【つの版】度量衡比較・貨幣227
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は加賀国の続きです。

◆加◆
◆賀◆
前田利光
加賀藩祖・前田利家は、正室であるまつ(芳春院)との間に2男6女を儲けました。長男の利長は家督を継いで越中および加賀半国を領し、次男の利政は能登を与えられましたが、関ヶ原の戦いで利政は改易され、利長は能登と加賀の南半国も授かって、父をも超える大大名となります。この利長の正室は織田信長の娘・永姫でしたが、彼女は跡継ぎを儲けることができず、側室が産んだのも娘のうえ夭折しました。利家は「利長の跡継ぎは利政に」と遺言していましたが、利政が改易されると利長は異母弟を養子とします。
前田利家には多くの側室がおり、彼女らが生んだ子らのうち3人の男子が成人しました。三男は慶長2年(1597年)に利長の命令で6歳の時に出家していたため、利長の養子となったのは四男の利光(のち利常)です。彼は利家が56歳の時に儲けた子で、この時は数え7歳に過ぎず、利長より32歳も年下ですから、異母弟とはいえ年齢的には父子ほども離れています。
母の千代(寿福院)は越前朝倉氏の家臣であった上木新兵衛の三女で、利家の正室まつの侍女でしたが、文禄の役で利家が肥前名護屋城に赴いた際に付き従い、懐妊しました。文禄2年(1594年)に生まれた男子は猿千代と名付けられ、越中国守山城代の前田長種(利家の長女の夫)に預けられて養育されます。利家は草津へ湯治に赴く途中で猿千代に面会し、彼を気に入って大小2刀を授けました。慶長5年(1600年)丹羽長重が利長と講和すると猿千代は人質として小松城に入り、長重が手ずから剥いた梨を振舞われたといいます。同年に利長は猿千代を養嗣子とし、元服させて利光と名乗らせます。
慶長10年(1605年)4月、数え13歳の前田利光は結納していた徳川秀忠の娘・珠姫(6歳)と婚儀を挙げ、源の姓と松平の名字を賜ります(前田氏の本姓は菅原)。珠姫の母の江(崇源院)は織田信長の妹の市が浅井長政に嫁いで生んだ娘で、珠姫の姉の千姫は豊臣秀頼の正室となっていますから、利光は秀忠の娘婿で秀頼の義弟ということになります。同年6月利長は隠居して家督を利光に譲り、後見人として実権を握り続けますが、慶長19年(1614年)53歳で病没します。この時利光は21歳でした。
同年に勃発した大坂冬の陣では、徳川方最大の2万人を率いて大坂に進軍します。しかし功に焦って独断で真田丸に攻撃をかけ、多数の死傷者を出して敗北しました。翌年の大坂夏の陣では雪辱を晴らすべく奮戦し、再び多数の死傷者を出しながらも多くの手柄を挙げて勝利しました。家康は「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を恩賞として授けよう」と感状を与えますが、利光は国替えを恐れて断り、加賀・能登・越中三国を安堵されたといいます。
前田光高
元和9年(1623年)、将軍秀忠は子の家光に家督と将軍職を譲り、父家康にならって大御所となります。家光の姉にあたる珠姫は3男5女を儲けたのち元和8年(1622年)に逝去していますが、前田利光は将軍の義兄となったのです。寛永3年(1626年)秀忠と家光が上洛した際には利光も上洛し、朝廷より従三位中納言に叙任され「加賀中納言」と呼ばれるようになりました。寛永6年(1629年)、利光は家光の諱を避けて「利常」と改名し、嫡男利高は同年に元服して家光より偏諱を賜り「光高」と改名しています。
寛永10年(1633年)、18歳の光高は家光の養女(実父は水戸藩主の徳川頼房)である大姫を正室に迎えます。寛永16年(1639年)、47歳の利常は家督を24歳の光高に譲って隠居しますが、後見人として藩政を輔佐し、隠居領として加賀小松22万5000石を分けます。さらに次男の利次に越中富山10万石、三男の利治に加賀大聖寺7万石を分与しました。これにより加賀藩領は80万石に減少し、小松領は後に戻されますが富山藩と大聖寺藩は支藩として存続したため、加賀藩の石高は102万5000石となります。
