【つの版】度量衡比較・貨幣223
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越中国の続きです。

◆薬◆
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前田利長
佐々成政の後、越中国西部の射水・礪波・婦負3郡は前田利家の嫡男利長に与えられました。すでに数え24歳で、父の監督は受けたものの独立の大名となり、独自に家臣団を編成しています。富山城は破却されたため、居城は射水郡の守山城(現富山県高岡市守山)としました。ここは南北朝時代から存在した要害の山城で、南には小矢部川が流れて天然の濠をなし、富山平野と北の氷見の間を守る要衝です。
残る新川郡は佐々成政が肥後に転封されると上杉景勝に与えられます。しかし文禄4年(1595年)に景勝が会津へ国替えされると、新川郡も利長の所領となりました。慶長3年(1598年)利長は父から家督と加賀領を譲られ、翌年3月に父が没すると、いわゆる豊臣政権の五大老の座も引き継ぎます。同年の検地による石高は、越中が38万石、加賀が35万5000石、能登(利長の弟利政が相続)が21万石で、合計94.5万石に達しています。ただし加賀西南部の大聖寺城6万3000石は小早川秀秋の家臣山口宗永が、同じく小松城12万石は丹羽長重(丹羽長秀の長男)が領していました。
天正19年(1591年)、秀吉は越中国新川郡布市1万石を土方雄久に授けました(布市藩)。雄久は織田信雄の家臣として偏諱を賜り、小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対しましたが、信雄が改易されると秀吉に仕えています。前田利家の妻まつは彼の母方の従姉妹にあたるともいいます。雄久は2万4000石まで加増されますが、慶長4年(1599年)家康暗殺を企てたとして改易され、常陸の佐竹義宣に預けられました。
利長は徳川家康に母を人質として差し出し、異母弟で養嗣子の利光と家康の孫娘を婚約させて衝突を回避しますが、前田家中では豊臣家への恩義から家康に与することを良しとせぬ者もいました。慶長5年(1600年)に毛利輝元・石田三成らが家康を討伐すべしと諸侯に呼びかけると、越前や加賀南部の諸侯はこれにつきます(西軍)。しかし利長は家康に応じた土方雄久の勧誘により家康方(東軍)につき、7月に兵を率いて金沢を出発すると、小松城・大聖寺城を制圧して越前に迫ります。ところが「別動隊が敦賀から海路で金沢へ向かっている」との偽情報に動揺し、金沢へ撤退しました。8月末には再び出陣しますが利政は動かず、関ヶ原の戦いで家康が勝利すると利長は「利政は西軍についていた」と訴えて改易させています。
戦後、家康は利政を改易して能登一国を利長に与え、大聖寺領・小松領も授けて加賀・能登・越中3国を利長の領国とします。これと検地により利長の領国の合計石高は120万石を超え(公的には119万石余)、徳川家に次ぐ国内最大級の大大名となったのです。さらに利長は富山城を再建して隠居城とし、加賀金沢城から移住しました。これは加賀・能登には父や弟の旧家臣団が多く、家督相続以前から治めていた越中の方が安心できたためと思われます。大大名になったとはいえ、家中の分裂はなお深刻でした。
慶長10年(1605年)、利長は13歳の利光を伴って上洛し、従四位下・侍従・筑前守の官位と松平の名字を賜ります。同年に隠居して利光に家督を譲り、新川郡19万石を領しますが、後見人として実質的に藩政を主導します。慶長13年(1608年)には先の功績により布市領を安堵されていた土方雄久と交渉して能登国石崎に国替えさせ、布市領も手中に収めます。
しかし慶長14年(1609年)3月に富山城が火災で焼失し、利長は魚津城へ一時移った後、9月には射水郡関野に高岡城(現高岡市古城)を築いて移りました。翌年から腫物の病(梅毒か)を患い、慶長16年(1611年)には隠居領から10万石を加賀藩へ返納、慶長19年(1614年)53歳で病没しました。遺領は利光が相続し、高岡城は翌年破却されています。その後も高岡の城下町は存続し、軍事拠点として町奉行の管理下に置かれました。
