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【つの版】度量衡比較:貨幣編・インデックス06

 ドーモ、三宅つのです。あまりにも増えてきたのでさらにインデックスを作りました。もはや貨幣史からはみ出していますが気にしないでください。

 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。


◆近江商人編

252.近江商人

 天下の物流の要衝たる近江国には、古くから商人が活動しており、その行動範囲は日本各地に及びました。

253.八幡商人

 蒲生郡八幡の商人たちは行商によって全国各地に販路を広げ、北は蝦夷地から南は安南・暹羅にまで進出していきました。

254.湖東商人

 江戸時代には高島、長浜、湖東からも多くの大商人が出現し、いくつかは現代にも存続しています。

255.日野商人

 蒲生郡南部の日野出身の商人たちは、椀や薬を行商して全国各地に販路を切り開き、北関東では醸造などを行って栄えました。

◆忍者編

256.甲賀忍者

 近江南部の甲賀郡は、近江と伊賀・伊勢を繋ぐ交通の要衝であり、多くの国人・地侍が割拠していました。彼らが用いた情報収集の技術が忍術です。

257.伊賀之乱

 近江の南の伊賀国は、大和と伊勢を結ぶ内陸の小国で、やはり多数の国人や地侍が割拠していました。

258.伊賀上野

 豊臣秀吉の時代、伊賀に入国した筒井定次は、上野城を築いて居城としました。関ヶ原の戦いから8年後に定次が改易されると、藤堂高虎が伊勢安濃津城主に任じられて伊賀も授かり、親族を城代として封じています。

◆伊勢編

259.伊勢概説

 伊勢国は食物や辰砂に富み、中央構造線で吉野と結ばれ、海を隔てて尾張や三河に通じ、古来各地と盛んな交流がありました。

260.伊勢国司

 平安時代後期には伊勢平氏が台頭し、最初の武家政権を打ち立てます。これを倒した鎌倉幕府は、同じく伊勢平氏を称した関氏を守護代としますが、南北朝時代には南朝の重臣北畠氏が伊勢国司に任じられ割拠しました。

261.北畠興亡

 明徳の和約の後、北畠家は北朝に帰順し、室町幕府から事実上の伊勢南半国守護職を授かります。

262.伊勢戦国

 戦国時代の伊勢には、南部5郡を治める北畠家、安濃郡の長野工藤氏、奄芸郡の雲林院氏、鈴鹿郡の関氏、河曲郡の神戸氏、員弁郡の梅戸氏、桑名郡長島の一向一揆など多くの勢力がひしめいていました。

263.長島合戦

 織田信長は永禄10年(1567年)から滝川一益に命じて伊勢に侵攻させ、神戸氏・長野氏・北畠家を次々と屈服させます。さらに桑名長島の一向一揆を激戦の末に討ち滅ぼし、伊勢の大部分を掌握しました。

264.三瀬之変

 信長は次男を北畠家、三男を神戸氏の養嗣子として家督を継がせ、残党を粛清して乗っ取ります。しかし本能寺の変で信長と嫡男信忠が死ぬと、この二人は織田家中の主導権を巡って争うこととなります。

265.滝川一益

 清洲会議の後、美濃を相続した織田信孝は信忠の嫡男を岐阜城にとどめて宿老体制に逆らい、柴田勝家・滝川一益らを味方に引き入れます。これに対して羽柴秀吉らは織田信雄と手を結び、信孝派の討伐を開始しました。

266.東海戦役

 織田家当主となった信雄は秀吉と対立し、徳川家康と手を結んで尾張・伊勢で挙兵します。秀吉は近江から伊賀・伊勢へ、美濃から尾張へ攻め寄せ、滝川一益も今回は秀吉方につきます。最終的に信雄は屈服し、小田原征伐の後に改易され、豊臣秀次がその領地を受け継ぎました。

267.長島藩主

 関ヶ原の戦いの後、伊勢長島には松平定勝、菅沼氏、次いで久松松平氏が藩主として封じられました。元禄15年(1702年)には将軍家外戚の増山氏が封じられ、以後養子を迎えつつも廃藩置県まで存続しています。

268.桑名藩主

 関ヶ原の戦いの後、伊勢桑名城には本多忠勝が封じられ、子の時に国替えされると久松松平家が入ります。元禄から宝永年間には野村増右衛門が抜擢され藩政改革を推進しますが、藩士の反発を買い粛清されました。

【続く】

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