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【つの版】度量衡比較・貨幣225

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越中と能登の隣、加賀国です。

石川県

◆勧◆

◆進◆


加賀概略

 加賀国は北陸道に属し、現在の石川県南部にあたります。北は能登国、東は越中国と飛騨国、南は越前国と境を接し、東は日本海に面しています。もとは高志前(越前)国に属し、奈良時代に能登国が越前国から分離した後、平安時代の弘仁14年(823年)に江沼郡加賀郡を割いて設置されました。令制国の中では最も遅く成立しています。設立の理由は越前守の紀末成が「国府(現福井県越前市)から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができず逃散し、国司の巡検も難しい」と上奏したことによります。実際越前市から金沢市までは100㎞ほどもあり、国府の位置が南に寄り過ぎていますから、国を分けるのは理にかなっています。

気象庁の石川県の区分

 江沼郡は加賀国南部にあたり、古くは江沼国造が置かれていました。加賀国創設後の弘仁14年6月に北部が能美郡として分けられ、江沼郡は現在の加賀市全域および小松市の一部、能美郡は残る小松市の大部分と能美市全域、白山市の一部を含むこととなります。なお天正8年(1580年)から明治5年(1872年)まで、白山麓の16村は越前国大野郡に編入されていました。

 加賀郡は加賀国北部にあたり、古くは加我国造が置かれていました。弘仁14年6月に南部(浅野川以南)が石川郡として分けられ、室町時代から加賀郡は「河北郡」と呼ばれています。石川郡は現在の白山市の大部分、野々市市全域、金沢市の浅野川以南(金沢城など中心市街地を含む)、加賀郡/河北郡は金沢市の浅野川以北、河北郡内灘郡と津幡町、かほく市の大部分を含みます。石川県の名は県庁所在地となった金沢が石川郡にあったためで、石川は能美郡と石川郡、つまり旧加賀郡と江沼郡の境をなす手取川の古名です。

 手取川は加賀と飛騨の境をなす白山に源を発して北流し、白山市鶴来地区付近で西へ折れ、東西10㎞・南北60㎞の金沢平野の中心をなす扇状地を形成し、日本海に注ぐ大河です。海岸には砂丘が発達して多くの潟湖(江沼)を作り、江沼郡の名の由来ともなりました。人々は古代より潟湖のほとりに住み着いて魚介や水鳥を食糧としてきましたが、手取川など諸河川は毎年のように氾濫して洪水を引き起こし、渡るのに手間取るゆえ(あるいは手に手を取って渡ったゆえに)手取川と呼ばれたともいいます。

 手取川など諸河川の水源地である白山は、恵みも災いももたらす神として古くから崇められ、奈良時代には修験者の泰澄によって神仏習合した霊場が開かれました。平安時代には加賀・越前・美濃に道場が設けられ、比叡山延暦寺の末寺となって衆徒三千と称されるほど繁栄しています。

 また手取川の河口には本吉湊(美川港)が形成され、室町時代には越前国坂井郡の三国湊、能登国鳳至郡の輪島湊、越中国新川郡の岩瀬湊、越後国頸城郡の今町湊(直江津)、出羽国秋田郡の土崎湊、陸奥国津軽の十三湊とともに「七湊」に数えられ、日本海交易の拠点として栄えました。

富樫一族

 源平合戦の時、木曽義仲は越中国と加賀国の境の倶利伽羅峠で平家の軍勢を打ち破り、勢いに乗じて加賀国に攻め入りました。平維盛率いる平家軍は撤退して加賀国南部の江沼郡篠原(現加賀市篠原)に陣を敷きますが、義仲は休息していた平家軍を少ない手勢で襲撃し、再び散々に打ち破りました。義仲の恩人であった斎藤実盛は平家方におり、この地で討死しています。

 義仲は上洛して平家を駆逐しますが、後白河院と対立し、翌年に源範頼・義経らに追討されます。義経の兄頼朝は加賀国石川郡富樫郷(現野々市市北東部から金沢市高尾地区にかけて)の豪族で藤原利仁の末裔と称する富樫泰家を加賀守護に任じました。のち義経が兄と対立して京都から密かに脱出した際、加賀国江沼郡の安宅(現小松市安宅)で富樫泰家に見咎められます。ここはかけはし川の河口にある渡し場です。