徳川秀忠の娘婿である利光は大坂の陣に参戦して功を挙げ、加賀・能登・越中3国を安堵されます。寛永3年(1626年)従三位・権中納言に叙任され、寛永6年(1629年)には将軍家光の諱を避けて「利常」と改名、寛永16年(1639年)に家督を嫡男光高に譲ります。この時、自らの隠居領として加賀小松22万5000石をとり、次男の利次に越中富山等の10万石、三男の利治に加賀大聖寺7万石を分与し、加賀前田家本藩は近江の飛び地を合わせて公称102万5000石となりました。これより13代230年続く富山藩の創設です。
前田利次
成立当初の富山藩の領地は、越中国婦負郡のうち6万石、新川郡のうち黒部川西岸の浦山辺1万6800石と富山町(旧富山城下町)周辺7村の3170石、加賀国南部の能美郡のうち手取川南岸の2万石、合計10万石です。ただし富山城と城下町は火災から再建された後も加賀藩領内に留め置かれ、利次はこれを借りて越中入りし、神通川西岸の婦負郡百塚に新たに城を築く予定でした。これが完成すれば富山藩ではなく百塚藩と呼ばれたはずです。
正保元年(1644年)、前田利次は藩法「小松御条目」を制定し、さらに新田開発、治水工事などを積極的に行なって藩政の基礎を固めました。ところが分家の際に本家から過大な家臣団を押し付けられ、10万石のうち9万石は家臣の知行という有様で、成立時から藩財政は逼迫していました。それゆえ築城の費用すら捻出できず、万治2-3年(1659-60年)に加賀藩と交渉して富山城を譲り受けています。またこの時に富山城周辺の新川郡舟橋・水橋2万7000石と、飛び地領の浦山辺領および能美郡領を交換し、婦負郡全域180村と新川郡64村(現富山市西部と射水市)が藩領として確定しました。越中38万石のうち10万石を占める富山藩はこうして成立したのです。

利次は幕府の許可を得て富山城の改築と城下町の整備を行い、家臣団を整理して財源を捻出し、35年の治世ののちに延宝2年(1674年)58歳で病没しました。
前田正甫
延宝2年(1674年)、前田正甫は25歳で父利次の跡を継ぎ、父の方針を受け継いで富山藩政の確立につとめました。新田開発や治水工事による生産力向上も行いましたが、越中国の穀倉地帯である礪波郡、良港がある射水郡、鉱山がある新川郡の大部分は加賀藩が抑えています。そこで正甫は殖産興業に力を注ぎ、但馬から製鉄技術を導入しました。また越中富山の代名詞である薬売り(売薬)の基礎も、彼の時代に築かれています。
正甫には腹痛の持病があり、備前岡山藩の御抱え医師であった万代家から「反魂丹」なる胃腸薬を手に入れて服用していました。天和3年(1683年)正甫は万代家当主の常閑を富山に呼び寄せて処方を学び、独自に調合させて印籠に入れ、常時携帯することとなります。元禄3年(1690年)、江戸城で腹痛に苦しんでいた陸奥三春藩主の秋田輝季にこれを服用させたところ、たちまち快癒したので諸国の大名に評判となり、富山売薬の行商が全国に広まるきっかけとなった、との巷説がありますが、史料的裏付けはありません。
ともあれ、正甫は富山城下の製薬商・薬種業者を保護し売薬を奨励して、全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を発布しています。古来そうした商売をしていたのは、香具師と呼ばれる行商人でした。もとはそのまま「こうぐし」と読み、香を入れる道具や香、ひいては薬を広く売り歩いていた人々です。彼らは目立つために華美な身なりをし、軽業・曲芸などの大道芸を披露して客を呼び集めましたが、薬を売るため薬師とも呼ばれ、転じて「やし」と呼ばれるようになったともいいます(諸説あり)。
さらに遡れば、全国を行脚して修行する修験者/山伏がルーツとも言われます。越中南部の立山は古来修験道の聖地であり、護符や牛王宝印などを諸国を越境して配布することが中世以来認められていました。山には薬草がありますし、それを薬として加工し配布・販売することは布教の一手段でもありました。浅草の香具師であった松井家に伝わる『越中富山反魂丹之記』によれば、家祖の松井玄長は修験者として立山奥の院に参籠していた時、立山権現の化身である一老翁から薬草の調合を教わったといいます。
