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【つの版】度量衡比較・貨幣224

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越中の隣、能登国です。

石川県

◆能◆

◆登◆


能登概略

 能登国は北陸道に属し、現在の石川県北部にあたります。日本海に突き出した巨大な半島(能登半島)で、東・北・西の三方は海に囲まれ、南東は越中国、南西は加賀国に接しています。富山県北西部の氷見市は地理的に能登半島に含まれるものの、能登国には含まれません。海抜300-500m前後の山々が連なり、陸路での交通は困難ですが、古来海運により栄えました。

気象庁の石川県の区分

 古くは南西の羽喰はくい国、北東の能等のと国に分かれ、各々に国造がいましたが、大化の改新後に高志国の一部、続いて高志前国(越前国)の一部とされました。しかし広大で国府から遠かったため、養老2年(718年)に越前国から羽喰・能登・鳳至ふげし珠洲すずの4郡が分けられて能登国が成立しました。加賀国が越前国から分けられて成立したのは100年以上後の弘仁14年(823年)です。

 羽喰郡は寛文11年(1671年)に羽咋郡と改称されました。現在の石川県河北郡津幡町の一部、かほく市の一部、羽咋郡の宝達志水町と志賀町、羽咋市の大部分と七尾市の一部を含み、海辺には能登国一宮気多大社があります。能登郡には能登国府(現七尾市古府町ないし府中町)が置かれ、後に鹿島郡と改称されました。現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部にあたり、能登島を抱えるように七尾湾が開け、天然の良港として栄えました。

 鳳至郡は現在の鳳珠郡穴水町と能登町の一部、輪島市にあたり、珠洲郡は能登町の東端部と珠洲市にあたります。能登半島北部の両郡は「奥能登」とも呼ばれ、陸路での交通は困難ですが、海運により栄えた土地です。能登町の真脇遺跡は6000年前の縄文時代から4000年間存続し、住民はイルカ漁を盛んに行っており、東北地方などとも海路を通じて交易を行いました。『出雲国風土記』には「高志の都都(珠洲)の三埼から三穂埼(美保関)を引っ張って来た」という国引き神話があり、出雲とも関係が深かったようです。奈良時代から平安時代にかけては渤海国の使節がしばしば到来しました。

能登畠山

 平安時代には摂関家の荘園が設立され、鎌倉時代には執権北条氏の分家が守護をつとめてその権益を握りました。鎌倉幕府が滅亡すると、能登守護には源範頼(頼朝の弟)の末裔を称する吉見氏が任じられます。のち吉見氏が失脚すると明徳2年(1391年)に畠山基国が守護となり、以後畠山氏が能登守護職を世襲しました。ただし畠山氏は幕府の重臣として在京し、家臣が守護代として実際の統治を担っています。

 基国の子のうち満家は足利義満に疎まれて失脚し、弟の満慶が家督と領国を受け継ぎましたが、応永15年(1408年)に義満が薨去すると、満慶は兄に家督と領国を返還しました。満家は感謝のしるしとして満慶に能登一国を与え、その子孫は能登畠山家として栄えました。しかし満家の子の持国は晩年に御家騒動を勃発させ、応仁の乱の原因の一つを作ることとなります。

 満慶の子の義忠、その子義有は和歌を嗜む文化人として知られましたが、義有は父に先立って亡くなり、義有の子義統が家督を相続しました。彼は応仁の乱では西軍につき、乱が終結すると京都を離れて能登に入り、守護大名として割拠しました。また京都から能登に下向した文化人を庇護し、加賀を制圧した一向一揆と戦うなど文武両面で活躍しています。

 明応6年(1497年)義統が没すると、子の義元が跡を継ぎました。しかし守護代の遊佐統秀は他の重臣らとともに義元の弟の慶致を擁立し、明応9年(1500年)義元を越後に追放しました。これは明応の政変で足利義材(のち義尹)が北陸に亡命し、細川政元と争った影響によるものと思われます。義元は越後守護の上杉房定の娘を妻としており、房定没後に越後の実権を掌握していた守護代の長尾能景を頼りましたが、細川政元は一向一揆をけしかけて牽制し、永正3年(1506年)能景は越中で戦死します。

