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【つの版】度量衡比較・貨幣182

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。下野、常陸の次は下総・上総・安房です。

関東地方

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房総半島

 関東地方の南東に突き出す半島を「房総半島」と呼びます。令制国のうち東海道の安房、上総、下総の三国が存在したことによる地名で、古代から中世まで北は香取海という内海に面していました。この地域は総(ふさ)国と総称され、海路で相模と繋がれていたため、南側が上総、北側が下総となりました。安房国は上総国から分けられたものです。のち武蔵国が東山道から東海道に移管されると、武蔵から下総へ陸路が繋がれました。

 平安時代、下総は坂東の水陸交通の要衝として栄え、平将門が割拠して乱を起こしました。これが平定されたのちも将門の血縁者の平良文・忠常らとその子孫が割拠し、上総氏、千葉氏、結城氏、安西氏らは源頼朝を支援、鎌倉幕府創設に尽力しました。上総広常は上総一国をほぼ掌握し、大勢力を有していましたが、それゆえ頼朝に粛清され、その領地は有力御家人の間で分配されます。代わって台頭したのが千葉氏で、鎌倉時代には下総守護職を世襲しましたが、室町時代中期の享徳の乱で分裂・衰退しました。

 享徳の乱は、鎌倉公方の足利成氏と関東管領の上杉氏の対立によって起きた大乱です。成氏は鎌倉を追われて下総北部の古河(現茨城県古河市)に逃れ、ここに拠点を移して上杉氏と戦い続けました(古河公方)。千葉氏はこれに巻き込まれ、分裂・内紛を起こして勢力を弱めたのです。代わって房総に勢力を伸ばしたのは、古河公方の分家・小弓公方を奉じて安房に割拠した里見氏と、伊豆・相模から武蔵に勢力を伸ばしてきた後北条氏です。

 里見氏は河内源氏新田氏の傍流で、もとは上野に所領がありましたが、享徳の乱に乗じて安房に入り勢力を広げ、戦国時代には上総や下総、相模にも進出して後北条氏と渡り合いました。後北条氏は天正5年(1577年)に里見氏と和睦し、下総および上総北部から里見氏を駆逐することに成功しましたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉に敗れて滅亡します。秀吉は関八州に徳川家康を加増転封し、関東の諸将は家康の与力とされました。

 家康は関東各地に功臣を封じましたが、領国の中心は武蔵と下総の境である江戸にあるため、江戸周辺には大きな藩は置かれず、幕府直轄領(天領)や旗本領が多く置かれました。徳川綱吉の頃には武蔵・相模・房総の大部分は天領となっており、その周囲も親藩や譜代大名で固めています。

下総諸藩

 下総国は現在の茨城県、千葉県、埼玉県、東京都の一部にまたがります。

結城藩

 下総北端、現茨城県結城市には常陸・下野との境を抑える結城城があり、結城氏が割拠しました。鎌倉幕府に御家人として仕えましたが、傍流は陸奥白河に移住し、南北朝時代には白河系の結城宗広が南朝につき、後醍醐天皇より結城氏惣領として認定されています。このため下総結城氏は北朝・足利氏に仕えて惣領と認定され、室町時代以後は鎌倉公方・古河公方を一貫して支持し、下総北部を領国とする戦国大名へと成長しています。

 秀吉の小田原征伐の後、家康は次男の秀康を結城氏の養嗣子とし、下総に10万石を授けました。関ヶ原の戦いの後に秀康は越前に転封され、結城氏の家督は秀康の子・直基が継いだものの、結城の地は幕府直轄領となり、結城城は破却されます。当時の結城は全国屈指の養蚕地帯であり、幕府がその利益を独占しようとしたためといいますが、元禄年間までには他の幕府領にも結城の養蚕技術が広まり、直轄領とする旨味も薄れていきました。

 元禄13年(1700年)、水野勝長が下総結城1万石(のち1万8000石)を授かり、100年ぶりに結城藩を立藩、結城城を再建します。以後水野家は結城藩主として幕末まで存続しました。