 義経らは修験者に扮し、東大寺の再建のための勧進(募金活動)を行っていると称していましたが、泰家は「ならば勧進帳を読み上げよ」と命じます。武蔵坊弁慶は白紙の巻物を勧進帳としてすらすらと読み上げ、疑いをかけられた義経を打擲し(『義経記』ではこの先の越中国如意の渡しでのこととします)、見事に泰家を欺いて通ったといいます。泰家はこれにより守護職を剥奪され、北陸道勧農使の比企朝宗が加賀守護に任じられました。承久の乱の後は執権北条氏の分家である名越氏が代々守護職をつとめています。

 鎌倉幕府滅亡後、富樫泰家の子孫である高家が加賀守護に任じられます。次いで子の氏春、孫の昌家と続き、嘉慶元年(1387年)昌家が没すると弟の満家が跡を継ぎます。しかし室町幕府管領で越前・越中守護職を持つ斯波義将は満家から加賀守護職を取り上げ、弟の義種に与えてしまいました。応永15年(1408年)に義種が没すると子の満種が跡を継ぎますが、応永21年(1414年)に加賀守護職を没収されます。

 富樫満家の子である満成は将軍足利義持の近習となっており、満種に代わって加賀守護に任じられます。しかし彼には満春という兄がいたため、満成は加賀南半国(江沼郡と能美郡)、満春は北半国(石川郡と河北郡)の守護とされました。かくて27年ぶりに富樫氏が加賀守護に復帰します。応永26年(1419年)に満成が政争に敗れて追放・殺害されると、満春は加賀南半国の守護職を兼任しました。

 満春が没すると子の持春が継ぎますが、彼は永享5年(1433年)に21歳で早世してしまい、子がなかったので弟の教家が跡を継ぎます。ところが嘉吉元年(1441年)に将軍足利義教の怒りを買って解任され、弟の泰高が加賀守護に任じられます。しかし教家の解任から6日後に義教が暗殺され(嘉吉の乱)、教家は幕府の有力者である畠山持国を後ろ盾として泰高に家督の返還を要求します。義教が暴君とはいえ将軍の命令でしたから、泰高はこれを拒否し、畠山持国の政敵である管領の細川持之を後ろ盾として対抗します。

 ところが嘉吉2年(1442年)細川持之が管領を辞して出家し、同年に逝去します。管領には畠山持国が就任し、泰高は加賀守護職を解任され、教家の子成春に加賀守護職が授けられました。成春はまだ幼いため後見人の教家が実質的な守護となります。泰高はこれを不服として加賀から退去せず、在地勢力を味方につけ、細川氏を後ろ盾として頑強に抵抗しました。

 文安2年(1445年)細川持之の子勝元が管領に就任すると、泰高派は勢力を盛り返し、教家・成春を加賀から追い出します。2年後には勝元と持国の間で妥協が成立し、成春は加賀北半国、泰高は南半国の守護となりました。持国没後の長禄2年(1458年)に成春が再び追放され、勝元の命令により赤松政則(当時3歳で法師丸と称す)が加賀北半国の守護職となります。教家は出家して泰高と和睦し、成春は失意のうちに4年後に没しました。

富樫泰家―…―高家―氏春―昌家 満春―持春
             満家―満成 教家―成春―政親
                   泰高―泰成

富樫政親

 寛正5年(1464年)泰高は隠居し、子の泰成は病弱であったため、家督は成春の子の政親に譲られます。赤松政則も在地領主の抵抗が強く統治の難しい加賀半国を手放し、応仁の乱に乗じて父祖の旧領であった播磨や備前の奪還を狙ったため、政親はようやく加賀一国の守護職となりました。

 ところが政親の弟の幸千代が西軍の甲斐敏光に擁立されて挙兵し、政親を加賀から追放してしまいます。敏光は越前守護・斯波義廉の家臣で越前守護代でしたが、将軍足利義政は同じ義廉の家臣である朝倉孝景を越前守護代に任じて西軍から東軍に寝返らせたため、敏光は征伐に向かいますが撃退されて加賀に逃げ込みました。富樫幸千代はまだ元服していない少年ですから、彼に人質兼傀儡として無理やり担ぎ上げられたのでしょう。

 この頃の北陸諸国には浄土真宗が布教されており、その一派の高田派が勢力を持っていましたが、同じく北陸へ教勢を伸ばしつつある本願寺派とは対立関係にありました。そして高田派が甲斐敏光・富樫幸千代側に味方したため、政親は本願寺派に支援を要請したのです。本願寺派を率いる蓮如はこれに応じ、敏光は幸千代を連れて越前へ去っていきました。