 翌年に政元が暗殺されると、義尹改め義稙は周防の大内義興に擁立されて上洛し、将軍に返り咲きます。能景の子為景に庇護されていた義元は義稙派であったため、これを好機として能登に帰還し、越中の神保氏の支援も受けて能登守護に復帰しました。慶致は隠居しますが、義元は慶致の嫡男義総を養嗣子とし、ともに上洛して義稙に仕えることとなります。

 永正12年(1515年)義元が逝去すると義総は家督を継承し、実父の慶致と10年間共同統治を行ったのち20年間単独統治しました。義総は積極的な国作りを行い、居城を府中から七尾城に移して増築し、天下屈指の堅城としました。また文化人や商人・職人を保護して城下町に住まわせ、宝達金山の開発に取り組み、海路の流通を支配して領国を富み栄えさせたのです。

七尾城乱

 天文14年(1545年)7月、畠山義総が55歳で没すると、子の義続が跡を継ぎます。しかし翌年には加賀に追放されていた叔父が一向一揆の助力を得て能登に攻め寄せ、これが収まった天文19年(1550年)には桃井直信の子孫を称し輪島を領する温井総貞を筆頭とする7人の重臣が結託し、七尾城の義総を攻撃します。翌年義続は家督を嫡男の義綱に譲って隠居させられ、総貞ら7人の重臣(畠山七人衆)がこれを傀儡として実権を掌握しました。

 義続は義綱の後見人としてある程度の権力を確保し、復権を画策します。まず天文22年(1553年)末には七人衆のうち3人が一向一揆と結託し、総貞を追い落として実権を握ろうとしました。これが打ち破られると他の3人の重臣が七人衆に加わりますが、総貞は子の続宗に七人衆筆頭の地位を譲り、自分はその上に立とうとします。義続・義綱はこれを利用して対立を煽り、弘治元年(1555年)総貞を誅殺しました。遊佐続光は義続らに呼び戻されますが、温井続宗らは畠山晴俊を擁立して反乱を起こします(弘治の内乱)。

 この反乱は永禄3年(1560年)まで5年間続き、最終的に鎮圧されますが、永禄9年(1566年)には遊佐続光らによって義続・義綱とも国外追放され、義綱の子で元服前の少年であった次郎(義慶)が傀儡として擁立されます。義続・義綱は近江守護の六角義賢(妻が義続の姉妹、娘が義綱の妻)を頼って近江坂本に逃げ延び、永禄11年(1568年)に能登復帰を目指して挙兵しますが失敗します。傀儡とされた畠山義慶は天正2年(1574年)に急死し、弟の義隆が擁立されますが2年後に毒殺され、義隆の子の春王丸が擁立されました。また実権を握った重臣たちも、織田信長につくか上杉謙信につくかで内輪揉めを起こし、能登は甚だ不安定な状態となります。

 天正4年(1576年)9月、上杉謙信は呼号2万の大軍を率いて越中に侵攻、これを制圧します。続いて能登に侵攻し七尾城を包囲しますが、堅牢ゆえになかなか落とせず、支城を落とし将兵を配置して一時撤退しました。畠山軍はこの隙に反撃しますが、翌年謙信は能登へ再び侵攻し、七尾城を包囲しました。親織田派の家臣ちょう続連つぐつらは信長に援軍を要請し、信長は柴田勝家を総大将とした援軍を派遣しますが、七尾城内には疫病が蔓延し、春王丸らも病没します。親上杉派の遊佐盛光(続光の子)らは城内で反乱を起こして城門を開き、上杉軍を迎え入れました。七尾城は陥落し、親織田派はことごとく誅殺され、能登は謙信の手に落ちます。義続と義綱はまだ生きていますが復権は果たせず、ここに10世12代170年近く続いた能登畠山氏は滅亡しました。

