【つの版】度量衡比較・貨幣259
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊賀国の隣、伊勢国です。

◆女神◆
◆転生◆
伊勢概説

伊勢国は東海道に属し、現在の三重県の北部と中部を占め、北は美濃国と尾張国に接し、東は伊勢湾を隔てて尾張国と三河国に向かい、南は志摩国と紀伊国、西は大和国と伊賀国に接しています。現在の愛知県や岐阜県の一部も、かつては伊勢国に属していました。また志摩国はかつては伊勢国と紀伊国の間に広がっていましたが、天正10年(1582年)縮小しました。伊勢という地名の由来は定かではなく、海辺にあることから「磯」が転じたものとする説が比較的有力です。
養老山地と木曽川の河口部を北端として、伊勢湾に沿った地域には伊勢平野が広がります。北部には員弁川、朝明川、海蔵川、三滝川、天白川、鈴鹿川が、中部には安濃川、岩田川、雲出川、櫛出川が、南部には宮川が流れて伊勢湾に流れ、温暖肥沃な堆積平野を形成しました。近代に至るまで伊勢は近江と並ぶ米どころであり、海産物とともに周辺地域に食糧を供給してきたことから「美し国」の雅称があります。

地理的には、伊勢国南部の宮川河口部から西へ向かって明瞭な断層が存在し、吉野川・紀ノ川・淡路島南部・四国・九州まで続いています。東は三河湾・伊那盆地を経て諏訪湖に達し、フォッサマグナを横断して茨城県で太平洋へ抜けています。これを「中央構造線」といい、西日本から東日本までを貫いています。この線上は地震が多発する地域であるとともに、河川や盆地を通る道が走り、水銀(辰砂)など鉱物資源にも富むことから、古来人々が往来してきました。伊勢神宮をはじめとする多くの神社や仏閣がここに存在するのもゆえなしとは言えません。
3世紀前期、三輪山西麓の纏向遺跡周辺に前方後円墳が出現した頃、東海地方の土器も纏向へ持ち込まれ、市場で交易が行われていました。奈良盆地と伊勢を結ぶ交易路が古くから存在した証拠です。中央構造線上の三重県多気郡多気町には縄文時代から丹生鉱山が存在し、三輪山の東の宇陀、宇陀の南の吉野、徳島県の若杉山ともども辰砂が採掘されていました。
いわゆる魏志倭人伝に「女王国から東に海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である」とありますが、これは邪馬台から伊勢へ出た後、伊勢湾を渡った彼方の国々を指しているとつのは考えています。
猿田彦神
記紀において伊勢の地名が初めて現れるのは、天孫降臨の時です。『日本書紀』一書によると天孫ニニギを道案内した国津神のサルタヒコは、アメノウズメに伴われて伊勢の狭長田の五十鈴川の上に降臨したとあります。『古事記』によると彼が阿邪訶(現松阪市大阿坂・小阿坂の阿射加神社)で漁をしていた時、比良夫貝(タイラギか)に手を挟まれて溺れ、海中で吐いた息の泡から三柱の神々(御魂)が生じたといいます。サルタヒコはこの時に溺死したらしく、後世その墳墓の近くに椿大神社(現鈴鹿市山本町)が造立されました。日向に降臨した天孫を案内した神が、遥か東の伊勢に降臨するというのも妙な話で、伊勢の土着神を記紀神話に取り込んだとも考えられています。
伊勢津彦
『伊勢国風土記』逸文によると、神武天皇が日向国から東征して熊野より菟田の下縣(現奈良県宇陀市大宇陀付近)に到った時、日臣命(道臣命か)に命じて西の生駒に住む逆賊の長脛彦を討伐させ、天御中主尊の12世孫である天日別命に標剣を授けて天津の方(東方)の国を平定するよう命じました。彼が勅命を承り東に数百里入っていくと、その邑に伊勢津彦という神がいました。天日別命が「汝の国を天孫に献上するか」と問うと、伊勢津彦は「私はこの国を求めて長らく居住している。あえて命令を聞かないことにしよう」と答え、服属を拒みました。
