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【つの版】度量衡比較・貨幣228

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は加賀の隣国、越前国です。

福井県

◆光◆

◆君◆


越前概略

 越前国は北陸道に属し、現在の福井県北部にあたります。北は加賀国、東は飛騨国、南は美濃国と近江国、南西は若狭国に接し、西は日本海に面しています。加賀との境は大聖寺川の河口とその南東に連なる尾根筋で、飛騨との境近くには九頭竜川の源流があり、流域に広大な平野を形成しています。

 南西の敦賀はこの流域に属さず、若狭と合わせて嶺南と呼ばれ、越前の大部分を占める嶺北と区別されることがあります。この嶺とは木嶺とも呼ばれる木ノ芽峠のことで、陸路は峻険ゆえ文化・言語的な障壁となっています。

 越前国の郡は8つあり、南から敦賀郡(現敦賀市)、南条郡(現南越前町と越前市の一部)、丹生郡(現越前町および越前市・福井市・鯖江市の一部)、今立郡(現池田町および鯖江市の大部分と越前市の一部)、足羽郡(現福井市の一部)、吉田郡(現永平寺町および福井市と坂井市の一部)、坂井郡(現あわら市と坂井市および福井市の一部など)、大野郡(現大野市と勝山市および福井市の一部など)です。うち南条郡は中世に敦賀郡北部と丹生郡南部から南仲条郡として分けられ、今立郡は平安時代初期に丹生郡から分けられました。越前国府は丹生郡に置かれ、現越前市府中の越前市役所近郊にあったと推定されています。

古代越前

 古くは南西部に角鹿つぬが、中部に高志こし、北東部に三国みくにの三国造がおり、それ以遠の北陸諸国も広く「高志」と総称されました。『日本書紀』によれば崇神天皇の時に大彦命が高志を平定し、成務天皇の時に国造が置かれたといいます。

 伝説によると崇神天皇の時、笥飯けひ浦に額に角がある人が漂着しました。彼は自ら「意富加羅おほから国(現韓国南部)の王子・都怒我つぬが阿羅斯等あらしとである」と名乗り、穴門(長門)と出雲を経てここに来たと告げました。天皇は彼にここに住むことを許可したので、この地は角鹿(のち訛って敦賀つるが)と呼ばれたといいます。彼は但馬や播磨に来たと伝わる新羅王子天日槍あめのひぼことも同一視され、古くから朝鮮半島の渡来人が海流に乗って来ていたことがうかがえます。

 成務天皇の後、甥(日本武尊の子)の仲哀天皇が跡を継ぎましたが、彼の妻が神功皇后です。彼女は熊襲を討伐するため角鹿から出航して西へ赴き、瀬戸内海を進んだ夫と穴門豊浦宮で合流、筑紫へ渡りました。仲哀天皇はこの地で崩御しますが、神功皇后は熊襲を征伐し、海を渡って新羅を含む三韓を従わせ、筑紫に戻って応神天皇を出産しました。さらに瀬戸内海を東上して畿内の反乱軍を征伐し、応神天皇の摂政になったといいます。

 のち神功皇后と応神天皇は氣比神宮に参拝しますが、祭神のイザサワケは応神天皇の夢に現れて「を交換しよう」と申し出ます。天皇が承諾すると翌朝海から多数のイルカが現れたので、天皇はこれを魚(な)として受け取り、イザサワケに「御食津みけつ大神」のを与えたといいます。これは両者が本来同一の存在であることを意味するのかも知れません。

 応神天皇の子孫は大和・河内に宮を構えて天下を治めましたが、武烈天皇には跡継ぎがおらず、皇統断絶の危機に陥ります。そこで群臣は応神天皇の五世孫で三国を治めていた男大迹おほど王を擁立して天皇(大王)に推戴しました。これが継体天皇で、現在まで続く皇統の直接の祖先です。三国は九頭竜川の河口部にある港町(現福井港)であり、日本海沿岸や朝鮮半島を結ぶ海路の中継地として敦賀とともに栄えました。

