【つの版】度量衡比較・貨幣226
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は加賀国の続きです。


◆前田◆
◆利家◆
手取川戦
長享2年(1488年)に加賀守護の富樫政親が加賀一向一揆に攻め滅ぼされて以来、加賀国は本願寺派の僧侶らが事実上支配する、いわゆる「百姓の持ちたる国」となりました。傀儡としていた富樫氏の生き残りも反旗を翻して討伐され、北陸の一向一揆は越中・加賀・能登・越前に勢力を広げ、東の上杉謙信、南の織田信長を脅かす大勢力となります。
本願寺門主の顕如は摂津国大坂の石山(現大阪城)に総本山を構え、濠と塀で囲まれた堅牢で巨大な宗教自治都市(寺内町)を治めていました。北陸や畿内のみならず、三河や伊勢長島など全国各地に門徒(信者)による寺領を有し、その経済力と軍事力、宗教的権威は数多の戦国大名を凌ぐほどでした。足利義昭を奉じて上洛した織田信長でしたが、義昭の兄・義輝を殺した三好三人衆はこの巨大な宗教勢力と結託し、信長と対立したのです。
この石山合戦は元亀元年(1570年)から10年も続きました。越後の戦国大名・上杉謙信は、一向一揆が祖父の仇であることから盛んに越中へ侵攻し、信長と同盟しています。信長はまず北陸へ進出し、一向一揆と手を結んでいた近江の浅井長政、越前の朝倉義景を次々と打倒します。さらに伊勢長島や越前の一向一揆とも激しく戦い鎮圧し、越前から加賀南部へと侵攻します。この間に足利義昭は信長と対立して鞆の浦へと逃れ、本願寺や諸国の大名に信長討伐を呼びかけました。
上杉謙信はこれに応じ、天正4年(1576年)顕如と和睦して信長との同盟を破棄しました。越中・能登の反上杉勢はこれにより力を失い、謙信は同年のうちに両国の大部分を制圧します。しかし能登の七尾城に籠る親信長派の要請に応じて、信長は柴田勝家を総大将とする4万の援軍を派遣しました。
この援軍には滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・前田利家・佐々成政・堀秀政・金森長近ら錚々たる武将が名を連ねていましたが、秀吉は総大将の勝家と作戦を巡って仲違いし、無断で兵を撤収させています。また謙信による情報の隠匿や大雨により進軍は思うように進まず、天正5年(1577年)8月8日に出陣した軍勢は1ヶ月余り後の9月11日に前衛が津幡まで進出したものの、本陣はまだ手取川を渡る前という有様でした。謙信は別動隊を派遣して800人ほどを討ち取らせ、15日には水軍と内応により七尾城を落城させます。
さらに謙信は七尾城から南下して手取川の北の松任城に入り、渡河中の織田軍を待ち構えます。これを聞いた勝家は直ちに撤退を命じますが、全軍がすでに川を渡った後であるため手間取り、増水した手取川に飲み込まれて多数が命を落とします。上杉軍は逃げる織田軍を追って越前北部の九頭竜川まで到達した後、兵を返して能登へ戻りました。織田軍は加賀南部の大聖寺城などに兵を入れて守りますが、加賀北部は上杉軍の手に落ちます。
玄蕃盛政
この時、御幸塚(現石川県小松市今江町)の砦に立て籠もったのが佐久間玄蕃允盛政です。彼は柴田勝家の姉の子にあたり、数え24歳の若武者で、手取川の戦いの前年から始まっていた加賀征伐でも活躍しています。天正6年(1578年)に上杉謙信が越後で急死し、後継者争いが勃発しますが、加賀の上杉軍は一向一揆と手を結んで頑強に抵抗し続けました。
天正8年(1580年)閏3月、朝廷の仲介により本願寺は信長と和睦します。加賀でも停戦が命じられますが、これに従わぬ一揆勢が抵抗したため、勝家は盛政らとともに加賀へ侵攻します。4月には加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊(後の金沢城)が陥落し、残党は別の城に移って抵抗しますが攻め滅ぼされ、11月には加賀が平定されます。盛政は金沢城主となって加賀の北半国2郡(石川・河北)を授かり、一向一揆の残党と激しく戦いました。同年の検地により、能美郡の白山麓16村は越前国大野郡に編入されています。
