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標本化への回転 ―― 牧野富太郎の裏切りとムットーニ「標本の記憶」

大航海時代から始まる「世界の標本化」という帝国のシステム。
植物学者・牧野富太郎はいかにしてそのシステムを裏切ったのでしょうか?
高知の植物園で出会った、ムットーニのからくり人形が紡ぐ「時間のアート」から、その精神史を紐解きます。

西洋列強が世界を支配・管理するために用いた「知のシステム」は、「植物標本(さく葉標本)」でした。
大航海時代、ボローニャのアルドロヴァンディから始まった「世界の標本化」という壮大な帝国主義の最前線の営み。そのターゲットだったジパングにおいて、植物学者の牧野富太郎は、その帝国のシステムに取り込まれませんでした。
現代、高知県の牧野植物園のガラスケースに閉じ込められた死んだ標本たちに、光と影からなる「時間のアート」によって息を吹き込んだ表現者がいます。ムットーニ(Muttoni)こと武藤政彦氏です。
本稿は、高知県立牧野植物園より貴重な資料をご提供いただき、ルネサンス期のアルドロヴァンディと植物園・博物学から、現代のアーティスト武藤政彦のオートマタ『標本の記憶』へと至る「標本化の精神史」を辿る試みです。

滑り込みセーフで、展覧会のギャラリートークに紛れ込みました。
八王子夢美術館、2025年12月5日に、ムットーニの新作4点の口上を聞けるこの機会、逃す手はありません。
ご自身で久々に油絵で「大道具」の天空を描いたという羽を与えられ飛翔する天使の『アナザー・ウィング』を筆頭に、作品解説は快調。

「ジャングル・パラダイス」(2013年) ©︎MUTTONI/撮影 武藤政彦

作品『アナザー・ウィング』では、カラクリを動かすギア数は、『ジャングル・パラダイス』(2013年)からさらに増えて30を超えていました。

ムットーニ劇場「標本の記憶」を見ていくにあたって、まず、「標本」をめぐる歴史を振り返ります。
西欧列強が掲げた「島を徹底的に標本化する」企てを、牧野富太郎はどう裏切ったのか。平面の標本から、時空を超えるからくり(Automata)のアートへと昇華された、豊潤な記憶の世界をお楽しみください。


■ Ⅰ. 「標本化」は何処へ?:アルドロヴァンディの企て

┗ 1. 「黄金のりんご」

ヨーロッパに伝わった最初のトマトのイラスト標本(Husk tomato (possibly Physalis philadelphica ), Aldrovandi, second half of the th XVI century, vol.2, folio 318.)


イタリアには12世紀に遡るサレルモの植物園「ミネルヴァの庭」や1500年代に作られたパドヴァ植物園(オルト・ボタニコ)があり、薬用にすすめられた植物栽培の歴史の深さが感じられます。
ところで、私は、温室が気になります
古い時代にガラスと金属で作られ、植物を温めるために暖房をたいた温室。

大航海時代、航海者たちは、見知らぬ土地に辿り着くと、珍しい植物を大量に採取し「ミュージアム」が併設された大学に持って行きました。そこで、持ち込まれた植物は標本とされました。
1555年に作られた世界で一番古いトマトの標本が、ボローニャにあります。「金色のりんご」。当時の長期保存する標本化の手法(植物を感想させて台紙に貼り付け名前や採集場所などを記録して保管する「さく葉標本」)では、実が標本にできなかったので、現存するおし葉標本は葉と茎からなります。

ボローニャ大学でアルドロヴァンディののちにトマトと呼ばれる植物標本を見せていただきました

この植物は、輝く実がついている!と、黄色〜浅緑色の「実」が喜ばれた。「黄金のりんご(りんごpomo +黄金d’oro ) 」と名づけられたポモドーロは、イタリアで、しばらく鑑賞用に珍重されたあとに、赤く実が色づくと食べることができるとわかり、現在のイタリアを象徴する食文化を支えるトマトへと交配を重ねて開発されました。

赤く色づくまえのトマトは光の加減によって黄金色に見えます


標本は、サイエンティストという言葉がなく「神の名において」物事は作られ給う時代に研究をした学者にとっては、広大な世界を見いだす断片、権力者には、それらの未知の世界の植物を、気候・土壌が近い場所を領有し植えて一攫千金を狙う手がかりと、植物標本は宝と考えられました。コレクションは「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」としてサロンとして機能し、権威の象徴ともなりました。

