【つの版】度量衡比較・貨幣263
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

◆異◆
◆世◆
北勢侵略
永禄10年(1567年)に美濃を平定した織田信長は、稲葉山城から伊勢長島へ逃げ込んだ斎藤龍興/一色義紀を追って同年に伊勢へ侵攻しました。この時に先鋒をつとめたのが滝川一益です。彼は近江国甲賀郡の出身で、早くから信長に仕えており、柴田勝家の妹を妻に迎えています。また親族の女性(慈徳院)は信長の側室となって嫡男信忠の乳母をつとめ、信長の乳母で池田恒興の母である養徳院が一益の伯母であるとも、佐久間信盛の義兄弟前田長定と一益が従兄弟であるともいい、前田利家の兄利長の養子慶次は一益の甥の子であるとも伝えられます。甲賀郡と北伊勢は古くから街道で繋がっており関係が深いゆえ、彼には調略が任されました。
この時、頑強に織田軍に抵抗したのが山路弾正です。彼は関氏の分家である神戸氏の当主・神戸具盛(友盛)に仕え、鈴鹿川北岸の高岡城を守っていました。山路弾正は密使を美濃へ派遣し、信長に降ったばかりの美濃の豪族たちに反乱を唆したため、織田軍はやむなく包囲を解いて撤退しました。
神戸氏は具盛の祖父長盛が北畠家から養子に来て以来北畠家に従っていましたが、それゆえ関氏や長野工藤氏、六角氏とは対立していました。具盛は当主になると関氏との関係を修復し、六角氏重臣・蒲生定秀の娘を娶って後ろ盾とし、勢力を回復させました。
翌永禄11年(1568年)2月、一益は再び北伊勢に遣わされ、近江六角氏から信長に寝返るよう硬軟両面で諸勢力に工作を行います。信長本隊は稲葉山城改め岐阜城から関ヶ原を経て近江へ侵攻し、六角氏と戦う予定ですから、背後を突かれないよう北伊勢へ調略をしておくことは必須でした。また信長は具盛に対して和睦を持ち掛け、自らの庶出の三男三七(のちの織田信孝)を養嗣子とすることを条件としました。具盛はやむなくこれを受け入れ、国府・峯・鹿伏兎・稲生氏らも具盛の説得により信長に従います。ここに織田軍は鈴鹿川を越えて北畠家の版図と境を接することとなりました。
長野工藤氏当主具藤は北畠家からの養嗣子で、堅牢な長野城を拠点とし、重臣で安濃城主の細野藤敦とともに織田軍に抗戦しました。一益はこれを攻めあぐね、家臣団に調略を繰り返し、さらに「細野藤敦が織田と結託した」との噂を広めます。疑心暗鬼に陥った具藤は藤敦を攻め、藤敦はやむなく具藤を迎え撃ち、南の多芸へ追いやって織田軍に降伏しました。信長は一族の織田忠寛を安濃津城に入れ、弟信包を長野工藤氏に養嗣子として送り込み、ここに北伊勢8郡は信長に従うこととなります。同年9月に信長は足利義昭を奉じて近江へ侵攻し、六角氏を打ち破りましたが、神戸具盛は義兄弟にあたる蒲生賢秀(定秀の子)を説得して信長に降伏させています。
南勢侵攻
永禄12年(1569年)5月、北畠具教の弟木造具政が調略に応じ、織田家に降ります。木造家は北畠家の分家であり、雲出川北岸の木造城を居城としていました。具政は家督を子の長政に譲り、西の戸木城に移っていましたが、まだ40歳ゆえ家中の実権を握っています。具政を説得したのは家臣の柘植保重と、木造家の傍流とも柘植保重の甥ともいう源浄院主玄なる僧です。怒った具教は木造城を包囲しますが、3ヶ月経過しても落城しませんでした。
同年8月、信長は7万(5万とも)の大軍を率いて南伊勢に侵攻し、木造城の包囲を解かせます。具教は8000の兵を率いて南の大河内城(現松阪市大河内町)に籠り、8000の兵を阿坂城など各地の支城に分散させ迎え撃ちます。阿坂城は木下藤吉郎秀吉が陥落させますが、信長は他の支城には手出しをせず、大軍で大河内城を包囲しました。数では織田軍が遥かに多いものの敵地深くに入り込んでおり、地元で戦う北畠軍の士気は高く、織田軍の背後を突いて攻め立て、10月には和睦に追い込みます。
