小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(36)引きずり込まれて
Chapter36
「鏡の中へ⋯⋯!! 吸い込まれるっ!?」
水中での浮力とは異なる不思議な身軽さがレナを包み込むと同時に、鏡から発せられる凄まじい吸引力が彼女を捉えた。全身が引き裂かれそうなほどの衝撃に襲われていたが、彼女の右手にしっかりと握られた金色の斧は、その力に抗うかのように微動だにしなかった。
「腕が⋯⋯ちぎれそう!! でも、この斧を離すわけにはいかないっ!!」
レナの体は徐々に「別の空間」へ姿を現し始めた。その場所は、釣り竿の男性と威圧的な男がいる池のほとりだった。男の右手のひらが大きく開かれ、そこへ先ほどと同じく大きな鏡が出現し、中から彼女の左手が水飛沫を巻き上げながらゆっくりと現れ始めた。姿が完全には現れないことに男はやや不満げな表情を浮かべ、鏡に向かって言った。
『その抵抗ぶり⋯⋯何かを隠しているか、守っているようにも見える。ふむ⋯⋯やはり秘密を握っている、か?』
レナはこの鏡の中の空間が、池の上とこの陸地を繋げていることを理解した。そして金色の斧と、それを握っている右手だけが、まだこの側の空間に入ることを拒否し続けていた。
『ようやく出てきたか。さて、娘よ⋯⋯お前に一つ問う。その未だ鏡の中から現れない「右手」に持っているものは何だ?』
そこから無理やり身体を引きずり出されながら、レナは苦痛の表情で目を瞑り、水中での彼らの会話を思い出した。その中で、「金色の斧」について触れてしまったことを決して明かしてはならないと直感し、薄目を開けてその威圧的な男の顔を見つめつつ彼女は答えた。
「私は⋯⋯何も、知りません⋯⋯!!」
男と目があったその瞬間、レナは急ブレーキをかけられた時のような強い重力を感じ、鏡の中から抜け出してそのまま前方へ転がり抜けた。右手に掴んでいたはずの斧がなくなっていることに気づいた彼女は、びしょ濡れのまま上体を起こし慌てて周囲を見回した。
『私が握っていたのは秘密ではなく、「ただの斧」でした、か。なるほど、いいオチだ』
そう言った男の足元に転がっていたのは金色の斧ではなく、何の変哲もない古びた斧だった。起きあがろうとするレナを介抱しようと駆け寄った釣り竿の男性は、彼女の顔を見下ろすと安堵の表情を浮かべた。
「あなたは⋯⋯やっぱり釣り竿さん!」
釣り竿の男性はすぐさま目線を逸らして、再び威圧的な男の方を振り向き困惑したレナを庇うように言った。
「ダン様! 彼女の持っていたその斧は私が探していた「祖父の斧」です! 私の為に、見つけてくれたのでしょう!」
レナはダンと呼ばれるその男を見てたじろいだ。彼のこだわり抜かれた光沢のあるオールバックの髪型、表現し難いほどの冷酷な表情と鋭い眼差し、そして筋肉質な体格が高級感のある黒いスーツと相まって、センシティブかつ支配的な姿で彼女を圧倒した。そして彼は足元の斧をつまらなそうに拾い上げて、命令するように言った。
『ずぶ濡れの姿では、演技に支障が出る。娘よ、そこに立ってこれを使ってみろ』
両手をついて座り込んでいるレナの目の前に、ただの古びた斧が放り投げられた。次の瞬間、彼女の濡れていた髪や冷たく重い制服は完全に乾いていた。