古河藩

 古河公方は小弓公方を倒すため後北条氏と結びましたが衰退し、天正11年(1583年)に足利義氏が没して断絶していました。秀吉は義氏の娘の氏姫を小弓公方の子孫である国朝と娶せて家督を相続させ、下野国喜連川に封じています(喜連川藩)。氏姫は古河城を城代に明け渡しますが、近郊の鴻巣御所に移って300石を与えられました。文禄2年(1593年)に国朝が病没すると彼の弟の頼氏と再婚し、氏姫が没した後も子の義親、孫の尊信が寛永7年(1630年)まで鴻巣御所に住み続けています。

 関東に入った家康は古河を重要視し、孫娘の婿である小笠原秀政を3万石で入部させ、荒廃した古河城を修復・拡張させました。慶長6年(1601年)に秀政は信州飯田5万石へ転封され、松平康長が2万石で入ります。10年後に康長が常陸笠間へ転封されると小笠原信之が入部しますが、2年後に没して子の政信が継ぎ、その2年後には下総関宿へ転封されます。

 古河城は城下に渡良瀬川と日光街道が通る交通の要衝で、城下町は古河宿として栄えました。将軍の日光社参に際しては武蔵国の岩槻城、下野国の宇都宮城とともに将軍の宿と定められています。

 その後も奥平忠昌(11万石)、永井直勝・尚政(7.2万石)、大老・土井利勝(16.2万石)とその子孫、大老・堀田正俊(13万石)と子の正仲、老中・松平信之(9万石)と子の信祝、老中・本多忠良(5万石)と子の忠敞、松平康福(5万石)と頻繁に藩主家が交替し、宝暦12年(1762年)に土井利里が7万石で入部してからは7代100余年続きました。藩主家はいずれも親藩・譜代の重臣で、下総の諸藩では佐倉藩に並ぶ石高を誇りました。

関宿せきやど

 古河の南、現千葉県野田市には関宿城がありました。ここは利根川と江戸川が分かれる地点にあり、関東平野の中枢をなし、享徳の乱に際して古河公方の家臣・簗田氏が城を築いたといいます。古河公方が衰えると関宿城は上杉氏と後北条氏の争奪の地となり、最終的に後北条氏が制圧して北関東への足掛かりとしますが、小田原征伐で後北条氏が滅ぶと徳川家康に没収され、家康の異父弟・松平康元が封じられます。

 その後も藩主家は頻繁に交替しますが、いずれも親藩か譜代の大名です。宝永2年(1705年)に久世重之が藩主になって以後は久世氏が8代160余年にわたって領しました。石高は5-6万石と小藩ながら、古河と並ぶ交通の要衝であるため、幕府からは重要視されていたのです。

佐倉藩

 文明年間(1469-86年)、千葉氏の傍流の岩橋氏は古河公方と結んで勢力を広げ、下総南部の印旛郡佐倉(現・千葉県佐倉市大佐倉と印旛郡酒々井町本佐倉)の将門山に城を築いて領国経営の拠点としました。ここは印旛浦(印旛沼)に面した水陸交通の要衝です。岩橋氏は千葉氏当主を自称しますが、古河公方と対立して下総を追われた千葉氏の本流は武蔵へ逃れ、関東管領上杉氏と結んで下総・上総に侵攻します。

 しかし室町幕府が古河公方と和解して享徳の乱が終結すると、武蔵千葉氏は後ろ盾を失って没落し、佐倉の千葉氏が当主として承認され、古河公方を奉じて勢力を保ちました。ところが古河公方と小弓公方の争いに巻き込まれてこの千葉氏も没落、後北条氏に服属することとなります。後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、千葉氏は改易され、徳川家康が跡地を接収しました。

 文禄2年(1593年)、家康は五男の武田信吉を佐倉4万石で入部させ、9年後に信吉が常陸水戸に移されると六男の松平忠輝、ついで小笠原吉次が入部します。慶長15年(1610年)には土井利勝が3.2万石で入り、印旛沼のほとりの鹿島台に新たな佐倉城を建設、もとの佐倉城を破却しました。利勝は加増を重ねられて寛永2年(1625年)には14.2万石を領しますが、8年後に下総古河へ転出します。その後は藩主家が頻繁に交代し、延享3年(1746年)に堀田氏が10万石(うち4万石は出羽村山郡)で入部してからは幕末まで6代120年続きました。

