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【つの版】度量衡比較・貨幣260

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

三重県

◆源◆

◆平◆


伊勢神郡

 伊勢国は畿内に隣接する大国として古くから重要視され、天皇は伊勢神宮に皇女を斎宮として派遣し、皇室の権威を高め東国に睨みを聞かせていました。また伊勢国13郡のうち南部の度会郡と多気郡を「神郡」と定め、そこからの収入は国に納めず神宮の祭祀と修繕の費用にあてるとしています。こうした神郡の制度は各地にありますが、神郡が2つある例は他にありません。

 さらに寛平年間(889-98年)には飯野郡、天慶3年(940年)には員弁郡、応和2年(962年)に三重郡、天延元年(972年)に安濃郡、寛仁元年(1017年)に朝明郡、文治元年(1185年)に飯高郡が順次寄進されて神郡となり、ついに伊勢国13郡のうち8郡までが神宮の神郡とされたのです。このうち神宮の支配が特に強い度会・多気・飯野の3郡は「神三郡」「道後三郡」と称され、北伊勢の員弁・三重・朝明3郡は「道前三郡」と呼ばれました。

伊勢平氏

 平将門の乱を平定した平貞盛は、桓武平氏の棟梁として鎮守府将軍に任じられ、丹波や陸奥の国司を歴任しましたが、彼の子(孫とも)の一人維衡これひらは伊勢に住み着き、伊勢平氏の祖となりました。長徳4年(998年)12月、下野守に遥任されていた彼は伊勢国の神郡で又従兄弟の平致頼と合戦を繰り広げます。朝廷が両者に出頭を命じ尋問したところ、維衡は直ちに非を認め詫び状を提出したため、位階を剥奪されず淡路へ移郷されただけでした。ところが致頼は非を認めず詫び状も提出しなかったため位階を剥奪され、隠岐へ配流されています(3年後に赦免され復位)。『今昔物語集』では先に合戦を仕掛けたため致頼の方が罪が重かったとします。

 寛弘3年(1006年)正月、維衡は右大臣藤原顕光の推挙により伊勢守に任じられます。藤原道長は以前の事件を持ち出して強硬に反対し、勅命による裁可には逆らえず追認したものの、2か月ほどで維衡は解任されました。これは致頼が道長一族に仕えていたためですが、寛弘4年(1007年)8月、道長の甥伊周が致頼に道長暗殺を命じたとの噂が流れます。この時道長は吉野金峯山寺に参詣しており、連絡をとるため勅使が派遣されたものの、結局暗殺計画は実行されず、致頼も処罰されずに4年後に没しています。平維衡はその後も上野介・備前守・常陸介を歴任し、85歳で没しました。

 維衡の子正度まさのりは伊勢国一志郡木造荘(現三重県津市木造町)などを領有し、常陸介・越前守・出羽守などを歴任しました。その子正衡まさひらは検非違使・右衛門尉などを歴任し、承保2年(1075年)に天台宗の僧良心と結託し、桑名郡における東寺の末寺・多度神宮寺の荘園を押収しようとしています(朝廷の裁下により失敗)。承暦3年(1079年)には延暦寺による強訴に対して防衛に出動し、康和元年(1099年)には出羽守に就任しています。

 その子正盛も検非違使として盗賊追捕にあたりますが、彼の代には分割相続などで家格が下がっており、受領としての任地は隠岐がせいぜいでした。しかし嘉保3年(1096年)に白河法皇の娘・郁芳門院(媞子)が21歳で崩御すると、正盛は娘を弔うため白河法皇が建立した六条院の御堂に伊賀国の所領鞆田荘(現三重県伊賀市友田)を寄進します。喜んだ白河法皇は彼を若狭守に取り立て、北面武士に任じました。さらに正盛は因幡権守に転じたのち隠岐から出雲に上陸した罪人・源義親を討伐して名を挙げ、内紛で衰退した河内源氏に代わって伊勢平氏が台頭することとなります。

 正盛の子忠盛、その子清盛の時に伊勢平氏は全盛期を迎え、後白河院と協力しつつ最初の武家政権を樹立しますが、清盛の晩年に後白河院と対立したことで各地で反平家勢力が武装蜂起し、最終的に滅亡します。