基国―満慶―義忠―義有―義統―慶致―義総―義続―義綱―義隆―春王丸
               義元          義慶

 謙信は勢いに乗じて加賀に攻め込み、駆けつけた織田軍を撃破しますが、翌天正6年(1578年)3月に越後で急死します。さらに天正8年(1580年)に一向一揆が信長と和睦すると、柴田勝家らは一気に越前・加賀・能登・越中を平定し、能登は勝家の与力・前田利家に与えられました。

能登前田

 天正9年(1581年)、能登一国の領主として七尾城に入った利家は、港に近い小丸山に城を築いて移りました。また城の周辺に29の寺院を建立して砦としています。翌天正10年(1582年)には柴田勝家・佐々成政らとともに越中の魚津城を攻めますが、6月に本能寺の変が勃発し、主君織田信長が横死しました。利家は急ぎ能登へ戻りますが、上杉景勝は能登奪還のため越後に逃げ込んでいた温井景隆らを支援し、挙兵させます。能登石動いするぎ山の修験者らもこれに呼応しました。

 利家は加賀の佐久間盛政らに援軍を要請し、協力して反乱を叩き潰しました。この頃には羽柴秀吉が主君の仇の明智光秀を倒し、清洲会議で主導権を握ります。利家は柴田勝家の与力として翌年の賤ヶ岳の戦いにも参戦しますが、戦線離脱して秀吉に降伏し、戦後に秀吉から加賀北半国2郡を授かりました。利家は加賀金沢城に移って実兄安勝を七尾・小丸山城代とし、翌年に越中から攻め寄せた佐々成政の軍勢を撃退させています(末森城の戦い)。

 天正13年(1585年)越中が平定されると、利家の子利長は越中4郡のうち3郡を賜り、前田家は一族で加賀・能登・越中の三国にまたがる大大名となりました。文禄3年(1594年)安勝が没すると子の利好が跡を継ぎますが、利家は利長の弟利政を七尾・小丸山城主とし、次いで能登一国21万石を分与します。慶長4年(1599年)利家が没した時、利政は22歳でした。

 関ヶ原の戦いに際して前田家は家康に与し、利長・利政は越前の西軍諸侯と戦いますが、海路で金沢が攻撃されるとの噂を聞いた2人は一時撤退し、利長は再び出兵したものの利政は動きませんでした。本国を守ろうとしたのかも知れませんが、戦後に利長は「利政が西軍に与した」と家康に訴え、利政は改易されて領国は利長に与えられました。利政は京都嵯峨に隠棲して宗悦と号し、子孫は宗家に仕えています。これより270年間、能登は加賀前田家の領国となりました。

 能登畠山氏の旧臣のうち、最後まで存続したのが長氏です。鎌倉幕府の御家人で穴水城主となった長谷部信連の後裔といい、畠山七人衆にも名を連ねました。長続連の三男は出家して臨済宗の門に入り、宗顒と称して孝恩寺の住職となりましたが、僧形のまま戦場に出て戦い、親上杉派を敵に回して活躍しました。上杉謙信が七尾城を囲んだ際、孝恩寺宗顒は織田信長に援軍を要請するため海路で派遣されましたが、援軍が来る前に城は落ち、能登畠山氏と親織田派は皆殺しにされていました。宗顒は織田軍を後ろ盾として兵を率いて各地を転戦し、上杉方についた遊佐氏らを討伐して復讐を遂げ、還俗して連龍つらたつと改名し、信長から所領を授かって家督を相続しました。そのまま能登を領した前田利家の家来・娘婿となり、転戦して功績を挙げ、最終的に鹿島郡3万3000石を領する大身となって、元和5年(1619年)数え74歳で大往生しています。子孫は代々加賀前田家の最上位の重臣として3万3000石を相続し、明治維新後は男爵に列しました。

◆能◆

◆登◆

【続く】

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