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【つの版】度量衡比較・貨幣262

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

三重県

◆長◆

◆野◆


北畠政郷

https://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/gunki1.htm

 応仁の乱以後、室町幕府は「伊勢国司」北畠政郷に伊勢守護職を授けていますが、文明9年(1477年)に伊勢北半国守護職を一色義春に授けたため両者の間で合戦となります。義春は数え12歳の少年ゆえ父義直が治めることとなったものの、幕府の権威を後ろ盾として実際に北畠家と戦ったのは、伊勢国安濃郡長野(現三重県津市美里町北長野)を拠点とする長野工藤氏です。

 長野工藤氏は藤原南家の流れをくむ武家で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の子祐長が安濃郡長野の地頭に任じられ、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従い、長野氏と称しました。南朝・北畠家・仁木氏の乱に対して功績をあげ、安濃と奄芸の両郡を賜って繁栄し、北の奄芸郡雲林院うじい(現津市芸濃町雲林院)に分家を置いて雲林院家としました。

 居城の長野城は、雲出川の支流・長野川を遡ったところにある山城で、鈴鹿山脈を越えて服部川上流部に出る伊賀街道を抑えています。周囲にはいくらかの盆地もあって城下町をなし、複数の城郭を持つ要害です。雲林院はその北、安濃川の南にあり、北は鈴鹿関を抑える関氏と相対しています。

 時の長野工藤家の当主・藤継は応仁の乱では東軍に属していましたが、北畠家が東軍になると西軍の美濃守護と同盟し、北伊勢の桑名郡を攻略しています。文明11年(1479年)北畠政郷が北伊勢へ侵攻すると、これをしばしば打ち破り、翌年には和睦に追い込んで勢威を高めました。政郷はこれを機に政勝と改名しています。しかし文明18年(1486年)7月、藤継は管領細川政元による正親町三条公治邸焼討に巻き込まれて38歳で死去し、弟の藤直が跡を継ぎました。長野工藤氏はその後も勢力を保っています。

 北畠政郷改め政勝は、これを契機として同月に出家し、子の具方ともかたに家督と国司職を譲りました。時に具方は19歳の青年ゆえ、実権は40歳前後の政勝改め無外逸方が握りました。具方はのち将軍足利義材よしきから偏諱を賜り材親きちかと改名します。義材は延徳2年(1490年)に将軍となり、明応2年(1493年)に廃位させられ、明応7年(1498年)8月に義尹と改名していますから、偏諱を賜ったのはその間です。

 政勝の子らのうち、北畠家の分家の大河内氏には親忠・親泰が、同じく北畠家の分家の木造氏には師茂が、関氏の分家の神戸氏には具盛が(材親の子とも)、それぞれ養子として入っています。また四男顕晴は度会郡田丸城に入って分割相続を受け、田丸氏の祖となりました。他に出家して興福寺の別当東門院に入った孝縁という僧がいます。神戸氏は別姓ゆえさておき、大河内・木造・田丸・坂内など北畠家の分家の当主は「御所」と呼ばれ、宗家の跡継ぎが絶えた場合は相続権を有しました。

山田三方

 北畠家の領国の北方には長野工藤氏や関氏およびその分家が割拠していましたが、東には伊勢神宮の神領がありました。伊勢外宮の門前町/鳥居前町である山田は、室町時代には内宮の門前町である宇治を上回る繁栄を誇り、両者の間で衝突が起きています。これは外宮の神官・度会氏が鎌倉時代後期に伊勢神道(度会神道・外宮神道)を起こし、南朝を支援し御師(宣教師)を各地に派遣して勢力を強めたためでした。北畠家は宇治を支援しますが、外宮・山田は内宮への参詣路を抑えており、対立を強めています。

 山田には江坂、須原、岩淵という三つの郷保(集落)があり、合わせて山田三保、転じて山田三方と呼ばれました。永享年間(1429-41年)に山田三方の神役人らは自治組織を樹立し、会合所えごうしょという町議会を設けて有力町人による共和政を敷きます。北畠家は宇治の神役人を被官化して山田に対抗させ、参宮路に関所を立てて関銭を徴収していましたが、文明18年(1486年)にはついに宮川以東の神域に兵馬を進め、外宮を焼き払い神領を押領するに至りました。さすがに幕府からも叱責されましたが、北畠家は外宮・山田の責任だとして処罰を免れています。最終的に山田が北畠家の支配下に入るのは半世紀後になります。

