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【つの版】度量衡比較・貨幣181

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。前回は下野国について見てきましたから、今回は上野国…に行く前に、常陸国を見てみましょう。

◆水戸◆

◆黄門◆


常陸水戸

 常陸ひたち国は東海道の東端にあり、現茨城県の大部分を占めます。北は陸奥国に及び、東は海に面し、南は下総国、西は下野国に接します。古代には日高見ひたかみの国と呼ばれて複数の国造が割拠し、7世紀に常道国として成立した当初は苦麻(大熊町、福島県浜通りの中部)までを含みました。のち陸奥国が分割され、養老2年(718年)に菊多郡が石城国に編入されて、常陸国北境に菊多関が置かれました。東海道はここで尽きますが、海沿いに北上して多賀城へ至る道は残り、海道・浜街道と呼ばれます。

 天長3年(826年)には親王任国となりますが、遠隔地ゆえ遙任で、常陸介が事実上の長官とされ、在地領主が荘園を築いて割拠しました。鎌倉時代に宇都宮氏の傍流・八田知家が常陸守護に任じられ、その子孫は筑波郡小田邑に拠点を置いて小田氏を称し、守護職を世襲します。しかし鎌倉幕府末期に佐竹貞義が常陸守護となってからは佐竹氏が守護職を世襲しました。

 佐竹氏は清和源氏・新羅三郎義光の後裔で、常陸国北部の久慈郡佐竹郷(現茨城県常陸太田市)を拠点としました。戦国時代には下総・下野・陸奥にも進出して最盛期を迎え、佐竹義宣は天正18年(1590年)に豊臣秀吉より常陸国等21万貫余(25万石余)を安堵されます。義宣は勢いに乗じて常陸南部の諸勢力を次々と攻め滅ぼし、翌年には那珂川河口部の水戸城に拠点を移しました。文禄4年(1595年)には太閤検地により54万石余の石高を安堵され、豊臣政権内でも重きをなすに至ります。

 しかし関ヶ原の戦いの時、義宣は家康に従わず中立を保ったため、慶長7年(1602年)に出羽国北部へ減転封されてしまいます(久保田藩)。その領地は分割され、北部に松岡藩、南部に水戸藩が立藩されました。

 佐竹氏改易の後、家康は自らの五男で甲斐武田氏の名跡を継がせていた信吉を常陸水戸15万石に封じます。武田氏も遡れば佐竹氏と同じく源義光の子孫ですし、常陸国那珂郡武田郷を本貫地としていたので先祖返りではありますが、信吉は翌年21歳で病没し、跡継ぎもなく武田氏は断絶します。しかし彼が連れてきた武田氏の遺臣は水戸にとどまり、定着することとなります。

 代わって常陸水戸20万石(翌年5万石加増)に封じられたのは、家康の10男・長福丸です。しかしこの時は2歳の幼児でしかなく、3年後に元服して徳川常陸介頼将と名乗りますが、慶長14年(1609年)に駿府50万石を授かって転封となり、一度も常陸に足を踏み入れることはありませんでした。10年後には紀州55万石へ転封されて頼宣と改名、紀州徳川家の祖となります。

 続いて常陸水戸25万石に封じられたのは、頼宣の同母弟で家康の11男の鶴千代です。彼はまだ6歳でしかなく、慶長16年(1611年)元服して松平頼房と名乗りますが家康とともに駿府にとどまり、水戸に入部したのは家康没後の元和5年(1619年)です。その後も水戸には長くとどまらず、1歳年下の甥家光の補佐役として江戸に常駐しました。これを先例として水戸藩主は代々江戸に定住(定府)し、俗に「副将軍」と呼ばれるようになります。頼房が徳川氏とされたのは寛永13年(1636年)と遅く、石高でも格式でも紀州や尾張・駿府の徳川家には及びませんが、水戸徳川家は将軍の側近として幕政に介入しやすい立場となったのです。

 藩主不在の間、水戸には城代家老の蘆沢信重がとどまって藩政を担いました。また元和8年(1622年)に常陸北部の松岡藩が廃されると、城と所領の大部分(3万石)は水戸藩に移管され、正保3年(1646年)より附家老の中山信政が松岡2万石を授かって居館を置きます。都合28万石となった水戸藩ですが、高い家格による出費がかさみ、当初から赤字経営でした。寛永14年(1637年)には水戸に銭座の1つが増設され、寛永通宝を発行しています。