寛永20年(1643年)には大姫が待望の嫡男・犬千代を出産しますが、光高は2年後の正保2年(1645年)4月に数え31歳の若さで急死し、利常は家光の命令により孫の犬千代の後見人として藩政を輔佐することとなります。
十村改作
前田利常が制定した加賀藩の農政制度として有名なのが十村制です。これは実際は利常の先代の利長の時代、慶長9年(1604年)に始まったもので、おおよそ十の村を一つの単位(組)として管理・監督・徴税を行う者を任命して「十村(十村頭)」と呼んだことによります。十村には勢威と信望ある郷士・地侍・豪農などが任命され、藩の奉行と村役人(庄屋・肝煎)の中間にあって藩のために働き、農政の実務を担いました。実際には数十もの村を束ねる十村もおり、管轄範囲の石高は数千から1万数千石にも及びました。支藩である富山藩や大聖寺藩でも同様の制度が敷かれています。なお他国にも「大庄屋」という同様の役職が存在しました。
この制度が敷かれた背景としては、加賀藩の財政事情があります。前田利家が一向一揆を鎮圧した際には多数の門徒が処刑され、生産労働人口が大きく減少し、生き残った門徒たちは前田家に憎悪を抱きました。また前田家は代々徳川将軍家から警戒されており、度重なる普請や軍役を命じられ、家格を維持し家臣を養うために多額の出費を強いられたため、領内には常に重税がのしかかりました。
しかし徴税にあたる家臣や代官(給人)が年貢を取り立てようとすればするほど、百姓たちは反発して逃散し、一揆を起こすことになります。中世以来の国人衆や地侍、一向一揆が組織した自治共同体は領内に根強く残っていましたから、これを敵に回せばよろしくありませんし、幕府がこれを問題視して国替えや改易を命じれば前田家はおしまいです。そこで農村の監督と徴税を郷士や豪農に任せることにしたのです。藩士の知行地が少なくなるなど様々な弊害はあったものの、十村制は幕末まで存続しました。
十村制が定着した慶安4年(1651年)、利常は「改作法」という農政改革を行います。貧農の借金を帳消しとし、当座の食糧(作食米)や農具・種籾を購入するための銀(改作入用銀)を貸し付け、人口の余っている土地から乏しい土地へ百姓を移住させて農業生産力を向上するという試みです。この事業を徹底させるため改作奉行が設置され、十村はその下にあって実務を担い、利常自ら鷹狩りと称して領内を巡察する念の入れようでした。
また税率(免)を作柄によって変動させる方式(検見法)を改め、一定の税率に固定する「定免法」としました。これにより租税を納めた残りは百姓のものとなる仕組みと説明されましたが、税率自体はこれまでより上がっており、一所懸命に働いて収穫量を増やすことが求められました。耕作を怠ける者、租税を納めぬ者、改革に反対する者は農地と財産を没収されて村から追放され、十村の監督のもと再分配されています。
改作法の施行開始から6年間で米7万3000石、銀695貫目が融資されましたが、その効果はたちまち現れ、藩の税収は2割も増加し、融資したぶんはわずか1年で回収されました。利常はこれをもとでに治水事業や文化育成にも尽力して、加賀藩を大いに栄えさせたのです。藩主となって54年、隠居から20年後の万治元年(1658年)10月12日、前田利常は66歳で没しました。
利家―利長
利政
利常―光高―綱紀
前田綱紀
利常の孫・犬千代は、承応3年(1654年)12歳で元服し、将軍家綱より偏諱を賜って綱利、次いで綱紀と名乗ります。同時に正四位下・左近衛少将・加賀守に叙任され、万治元年(1658年)7月に保科正之の娘と結婚します。正之は徳川家光の異母弟にあたり、家光没後に家綱を輔佐して幕政を主導していた人物で、陸奥会津藩主として23万石を領していました。石高の面では加賀藩100万石にはつりあいませんが、血筋と経歴は申し分ありません。
婚儀を見届けた利常は同年10月に没し、16歳の綱紀は義父の保科正之を後見人として、引き続き藩政改革を行うこととなります。祖父から英才教育を受けて育った綱紀は文武両道の名君となり、十村制・改作法を推進して財政基盤を調えました。飢饉の際には生活困窮者を助けるための非人小屋(御救小屋)を設立し、2000人の貧民に米や医薬を与え、授産施設を設けて自立を促しています。このため荻生徂徠は「加賀に乞食なし、仁政というべし」と讃えました。また藩内の長寿者には扶持米を与え、苛烈な刑罰を減免して武断政治から文治政治へと移行し(これは保科正之の目指すところでした)、学問と文芸を奨励して書物奉行を儲け、多くの文化人を招聘して加賀藩の文化を振興しました。さらに祖父と同じく幕府に目を付けられないよう蓄財に励まず散財したため、下々にまで富が行き渡ったといいます。