伊勢守護

 寿永3年(1184年)3月、源頼朝は平賀惟義を伊賀国守護(惣追捕使)に任じ、同年には山内やまのうち首藤すどう経俊つねとしを伊勢守護に任じました。彼は平将門を討伐した藤原秀郷の末裔で、首藤とは主馬首しゅめのかみという官名から、山内とは相模国鎌倉郡山内荘を領したことにより、経俊の父俊通が初めて山内首藤氏を名乗りました(それまでは首藤)。先祖代々河内源氏の棟梁に仕えた名門武家で、俊通は平治の乱で討死し、経俊は母が頼朝の乳母であったことから頼朝の乳兄弟にあたります。しかし頼朝の挙兵には従わず、当初は平家方に与して頼朝に矢を射かけたこともあり、降伏後に一時所領を没収されていました。

 寿永3年/元暦元年5月には、甥の頼朝と対立して義仲に仕えていた源義広(志田三郎)を鈴鹿郡服部山に囲んで自害に追い込みます。しかし同年7月に平田家継大掾信兼伊藤忠清が伊勢・伊賀で反乱を起こし、伊賀守護の惟義を国外へ駆逐、勢いに乗じて近江国甲賀郡にまで攻め入りました。事態を重く見た頼朝は弟の義経、伊勢守護の経俊らに鎮圧を命じます。惟義も取って返して反乱鎮圧に加わり手柄をあげますが、当初の反乱を鎮圧できなかったとして恩賞は受けられず、伊賀守護も経俊が兼任することとなります。

 その20年後、平氏の残党が再び伊賀・伊勢で挙兵し、経俊は打ち破られて国外に逃亡します。鎌倉幕府は京都守護の平賀朝雅に命じて鎮圧させ、経俊は伊賀・伊勢の守護職を解任されて朝雅が兼任することとなります。後鳥羽上皇は朝雅を伊賀知行国主とし、朝雅は里見義成を推挙して伊賀守としました。後鳥羽院の信頼篤く、幕府の実権を握る北条時政の娘婿でもある朝雅は畿内近国において大きな権力を得ます。しかし翌元久2年(1205年)、時政が朝雅を新たな鎌倉殿に擁立しようとしたとして北条義時と政子らに討伐を命じられ、自害に追い込まれました(牧氏事件)。

 義時は朝雅・義成から伊勢と伊賀を没収し、惟義の嫡男惟信を両国の守護に任じました。しかし彼は承久の乱で後鳥羽院方についたため失脚します。義時は弟の時房を伊勢守護とし、京都六波羅南方にあって畿内近国を監視させました。その後は義時の曾孫金沢顕時、子の貞顕、貞顕の子貞冬が伊勢守護となっていますが、任地には赴かず鎌倉にとどまり、貞顕らは幕府滅亡時に自害しています。

伊勢関氏

 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』などによれば、北条氏の重臣に平実忠という者がおり、弟を盛綱といいました。彼らの出自に関しては諸説あり、平清盛の孫資盛の庶子とも、正度の曾孫盛国の子ともされます(盛国には高橋左衛門尉盛綱という同名の子がいるため混同したものと思われますが)。実忠は鎌倉幕府に帰順して伊勢国鈴鹿郡関谷(現三重県亀山市関町)の地頭職を安堵され関氏の祖になり、盛綱は北条得宗家に代々仕え、幕府末期に幕政を掌握した御内人(被官)の長崎円喜はその曾孫であるとされます。

 鈴鹿郡の関谷といえば鈴鹿関のことで、前述のように鈴鹿山脈の東麓に存在し、伊勢国と近江国・伊賀国を結ぶ街道の結節点にある重要な拠点です。伊賀と伊勢を本拠地とした伊勢平氏は長くここを支配しており、出自は少々怪しいものの、同じ伊勢平氏が所領を安堵されたことにして北条氏がここを掌握したのでしょう。実忠が帰順したのも頼朝の時とも第二次三日平氏の乱の後ともされ、承久の乱の時には盛綱とともに北条泰時(義時の子)の側近として名があがっています。

 関実忠は長く鎌倉にとどまり代々の執権を輔佐した後、宝治年間(1247-49年)に領国へ下り、久我(現亀山市関町久我)に館を構えました。ここは鈴鹿川と加太川の合流地点の南にあり、要衝とはいえ山の中に過ぎたため、のちに東の山下(現亀山市山下町)へ移り、文永元年(1264年)豪族の板渕氏と和睦してさらに東の若山(現亀山市若山町)へ移りました。のちの亀山城はこの館の南に築かれています。

