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【つの版】度量衡比較・貨幣261

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

https://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/annnai.htm

なんか伊勢北畠家に詳しいサイトを見つけました。
三重県

◆逃◆

◆若◆


北畠顕能

 北畠顕能あきよしは延元3年(1338年)より38年に渡り南朝の伊勢国司をつとめました。とはいえまだ13歳の少年に過ぎず、当初は度会家行らの輔佐を受けています。翌年に後醍醐天皇が崩御して義良親王(後村上天皇)が即位し、顕能の姉妹顕子が中宮(皇后)に立てられたため、北畠家は天皇の外戚、顕能は天皇の義兄弟となります。

 この頃、南朝の勢力は雲出川を前線としており、飯野郡の神山城(現松阪市中万町)が前線基地でした。また度会郡には田丸城(現度会郡玉城町)が築かれ、顕能はここを居城としました。北朝との攻防の末、興国3年(1342年)から翌年にかけての北朝の攻撃を防ぎきれず落城し、顕能は西へ逃れ、一志郡多気(現津市美杉町上多気)に霧山城を構えて防ぎました。

 ここは雲出川の支流・八手俣はてまた川を遡ったところで、伊勢神宮と吉野朝廷を結ぶ街道沿いにあり、宇陀や名張にも山道が通じています。城の東には小さな盆地があって平時の居館と城下町が築かれ、周囲は峻険な山と多数の峠に護られていました。

 しばらくは逼塞していたものの、観応の擾乱で北朝・足利氏が混乱すると勢力を回復し、南朝は数度にわたって京都を奪還、北畠家の勢力は伊勢北部や伊賀にまで拡大しました。北朝は仁木義長を伊賀・伊勢・志摩の守護に任じて防がせますが、尊氏没後に義長は失脚して南朝に一時降伏しています。文中元年(1372年)顕能は従一位・右大臣に叙任され、天授2年(1376年)次男の顕泰に国司職を譲り、弘和3年(1383年)58歳で薨去しました。

 この頃、関盛政は北朝に降伏し、正平22年(1367年)三男盛繁に家督を継がせて亀山城に居らせました。また長男盛澄を東の河曲かわわ神戸かんべ郷(現鈴鹿市神戸)、次男盛門を鈴鹿郡国府城(現鈴鹿市国府町)、四男盛宗を西の鹿伏兎かぶと城(現亀山市加太市場)、五男政実を北の峯城(現亀山市川崎町)に封じ、鈴鹿川とその支流を抑えて勢力を広げています。各々は神戸氏・国府氏・鹿伏兎氏・峯氏の祖となり、関氏宗家と並んで割拠し、のち再び北畠家に味方してもいます。

北畠顕泰

 北畠顕泰は正平16年(1361年)生まれで、伊勢国司を継いだ時は数え16歳の若者でした。後村上天皇は8年前に崩御し、子の長慶天皇が跡を継いでいましたが、顕能が薨去した年の冬には弟の後亀山天皇に譲位し、南朝には北朝との和睦ムードが高まっていました。顕泰はこれに対して北伊勢へ進出し、一色詮範や仁木満長(義長の子)らと交戦、元中9年/北朝の明徳元年(1392年)に南北朝が両統迭立の状態に戻すという条件で和約を結んだ際も従わず、翌年正月には鈴鹿郡で土岐康政を打ち破っています。

 ところが間もなく「旧領を安堵する」と懐柔策を示されると、顕泰は一転して北朝・幕府に帰順し、同年9月に足利義満が伊勢神宮へ参詣した際、これを歓迎しました。喜んだ義満は顕泰の長男親能に偏諱を授け「満泰」と改名させ、翌応永元年(1394年)に顕泰が上洛すると「伊勢国司」の称号を認め、伊勢南半国(度会・多気・一志・飯高・飯野の5郡)における使節遵行権(不動産に関する裁定の強制執行権、守護の権能)を授けました。これにより北畠家は事実上の伊勢南半国の守護となり、公式に伊勢国司の地位と称号を世襲する権門として認定されたのです。

 伊勢守護の仁木満長は改めて伊勢北半国守護となりましたが、応永3年(1396年)庶兄の義員に守護職を譲らされ、出家遁世に追い込まれます。これより仁木家は衰えて伊賀一国の守護となり、伊勢北半国は土岐氏や一色氏が守護になりますが、北畠家の権威にはかなわず、北半国には関氏ら多数の土豪・国人衆が割拠していくこととなります。また伊賀一国を保つこともかなわず、名張など南部は北畠家や伊勢神宮が掌握していました。

 応永6年(1399年)11月、大内義弘が義満に対し反乱すると、北畠顕泰は300余騎を率いて泉州堺に駆け付けて義弘と戦いますが、この時に満泰は戦死しています。また楠木正成の孫の正勝とその子らを城内から救出したとも伝えられ、乱後は義満から伊賀半国と近江国甲賀郡を賜りました。応永9年(1402年)頃には次男の満雅に家督を譲ったと思われますが、その後もしばしば上洛して義満や公卿・武家を訪問し、南朝の系統である大覚寺統が皇位継承を行うよう働きかけています。ところが応永19年(1412年)8月、北朝の系統である持明院統の親王が即位し(称光天皇)、顕泰は望みを果たせぬまま伊勢に戻った後、2年後に54歳で薨去しました。