 その後も高志には地方豪族が割拠し、勝手に高句麗と外交を結んだりしていたことが『日本書紀』にも記されていますが、7世紀には大和王権の勢力が強まり、高志国として支配下に置かれます。7世紀末には高志道前・高志道中・高志道後の3つに分割され、大宝律令制定後に越前・越中・越後となりました。この当時の高志道前国/越前国は、現福井県の敦賀以北および現石川県の全域を含んでいましたが、あまりに広大ゆえ養老2年(718年)に能登国が、弘仁14年(823年)に加賀国が分けられ、以後1000年余り続く越前国の領域が確定することとなります。

三関と逢坂関

 奈良時代から平安時代初期にかけて、近江と越前敦賀の間には愛発あらち関という関所が置かれました。正確な場所は不明ですが、近江と美濃の間の不破関、伊勢の鈴鹿関とともに「三関」と呼ばれ、都で政変や内乱、天皇の崩御などが起きた時には三関を遮断する「固関」が行われています。愛発関が廃止されると、山城国と近江国の境に逢坂関が設置されました。

平安越前

 愛発関の廃止後も、敦賀は海路・陸路での交通の要衝でした。逢坂関を抜けた後、琵琶湖の西を北上し(あるいは琵琶湖を舟で北上し)、山を越えて敦賀に向かうのが北陸道の始まりです(北西へ行くと若狭)。敦賀から嶺北へ向かうのも険しい陸路があるため、船で北上して三国湊に入るのが最も楽な道程です。北陸から都へ租税や物資・人員を運ぶ時も、このルートが最も早く多く運べるため、敦賀を制すれば都への物流を制することができます。また貢税の量も多いことから、越前は北陸道唯一の「大国」とされました。

 9世紀初め頃、敦賀には「松原客館」という迎賓館が設置されています。これは北陸にしばしば到来した渤海国からの使節(渤海使)を収容するための施設で、氣比神宮の宮司が管理を任されていたと『延喜式』に記されています。渤海国は西暦926年に滅亡しましたが、その後継国である東丹国や、その後にチャイナに成立した宋の商人などもここに来訪しています。

 長徳2年(996年)、藤原為時が越前守に任じられました。この前年に宋の商人が若狭国に来訪したため、彼らを移管した越前敦賀の松原客館で交渉を行うため、漢文に長けた為時が抜擢されたものと思われます。なお彼は『源氏物語』の作者である紫式部の父にあたり、彼女も父とともに2年間越前に滞在しています。

 保安元年(1120年)、白河法皇に仕える武家の平忠盛が越前守に任じられます。彼の子の清盛は保元・平治の乱を経て太政大臣に昇り詰め、後白河法皇と結託して宋との交易を推進します。この交易は博多や厳島、福原などが主な貿易港でしたが、父以来の地盤がある越前敦賀にも宋人が到来したと思われます。清盛が太政大臣となる前年の仁安元年(1166年)末には孫の資盛が数え6歳で越前守に任じられており、北陸各地に存在する荘園からの収入なども敦賀を通して都に送られました。

 これを遮断したのが木曽(源)義仲です。彼は信濃で挙兵すると越後の平家方を打ち破り、越中に入ると以仁王の子を招いて旗印とし、加賀・越前を平定して近江から都へ攻め寄せました。折からの飢饉で食糧難に見舞われていた平家は散々に打ち破られ、西国へ逃げ延びることとなります。

中世越前

 鎌倉幕府が成立すると、比企氏・大内氏・島津氏・後藤氏などが越前守護に任じられます。鎌倉幕府滅亡後、新田義貞は足利尊氏と対立し、やがて後醍醐天皇の皇子らを奉じて越前敦賀の金ヶ崎城に赴きます。尊氏は一族の足利(斯波)高経を越前守護に任じ、直ちに義貞たちを包囲させました。高経は金ヶ崎城を陥落させ、義貞は嶺北へ逃亡し抵抗しますが後に討死します。これより130年余りの間、高経の子孫は越前守護をほぼ独占しました。