勝家らは勢いに乗じて能登・越中にまで侵攻し、上杉勢は越中東部でこれを食い止めることとなりますが、その矢先に本能寺の変が勃発します。勝家は直ちに越前へ撤退し、主君の仇討ちをせんと近江へ向かいますが、盛政は越中の佐々成政、能登の前田利家とともに北陸にとどまり、上杉勢や一向一揆の残党に立ち向かわざるをえませんでした。
清洲会議後に柴田勝家が織田信孝を奉じて羽柴秀吉と対立すると、盛政は父同然の勝家に付き従い、賤ヶ岳の戦いでは奮戦して敵将の中川清秀を討ち取ります。しかし実弟の柴田勝政が討死し、前田利家・金森長近らが兵を引いたため総崩れとなり、勝家・盛政らは越前へ撤退します。勝家は北ノ庄城まで逃げ延びたものの盛政は途中で捕まり、降伏を拒んで斬首されました。人々は彼を鬼玄蕃と呼び、豪勇を惜しんだといいます。
前田利家
佐久間盛政が処刑され、柴田勝家が北ノ庄城で自害した後、前田利家は盛政の領国であった加賀北部2郡を加増され、能登の小丸山城から加賀金沢城に本拠地を移します。彼は尾張国海東郡荒子村の土豪の四男でしたが、幼い頃から織田信長に小姓として仕え、槍の名手として戦場で活躍し、数々の手柄を立てて出世した武将でした。天正2年(1574年)からは柴田勝家の与力として北陸平定に尽力し、天正9年(1581年)より能登国主となっていましたが、上述のように賤ヶ岳の戦いで兵を引き、秀吉に降ったのです。
初めから内通していて寝返ったわけではなく、何人もの有力家臣を戦闘で失っていますし、越前府中城に籠城した後も秀吉軍に応戦していますから、普通に戦況が不利となって撤退しただけかも知れませんが、結果的に勝家を裏切ったことには違いありません。御家存続のため敵に降ることはよくありますし、利家は娘の豪姫を秀吉の養女とするなど付き合いもありました。
前田利家は佐久間盛政が名付けた金沢城の名を嫌い、尾山城と改名してそう呼ばせました。しかし金沢の名が定着していたため(実は文明年間/1469-87年にはすでにそう呼ばれていました)尾山城の名は普及せず、利家自身も諦めて金沢城と呼ぶようになったといいます。
利家はその後も秀吉に味方し、隣国越中で秀吉に反旗を翻した佐々成政と激しく争い、天正13年(1585年)に秀吉の大軍を招いて成政を屈服させました。秀吉は越中4郡のうち3郡を利家の子利長に与え、前田家の所領は加賀・能登・越中にまたがることとなります。続く九州征伐では子の利長を従軍させて畿内を守備し、天正18年(1590年)には参議に任じられ、伊達政宗や南部信直との交渉や小田原征伐などでも活躍しました。朝鮮出兵の際は徳川家康とともに秀吉の渡海を諫め、文禄3年(1594年)には毛利輝元・上杉景勝とともに従三位・権中納言に叙任されています。権中納言への任官は利家が2人に先んじ、官位の序列において上位に立ちました。
文禄4年(1595年)には上杉景勝が越中国東部の新川郡を利長に譲渡し、前田家の石高は加賀2郡と越中・能登の3国83万石余に達しました。同年には徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景とともに秀吉が定めた「御掟」に連署し、豊臣政権を支える所謂「五大老」の一人となっています。慶長3年(1598年)には老齢と病気のため利長に家督を譲り隠居しますが、秀吉は利長・家康らに子の秀頼を託して同年8月に没しました。利家は秀頼の傅役として大坂城に入り、家康は伏見城に入ります。