北畠満雅

 北畠満雅の生年は不明ですが、兄満泰と同じく足利義満から偏諱を賜っており、応永元年(1394年)に元服したとすると弘和元年(1381年)頃の生まれでしょう。兄が応永の乱で戦死すると嫡男となり、応永9年(1402年)に家督を譲られ伊勢国司に就任したのは20歳を過ぎた頃です。父は隠居したとはいえ40歳過ぎで、しばしば上洛して朝廷や義満と交渉していますから、父が薨去するまではその輔佐を受けていたのでしょう。

 応永21年(1414年)に父が薨去すると、満雅は「持明院統と大覚寺統の両統が迭立する(交替で天皇を出す)という約束に背いた」として伊勢で挙兵し、和約の履行(大覚寺統の天皇を即位させる)を求めました。伊勢や伊賀のみならず大和国宇陀郡の土豪らもこれに呼応し、北畠勢は幕府方についた城を次々と攻め落とし、阿坂城(現松阪市)に入って拠点とします。

 翌年4月、将軍足利義持は土岐持益を大将として伊勢に侵攻させますが勝利を得られず、8月に後亀山法皇の弟説成親王の仲介により和睦しました。後亀山法皇はこの頃吉野におり、幕府も南朝復活を恐れていたのです。後亀山法皇は京都大覚寺に戻って7年後に崩じました。

 正長元年(1428年)7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、時の将軍足利義教は後小松院と謀り、持明院統の傍流である伏見宮家から跡継ぎを立てて即位させました(後花園天皇)。後亀山院の孫の小倉宮はこれを不満として伊勢へ逃亡し、北畠満雅はこれを奉じて挙兵、鎌倉公方の足利持氏と手を結びました。激怒した義教は伊勢守護の土岐持頼を総大将として満雅を攻めさせますが、雲出川の戦いで打ち破られます。

 しかし義教は諸大名を援軍として派遣し、同年末に安濃郡岩田川で決戦が繰り広げられ、北畠満雅は討死しました(推定48歳)。息子が7歳で跡を継ぎ、叔父の大河内顕雅が補佐役/代行となり幕府と和睦し家を存続させます。北畠家は罰として一志郡・飯高郡を没収されますが、小倉宮を帰京させることで返還が成立し、顕雅は将軍家に服属しました。満雅の子が元服する時には、義教の偏諱を授かって「教具のりとも」と名乗っています。

北畠教具

 嘉吉元年(1441年)、北畠教具は19歳で伊勢国司となります。同年義教が赤松氏により暗殺されると、その首謀者の一人赤松教康が伊勢に逃亡して庇護を願いますが、教具はこれを拒絶して自害に追い込み、幕府に引き続き恭順します。このため順調に官位を昇進し、長禄2年(1458年)には従二位・権中納言に昇りました。

 この頃、伊勢北半国守護は一色義直がつとめていましたが、応仁の乱で西軍に属したため守護職を没収され、土岐政康に授けられています。北畠教具は東軍に属したものの、上洛はせず大和国長谷寺に陣取り、将軍義政の弟の義視が伊勢へ下向するとこれを庇護しました。のち義視に随行して上洛し、文明元年(1469年)権大納言に叙任され、文明3年(1471年)薨去します。家督と国司職は子の政具(政郷)が継承し、室町幕府から伊勢守護職も授かり、戦国時代にも由緒正しい「伊勢国司」として存続することとなります。

伊勢貞親

 鎌倉時代末期から戦国時代にかけて、足利家に仕えた武家に伊勢氏がいます。桓武平氏/伊勢平氏の後裔で平正度の子季衡の末と称し、鎌倉時代末期に平俊継が伊勢守となって伊勢氏と名乗ったと伝えられますが、伊勢国造/伊勢直氏の一族の末裔とする説もあります。元徳2年(1330年)には足利氏の上総国守護代に伊勢宗継なる者が任じられています。

 伊勢宗継の子を盛継(頼継とも)といい、その子は足利高氏(尊氏)の父貞氏から偏諱を賜って貞継と名乗りました。彼は尊氏・義詮・義満の三代に仕え、康安元年(1361年)までに出家して照禅と称しますが幕府に仕えて申次をつとめ、御厩奉行・御所奉行を歴任しました。義満の養育にも関わっていたとされ、康暦元年(1379年)には70歳にして政所執事(政務長官)となります。前任の御所奉行の職務も兼任したため管掌する職務は広大となり、伊勢氏は大きな権勢を握ることとなりました。明徳2年(1391年)貞継は82歳の高齢で没し、子の貞信は没していたため、孫の貞行が跡を継ぎます。

 貞行は義満・義持に仕えて重用され、応永17年(1410年)53歳で没しました。子の貞経は義持・義教に仕えますが、義教を批判して失脚させられ、弟の貞国に家督を譲らされます。この貞国の子が貞親です。

 彼は将軍足利義政を幼少の頃から養育し、政所執事として幕府の実権を掌握し、管領に代わって義政の親政を支えました。また義政の嫡男義尚の乳父として後見人となりますが、そのために義政の弟義視と対立し、一時は伊勢へ追放されます。間もなく応仁の乱が起きると義政に呼び戻されますが、もはや政治の実権を握ることもかなわず、文明3年(1471年)謀反の疑いをかけられて近江朽木谷へ亡命し出家、2年後に若狭で没しました。

 貞親失脚後も子の貞宗、孫の貞陸、曾孫の貞忠、貞忠の養子の貞孝は代々室町幕府の政所執事をつとめ、将軍を輔佐し続けています。なお小田原北条氏の祖である「北条早雲」こと伊勢盛時は、貞親の同族である備中伊勢氏の出自で、母は貞親の娘にあたります。

◆北◆

◆条◆

【続く】

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