【つの版】度量衡比較・貨幣180
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽諸藩について見てきましたから、次は関東の諸藩について見ていきましょう。

◆徳◆
◆川◆
関東八州
現在の関東地方は、古代には「吾妻」と総称されました。律令制での「関東」とは、東海道の伊勢の鈴鹿関、東山道の美濃の不破関、北陸道の越前の愛発関より東をいいます。また東海道では相模の足柄坂より東を「坂東」、東山道では上野の碓氷山より東を「山東」といい、のちまとめて「坂東」と呼ばれました。
源頼朝は自らの政権を「関東」と自称しています。これは朝廷から公的に承認され、その統治権が直接及ぶ範囲は遠江・信濃・越後以東と定められ、朝廷と鎌倉幕府との連絡窓口は「関東申次」と呼ばれました。室町幕府の将軍は京都にとどまりましたが、関東を統治するため鎌倉府を設置し、足利家の傍流を鎌倉殿/公方、その補佐役を関東執事/管領として派遣しました。この頃の「関東」は坂東8ヶ国(東海道の相模・武蔵・安房・上総・下総、東山道の上野・下野)に加え、東海道の伊豆と甲斐を合わせた10ヶ国です。陸奥と出羽(奥羽)も当初は鎌倉府の管轄でしたが、のち外されました。
室町時代から戦国時代にかけて、坂東は鎌倉(古河)公方と関東管領の間の争いで利根川を境に東西に分断されます。やがて伊豆から後北条氏が南部に勢力を伸ばし、関東管領の上杉氏は越後の長尾氏を頼って上野に拠り、常陸には佐竹氏が拠るなど群雄割拠となります。天正18年(1590年)、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃119万石を治める徳川家康に坂東8ヶ国240万石(のち255万石)への国替えを命じました。
家康は武蔵国江戸城を居城と定めて100万石余を直轄地とし、坂東各地に家臣を封じました。また箱根・碓氷・小仏の関より東が領地となったことから、この頃には坂東8ヶ国を「関東」「関八州」と呼ぶようになりました。秀吉の死後に政権を掌握した家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が設立されます。彼自身は畿内や駿河にとどまりましたが、関東は幕府のお膝元として発展し、大都市と化した江戸を支える基盤となっていくのです。
下毛野国
関八州のうち北部の上野国(群馬県)と下野国(栃木県)は陸奥・出羽と同じ東山道に属し、「両毛」と総称されます。毛とは古代に存在した「毛野国」のことで、畿内に近いほうが上毛野国(のち略して上野国)、遠い方が下毛野国(下野国)と分けられました。
この地は北方に火山、南部に原野が広がり、水田農耕には不向きでしたが馬の牧畜には適していたため、古来多くの馬牧が置かれて畿内へ輸出されていました。また陸奥への陸路での侵略拠点ともなり、勇猛な武者を多く輩出しています。下野国からは平将門を討伐した藤原秀郷(俵藤太)、室町幕府を創設した足利尊氏が出ていますし、上野国からは新田義貞が出ています。まずは白河の関に隣接する下野国から見ていきましょう。
下野国は、北は下野山地と那須野を隔てて陸奥国に達し、東は八溝山地を挟んで常陸国に及び、南は下総国に面し、東は足尾山地を境として上野国に隣接しています。那須から常陸へは那珂川とその支流が南流して太平洋へ注ぎ、那須から常陸・下総へは小貝川が、日光からは鬼怒川(毛野川/衣川/絹川)・渡良瀬川が南流して利根川に注ぎます(江戸時代以前には流路が異なる)。下野国はこれらの河川によって内陸ながら海と繋がり、東山道・奥州街道が南北に通り、陸奥と坂東・東国を繋いでいました。
那須諸藩
下野国北東部、那珂川上流域を「那須」と呼びます。古代には那須国があり国造がいましたが、律令制では下野国に併合されて那須郡となりました。北部には活火山の那須連峰が聳え、南麓に那須高原が広がり、南東に向かうにつれて低くなり、那珂川上流域の扇状台地・那須野が原を形成します。川はありますが火山灰と砂礫が堆積しているため保水力がなく、農耕より馬牧に向いた土地で、勇猛な騎馬武者が育ちました。
那須の豪族・那須氏は藤原道長の末裔を称し、源平合戦において那須与一が源義経に従ったことで知られます。鎌倉時代・室町時代には御家人として両幕府に仕えますが、次第に分裂して内紛を繰り返し衰退しました。豊臣秀吉の小田原征伐には遅参して所領を一時没収され、のち5000石を安堵されて取り潰しを免れます。以後は徳川家康に味方して功績による加増を重ね、慶長15年(1610年)に1万4000石余となって那須藩を立藩します。
しかし後に無嗣断絶し、一時は烏山藩として復帰しますが5年で改易となり、那須氏は旗本となって幕末まで存続することとなります。なお那須氏の家来筋であった大関氏と大田原氏は小田原征伐に参陣して所領を安堵され、江戸時代にも黒羽藩および大田原藩として存続しました。
宇都宮藩
下野国の一宮を宇都宮二荒山神社といいます。ここは下野国の中央にあって国府(現栃木市)から北東に位置し、北から伸びる台地の突端で、東山道に面しています。古来軍神として武家の崇敬を集め、平安時代後期より藤原北家道兼流を称する宇都宮氏が宮司となって神領を有し、源頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府に仕えました。代々和歌に通じ武勇に優れ、9代当主の公綱は楠木正成から「坂東一の弓取り」と恐れられました。
