですよ。奈津季じゃ女性の名前だから、『はるき』なんてどうですか」
「何だか兄妹みたいで照れますね」
「ですね。本当の兄は世志貴っていうんですけど」
「へえ、お兄さんがいらっしゃるんですか。……そういえばぼくにも兄弟がいたような気がしてきました」
「本当に?」
「ううん、自信はないです」
そこから少し話が盛り上がって、気がついたら翌日も会う約束をしていました。今度こそお茶をしましょうって。
以来、会うたびに次回の約束をして、連絡手段もないまま私たちは仲を深めていきます。
二か月ほどで自然と付き合う流れになり、そのまま同棲することになりました。彼は根無し草でしたし、うちのマンションには部屋が余っていましたので。
同居の兄を説得するのは大変でしたけど、最終的には私の意見を尊重してくれましたね。私に対して厳しくなりきれなかっただけだと思いますが、やがて春希さんのことも認めてくれたようです。
そのうち兄は、春希さんの記憶を取り戻す方法を一緒に考えてくれるようになりました。自分の立場――大きな声では言えませんが、兄の職業は警察官なんです――を使って色々調べてくれてもいたと推測しています。
私たち二人が気兼ねなく暮らせるようにと、兄は先月マンションを出ていきました。申し訳ないながらも、春希さんとの二人の生活は本当に楽しかった。
なのに彼はいなくなってしまったんです。ちょうど二週間前、私が仕事から帰ってみるとマンションはもぬけの殻になっていました。
元々身元のはっきりしない人ですから、すぐさま警察に届け出るのは憚られました。
勿論そうすべきなのは分かっていましたよ。というか、本当なら出会ったその日に警察へ行くべきだったと思っています。けれどその機会は逃してしまいましたし、それからは時が経つにつれてますます行きづらく……
兄がいるのにとお思いでしょうが、だからこそです。忙しい同僚の皆さんの仕事を増やしてしまう懸念や、万が一春希さんに後ろ暗い事情があった際、兄の立場が危うくなる可能性を考えてしまって。
きっと何事もなかったように帰ってきてくれる。そう信じて待っていましたが、何の音沙汰もないうちに二週間が経ちました。
そんな折、ベランダから須和部さんの姿をお見かけしたんです。そうして今ここに至ります。
……今更ながらに非礼をお詫びします。色々すみませんでした、本当に。
次話(第3話)
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