【つの版】度量衡比較・貨幣222
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越中国の続きです。

◆上杉◆
◆謙信◆
神保長職
永正17年(1520年)、越後守護代の長尾為景は越中新川郡代の椎名慶胤を討ち取り、射水・婦負郡代の神保慶宗を自害に追い込み、新川郡代を兼任します(慶胤の兄弟の長常が又守護代として統治)。慶宗の弟慶明は為景に味方して兄を討伐し、射水・婦負郡代を継承しました。これに対して一向一揆は砺波郡を拠点とし、加賀一向一揆の支援を受けて為景と戦い続けます。
本願寺中興の祖である蓮如が没し、敵の排除のため一向一揆を支援していた細川政元が暗殺されると、本願寺教団は混乱して分裂し、弱体化します。しかし蓮如の子の蓮淳が甥の証如を輔佐して教団を再びまとめ上げ、戦国大名に匹敵する軍事力と経済力によって中央政界にも関与するようになりました。室町幕府管領の細川氏は彼らを利用しつつも、諸侯や法華教団、反蓮淳派の門徒などをけしかけて牽制しました。蓮淳は加賀一向一揆の反乱を鎮圧して本願寺教団の支配下に再び組み込み、越中一向一揆も娘婿の実玄を一門衆に加えて、直属ではないにせよ支配下に置くことに成功しています。
天文5年(1536年)に長尾為景が隠居し、子の晴景が家督を継ぐと、自分を支持した国人衆に対して穏健な態度で臨み、宥和政策をとりました。神保慶宗の子長職はこれに乗じて勢力を伸ばし、天文12年(1543年)には新川郡西部に進出して神通川東岸に富山城(現富山市丸の内)を築きます。
ここは北陸街道と飛騨街道が交わる交通の要衝で、室町時代前期にはすでに城塞が存在したらしく、それを活用したものです。長職は先祖代々の居城であった放生津城からここに拠点を移し、松倉城(現魚津市鹿熊)に拠点を持つ新川郡又守護代の椎名長常と戦い始めました。両勢力は国人衆を巻き込んで越中を二分し、これを「越中大乱」と言います。さらに長職は飛騨と越中の境を抑える婦負郡南部の城生城を包囲し、能登畠山氏の仲裁で停戦するまでに、東は常願寺川までを制圧するに至りました。彼は父の慶宗と同じく越中・加賀の一向一揆を後ろ盾とし、仇敵長尾氏に反旗を翻したのです。
椎名氏の後ろ盾の長尾氏はこの頃家中が分裂しており、天文17年(1548年)末には晴景が弟の景虎(後の上杉謙信)に家督を譲らされています。彼は当初は越中には介入せず、越後の統一や武田晴信(信玄)、北条氏康との戦いに力を注ぎますが、晴信はこれに対して神保長職や一向一揆を支援し、景虎を西から脅かそうと図りました。晴信の妻・三条の方の妹(如春尼)は本願寺門主の顕如(証如の子)に嫁いでおり、両者は景虎に対抗するため同盟を結んだわけです。かくて永禄2年(1559年)、神保長職は越中一向一揆と連合して新川郡に攻め込み、松倉城を攻撃します。
椎名康胤
この頃、椎名氏の当主を継いでいた康胤(慶胤の子か)は景虎に救援を要請し、景虎は翌永禄3年(1560年)3月に初めて越中に侵攻、神保長職らを撃退して富山城を攻め落とします。長職は砺波郡の増山城に立て籠もり、堅牢な防御に景虎も攻めあぐね、能登畠山氏の仲介で和睦しました。同年5月に今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、景虎はこれに乗じて関東に出陣し、関東管領の上杉憲政を奉じて小田原北条氏を攻撃します。椎名康胤はこれに従軍しますが、長職はこの隙に椎名氏の領土へ攻め込みました。
長尾景虎は鎌倉で関東管領の職務と上杉家の名跡を受け継ぎ、上杉政虎、ついで輝虎と改名していましたが、関東制圧が成らぬうちに武田信玄らに背後を脅かされ、越後に撤退します。永禄5年(1562年)には越中に繰り返し出陣して神保長職を屈服させたものの、関東や信濃にも繰り返し出兵して戦わねばならず、越中の制圧は椎名康胤と、その養子とした長尾小四郎景直に委ねています。長職は常願寺川流域から撤退しますが、能登畠山氏や武田信玄、一向一揆を後ろ盾として射水と婦負の両郡の支配権は確保し、増山城を居城として割拠し続けました。輝虎は飛騨北部の豪族・江馬輝盛を味方につけ、常願寺川上流の中地山に城を築かせて南から長職らを脅かしています。