 しかし斯波氏は幕府の重臣として京都にとどまり、越前の他にも各地に守護国があったため、各地の守護の職務は家臣たちが守護代や又守護代として執り行っています。その中から台頭したのが甲斐氏でした。

 甲斐氏は藤原秀郷の後裔で下野佐野氏の傍流と伝え、甲斐教光は斯波高経の孫義重に娘を側室として娶らせ、義郷・持有の2子を儲けさせています。家督は嫡男の義淳が継いだものの、永享5年(1436年)義淳が37歳の若さで病没すると義郷が家督を相続し、3年後に義郷が落馬事故で死ぬと、その子の千代徳丸(義健)が2歳で跡を継ぎます。教光の子の将教/祐徳は越前・尾張・遠江の守護代となり、その子の将久/常治じょうちは斯波持有や分家の斯波持種とともに千代徳丸の後見人として家中の実権を握りました。

 甲斐常治は斯波持種と対立し、放火や暗殺未遂、代理戦争を繰り返しました。享徳元年(1452年)に義健が18歳で没すると、持種の子の義敏が養子となり、持種と常治の対立は激化します。常治は将軍足利義政を後ろ盾として対抗し、長禄元年(1458年)には息子の敏光を金ヶ崎城に入れて守らせ、攻め寄せた義敏側の勢力を打ち破って越前を制圧します。翌年常治が没すると孫の千喜久丸(信久)が越前守護代を継ぎ、その父敏光が当主となります。応仁の乱が勃発すると義敏らは東軍に、敏光らは西軍に与しました。

 ところが文明3年(1471年)5月、敏光に従っていた朝倉孝景が足利義政から越前守護代の職を与えられ、西軍から東軍に寝返ります。敏光は越前を奪還すべく戦いますが最終的に敗れ、遠江守護代職のみを保って越前を立ち去ることとなります。その後の敏光の行方は杳として知れず、甲斐氏は歴史から姿を消してしまいました。

朝倉孝景

 朝倉氏は但馬国養父郡朝倉(現兵庫県養父市八鹿町朝倉)を本貫地とする武家で日下部氏の嫡流と称し、鎌倉幕府より所領を安堵されましたが、承久の乱で宮方についたため衰退していました。朝倉広景の時に斯波高経に付き従い、新田義貞討伐に功績をあげ、越前黒丸城(現福井市黒丸)を授かります。以後は代々越前に住み着き、斯波氏の被官でありながら足利将軍家とも通じ、斯波氏とも時々対立しながら勢力を伸ばしています。

朝倉広景―高景―氏景―貞景―教景―家景―孝景

 広景の7世孫にあたるのが孝景です。はじめ祖父と同じ教景と名乗り、父の家景が宝徳2年(1451年)に没して24歳で家督を継ぐと、翌年主君の斯波義敏から偏諱を授かって敏景と改名しました。しかし長禄元年(1458年)に甲斐常治に従って義敏に背き、翌年には叔父で義父の朝倉将景を討死させ、敏の字を捨てて教景に名を戻します。同年に甲斐常治が没するとその子敏光に従いますが、寛正5年(1464年)越前にあった興福寺大乗院の荘園を犯したため呪詛を受け、これを避けるために孝景と改名しました。

 応仁の乱では西軍に与し、義敏の敵の義廉を奉じて奮戦しましたが、上述のように足利義政から越前守護代に任じられて東軍に寝返り、甲斐敏光らを撃退して越前一国をほぼ掌握しました。彼は越前国足羽郡の一乗谷に居城を置き、戦乱により荒廃した京都から公家や僧侶、文人や学者を招いて住まわせ、華やかな京都文化を越前にもたらしました。また分国法を制定して最初の「戦国大名」となり、文明13年(1481年)7月に54歳で世を去りました。越前朝倉氏はこれより4代90年余にわたって存続します。

◆朝◆

◆倉◆

【続く】

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