しかしこの時の和睦の条件は「信長の次男茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠具教の子・具房の養嗣子とする」「具教の娘を茶筅丸に嫁がせる」「大河内城を茶筅丸に明け渡して具房と具教は他の城へ退去する」というもので、織田家が北畠家を事実上屈服させるに等しい条約でした。具教・具房はやむなくこれを飲み、それぞれ霧山城(多気御所)に近い三瀬館(現多気郡大台町)と、大河内城に近い坂内城(現松阪市阪内)に退きます。
滝川一益は功績により北勢5郡を授けられ、安濃津城に入った信包らとともに南伊勢へ睨みをきかせます。また木造具政を説得した主玄を還俗させて滝川姓を与え、滝川兵部少輔、ついで三郎兵衛と名乗らせて茶筅丸に仕えさせました。また志摩国には九鬼嘉隆が派遣されて平定しています。
長島一揆
元亀元年(1570年)4月末、越前朝倉氏討伐のため若狭から敦賀に侵攻した織田信長は、北近江の領主浅井長政の裏切りに遭って背後を脅かされ、若狭から朽木谷を通って京都へ帰還します。この時は浅井勢の妨害により岐阜城への帰路に関ヶ原を通ることもできず、蒲生氏の案内で南近江から鈴鹿山脈を抜け、北伊勢経由で尾張に到達しました。信長は岐阜城に帰還すると、兵を整えて浅井長政を攻め、援軍に来た朝倉勢ともども姉川の戦いで撃破します。しかし長政の籠る小谷城を落とせず、摂津で蜂起した三好三人衆を撃つため主力を率いて摂津に向かいました。
同年9月、石山本願寺は信長に反旗を翻し、淀川の堤を切って織田の陣を水攻めにします。やむなく信長は撤退しますが、比叡山延暦寺や伊勢長島の願証寺、北伊勢の豪族らもこれに呼応して反信長同盟に加わりました。長きにわたる石山合戦と長島一向一揆の始まりです。
門徒たちは長島城を居城とする伊藤氏を追放して城を奪うと、南の桑名城に籠る滝川一益を包囲し、11月には北の小木江城(古木江城、愛知県愛西市森川町村仲)を攻撃します。城主の織田信興は信長の弟の一人で、一益とともに長島を監視する役割を担っていましたが、数万もの一揆勢には抗しきれず、6日間奮戦したのち自害に追い込まれます。滝川一益も敵中に孤立し、近江で浅井・朝倉勢や延暦寺と対峙していた信長は故郷尾張を脅かされ、朝廷や幕府を仲介者として、12月には諸勢力と和睦しました。
翌元亀2年(1571年)5月、近江で優勢に立った信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣し、長島一向一揆を鎮圧にかかります。信長は本陣を津島に置き、佐久間信盛は尾張衆を率いて東側から、柴田勝家は美濃衆を率いて西側(揖斐川と養老山地の間の養老街道)から攻め寄せました。しかし長島には海路で物資が供給されており、織田軍は周囲の村々や寺社を焼き払っただけで攻めきれず、周辺情勢も不安定ゆえ数日で撤退を余儀なくされます。一揆勢は周辺に伏兵を置いて撤退する織田軍を襲撃し、柴田勝家を負傷させ、勝家に代わってしんがりをつとめた美濃勢の氏家卜全が討死しました。また蜂須賀正家の弟・正元もこの戦いで討死しています。
記録によると、卜全は信長の命令を受けて桑名郡の多度大社とその神宮寺(真言宗宝雲寺)を焼き払いました。織田軍が撤退する際はしんがりをつとめましたが、多度の北の美濃国石津(現岐阜県海津市南濃町安江)で六角氏の一族であった佐々木祐成に討ち取られたといいます。
長島討伐
同年8月、信長は近江に取って返して小谷城を攻め、9月には六角氏と結んだ近江の一向一揆を討伐し、比叡山延暦寺を焼き討ちして上洛します。翌元亀3年(1572年)には武田信玄が信長を討つため西上作戦を開始し、織田・徳川連合軍を三方ヶ原の戦いで打ち破って遠江・三河・美濃に迫りますが、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が急死したため、武田勢は潮が引くように撤退しました。信長は同年7月足利義昭を放逐して室町幕府を事実上滅ぼし、同月末には天正と改元され、8月には浅井・朝倉を攻め滅ぼしました。