正室の摩須姫は婚儀から8年後に没し、義父正之もその7年後に没しましたが、綱紀は享保8年(1723年)に隠居するまで66年の間藩政を主導し、翌年82歳の高齢で逝去しました。利常・光高・綱紀の治世は合計118年に及び、この間に藩政の基礎は固まったのです。
加賀騒動
綱紀の後を継いだのは、側室の子の吉徳です。元禄3年(1690年)生まれですから父が48歳の時の子で、家督を譲られた時には34歳です。三人の兄は全員夭折したため、生存していた男子のうちでは最年長者でした。1歳年下の弟利章は、すでに支藩の大聖寺藩の藩主を継いでいます。
この頃、加賀藩の財政は危機的状況にありました。大大名としての家格を保つためや幕府から仰せつかる御用を果たすための出費は大きく、利常や綱紀も幕府の警戒を恐れて蓄財せず散財し、100万石の石高はあれども米価の下落により実収入は減少し、過大な家臣団への俸禄が財政を圧迫していたのです。そこで吉徳は大槻伝蔵朝元を抜擢し、藩政改革を主導させました。
大槻家の先祖は奥州会津の蘆名氏の家臣であったといい、朝元の祖父長左衛門が鉄砲足軽として利常に仕え、朝元の父七左衛門の代には280石取りの士分に取り立てられていました。朝元は幼少時に金沢波着寺の小僧となりましたが、14歳の時から吉徳に御居間坊主(遊び相手)として仕え、終始近侍して寵愛を受けるようになります。吉徳が藩主になると数え21歳で還俗して元服し、伝蔵朝元、また内蔵允と称しました。
朝元は財政再建のため質素倹約と公費節減、新税制定を推進し、米相場に対する投機の改革を行い、ある程度の財政再建に成功します。吉徳は彼の功績を讃えて毎年のように加増を行い、家禄は3800石、家格は家老格まで上昇しました。当然ながら既得権益者である門閥層や保守派の反発を買い、前田利政の玄孫・直躬は吉徳や世子の宗辰に対して繰り返し朝元の排斥を訴えています。延享2年(1745年)に吉徳が没すると、後ろ盾を失った朝元は翌年失脚させられました。宗辰は延享3年(1746年)22歳の若さで急死し、異母弟の利安が跡を継いで重煕と改名しますが、延享5年(1748年)に彼と生母に対する毒殺未遂事件が発覚しました。
調査の結果、これは吉徳の側室の一人によるものとされ、さらに大槻伝蔵朝元が彼女と不義密通して起こしたものとされます。朝元はすでに家禄を没収されて越中国五箇山へ配流されていましたが、これを知らされた後に自害し、当該側室と彼女の産んだ男子らも死ぬまで幽閉されています。おそらくは藩内の保守派が仕組んだものと思われますが、大槻伝蔵は加賀藩政を牛耳ろうとした大悪人との巷説が流布され、大槻一派に対する粛清は宝暦4年(1754年)まで続くこととなります。
重煕は宝暦3年(1753年)25歳で没し、異母弟の重靖が跡を継いだものの同年に19歳で病没したため、異母弟の利篤が跡を継いで重基と改名し(のち重教)、明和8年(1771年)に31歳で隠居するまで18年間在位しました。この間藩政は前田直躬ら保守派に牛耳られ、財政改革は完全に頓挫します。重教の後は異母弟の治脩が藩主となり、享和2年(1802年)重教の子の斉広が家督を譲られて藩主となります。彼は20年間在位して藩政改革を行いますが結果が出ないうちに頓挫し、子の斉泰に引き継がれます。彼は尊王攘夷派を弾圧したため幕末維新期に加賀藩は国政に深く関わることはできませんでしたが、その莫大な財産は侯爵となった前田家に引き継がれ、第二次世界大戦後に9割が没収されたものの、現代まで家が続いています。
利家―利長
利常―光高―綱紀―吉徳―宗辰
重煕
重靖
重教―斉広―斉泰
治脩
◆加◆
◆賀◆
【続く】
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