ところが永禄9年(1566年)能登畠山氏に内紛が起こり、畠山義綱父子が追放されると、神保長職は上杉輝虎と共同して彼らの復帰を支援しました。これは長職の宿敵である康胤の反発を招き、武田信玄と一向一揆はこれを好機として調略を仕掛け、味方に引き入れました。かくて永禄11年(1568年)3月、康胤はついに上杉輝虎に反旗を翻します。輝虎は大軍を率いて越中に侵攻、魚津城・金山谷城・松倉城・富山城を次々と陥落させ、康胤が籠る守山城を包囲しますが、5月には越後北部で本庄繁長が謀反し、あと一歩で兵を引くこととなりました。その後も輝虎は康胤を倒し切れず、越後や関東、信濃へ転戦しています。
新川郡には14世紀末頃から金・銀・銅・鉛などの鉱山があり、盛んに採掘されていました。松倉・河原波・虎谷・下田の金山、吉野・亀谷の銀山、長棟の鉛山は「越中の七かね山」と総称され、江戸時代前期まで日本有数の産出量を誇りました。最盛期には7つの鉱山から産出する金属だけで15万石の石高に匹敵する収入があったといい、これを擁する松倉城は南北朝時代から戦国時代まで200年余にわたり繁栄したのです。周辺諸勢力が新川郡を手に入れようとしたのもこれが原因です。
神保長職は家臣の小島職鎮ともども上杉派につきますが、寝返りがつきものの戦国乱世といえど、長年反上杉/長尾派で頑張って来た神保氏が上杉氏に寝返るのはさすがに家中の反発を招きます。反上杉派は長職の子の長城や氏張を擁立して長職と対立し、家中は分裂しました。
元亀2年(1571年)に北条氏と和睦して駿河を制圧した武田信玄は、翌年徳川家康が抑える遠江と三河への大規模な侵攻作戦を開始します。さらに上杉謙信を牽制するため例によって加賀・越中の一向一揆を支援し、椎名康胤もこれに呼応しました。神保長職はこの頃には隠居して家督を長城に譲っており、神保氏も武田方について上杉氏と戦うこととなりますが、親上杉派は離反します。また関東では北条氏が上杉領へ攻め込みました。
しかし謙信は養子の長尾顕景率いる軍勢を関東に派遣して抑えさせ、信濃との境にも兵を配し、自らは1万の大軍を率いて越中へ出陣します。一向一揆は多数の火縄銃で武装しており、上杉軍と激戦を繰り広げますが、ついに打ち破られて撤退しました。椎名康胤は松倉城に籠城して抵抗を続けたものの、元亀4年(1573年)に武田信玄が病没すると支援が受けられなくなり、翌年正月に降伏しました。その後の消息は不明で、自害ないし討死したとも伝えられます。神保長城は増山城に籠り抵抗しますが、天正4年(1576年)に出奔して織田信長に身を寄せました。
神保長住
ようやく越中を平定した謙信は、そのまま能登に攻め込んで制圧します。能登の同盟者たちから救援要請を受けた織田信長は、柴田勝家を総大将とする援軍を派遣しますが失敗し、散々に打ち破られてしまいます。謙信は越後に帰還して遠征軍を編成しますが、天正6年(1578年)3月に急死しました。これにより長尾顕景改め上杉景勝と、北条氏康の子である上杉景虎の間に家督継承争いが勃発し(御館の乱)、景勝は武田信玄の子・勝頼と同盟してこれに勝利を収めました。
同年、織田信長は混乱に乗じて神保長城改め長国、さらに改め長住を美濃から飛騨経由で越中へ派遣しました。彼には信長の家臣・佐々長穐率いる兵が与えられ、国人衆を味方につけて増山城を奪還します。9月には斎藤道三の末子・利治が同じく飛騨経由で援軍に加わり、駐屯していた上杉軍を撃破します。斎藤利治は間もなく撤退しますが、神保長住は勢いに乗じて富山城を奪還、越中中部を制圧しました。越中の国人衆は次々と織田方に寝返り、天正8年(1580年)顕如が信長と講和すると北陸の一向一揆も勢いを失い、柴田勝家率いる北陸方面軍により加賀・能登は制圧されます。
間もなく勝家の与力・佐々成政が越中に入り、神保長住を支援して越中に残る上杉軍を攻撃します。新川郡の松倉城や魚津城はなお上杉方に属しており、勝家は佐々成政・前田利家・佐久間盛政らを率いてこれらを攻撃しました。なお長住は天正10年(1582年)3月に敵方に襲撃されて幽閉され、織田軍に解放されたものの失脚、その後の消息は不明となっています。同年には甲州征伐で武田家が崩壊、勝頼も自害に追い込まれますが、間もなく本能寺の変が勃発して織田信長・信忠が横死します。