どれくらいお値打ちか?
標本を蒐集することで世界が明らかになると、大学併設の植物園・ミュージアムを作り植物園・標本作りに勤しんだパイオニアは、ウリッセ・アルドロヴァンディ(1522-1605年)です。
ボローニャ大学には大航海時代に彼が蒐集した植物標本が10巻を超える数、保存されています。

ナポレオンがイタリア遠征で、アルドロヴァンディ標本を全てフランスに持ち帰ろうとしたエピソードからは、19世紀になお、植物のおし葉標本に値打ちが見出されていたことが伺えます。
人々は、「自然の劇場(Theatrum Naturae)」と、彼のミュージアム・コレクションを呼びました。現在は、ボローニャ大学にはこのミュージアムは存在せず、ボローニャ大学ポッジ宮殿博物館で蒐集品を見ることができます。

┗ 2. 「オランジュリー」

標本を動物・植物・鉱物・動物で世界を表現すると「博物誌」を提唱したのはビュッフォン(1707-1788年)です。
立派なオランジェリー(オレンジを育てる温室)が、ヴェルサイユに1684-1688年に作られていたとのこと。

2013年にヴェルサイユ宮殿で開催されていた「標本」を軸にした展覧会の模様
ヴェルサイユ宮殿の壮麗な庭園を抜けた先に、標本採集の道具が展示されていました
「王の花」というタイトルで、道具に加えて植物イラストも満載でした

┗ 3. 王立植物温室へ

温室が中立ちの役割をしたことで知られるのは、コーヒーの木の物語。
フランスでコーヒーが最初に人々を虜にした時期には、諸説あるようですが、決定的タイミングとして知られているのは1669年。
ルイ14世期(在位1643-1715年)で、オスマン帝国のスルタン・メフメト4世の使節としてパリに長期滞在した外交官スレイマンが、宮廷の貴族たちにコーヒーを振る舞った記録があります。そこからコーヒーが大ブームになりました。

宮廷人がカフェインの虜になる中、イスラム商人がコーヒーをモカ港経由で高値で売っているのだから、その苗木を入手し、同じ気候帯の植民地で育てて一儲けしたいと人々が考えるのは自然な成り行きでした。

アムステルダムから、こっそりと苗木を得た貴族がルイ14世に献上し、パリの王立植物園ジャルダン・デ・プラント(今の自然史博物館)にコーヒーの苗が届いたのは1715年。温室から持ち出したコーヒーの木を植える先として選ばれたのはマルティニークでした。1723年に、ガラスケースに入れられた状態で船で運ばれ島に到着、カリブ地域での最初のコーヒー栽培の例となります。
ちなみに、マルティニークでは、フランス革命期に一度絶えた標本を現代の技術で蘇らせる試みを上島珈琲(UCC)とのコラボ事業として推進していて、当初は、東京オリンピックでお披露目される予定でした。

柑橘、つまり「オレンジ」は、ヨーロッパ諸国でとても珍しがられ、生きた植物標本を置いておくオランジェリー、つまり温室が各地で作られます。1759年に作られたイギリスの王立キューガーデンはよく知られています。
柑橘の苗をそだてて実をならせること、温室空間をサロンとして利用することが流行って、熱帯への関心が高まりました。
フランス革命を挟んでも、その熱は冷えることがなく、1853年には、チュイルリー公園の一角に柑橘類を冬の寒さから守るための温室「オランジュリー」が作られました。ベルギーの王立の見事なラーケン温室が作られたのは1873年です。

ベルギーの王立植物園の温室
一年に2週間だけ公開されます
「オランジュリー」の時代と鉄とガラスのアールヌーボーの共存は見応えがありました
夜の訪問者で長蛇の列を我慢して入場しました


ちなみに、フランスのオランジュリーが、モネの絵画「蓮池」を置く美術館としての利用に転じられるのは1927年です。ということは、ガラスと鉄骨でできた温室への関心が薄れる時期が、ミュージアム転換工事が始まった1920年あたりとなります。
この頃には、フランスは世界中に植民地があり、寒いフランス本土の温室で標本を持たなくても、さまざまな気候帯の「フィールド」で開発をしたらいいとなっていたと考えることができます。