 実忠はこの翌年没したとされますが、父とされる平資盛は寿永4年(1185年)25歳で壇ノ浦に没したといい、同年に盛綱が生まれたとしても80歳です。また資盛が伊勢で謹慎していた嘉応2年(1170年)から承安4年(1174年)の間に彼らが生まれたとしても、当時の資盛はせいぜい10代半ばで元服した程でしかなく、実忠の没年が90歳ぐらいになります。ともあれ関氏は北条得宗家の御内人として盛綱およびその子孫とともに権力を振るっていたのですから、伊勢守護職には北条氏庶流の金沢氏がついたとしても、実際に現地で統治していたのは関氏だったと思われます。

 鎌倉幕府滅亡後、関実忠7世孫の盛政は後醍醐天皇と足利尊氏に服属し、所領を安堵されます。後醍醐天皇が尊氏と対立し、延元元年(1336年)吉野へ逃れ南朝を樹立すると、盛政は呼応して尊氏配下の伊勢守護畠山高国に反旗を翻します。この時に伊勢で挙兵した南朝勢力の主力が北畠家でした。

伊勢北畠

 北畠家は村上源氏・中院流・久我家の庶流で、家祖の雅家が洛北の北畠に邸宅を構えたことに始まります。雅家の子の師親、孫の師重、曾孫の親房は代々大覚寺統に仕える公卿でした。親房は後醍醐天皇の倒幕活動には加わらず、護良親王と結んでいたため建武新政時には疎んじられ、子の顕家とともに義良親王を奉じて陸奥へ派遣され、陸奥将軍府を開きます。尊氏を九州へ駆逐したのち、顕家は奥州へ戻り、親房は後醍醐天皇と合流しています。

 後醍醐天皇が吉野に遷ると、親房はこれに従い、子の顕信顕能を伊勢へ遣わして制圧させます。後醍醐天皇は彼らを伊勢国司に任じました。吉野は奈良盆地の南にある谷あいの盆地で、前述のように東の伊勢神宮中央構造線でまっすぐ道が繋がっており、北東の宇陀から名張・伊賀を通じて伊勢に達することも可能です。西では河内の楠木氏が呼応しますが、これも中央構造線で吉野・伊勢と繋がっています。

 北畠顕家は再び奥州から馳せ参じ、延元3年(1338年)鎌倉を経て美濃国青野原(関ヶ原)に到達しますが、足利勢の必死の反撃を受けて近江への侵攻は難しくなり、南に転進して伊勢に入りました。顕家は伊勢・大和・河内と転戦しますが勝利を得られず、泉州堺での決戦で敗北し討ち取られます。

 同年9月、後醍醐天皇は28歳の宗良親王を東国に、10歳の義良親王を陸奥に派遣することとし、北畠親房・顕信らに同行させ、伊勢国度会郡大湊おおみなと(現伊勢市大湊町)から海路で任地へ向かわせました。ここは伊勢神宮の外港として古くから栄えており、付近には神宮直属の塩田もあったといいます。伊勢外宮の神官・度会家行は南朝を支援しており、彼が唱えた神国思想は北畠親房らにも大きな影響を与えました。

 義良は建武元年(1334年)以来陸奥に赴任しており、親房・顕家に奉じられていましたから、元の任地に戻るだけです。顕信は兄の代わりに鎮守府将軍に任命されていますし、付き従う伊達行朝結城宗広中村経長らも陸奥や坂東の武者たちで、顕家とともに畿内まで攻め上ってきた連中の生き残りです。顕家に従っていた少年武将の北条時行・新田義興らもこれに加わり、東国へ戻ろうとしたと推測されています。

 しかし途中で暴風雨に遭い、この船団は離散します。北畠親房は伊達行朝や中村経長らとともに常陸国東条浦(現茨城県稲敷市)に、新田義興は武蔵国石浜(現東京都台東区or荒川区)に、宗良親王と北条時行は遠江国西部、馬込川河口の白羽湊(現静岡県浜松市南区白羽町)に漂着しました。義良親王と北畠顕信・結城宗広は三河湾口に浮かぶ篠島に漂着した後、伊勢に戻っています。老齢の宗広は翌年伊勢で病没しました。

 北畠顕信は翌年再び陸奥へ向かい到着に成功したため、伊勢には顕能が残って40年に渡り南朝の伊勢国司をつとめました。とはいえまだ13歳の少年に過ぎず、当初は度会家行らの輔佐を受けています。同年には後醍醐天皇が崩御して義良親王(後村上天皇)が即位し、顕能の姉妹顕子が中宮(皇后)に立てられたため、北畠家は天皇の外戚、顕能は天皇の義兄弟となります。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

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