佐々成政
天正10年(1582年)3月、織田信長の家来として越中一国の守護となった佐々成政は、尾張国春日井郡比良城(現愛知県名古屋市西区比良)の城主である佐々成宗(盛政)の三男として天文5年(1536年)に生まれました。佐々氏は宇多源氏近江佐々木氏の庶流で、尾張に移って斯波氏の家来となり、次いで織田氏に仕えました。成宗の嫡男政次は織田信秀に仕え、天文11年(1542年)には三河国小豆坂の戦いで功名を挙げましたが、桶狭間の戦いで戦死しています。次男の孫介はその4年前に討死しており、三男の成政が25歳で家督を継ぎました。
翌年には美濃攻めで功績を挙げ、永禄10年(1567年)には信長の近衛部隊(馬廻衆)である黒母衣衆の筆頭となります。その後も信長に付き従って各地を転戦し、長島一向一揆との戦いや長篠の戦いにも参戦しました。天正3年(1575年)9月、信長は越前12郡のうち8郡を柴田勝家に与え、府中近辺の2郡の収入を佐々成政、前田利家、不破光治の3人に与えて勝家の与力(軍事行動に際しての協力者)とします。勝家が加賀を平定すると利家は能登、成政は越中に入り、神保長住ら越中国人は成政の指揮下に入りました。
上杉謙信が没したとはいえ、当時の越中は越後の上杉景勝と織田勢が対峙する最前線にあり、成政は富山城を居城として軍備を増強し、臨戦態勢を整えていました。天正10年3月からは越中に残る上杉勢の拠点である魚津城を攻め、6月3日には落城させています。そこへ本能寺の変の急報が届き、動揺した織田勢は魚津城から撤退したため、上杉勢はこの隙に城を奪還します。これにより成政は越中から離れられず、明智光秀を討つどころではありませんでした。越前まで撤退した柴田勝家は上洛を図りますが、羽柴秀吉に先を越されてしまい、続く清洲会議では秀吉が主導権を握りました。
天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでも、成政は勝家方についたものの、前と同じ理由で越中を動けず、叔父平左衛門の率いる兵600しか援軍として出せませんでした。勝家が敗れると成政は秀吉に降伏し、娘を人質に出し剃髪して謝罪した結果、越中一国を安堵されます。魚津城の上杉勢も成政に城を明け渡して退去し、秀吉に恭順しました。翌天正12年(1584年)正月には従五位下・陸奥守に叙任されています。
同年に織田信雄・徳川家康の連合軍が秀吉に戦いを挑むと、当初は秀吉の召集に応じ叔父の平左衛門を派遣しますが、秀吉方が苦戦したため8月には信雄・家康方に寝返り、前田利家の領国となっていた加賀・能登に攻め込みます。しかし利家の反撃に遭って撃退され、東からは上杉景勝が秀吉に味方して越中に攻め込み、成政は敵中に孤立します。秀吉と信雄・家康が停戦すると、成政は真冬の飛騨・信濃を経由して(さらさら越え)遠州浜松に自ら赴き、再挙を促しますが断られたといいます。
天正13年(1585年)、秀吉は成政を討伐するため自ら10万の大軍を率いて越中に侵攻し、富山城を包囲します。成政は織田信雄の仲介で降伏し、新川郡以外の領土を没収されることで命は助けられます。ただし在国は許されずに妻子とともに大坂に移住させられ、富山城は破却され、郡内の諸城には前田氏や上杉氏の家臣が駐留して遺臣の蜂起に備えることとなり、事実上は越中の所領を失いました。のち秀吉は賄い料として成政に摂津能勢郡1万石を授け、御伽衆として仕えさせています。2年後には羽柴の名字も授け、九州征伐で功績を挙げたことから肥後一国を与えましたが、一揆を自力で防げなかったとして翌年切腹を命じ、摂津尼崎の幽閉地で自害させました。
成政唯一の男子・松千代丸は長島一向一揆と戦って夭折したといい、何人か養子をとったものの家督を継承させておらず、娘や姉などの子孫はいますが家督は断絶しました。水戸黄門に仕えた佐々木助三郎のモデルである佐々助三郎宗淳は、成政の姉の曾孫にあたります。
◆雪の◆
◆進軍◆
【続く】
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