■ Ⅱ. 「島は徹底的に標本化する」企てと牧野富太郎の裏切り

┗ 4.「ジパング」:標本化のターゲットから島の領有と標本化する主体へ

「ジパング」という言葉は、島への憧憬を人々がこめて日本を呼んだ名称です。ジパング開国で知られる黒船で来航したペリーは、大量の植物標本を持ち帰りました。彼が、採集した植物とともに米国に持って行った様々な日本の伝統や生活を伝える「標本」は、スミソニアン博物館などで見ることができます。日本が、主要列強から、標本化ターゲットの目玉だったことはあまり知られていません。

アルドロヴァンディの時代から続くこの活動に、近代国民国家としての整備を大々的にすすめていた日本が、ターゲットから転じて横一列に加わるのは、第一次世界大戦後です。欧米列強が世界を「支配・管理」するために用いた知のシステムが「植物標本」でした。ここに、日本も参画していきます。京都に植物園・熱帯温室が作られる時期は1924年。
だいぶ遅いです。大杉栄が、時代の空気に逆らって「自由への意志」を表現した「僕は精神が好きだ」は読むと、自由を求める書き手の緊張感と覇気が伝わって来ます。彼がアナーキストと呼ばれ殺された翌年、1924年1月1日に、京都の植物園・熱帯温室は作られています。

100年前、植物園は単なる憩いの場ではなく、熱帯資源(カカオやゴムなど)を管理・研究するための「帝国のショーケース」でもありました。

┗ 5. 時代に飲み込まれなかった牧野富太郎という植物学者


ユニークな現代建築で知られる高知県立牧野植物園
高知県立牧野植物園は五台山にあります

ここまで、「世界の標本化」という16世紀以来の大々的なプロジェクトがあり、ジパングはその標的だった、ペリーは1853年に開国させ、このレースで先頭に躍り出たことを紹介しました。
日本は、その後、領有・標本化へと、自ら向かいます。
この怒涛の時代を「植物学者」として生きたのが牧野富太郎(1862-1957年)でした。人物については、2023年に放送された「らんまん」でも知られるところです。

牧野富太郎は、「世界の標本化」という波に、日本が乗ろうとするその時期に、植物学者として日本で研究を始めていました。植民地化した台湾に地域研究使節が送られる際に、牧野富太郎も加えられていますので、一見すると日本の「植物から資源へ」との熱に乗ったようにも見えます。


「天然ゴム」ができるまでが資料館で展示されていました
日常に溶け込んでいますがゴムは重要な資源
標本とともに
輪ゴムをパサっと展開していました

ところが、牧野富太郎は、領有・標本化には微塵も関心を示さなかったようです。欧米研究者の多くは、植民地化ののちに統治のための地域研究のため現地に派遣され、調べる作業から、名著を世に送り出します。この「植民地化・統治のための現地調査」の土台の上で研究がすすめられたことについては、研究者は無言ですが。


温室は小ぶりではありました
ところが入り口が気持ちいい〜
いきなり光のシャワーに思わず見上げます
しかもシダ類の壁にドキドキして入場

牧野富太郎は、列強国が「世界の標本化」という活動とともに日本の門戸を開いたことを、知らなかったのでしょうか?この大きな歴史のうねりに、牧野博士はそれほど関心を示した形跡がなく、ひたすら日本の植物研究に邁進しました。帝国大学ができた時に立派な履歴書と人のつながりがあったわけではなかった博士は、生涯助手として仕事をしてもいます。
牧野富太郎著『なぜ花は匂うのか』(平凡社)によると、彼にとってポイントは、自ら「美しい花の中にかくされた複雑な神秘の姿」の虜になることのようです。
彼は、日本の植物を次々に採集し、1500を超える新種を名付けたとされています。「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます」と、日本の植物を徹底的に調べるだけでなく、植物採集には、いつも蝶ネクタイと三つ揃えのスーツででかけていた。植物への奥深い想いが伝わるエピソードです。

温室内にはカフェコーナーがあります

そんな彼が26歳(!)の時以来こだわってライフワークとしてすすめた企画が「図鑑」づくりです。『牧野日本植物図鑑』は、牧野富太郎が私財を投じて長年集めた膨大な植物標本と観察記録をもとに、1888年に自身の私家版として刊行開始、その後、1940年に出版社(北隆館)から集大成として出版されました。
そして、彼のこの著作から「図鑑」という文化が日本に定着します。
一般の愛好家や子供たちでも名前が調べられるように、モノの名前をビジュアル資料としてわかりやすく並べた図鑑は大ベストセラーとなり、研究室に収まりきらなかった牧野博士のビジョンが後世に大いなる遺産を残しました。