この頃、信長の嫡男の奇妙丸、次男で北畠家養子の茶筅丸、三男で神戸氏養子の三七は元服し、それぞれ織田勘九郎信忠、北畠三介具豊、神戸三七郎信孝と名乗っています。三介とは三男の意ではなく、常陸・上総・上野の三つの親王任国の次官(介)を意味するとされ、上総介を称した信長の上を行くことを望まれたともいいます。北畠家は村上源氏の名門で、家格としては室町幕府尾張守護代の分家に過ぎない織田弾正忠家とは比較にならぬほど高く、ある程度の箔付けが必要だったのでしょう。また信忠と具豊は同母兄弟のようですが、信孝の母は側室で、関氏の分家かつ北畠家から養子が入った神戸氏の養子ですから、格的にだいぶ離れています。
またこの頃(2年前とも)、神戸具盛は「関盛信の子を養子に迎えて三七郎を疎かにした」として家督を信孝に譲らされ、盛信ともども蒲生賢秀のもとに預けられています。両者の所領は信孝のものとされ、神戸氏旧臣の一部は山路弾正らのもとに集って謀反を計画しますが、露見して処刑されます。謀反に加わらなかった多くの家臣はそのまま信孝に従いました。
天正元年(1573年)9月、信長は再び伊勢長島への侵攻を行います。北畠家を通じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていますが、大湊の自治を行う会合衆が要求を渋って不調に終わりました。数万の軍勢が北伊勢各地の城を攻め落とし、国人衆を屈服させたものの、長島への直接攻撃は見送りとなり、1ヶ月ほどで撤退します。この時も多芸山(養老山地)に潜んでいた伏兵が弓や鉄砲で襲撃し、織田家筆頭家老・林秀貞の子通政が戦死するなどの損害を出しました。この戦の中、大湊は長島の要請に応じて女子供を運搬する船を出しており、怒った信長は長島に与した船主を処刑しています。
翌天正2年(1574年)正月には越前で一向一揆が蜂起し、美濃に武田勝頼が攻め込んでくるなど危機が勃発しますが、6月信長は尾張国津島に移り、三度目の長島攻めのための大動員令を発します。畿内で政務にあたる明智光秀、越前方面を守る羽柴秀吉など一部を除いて主要な織田家の将のほとんどが参戦し、その数は7万とも8万とも12万とも言われます。今回は水軍の将として九鬼嘉隆らも参陣しており、陸・海ともに逃げ場はありません。
対する長島一向一揆は前回の侵攻で多くの砦や村を焼かれ、残った城へ逃げ込むか、織田軍に降伏するしかありません。その数は10万にも及びましたが多くは女子供ら非戦闘員で、魚が網に追い込まれるように長島城へ集められ、凄惨な籠城戦が始まりました。1か月余に及ぶ籠城の末に兵糧は尽きて餓死者も出、降伏を申し出て船で退去しようとしますが許されず、鉄砲を撃ちかけられて多くの将兵が戦死します。
しかしこの時、怒り狂った一揆衆800名余は織田軍の手薄な箇所へ捨て身の斬り込みをかけます。これにより信長の叔父信次、信長の異母兄の信広、妹婿の信直と佐治信方、弟の秀成、従弟の信成と信昌、信成の乳母の兄の小瀬清長ら織田一門衆700-800人が討死し、平手久秀・山田勝盛・和田定利、佐々成政の長男松千代丸らも討死しました。
激怒した信長は長島・中江の2城を幾重も柵で囲ませ、内外の出入りを封じたのち、火を放って男女2万人を焼き払います。ここに長島一向一揆は消滅し、信長は長島城を滝川一益に与えて美濃へ帰還しました。翌年には長篠の戦いで武田軍に大打撃を与え、続いて越前一向一揆を討伐して殲滅し、恐れをなした石山本願寺は信長と一時和睦しています。
この第三次長島攻めの時、柴田勝家の馬印が敵軍に奪われました。勝家の小姓毛受庄助照景は時に17歳の若武者でしたが、主君に代わって敵陣に斬りこみ、見事に馬印を奪還しました。勝家はこれを讃えて自らの諱を授け、毛受勝助家照と名乗らせましたが、両方の諱をいただくのはもったいないとしてか家の字を返上し、毛受勝助勝照と名乗ったといいます。彼は賤ヶ岳の戦いで兄茂左衛門ともども主君の身代わりとなって討死し、子孫は尾張徳川家に仕えました。
◆異◆
◆世◆
【続く】
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