室町時代後期には宇都宮氏が勢力を広げ、一時は北関東の覇権を握りました。しかし跡目争いに乗じて後北条氏の侵略を受け、常陸の佐竹氏や下総の結城氏、越後の長尾/上杉氏と結んで抵抗しました。豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと下野37万石のうち18万石を安堵されますが、慶長2年(1597年)に改易されて大名としては滅亡し、子孫は水戸徳川家に仕えました。
宇都宮氏の領地は浅野長政と真田昌幸が半年間預かったのち、蒲生氏郷の子・秀行が会津90万石余から遷されます。同年に秀吉が没すると、彼は家康の娘婿として会津の上杉景勝を牽制する役目を負い、関ヶ原の戦い後に会津へ戻されます。家康は大河内秀綱に4ヶ月ほど管理させた後、長女・亀姫の子である奥平家昌を10万石で入部させます。家昌は無禄から大名になったため多くの浪人を集めて家臣とし、城下町を整備して発展させましたが、慶長19年(1614年)10月に38歳で病没します。子の千福丸が跡を継ぎますがまだ7歳で、秀忠より偏諱を受けて元服し忠昌と名乗りました。
2年後の元和2年(1616年)4月、徳川家康は駿府で没しました。遺骸は同年に駿府の久能山に埋葬されましたが、家康の遺命により翌年下野国の修験道の霊地・日光山(二荒山、宇都宮の北西)に分霊され、東照大権現の神号を奉られて「八州の鎮守」とされました。すなわち日光東照宮です。関八州のみならず奥羽や越後にも徳川将軍家の威光を示すのが目的で、しばしば諸大名に改修が命じられ、諸藩の財政を圧迫しました。元和5年(1619年)、秀忠は東照宮へ参詣する途中で宇都宮城の忠昌のもとを訪れましたが、秀忠は「奥羽の抑えとするには幼すぎる」として下総古河11万石へ移封します。
代わって宇都宮に入ったのは、家康の謀臣であった本多正信の子・正純でした。彼は同じ下野国の小山に5万3000石を賜っていましたが、宇都宮10万2000石を加増されて15万5000石の大名となります。ところが元和8年(1622年)に正純は秀忠暗殺未遂事件の嫌疑で改易され、出羽国へ流罪に処されます。彼が謀反したというのは事実無根ですが、忠昌の祖母亀姫が領国を奪った正純を憎んで讒訴したためのようです。果たして忠昌は宇都宮藩主に戻され、加増された11万石はもとのままとされました。
忠昌は以後46年間宇都宮を統治しますが、この間に徳川将軍家の日光社参が13回も行われたため、そのたびに奥平家は対応に追われ、領民への負担は増加しました。忠昌が没すると嫡男の昌能が継ぎますが、家来の殉死や仇討ち事件により幕府に咎められ、出羽山形9万石へ減転封されます。
その後も宇都宮藩は頻繁に領主家が代わり、日光社参は滅多に行われなくなったものの、石高は10万石から6-7万石に減らされ、飢饉や洪水もあって財政は厳しい状態が続きました。安永3年(1774年)に戸田忠真が入部し幕末まで7代94年続きますが、藩主が幕閣として活動・出世するための出費がかさみ、日光社参の再開もあって藩財政は火の車となります。しかし宇都宮は古来交通の要衝であるため、宿場町としては大いに栄え、多数の旅籠が軒を連ねて飯盛女(娼婦)を雇いました。
下野国には他に壬生藩、佐野藩、足利藩などがありますが、いずれも3万石以下の小藩です。他に注目に値する藩としては、古河公方の末裔が立藩した喜連川藩があります。
喜連川藩
足利尊氏の子・基氏の子孫は鎌倉殿/公方として関東を統治しましたが、成氏の時に室町幕府・関東公方と対立して下総国古河に移り、古河公方と呼ばれました。その末裔は衰退して名目を保つだけとなり、小田原征伐の時には最後の男系女子・氏姫が残っていました。秀吉は古河公方の傍流・小弓公方家の国朝と氏姫を娶せて家を継がせ、下野国喜連川(宇都宮の北、現栃木県さくら市)に400貫(3500石相当)の所領を授けました。国朝が3年後に没すると、氏姫は彼の弟の頼氏と再婚します。頼氏は関ケ原の戦いに出陣しませんでしたが、家康に慶賀使を送ったため1000石を加増され、総石高は4500石となります。その子孫は喜連川氏を名乗り、喜連川藩となりました。
大名・藩と呼ばれ得る1万石には達していませんが、代々の徳川将軍は名目上関東の支配者であった鎌倉/古河公方の格式を重んじて厚遇し、御所号・左兵衛督・左馬頭の自称を許しました。参勤交代や諸役賦課も免除され、無位無官ながら四品(四位)10万石の国主並の待遇を受け、徳川家との主従関係も明確でない存在(客分)として扱われたといいます。とはいえ格式を保つための出費がかさんで財政は厳しく、奥州街道を通る参勤交代の大名行列を喜連川の宿場に留め置いて金を落とさせることで、どうにか存続していました。諸大名も「御所様」を無視して通り過ぎるわけにもいかず、大大名の仙台藩主も困ったといいます。
チャイナでは古来「二王三恪」といい、王朝交代後も前の王朝を尊重(恪む)し、その末裔を領主に封じる伝統がありました。周は殷を滅ぼした後、殷の王族を宋に封じ、殷の前の夏王朝の王族を杞に、夏の前に帝王であった舜の末裔を陳に封じたといいます。魏が漢から禅譲されると、漢の天子は山陽公に封じられ、魏が晋に禅譲した後は魏の天子が陳留王に封じられました。唐では北魏・北周・隋の皇室の末裔を国公として領地を与えています。家康もこれらを真似たものでしょうか。なお足利将軍家は義昭以後はみな出家して断絶しています。
◆日◆
◆光◆
【続く】
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