温室に話を戻すと、「日比谷公園全体を温室にしたい」「帝都の真ん中に類のない一つの温室」をと、1944年のエッセイで述べてもいらっしゃいます。
牧野博士が狂気のごとく集め、文字通り命を吹き込んだ植物標本たち。彼が残した標本は「静止した命」となったわけですが、現代の表現者の手によって、全く新しい形で動き出すことになります。

■ Ⅲ. 武藤政彦『標本の記憶』

┗ 6.平面から「時間のアート」へ : ムットーニとの出会い

シュールな「鶏おとこ」(リトグラフ)。今はなき国立会館には巨大な油絵がありました

ムットーニこと武藤政彦さんに、最初にお会いしたのは、銀座の青木画廊でした。日本のシュールレアリズムの聖地とされる知る人ぞ知る画廊です。「時間のアート」━珠玉のボックスシアターが並んでいました。
広告業界で仕事をしていたその頃、人々の意識を鷲掴みにする広告が霞んで見えるような表現に、後に再度コンタクトをとり、アトリエにお伺いするようになりました。

武藤さんとお会いしてお聞きしていた印象に残っている言葉があります。川崎・横浜にあるような猥雑な世界は大事なんだと。照明の中に浮かび上がるバニーガールに象徴される世界、救済を告げにくる天使を覗き込むのだと。美術館での美術の見方も教えていただきました。「ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムには、アメリカの富豪が集めて寄付した名画ばかりで美術史がまるごとわかるコレクションがあるから行ってごらん」と。懐かしい思い出です。

武藤さんは、イタリア旅行でフレスコ画を丁寧に研究され、抜群の絵描きとして二次元の油絵からある時粘土をこねて3次元の立体に形を与えたら「人形が動き出すではないか」と、「からくり」の仕組みから息を吹き込み、4次元のアートを作り出した。
ラフォーレ原宿を筆頭に、彼の展覧会が大掛かりになっていく中で、武藤さんは、照明と音楽に合わせて粘土で作った人物が動くオートマタに口上を添える表現スタイルは維持され、人々を虜にしました。

┗ 7. 牧野富太郎を表現した『標本の記憶』へ

「時間のアート」の土台を支えるギア設計図(プレゼン資料より)

武藤さんが、牧野植物園に納品された牧野富太郎のオートマタに出会ったのは、「植物園・博物誌と島」に関する研究にチャレンジしていた時です。
すでにミュージアムから依頼を受ける仕事をされていた時期の作品だったとはいえ、牧野富太郎という、「標本化」の波がペリーとともに日本を襲った明治時代に、「ジパング」で、自国の植物を愛でコレクションすることへの偏愛に生きた人物です。武藤さんは『標本の記憶』と題して、独自の解釈で人物を再現しました。

ムットーニ作品って、荒俣宏さんの言葉が綴られる『Muttonismo』の通り、西洋由来のオートマタに因んで紹介されます。私は、むしろ日本で400年来続く「からくり」を土台にしたところが凄いのではと、興奮するMuttoniファンです。
作品制作に際して、武藤さんが牧野植物園に提案する際に用意されたプレゼン資料を見せていただきました。からくりの動きを作るギアは、アートを支える知性そのものでした。

┗ 8. からくりの歴史

大津祭りの曳山はひとつひとつのからくりにテーマがあります

からくりの歴史は、とても古くて、江戸時代に遡ります。
滋賀県の大津市に残る町屋街を、町民が引っ張って山車を運行させる大津祭り、昨年も見てきました。この秋祭りでは、豪華な曳山、コンチキチンの囃子に加えて精巧なからくりが、13基全部異なるテーマで展開します。ユネスコ無形文化遺産にも登録されました。

山車「西王母山(せいおうぼざん)」は不老長寿の桃を持つ中国の伝説の西王母に因んでいます

精巧な作りのからくりが町屋前の曳山で動くひととき、目撃しました。
https://www.instagram.com/p/DPuYOK2Ewn-/

大津祭りは、江戸時代初期(慶長~元和年間)に鍛冶屋町の塩売治兵衛が狸の面をかぶって踊ったことが由来とされる、約400年の歴史を持つ祭りです。からくりは、17世紀初頭(1662年)に初代竹田近江が大阪道頓堀で旗揚げした「竹田絡繰り芝居」が大きな転換点とされています。それ以前から続く祭礼用(山車からくり)の技術に加え、技術的な指南書『機巧図彙』の普及 により、ゼンマイ仕掛けの座敷からくり(茶運び人形など)が発展しました。