そこで天日別命が兵を起こして殺そうとすると、伊勢津彦は畏れ入って平伏し、「わが国はことごとく天孫に献上いたし、私はよそへ参ります」と告げます。天日別命が「汝が去る時に、何か験(証拠)を残せ」と命じると、伊勢津彦は「私は今夜、八風を起こして海水を吹き、波浪に乗って東に入ります。これが私の退いた証となります」と答えました。そこで夜中まで待っていると、にわかに大風が起こって波を打ち上げ、日のように光り輝くものがこれに乗り、東へ去って行きました。
天日別命はこうして伊勢津彦の治めていた国邑を平定し、西に戻って神武天皇に報告しました。すると天皇は大いに喜び、「この国は、その国津神の名をとって伊勢と名付けよ」と告げ、天日別命をそこへ封じ、大和国の耳梨の村を宅地として授けたといいます。ここを「神風の伊勢国、常世の浪寄せる国」と言うのは、この故事によるのです。異説によると、天日別命は勅命を承ると熊野村から伊勢国に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろわぬものを罰して平定し、山川を境として国邑を定め、橿原宮に復命したといいます。
Googleマップによると、宇陀市大宇陀あたりから東へ山あいの道を進むと三峯山の北麓を抜けて伊勢に達し、伊勢神宮まで90㎞あまりです。大宝律令での里は533.5mなので200里とすれば106.7kmほどです。
出雲建子
他の説では、伊賀穴志社(現伊賀市石川の穴石神社)に坐す神である出雲神の御子の出雲建子命、またの名を伊勢都彦神、またの名を天櫛玉命という神が、むかし石で城を作ってこの地に坐し、阿倍志彦神がやってきて奪おうとしましたが勝てずに帰りました。それで「石」が訛って伊勢という国名になったといいます。
『伊賀国風土記』逸文によると、伊賀国は初め伊勢加佐波夜国に属し、日神が天より投げ降した三種の宝器のうち金の鈴がこの地に降り、猿田彦神の娘の吾娥津媛がこれを見つけて守っていました。それでここを吾娥といい、天武天皇(孝霊天皇とも)の時に伊勢より分けて国としましたが訛って伊賀となったといいます。阿倍志彦神とは伊賀国阿拝郡の神でしょうから、伊賀と伊勢の間で争いがあったのでしょうか。しかし宇陀から伊勢神宮までは伊賀国内を通りません。
伊勢と出雲では随分離れていますが、宇陀の西の三輪山に坐す大物主神は出雲の大国主神の分霊とされ、三輪山の南麓を通る道は伊賀や伊勢に通じています。また『先代旧事本紀』天神本紀によると、天櫛玉命は饒速日尊の防衛として随伴して天降った三十二神のうちの一柱で、鴨県主らの祖とされます。賀茂県主のこととすれば神魂命ないし高魂命の末裔であり、八咫烏に化身して神武天皇を案内した建角身命の子孫とされますが、山城国の豪族であって大和や伊賀・伊勢とは離れています。賀茂朝臣のこととすれば大物主神の末裔であり、賀茂県主もその分かれではないかともいいます。
『播磨国風土記』によると、揖保郡に伊勢野・伊勢川という地名があり(現兵庫県姫路市林田町上伊勢・下伊勢および大津茂川)、伊和大神の御子である伊勢都比古命と伊勢都比売命が近くの山に住み、民が野に家を建てるたび騒ぎ立てたので、民は安らかに暮らせませんでした。そこで衣縫猪手・漢人刀良らの祖が山麓に神社を建てて敬い祀ったところ、鎮まって平穏となり、ついに里を成すことができたといいます。播磨と伊勢では随分と離れていますが、伊和大神は大国主神の別名ともされますから、出雲神の御子の伊勢都彦神と伊勢都比古命は同一かも知れません。
伊勢津彦神は、伊勢から海を渡って東に去った後、一説には信濃に赴いたといいます。そこで本居宣長らは、彼を信濃国諏訪の大神にして大国主神の御子である建御名方神と同一視しました。三河湾の奥の豊川から前述の中央構造線沿いに北上し、伊那から諏訪へ入ったというわけです。しかし『古事記』によれば建御名方神は天孫降臨の前に建御雷神に打ち負かされ、諏訪に鎮まって「ここから出ない」と約束させられたはずですから、神武天皇の時に伊勢や伊賀にいるのはこの時の約束に背いています。