 ところが戦後に政親は本願寺門徒の勢力拡大を恐れて弾圧を行い、加賀の門徒は越中へ逃げ込みます。さらに各地の国人衆も本願寺と結託し、隠居していた70歳過ぎの富樫泰高を擁立し、政親が近江へ出陣している隙を突いて挙兵しました。政親は急いで帰国しますが、長享2年(1488年)本拠地の高尾城を包囲された末に子の家延ともども自害しました。泰高はやむなく家督を再び継承しますが、実際の加賀の支配権は蓮如の3人の息子に握られ、傀儡に過ぎませんでした。これより天正8年(1580年)までの90年余の間、加賀は「百姓の持ちたる国」であった、とされます。

其後加州ニ、叉富樫次郎政親、イトコノ安高(祖父の兄弟の泰高)ト云ヲ取立テ、百姓中合戦シ、利連ニシテ、次郎正親(政親)ヲ討取テ、安高ヲ守護トシテヨリ、百姓トリ立富樫ニテ候アヒダ、百姓等ノウチツヨク成テ、近年ハ百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候コトニテ候。

実悟記拾遺下

 この言葉は、蓮如の10男で加賀にいた実悟が記したものを出典としています。百姓と言っても一般庶民には権力はなく、国人衆や地侍、豪農や富豪たちが一向一揆と結びついて庶民を支配していたに過ぎませんが、ありようとしては人民もとい宗教結社による自治共和国のようではあります。あくまで「のよう」であり、建前として富樫氏の守護職が存続してはいますが。

富樫滅亡

 永正元年(1504年)以前に富樫泰高が没すると孫の恒泰が跡を継ぎ、将軍足利義稙(永正10年/1513年に義尹から改名)の偏諱を授かって稙泰と改名します。この頃本願寺派/一向一揆は蓮如没後の混乱や越前・越中での敗戦、後ろ盾であった細川政元の横死などで勢力を衰えさせていましたが、蓮如の6男の蓮淳が教団を改革して権勢を拡大します。これに反発した加賀一向一揆の指導者たち(賀州三ヶ寺/小一揆)は加賀・能登・越前の守護勢力と結託し、享禄4年(1531年)蓮淳政権に対して反旗を翻します。

 富樫稙泰は賀州三ヶ寺に味方して挙兵しますが、敗れて越前に亡命し、坂井郡金津城主の溝江景逸に身を寄せます。享禄5年/天文元年(1532年)には一向一揆が畿内で暴徒化し、蓮淳の制止も無視して興福寺を襲撃したため、蓮淳の後ろ盾であった管領の細川勝元は変心して一向一揆の弾圧に踏み切ります。これにより加賀の門徒は畿内へ駆けつけ、稙泰は加賀野々市に息子の泰俊を派遣して奪還しますが、天文4年(1535年)本願寺と幕府の和議が成立すると加賀にも門徒が帰還し、泰俊は金津城へ戻りました。

 同年稙泰は自害に追い込まれ、泰俊の弟泰縄(晴貞)が家督を継いで本願寺と和睦し、苦労しながら野々市に勢力を保ちます。元亀元年(1570年)、富樫晴貞は将軍足利義昭から加賀の賊徒討伐の命令を受け、義昭を擁する織田信長に呼応し挙兵しますが、同年のうちに一向一揆に鎮圧され自害しました。泰俊も天正2年(1574年)越前一向一揆に金津城を攻められて自害し、平安時代から続いた富樫氏は滅亡します。

 この時、泰俊の9歳の息子家俊は家臣団に護られて加賀へ落ち延び、後藤弥右衛門と改名して石川郡押野村(野々市北部)に住み着いて郷士となりました。のち織田信長の家臣・佐久間盛政が加賀に入ると、これに仕えて戦功をあげ、300石の所領を授かります。彼の子孫は加賀前田家に仕えて代々周辺の村々の長(十村肝煎)をつとめ、加増を重ねて2000石余の所領を賜り、第二次世界大戦後まで押野を治めました。明治時代に養嗣子をとったため直系は断絶していますが、現在も金沢市内で医師として存続しています。

富樫泰家―…―高家―氏春―昌家 満春―持春    幸千代
              満家―満成 教家―成春―政親
                   泰高―泰成―稙泰―泰俊―家俊

◆富◆

◆樫◆

【続く】

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