┗ 9. 『標本の記憶』へ


『標本の記憶』は四半世紀前に制作された作品

ムットーニの作品は、日本のからくりの伝統が基礎にあるとは思えないほどファンタジック。切り取られたシーンに魅了されます。
高知県立牧野植物園にあるムットーニのオートマタは、世田谷文学館にある文学作品をモチーフにしたものとも、人形の動きからドラマを表情豊かに魅せるのとも、どれとも違っています。

資料館である牧野富太郎記念館は、設計は建築家の内藤廣氏が手掛けました。1999年に開館したこの建物は、サスティナビリティをテーマに、鉄骨となにより杉の集成材を組み合わせた構造に圧倒されます。第13回村野藤吾賞など数々の賞を受賞しました。

広い博物資料室に置かれたムットーニ劇場『標本の記憶』は、15分ごとに動きます。
アーティスト武藤さんによるナレーションは、日本中で、牧野植物園にあるボックスシアターにだけ準備されています。

主役の現役の牧野富太郎を取り囲む標本のひとつひとつが精巧なミニチュア

分厚い標本、ドライフラワー(!!!)から、生きたお花が浮かび上がってくる劇場演出は、それはドラマチック。
左右には、それぞれ幼年時代、老年期の博士が表現されています。

土佐は亜熱帯気候の植物も見られる奄美群島と並ぶ植物研究者にとってのパラダイス

牧野博士の作った植物標本は、美しくて評判が高いものです。そのミニチュアを見るだけでも、目を凝らしてしまいます。

晩年のエッセイには『なぜ花は匂うか』があります

記念館にある「牧野富太郎の生涯」展示室は、牧野博士が残した貴重な資料の展示により、博士の実像と業績を伝えるオーソドックスな表情に、ムットーニの作品が加わって、植物に恋をした博士の物語に惹き込まれます。

制作秘話を、館長に伺いました。
1996年3月11日、展示基本設計の大詰めの時期に、展示アドバイザーの荒俣宏氏を仕事部屋に訪ねられたとのこと。
荒俣氏からは、独学で誰にも真似できない世界を構築した牧野博士を表現するのなら、ただ博士の人生を追うのではなく、博士を独自の視点でとらえて、ひとつの作品としても成立するような人形で描いてはどうかとご提案を受けたとのこと。

『Muttonismo』 ではモノクロのラフスケッチがプレゼン資料ではカラーで一面に描かれています

そしてムットーニこと武藤政彦氏を紹介され、すぐに国立のアトリエに見学に行ったと。
武藤氏は、「オートマタというヨーロッパの伝統的なからくり人形の影響を受けながら独自の自動人形のスタイルを発明した作家で、独特の世界観を持ち、見るものを作品の世界に引き込みます。微妙な間を取り、かすかに動くメカニズムは、歯車一個から動きの制御、BGMの作曲、照明計画など、すべてが氏の手作りで仕上げられている」と、感嘆した当時を振り返っていらっしゃいました。
「武藤氏は、それまでは、創作のストーリーを作る作家であり、ひとりの実在の学者をテーマに物語を作るということは初めての挑戦であり、博士との距離の取り方に非常に悩まれた」とのこと。

作品は、ある夜、植物学者が研究を続けているとき、不思議なことが起こるというストーリーで、もうひとつの牧野博士の一夜の夢が繰り広げられます。企画から完成まで、約2年かけて仕上げたそうです。
作品には、「ひとつの標本からはじまる富太郎の夢。それは植物から富太郎への贈り物・・・富太郎の生涯は植物だけが知っている」とのムットニーの言葉が添えられています。
しーんとした植物学の世界とは思いなされぬように。大いに裏切られる白熱したインパクトに、驚かされます。

「標本」を「記憶」との言葉で繋いだムットーニの作品は、列強が16世紀来追い求めた「世界の標本化」そのものを、記憶の彼方に眺めているようにも見えます。
高知の牧野植物園にしかないムットーニの特別な物語。
アート表現から「世界の標本化」との企てに牧野富太郎をして反転させているような。
ミュージアムのガラスケースから、いま標本が解放されることが続いています。武藤さんのオートマタは、光と影から、死んだ標本たちの記憶に息を吹き込み、アートと科学の世界をブリッジしているようです。

* 資料提供:高知県立牧野植物園、協力および資料提供: 武藤政彦氏

**六本木でのムットーニ展については、こちらに。



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