徳川光圀

 寛文元年(1661年)に頼房が没すると、子の光国が34歳で跡を継ぎます。かの有名な水戸黄門こと徳川光圀ですが、諱を光と改めたのは後年のことです(黄門は中納言・権中納言の唐名)。兄の頼重はすでに讃岐高松12万石の藩主とされていました。光国は同年に弟の頼元を那珂郡額田2万石(のち陸奥田村郡守山に転ず)、頼隆を久慈郡保内2万石(のち常陸府中石岡に転ず)に封じ、天和2年(1682年)には頼雄を茨城郡宍戸1万石に封じて支藩とします。これらの家は高松藩ともども「御連枝」と呼ばれ、本家の継承権を持ちました。なお光国は兄を差し置いて家督を継承したことに悩み、兄の子の綱方と綱條を養嗣子とし、自分の子の頼常は兄の養嗣子としています。

 光国はまず水戸の城下町に飲料水を確保するため、家臣に命じて上水道を敷設させました。また領内の寺社改革を行って寺院の半分近くを取り潰し、神仏分離を行います。一方で神道や儒教を尊重し、明国から亡命した儒者・朱舜水を招き教えを受けました。その教えは朱子学と陽明学の中間にあり、空論よりも実用を重んじ、日本の儒学に大きな影響を与えています。

 また光国は寛文10年(1670年)に幕府が編纂した日本通史『本朝通鑑』にも刺激を受け、若い頃からの夢であった修史事業に独自に着手します。寛文12年(1672年)には江戸小石川の藩邸に「彰考館」と名付けた史局を置き、他国から学者を招聘し、全国各地に局員を派遣して史料を収集・編纂させました。彼は常陸で北畠親房が編纂した『神皇正統記』を重んじて南朝を正統としたため、後代に尊王攘夷思想と結びついて幕府を結果的に滅ぼすことになります(当時は武家政権を軽んずる意図はなく、名分論によって合理化していますが)。その上、この修史事業には藩の収入の1/3が注ぎ込まれたともいい、窮乏していた藩財政をさらに悪化させました。

 光国は蝦夷地との交易路の開拓を企み、3隻の大船を建造させています。第1号は9年後に廃棄され、第2号は竣工同年に暴風で行方不明となります。光国はさらに7000両を投じ、大坂から船大工や船頭を招聘して大船「快風丸」を建造、貞享5年(1688年)に蝦夷地の石狩川まで航海させましたが、維持費がかさみ5年後に廃棄されました。

宝永新法

 光国は元禄3年(1690年)に隠居して養嗣子の綱條に家督を譲り、元禄13年(1700年)に没しました。翌年には新田開発の分として表高が28万石から35万石に引き上げられますが、これに伴う家格上昇で財政負担は増加し、藩士への俸禄も遅延・不払いになる始末でした。加えて物価上昇・米価下落で農村は荒廃し、領民は逃散して、借財は膨らむばかりとなります。

 元禄16年(1703年)、綱條は元大和郡山藩士の安田文左衛門宗貞を割物奉行(財政担当者)に任じ、資金調達のために紙金(紙幣/藩札)発行を命じました。紙金は翌元禄17年/宝永元年から発行されましたが、たちまち贋札が流通し、宝永4年(1707年)に幕府の命令で発行が禁止されました。

 続いて登用されたのが清水仁衛門清信と、彼の推薦で招かれた松波勘十郎良利です。仁衛門は幕府の代官・古郡文右衛門に手代(下役)として仕えていましたが、浪人となって水戸藩に仕えるようになった人物です。また勘十郎は美濃出身の浪人で、幕府代官や旗本領、各地の藩を転々とし、財政再建の政策コンサルタントを行っていた人物です。その手法は無駄な人員や支出を削減し、下級武士や百姓・商人を取り立てて領民の支持を集めつつ、検地を行って年貢を増やし、専売制の強化や藩札発行を組み合わせるというものです。効果はありましたが、強引で既得権益層の反発を買うものでした。

 勘十郎は仁衛門らと組んで大胆な改革(宝永新法)に乗り出します。まずは水戸城下の千波湖干拓を企て、これが重臣の反対で廃案となると、領内に2本の運河を掘削して海と結び、江戸との交易で財政を潤そうと企みます。しかし運河は水深が浅くてすぐに役立たずとなった上、農繁期に工事に駆り出された農民への賃金も支払いが不十分であったため、場当たり的に年貢を増徴して資金を調達することとなり、領民の激しい反発を買います。

 宝永5年(1708年)末、松波勘十郎の罷免と宝永新法の全廃を求めて多数の農民が江戸藩邸に押しかけて直訴し、綱條はやむなく改革の中止を発表します。勘十郎は罷免のうえ投獄されて数年後に獄死し、片腕であった清水仁衛門も改易欠所などの厳しい処分を受けて追放されました。