伊勢国造
天日別命とその子孫は伊勢国を統治し、伊勢国造となりました。ただし『先代旧事本紀』国造本紀には、神武天皇の時に「天日鷲命」が初代の伊勢国造に封じられたとあります。よく似た名前で系譜も神魂命ないし高魂命の子孫と共通していますが、天日鷲命は大和の東の伊勢ではなく西の阿波国に封じられて阿波忌部の祖になっています。ただ『先代旧事本紀』天皇本紀や『古語拾遺』によると、神武東征に付き従った天富命(天太玉命の孫)は阿波忌部の一部を率いて東国へ赴き、安房・上総・下総を開拓したといい、途中で伊勢に立ち寄った可能性はあります。阿波には前述のように辰砂の鉱山もありますから、伊勢と阿波の間に交流があってもおかしくはありません。
伊勢国造の本拠地は令制でいう鈴鹿郡、現在の鈴鹿市国府町にあったとされ、古墳などが集中しています。伊賀・島(志摩)とは分けられており、伊勢国のうち川俣・阿野・飯高・壱志・佐那(多気郡)・度会にはおのおの県造がいたため、伊勢国造が支配したのは鈴鹿郡以北程度であったようです。
伊勢神宮
『日本書紀』によると垂仁天皇25年3月、第四皇女の倭姫命が天照大神を伊勢度会の地に祀りました。現在の伊勢神宮です。天照大神は日神として常に高天原にいますが、天孫降臨に際して八咫鏡を形代として授け、地上で天孫らに斎き祀らせました。神武東征の時これがヤマトに持ち込まれ、宮中で祀られていましたが、崇神天皇の時に疫病が流行したので、託宣によって宮中の外で祀ることとなり、笠縫邑(現奈良県磯城郡田原本町か)に遷されます。この時に鏡を奉斎したのが崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命で、彼女は魏志倭人伝に登場する臺與(台与)の可能性があります。
崇神天皇が崩御して垂仁天皇が即位した後、鏡の祭祀は倭姫命に託され、託宣によって各地を放浪することとなりました。『日本書紀』によれば、はじめ菟田の篠幡(現宇陀市榛原山之辺の篠畑神社か)に遷り、伊賀から近江に入って美濃を巡り、南下して伊勢に至ったといいます。この地で天照大神は「この神風の伊勢の国は、常世の浪が重なって寄せ、辺境ではあるが美しい国であるから、ここに居ようと思う」と託宣し、以後ここに鎮座することとなりました。他にも各地に「元伊勢」と呼ばれる滞在場所が伝承されています。実際に伊勢神宮が創建されたのはもっと遅く、天照大神を祭神としたのは7世紀後半とも考えられ、独身の皇女を伊勢神宮へ送り奉斎させる「斎宮」の制度が確立したのも天武朝からとされています。
また『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇の子景行天皇の子で倭姫の甥にあたるヤマトタケル(小碓王)が倭姫を訪ねた話があります。『古事記』では熊襲征伐に際して倭姫から女性の衣装を授かり、女装して熊襲の首領を殺しますが、『日本書紀』にはこの話は見えません。記紀に共通する点は、彼が倭姫から草薙剣/天叢雲剣を授かったことです。これは八咫鏡・八尺瓊勾玉とともに天孫に授けられたもので、勾玉は宮中に留め置かれましたが鏡と剣は豊鋤入姫および倭姫が持ち運び、当時は伊勢にあったというのです。
ヤマトタケルはこれを振るって東国の賊徒を討伐し、蝦夷を服属させたのち故郷へ戻ろうとしますが、草薙剣を尾張国造家の妻のもとに置いたまま美濃と近江の境の伊吹山の神を倒そうとして失敗し、病気となって下山しました。ところが琵琶湖経由で大和へ戻ることも、尾張へ戻って剣を回収することもなく、関ヶ原から南東に進んで美濃国の当芸野(現岐阜県養老町養老)に到達します。彼は「我が足はたぎたぎしくなった(腫れあがった)」と嘆き、ここを当芸野と名付けました。