北畠晴具

 永正5年(1508年)政勝が薨去したことで二元統治は終わり、材親は朝廷より正三位・権大納言に叙任されますが、3年後に病を理由に出家し、家督を嫡男の親平に譲って隠居、7年後に50歳で薨去しました。親平は文亀3年(1503年)生まれゆえ家督継承時は数え8歳に過ぎず、父が薨去した時は15-16歳の少年です。この前年に具国、大永元年(1521年)に将軍足利義晴の偏諱を授かり晴具と改名しました。

 将軍義晴はまだ11歳に過ぎず、実権を握っていたのは管領細川高国です。晴具はこの高国の娘を正室に娶り、居城の多気御所に高国を招いて歌合せを行いました。しかし享禄2年(1529年)義晴と高国は三好元長らに敗れて京都を追われ、近江国朽木谷へ亡命します。晴具は彼らを支援して援軍を派遣したものの、享禄4年(1531年)高国は摂津で討死しました。元長も翌年に一向一揆により自害に追い込まれ、畿内は大いに混乱しています。

 天文5年(1536年)、34歳の晴具は出家して天祐と号しますが、隠居はせず実権を握り続け、東は宇治・山田、南は志摩・熊野、西は宇陀・吉野を制圧して支配下におさめ、北は長野工藤氏と戦っています。長野工藤氏との戦いは決着がつきませんでしたが、彼の代に北畠家の領国は大きく広がり、紀伊半島東部を掌中におさめ、南から畿内をうかがうまでになったのです。また田丸家・木造家には自らの子を養子として送り込み、結束を強めました。

北畠具教

 天文22年(1553年)、北畠晴具/天祐は隠居して家督を嫡男具教に譲り、10年後に61歳で薨去しました。具教は享禄3年(1528年)生まれで、家督を継承した時は26歳です。この前年には従四位下・参議に叙任されて公卿に列し、相続の翌年には従三位・権中納言に叙任されました。母は細川高国の娘ですから名門武家の血も引いており、権威も権勢も伊勢随一です。

 弘治元年(1555年)より長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に和睦して次男具藤を養嗣子として送り込みます。2年後に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため、長野工藤氏の支配権を完全に掌握しました。永禄3年(1560年)には志摩国の国人・小浜景隆らを支援して九鬼氏を攻め滅ぼし、志摩国の支配体制を固めます。また大和国宇陀郡の国人で三好氏の娘婿秋山教家を攻めてその父を人質にとり、北畠家による支配を盤石としました。

 永禄6年(1563年)父が薨去すると服喪して官職を辞し、17歳の嫡男具房に家督を譲りますが、まだ36歳ゆえ実権は握り続けます。具教は父晴具ともども文武両道・知勇兼備の名将で、塚原卜伝・上泉信綱ら旅の剣豪より兵法を学び、自らも剣術の達人であったといいます。さて、この頃までの北伊勢はどうなっていたでしょうか。

北勢諸侍

 江戸時代前期に成立した『勢州軍記』などによると、戦国時代の伊勢国13郡は南部5郡(一志・飯高・飯野・多気・度会)を治める伊勢国司北畠家、安濃・奄芸両郡を治める長野工藤氏と雲林院氏、鈴鹿・河曲両郡を治める関氏・神戸氏などが割拠し、残る北勢4郡(南から三重・朝明・員弁・桑名)は「北勢四十八家」と総称される多数の領主(国人・地侍)が割拠し、各々の所領を治めていました。

 48を4で割ると平均12ですが、実際の数ではないようで、正確な数は定かでありません。このうち三重郡には南朝の忠臣千種忠顕の後裔と称する千種氏、楠木正成の後裔と称する伊勢楠木氏などがいましたが、どれもどんぐりの背比べでした。伊勢北半国守護の一色氏が没落して以来、彼らを統率する勢力はなく、北畠家・関氏・神戸氏・長野工藤氏や近江六角氏、美濃斎藤氏など周辺諸侯と手を結んで争っていたようです。