しかし家康は「御掟」を破って伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則らと婚姻政策を結び、利家や毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・石田三成らと対立します。利家は家康と和解しますが病状が悪化し、慶長4年(1599年)閏3月に数え62歳で没しました。家督と五大老の地位は嫡男の利長が相続しますが、権力の天秤は大きく家康に傾き、関ヶ原の戦いへ向かうこととなります。
丹羽長重
加賀国のうち南部の江沼郡と能美郡は、賤ヶ岳の戦いの後に丹羽長秀に与えられていました。彼は柴田勝家と並ぶ織田家の重臣で、山崎の戦いや清洲会議などでは一貫して秀吉につき、勝家が領していた敦賀を除く越前の大部分と若狭および加賀南半2郡を授かったのです。このうち江沼郡の大聖寺城には家来の溝口秀勝、能美郡の小松城には村上頼勝が入りました。ところが天正13年に長秀が没すると、秀吉は長秀の子長重に難癖をつけて加賀2郡と越前の所領を没収し、若狭1国15万石に縮小しました。
丹羽長重の転封後、越前北ノ庄18万石は堀秀政に与えられ、大聖寺城の溝口秀勝、小松城の村上頼勝は秀政の与力として江沼・能美各郡に引き続き配属されます。九州征伐には長重も従軍しますが、「家臣の狼藉の疑い」という難癖をつけられて若狭国まで取り上げられ、加賀国石川郡松任城4万石の領主に成り下がります。父祖伝来の家臣団も取り上げられましたが、天正16年(1588年)には利家らともども豊臣姓を下賜されています。
天正18年(1590年)の小田原征伐で堀秀政が病没すると子の秀治が跡を継ぎ、丹羽長重は従軍の功によって加賀国能美郡小松城12万石に加増転封されました。この時に従三位・参議・加賀守に叙任されたため「小松宰相」と呼ばれますが、村上頼勝が国替えされたわけではなく、そのまま堀秀治の与力として存続しています。
慶長3年(1598年)蒲生騒動で上杉景勝が陸奥会津等へ国替えされると、堀秀治が越後へ国替えとなり、溝口秀勝・村上頼勝もその与力として越後北部へ国替えされます。江沼郡・能美郡は越前北ノ庄城主となった小早川秀秋に与えられ、その家臣であった山口宗永が江沼郡大聖寺城主となり、丹羽長重は小松城に入りました。関ヶ原の戦いが勃発すると、山口宗永・丹羽長重はともに西軍に与し、前田利長と戦うことになります。
利長は弟の利政ともども東軍に与し、2万5000もの大軍を率いて加賀南半2郡へ攻め寄せます。大聖寺城はたちまち陥落して山口宗永は自害しますが、丹羽長重らが籠る小松城は攻め落とせず、利長は越前へ進軍します。この時敦賀に入った大谷吉継は攪乱のため「別動隊が海路で金沢へ向かっている」と虚報を流し、動揺した利長は撤退を開始しました。丹羽長重らは小松城の東の浅井畷で前田軍を襲撃し、被害を与えましたが取り逃しています。
間もなく利長は態勢を整えて再び加賀南部に侵攻し、長重と和議を結びますが、関ヶ原の本戦で西軍は大敗を喫し、家康は大坂城に入りました。戦後長重は改易され、利長は大聖寺領と小松領を賜って加賀一国をほぼ領有します。また利政は2度目の出陣に参加しなかったため改易され、その所領も利長に与えられます。ここに前田利長は加賀・能登・越中の3国にまたがる約120万石(表高は119万石余)の大大名となったのです。
丹羽長重はしばらく蟄居しますが、3年後に常陸古渡1万石を授かって大名に復帰します。大坂の陣では武功を挙げて将軍秀忠の御伽衆となり、元和5年(1619年)に常陸江戸崎2万石、元和8年(1622年)に陸奥棚倉5万石、寛永4年(1627年)に陸奥白河10万石に加増転封されました。長重は白河入りの10年後に没しますが、子の光重は5年後に陸奥二本松に転封され、廃藩置県まで11代230年にわたり存続しました。
◆加◆
◆賀◆
【続く】
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