 堀田氏は譜代の重臣として幕政に重きをなしましたが、多額の出費と借金に悩まされ、4代藩主の正愛の代には22万両余もの借金を抱えていました。さらに陸奥白河藩に代わって江戸湾の警備を命じられ、重い財政負担がのしかかります。正愛は財政改革に着手しますが効果はあがらず、文政7年(1824年)に26歳で病没しました。彼の跡を継いだのが、幕末に老中首座をつとめた堀田正睦です。

坂東地方の牧場と街道

 房総半島の丘陵部には、幕府直轄の馬牧が設置されました。下総西部には荘内・高田・上野・中野・小金・下野・印西、下総東部から上総にかけては油田・矢作・取香・内野・高野・柳沢・小間子の諸牧(佐倉七牧)があり、安房には峯岡牧がありました。享保年間には佐倉七牧のうち3つを佐倉藩に管理委託し、残りは野馬奉行が管理していました。馬はこれらの牧場で放牧され、野馬追によって捕獲されたのち、良馬は江戸の厩へ送られました。

 下総にはほかに多古藩、小見川藩、生実藩、高岡藩などがありますが、いずれも1万石ほどの小藩です。

上総安房

 上総国は現在の千葉県の中央部を占めます。平安時代後期には坂東平氏の上総氏が割拠して大勢力を誇り、源頼朝に加勢して鎌倉幕府成立に尽力しますが、粛清されて滅亡し、千葉氏傍流が上総介(親王任国であるため事実上の国司)の地位を奪いました。この上総千葉氏も宝治合戦で滅び、以後は足利氏が上総守護職を世襲します。南北朝時代には関東管領上杉氏の支配下に入りますが、享徳の乱の時に古河公方派の武田信長が上総を制圧し、その子孫の上総武田氏、分家の真里谷まりやつ氏が割拠しました。

 永正14年(1517年)、古河公方家傍流の足利義明は真里谷氏の支援のもと千葉氏家臣の原氏を打ち破り、上総西部の小弓城(現千葉市中央区生実・南生実)を奪って小弓公方と称し、古河公方と対立しました。真里谷氏は義明を旗頭として房総管領を名乗り、一時は強勢を誇りましたが、内紛により衰退して後北条氏に従い、小弓公方は安房の里見氏と結ぶこととなります。後北条氏を滅ぼした秀吉は里見氏から上総を没収し、小弓公方の末裔を古河公方の末裔の氏姫と娶せて下野国喜連川へ移しました。

大多喜藩

 関東に転封された徳川家康は、重臣の本多忠勝に上総国10万石を授け、安房の里見氏に対する抑えとしました。忠勝はまず夷隅郡の万喜城に入り、ついで大多喜城を築いてここに移ったため、これを大多喜藩と呼びます。忠勝は関ヶ原の戦いの後に伊勢桑名10万石へ転封され、大多喜領は次男の忠朝、その子の政朝が継承しますが、元和3年(1617年)に播州龍野へ転封されました。以後は譜代大名として阿部氏・青山氏・稲垣氏らが2-3万石で入り、元禄16年(1703年)に大河内松平氏が2万石で封じられてからは9代160余年続きました。上総には他に久留里藩、飯野藩、佐貫藩、鶴牧藩、一宮藩、請西藩などが置かれましたが、いずれも3万石以下の小藩です。

館山藩

 小田原征伐の後、里見氏は上総を没収されますが安房一国9万2000石を安堵され、関東に移封された徳川家康と友好関係を結び、関ケ原の戦いの後は常陸鹿島郡3万石を加増されて12万2000石の大名となります(館山藩)。しかし慶長19年(1619年)相模小田原藩主・大久保忠隣の失脚に連座して改易となり、跡地は幕府直轄領や旗本領、小藩に細分化されました。

◆安◆

◆房◆

【続く】

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