正甫はこうした薬の行商に目をつけ、藩の公認によって信用性を付与し、全国各地へ販路を広げさせたのです。また「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴しない寒村僻地にまで赴け」と訓示を述べ、藩の看板を背負う以上は信頼できる商売をせよと命じました。この「用を先にし利を後にし」というのは、富山売薬の根幹である「配置販売」の基本となっています。
つまり先に各種医薬品を訪問先の家々に預けておき、半年後にまた来て確認し、代金(利)は消費した薬のぶんのみを後払いで受け取り、新たに薬を補充しておくというシステムです。当時は医薬品が高価なうえ流通も盛んではなく、山村には薬売りや医者も多くなく、常備薬を置くカネもありませんでしたから、この画期的なシステムは大いに受け入れられたのです。
値段は庶民向けに抑えられたとはいえ、薬は比較的高価であり、誰もが必要とし、なおかつ軽くて持ち運びに便利です。富山売薬は次第に販路を拡大し、顧客のデータベース(懸場帳)を蓄積して必要な品を揃え、情報の収集や伝達にあたり、富山藩に大きな利益をもたらしました。前田正甫は32年間在位して名君として讃えられ、宝永3年(1706年)58歳で逝去しました。
財政危機
ところが、富山藩の財政はここから下り坂となります。正甫の後を継いだ子の利興は藩政改革に着手し、藩士60名を辞めさせ、年貢の連帯責任制を強化して奢侈を禁止し、煙草や醤油などの流通統制を行って財政再建を行おうとしました。しかし正徳3年(1713年)には幕府から増上寺の手伝い普請を命じられ、翌年には火災で富山城本丸が焼失します。新田開発により享保年間には実高14万石にはなっていましたが、享保8年(1723年)には富山城の石垣普請のため1万7000石の借財を作ってしまいます。翌年には土蔵に籠居して隠居し、家督を弟で養子の利隆に譲りました。
利隆は倹約令や年貢取り立ての強化、銀札(藩札)の発行などで財政再建を目指しますが効果はなく、寵愛する家臣に加増を繰り返すなどして財政をさらに悪化させます。延享元年(1744年)逝去すると子の利幸が跡を継ぎますが、彼も財政再建に失敗し、宝暦12年(1762年)34歳で逝去します。子の利久は生まれたばかりであったため、弟の利與が跡を継ぎ、甥の利久を養嗣子としました。
しかし宝暦13年(1763年)の日光東照宮修理の手伝い普請で11万両もの負担を被り、安永2年(1773年)には飛騨の百姓一揆を鎮圧するために出兵を命じられ、安永4年(1775年)には甲斐の河川手伝い普請を命じられ、財政が破綻します。利與は家臣の知行借上や人員整理、人別銭や上米の徴収、株仲間の奨励などで乗り切ろうとしますが失敗し、明和9年(1772年)には打ち毀しが起きています。明和6年(1769年)に常願寺川の佐々堤周辺に水防林を整備し、安永2年には藩校を創設するなど善政も敷いていますが、安永6年(1777年)11月に41歳で隠居し、利久に家督を譲りました。
ところが利久は天明7年(1787年)26歳で逝去し、利與の子の利謙が跡を継ぎます。時に天明の大飢饉の真っ最中で、天明8年(1788年)には美濃や伊勢の河川の手伝い普請に駆り出され、藩財政はさらに悪化します。利謙は株仲間の認可や家臣の知行借上などを盛んに行いますが焼け石に水で、享和元年(1801年)に35歳で没しました。子の利保が幼少であるため、加賀藩のもうひとつの支藩である大聖寺藩から養嗣子として利幹が迎えられました。
彼も盛んに藩政改革を行い、天保4年(1833年)には大坂商人の石田小右衛門を招いて財政再建を委ねますが、西本願寺などの財政再建の実績がある彼をしても成功せず、利幹は2年後に利保に家督を譲り隠居しました。その後も財政は好転せず、利保の子・利聲は父と対立した末に加賀藩から養嗣子を取らされ、加賀藩の実質的支配下に置かれて廃藩置県を迎えています。
前田利家―利長―利次―正甫―利興 利與―利謙―利保―利友
利隆―利幸―利久 利幹 利聲―利同
◆薬◆
◆薬◆
【続く】
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