しかしそこから山沿いに南下し、伊勢国桑名郡多度の尾津で剣を解いて休息し、三重郡の杖衝坂までやってきます。彼は剣を杖として急な坂を登り「我が脚は三重の如くに曲がり、大いに疲れた」と嘆いたので、そこを三重と呼ぶようになりました。さらに南西に向かって大和へ戻ろうと能褒野(現亀山市能褒野町付近)に来たところで倒れます。ここは鈴鹿川の支流の安楽川の北にあり、鈴鹿川を遡れば伊賀を経て大和へ戻れますが、もはや動けなくなった彼は伊勢神宮へ使いを派遣して蝦夷の捕虜を届けさせ、大和にも部下を派遣して報告させた後に没しました。

能褒野には10数基の古墳があり、最大のものは王塚古墳と呼ばれ、宮内庁により「ヤマトタケルの墓」とされています。考古学的には4世紀末のもので、実際にそうかは定かではありません。
朝日郎
『日本書紀』雄略紀によると、雄略天皇18年8月、天皇は物部菟代宿禰と物部連目を伊勢に遣わし、この地の豪族朝日郎を討伐させました。朝日郎は官軍を伊賀の青墓(現伊賀市佐那具町の御墓山古墳か)で迎え撃ちましたが、彼は弓の名手であり、二重に着込んだ鎧を矢で貫通するほどの腕前の持ち主であったため、官軍はみな恐れおののき、先に進めませんでした。そこで物部連目は自ら大刀を取り、筑紫の聞(豊前国企救郡、現北九州市)の物部大斧手に二重の鎧を着せ、盾を手にして大声をあげて突き進ませ、その背後に身を潜めて接近します。
朝日郎は遠くからこれを見て矢を放ち、盾と二重の鎧を貫いて大斧手を負傷させますが致命傷を与えることはできず、接近を許してしまいます。そして物部連目が大斧手の背後から飛び出し、朝日郎を捕らえて斬り殺します。天皇は報告を受けて菟代宿禰から猪名部(渡来系の職人集団)を没収し、目に賜ったといいます。猪名とは摂津国を流れる川の名で、その下流域に住み着いたことから猪名部といい、伊勢国北部の員弁郡の名は彼らにちなむとも言われています。
朝日郎は「伊勢の」と呼ばれていますが伊賀で官軍を迎え撃っており、伊勢と伊賀をともに治める強力な豪族であったようです。伊勢はともかく伊賀は奈良盆地のすぐ隣で、名張・宇陀を経て雄略天皇の宮廷である泊瀬(初瀬/長谷)朝倉宮を脅かすことができますし、木津川の上流部を掌握すれば山背/山城や河内を脅かせますから、官軍を遣わして討伐する価値はあります。また彼が討ち取られた青墓と思われる御墓山古墳は柘植川の南にあって東西の交通を扼する要所であり、5世紀頃に築造されたもので墳丘長は188mあり、三重県では最大規模の前方後円墳です。また後に伊勢北部には朝明郡が置かれ、いま三重県三重郡に朝日町があります。
延暦23年(804年)に編纂された『止由気宮儀式帳』、および『大神宮諸雑事記』によると、雄略天皇21年に天皇の夢に天照大神が現れ、「私一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神を近くに呼び寄せるように」と告げました。そこで翌年7月7日、伊勢国度会郡沼木郷の山田の原にその神を迎えて祀りました。これが伊勢の外宮で、天照大神を祀る方を内宮と呼びます。朝日郎が平定された後ですから辻褄はあいますが、本当かどうかは定かでありません。
孝徳天皇の時に伊勢国が成立し、天武天皇9年(680年)伊賀国を分け、8世紀初めまでに志摩国が分立しました。令制の伊勢国には13郡あり、北部に桑名・員弁・朝明・三重・河曲・奄芸・鈴鹿の7郡、南部に安濃・一志・飯高・飯野・多気・度会の6郡が置かれました。国府は鈴鹿郡にあり、現鈴鹿市国府町付近に存在したとされ、一時は同市広瀬町・西富田町に移転しています。
◆異◆
◆世◆
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。