宝暦改革

 綱條の嫡男・吉孚は宝永6年に早世したため、綱條は甥である高松藩主・松平頼豊の長男を養嗣子(宗堯)に迎え、吉孚の娘・美代姫の婿とします。享保3年(1718年)に没すると宗堯が14歳で跡を継ぎ、質素倹約につとめて財政を再建しようとしますが、享保15年(1730年)に若くして没します。

 跡を継いだ鶴千代は数え3歳、満年齢1歳の幼児でしかなく、6年後に元服して宗翰と名乗りますが、成人するまで附家老の中山信昌らが藩政を預かることとなります。しかして財政は好転せず、寛延2年(1749年)には御連枝である松平頼寛(陸奥守山藩主)と頼済(常陸府中藩主)が老中首座である堀田正亮の邸宅に呼び出され、直に財政改革を命じられるほどでした。

 同年9月、22歳の宗翰は藩の老中・太田資胤を省略掛(財政緊縮担当者)に任じ、財政改革を命じます。彼は室町時代の名将・太田道灌の後裔にあたり、掛川藩主・太田資俊の実弟で、縁戚である水戸藩家老太田資真の養嗣子となって2000石を食んでいました。彼の改革により宝暦5年(1755年)末には「藩士の給与を遅滞なく与えることができた」といい、功績を称して700石を授かりますが、厳しい倹約令により悪評を買っており「負傷」したとの記録もあります。このためか翌年4月に資胤は辞任・隠居し、改革は挫折しました。その後も改革は成功せず、明和元年(1764年)には水戸城が火災で全焼し、再建のための費用もかさんでいくことになります。

寛政改革

 明和3年(1766年)、宗翰は失意のうちに38歳で没し、長男の治保が16歳で家督を継ぎます。安永7年(1778年)には幕府から再び財政建て直しを命じられますが、天明の大飢饉により頓挫し、寛政2年(1790年)より大規模な藩政改革に着手します。これは松平定信の改革を受けてのもので、寛政5年(1793年)には藩士の俸禄を半知借上(半減)とし、献上金をした者を郷士に取り立てると定めます。また農村復興策として3人以上の子がいる農民に稗を支給し、間引き防止のために妊婦や出産を登録させました。

 寛政11年(1799年)には郡奉行の数を増やすとともに、水戸城下の経済振興策として消費促進政策をとり、「江戸仕掛け」と称して芝居や相撲興行、春秋の馬市などを盛んに催しています。これは異母弟である附家老・中山信敬によるものでしたが、倹約令に背くものだと幕府に叱責され、1年もたたずに中止されています。他にも殖産興業や鋳銭事業が行われ、財政はやや持ち直しました。また治保は光圀に倣って学問を奨励し、停滞していた修史事業を再開させ、彰考館の総裁を政治顧問として取り立てています。

 文化2年(1805年)に治保が55歳で没すると、嫡男の治紀が33歳で家督を相続します。彼も藩政には積極的でしたが財政が厳しいことは相変わらず、献金により郷士に取り立てる政策を廃止して秩序を保つ一方、藩士の俸禄を再び半減して質素倹約を命じました。またこの頃には日本の沿岸に異国船が出没するようになり、沿岸防備の費用も出さねばならなくなります。

 治保の嫡男・斉脩は文化13年(1816年)に家督を継ぎ、附家老で大叔父の中山信敬を退けて藩政改革を行います。斉脩は御簾中(正室)が将軍家斉の娘であったことから、家老を介して幕府に働きかけ、幕府からの拝借金19万2000両をすべて返済免除としてもらい、10年にわたり毎年9万5000両(のち10万両)もの助成金を受け取れるようになりました。

 さらに献金による郷士採用制度を復活させ、多額の献金を集めています。領内の農民出身の大久保今助は江戸で商売を行って富豪になっており、この制度を利用して勘定奉行500石取にまで登っています。彼は附家老の中山信守と結託し、斉脩没後に将軍家斉の弟を藩主に迎えようとしましたが、藩の下士や学者の猛反対で頓挫し、斉脩の弟・紀教が藩主となりました。これが幕末の水戸藩を主導した名君・徳川斉昭です。彼の子・昭致はのちに一橋家へ養嗣子に入って徳川慶喜となり、徳川幕府に幕を下ろすこととなります。

 常陸国内には他に土浦藩笠間藩下妻藩牛久藩谷田部藩麻生藩下館藩などがありますが、いずれも中小規模で、藩政改革にも見るところはありません。次は常陸に隣接する下総から上総、安房、相模、武蔵、上野と時計回りに見ていきましょう。

◆水戸◆

◆黄門◆

【続く】

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