 この地域で特に栄えていたのは桑名湊(現桑名市本町)です。北から流れて来た木曽三川が伊勢湾に注ぐ河口部の西側にあり、西から員弁川が流れ、陸路は鈴鹿山脈を越えて近江へ通じ、海路で南は伊勢神宮、東は尾張に通じる物流の拠点です。飛騨の木材、美濃の紙、信濃の芋、越後・越中の布、尾張・三河の陶器や木綿など諸国から集まって来た商品はここに集積され、伊勢神宮や畿内へ運ばれました。鎌倉時代末の嘉暦2年(1327年)には「十楽の津」と呼ばれ、楽=自由な立ち入りと取引が許可された市場でした。

 この桑名へ進出してきたのが、鈴鹿山脈の西麓、近江東部(湖東)の商人です。多賀大社との間には員弁川上流域に通じる鞍掛峠があり、その南の愛知川や日野川の上流部からも鈴鹿山脈を越える山道が存在しました。とりわけ朝明川沿いの「千種越え」、田光川沿いの「八風越え」が多く利用され、戦国時代には近江守護六角氏と結託した保内商人が千種氏から流通独占権を認められます。六角氏は北伊勢の国人衆をこれによって手懐け、さらに伊賀北部にも勢力を広げました。

 員弁郡梅戸(現いなべ市大安町梅戸)に割拠する梅戸氏は、室町幕府の奉公衆として独立勢力を保ち、三重郡や朝明郡にも勢力を広げていた有力武家でした。梅戸は員弁川の南、朝明川の北にあり、東は桑名を睨み、北西は近江に通じる街道を扼する交通の要衝です。六角高頼は子の高実を梅戸氏に養嗣子として送り込み、事実上支配下に置きました。天文9年(1541年)には六角義賢(高頼の孫)が北伊勢に侵攻して制圧し、各地に六角氏の一族や家来が送り込まれています。長野工藤氏はこれに対抗するため、長年の宿敵であった北畠家から養嗣子を受け入れたのです。

戦国時代の伊勢

伊勢長島

 明応10年(1492年)頃、本願寺8世蓮如は6男蓮淳を伊勢国桑名郡香取庄(現桑名市多度町香取、多度大社の東)の中郷杉江に遣わし、願証寺を創建させて伊勢における本願寺派(一向宗/浄土真宗)の拠点としました。蓮淳は近江・河内などにも拠点となる寺を開き、畿内の本願寺教団の中枢にあったため、永正8年(1511年)頃から蓮淳の次男実恵が常住するようになり、天文3年(1534年)までには伊勢・美濃・尾張におよぶ本願寺門徒を統率するに至ります。2年後に実恵が父に先立ち没すると、子の証恵が跡を継ぎ、寺を南東の長島(現桑名市長島町西外面)に移しました。

 ここは木曽三川の河口部にある中洲で、平安時代には自然堤防上に集落が形成され、室町時代には七つの島があったことから「七島」といい、訛って長島と呼ばれました。伊勢・美濃・尾張の三国の境目にあり、桑名と津島・熱田の間を結ぶ水上交通を扼する要衝です。ここに領主権力が及ばない本願寺教団の「寺領」が出現したため、諸国から人が集まって繁栄しました。

 今川義元が尾張に侵攻した際、尾張国海西郡(河内、現愛知県弥富市)の土豪・服部友貞は長島の本願寺教団を後ろ盾として独立を保っており、義元に呼応して織田信長を脅かしていました。桶狭間の戦いの後、友貞は長島に移動して長島城代となりますが、もとの所領は次第に信長に削り取られ、周囲に出城を築かれて劣勢に追いやられます。

 永禄10年(1567年)美濃国稲葉山城を失った斎藤龍興こと一色義紀が木曽川を下って長島に身を寄せると、信長はただちに長島へ侵攻を開始します。慌てた義紀は北伊勢から近江へ逃亡し、信長はこれを追って北伊勢に侵攻、豪族たちを服属させました。服部友貞は翌年正月北畠家に年賀の挨拶をしに行く途中、信長の刺客により暗殺されます。この時は大きな戦いにはなりませんでしたが、やがて信長が本願寺教団と関係を悪化させると、伊勢長島の一向一揆は信長の本拠地尾張を脅かすこととなるのです。

◆長◆

◆嶋◆

【続く】

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