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【つの版】度量衡比較・貨幣256

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

滋賀県

◆甲◆

◆賀◆


古代甲賀

 近江国12郡のうち唯一琵琶湖に面していないのが、南端部を占める甲賀郡です。現在の滋賀県甲賀市および湖南市の全域と、蒲生郡日野町下駒月(明治22年/1889年に蒲生郡へ編入)から成り、東は鈴鹿山脈を経て伊勢国、南は伊賀国、南西は山城国相楽郡・綴喜郡、北は近江国栗太郡・野洲郡・蒲生郡に面しています。全体に山がちで起伏に富み、琵琶湖へ注ぐ野洲川とその支流のそま川(油日川)、瀬田川へ注ぐ大戸だいど川(信楽しがらき川)が流れ、流域の盆地を潤しつつ各地を繋いでいます。

 伊勢国を流れる鈴鹿川は、遡っていくと近江国甲賀郡との境に源流部があり、両国の境の鈴鹿峠は標高357mと比較的低く、古くから山道が通っていました。鈴鹿関はその南東、加太川と鈴鹿川が合流するあたりに設置され、大和国から伊賀国を越えて通る道(旧東海道、加太越え)も遮っています。天智天皇は近江国大津に宮を置いたため、ここは都と畿内を守る重要な拠点でしたが、壬申の乱の時に大海人皇子は吉野から宇陀・伊賀を経て鈴鹿関を通過し、北上して尾張・美濃に到達しています。

 甲賀郡の名は『続日本紀』天平14年(742年)条に初めて見え、『日本書紀』では鹿深かふか、正倉院文書では甲可・甲加と表記されています。『和名類聚抄』によると甲賀郡には老上おきかみ夏見なつみ山直やまなほ蔵部くらふの4郷があるとされ、吉田東伍編『大日本地名辞書』によれば老上郷は信楽(現甲賀市信楽町)、夏見郷は石部・三雲(現湖南市石部・三雲)、山直郷は水口(現甲賀市水口町)、蔵部郷は油日(現甲賀市甲賀町油日)などとしますが定かでありません。郡衙の位置もつまびらかでなく、中世以降は水口に城が築かれて中心地となりました。

 奈良時代には聖武天皇が紫香楽しがらき宮を建設して遷都しようとしましたが反対論が根強く、恭仁京を経て平城京へ戻されました。のち山城国に都が遷ると、仁和2年(886年)斎宮の伊勢入りを契機として鈴鹿峠経由の道が開かれ、こちらが東海道の本道となりました。しかし伊勢側は高低差が激しい難所で、しばしば盗賊が出没したので、坂上田村麻呂の霊を甲賀郡土山に祀っていたのを交通安全の神として崇めた(田村神社)といいます。

甲賀忍者

 かように山深く交通の要衝であることから、甲賀は隣の伊賀と並んで各地の情報を収集する「忍びの者」、すなわち忍者が多く潜むとされました。江戸時代中期に成立した『伊賀問答忍術賀士誠』によると、神武天皇に仕えた道臣みちのおみ命が忍術の祖であるといいます。また『甲賀由緒概史略』『忍術應義伝』等によると、道臣命の子孫大伴細入(伴細人/杉原斎入)は甲賀郡馬杉村(現甲賀市甲南町上馬杉)に住み、大和国から追われて来た聖徳太子に仕え、物部守屋を討伐する陰謀を巡らせたので、こころざしく備える者として「志能備しのび」の名を授かったといいます。これは後世の伝説でしょうが、東隣の和田には戦国時代に還俗前の足利義昭(覚慶)が大和から伊賀を経て逃げ込んでいます。「忍びの者」という語は『太平記』に見え、遅くとも南北朝時代には存在したようです。

 確実なところでは長享元年(1487年)9月、室町幕府の将軍・足利義尚が近江国の守護大名であった六角高頼を討伐するため大軍を率いて攻め込んだ際、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀郡に逃げ込み、甲賀・伊賀の地侍を味方につけてゲリラ戦を挑みました。敵が襲来すれば山中へ逃げて防御を固め、疲弊したところを襲撃して叩くこの戦法は、亀の甲羅に頭・四肢・尾を収納する六つの穴があるところから「亀六の法」と呼ばれます。幕府軍は大軍でしたが一枚岩ではなく、夜襲や放火に遭って恐れをなし、義尚は勝利を得られぬまま3年後に病死しました。

 この戦いに参加した地侍たちは「甲賀五十三家」と呼ばれ、特に六角氏から感状を授かり重きを置かれたとされる家を「甲賀二十一家」と称します。こう呼ばれるようになったのは江戸時代以降ですが、三雲、和田、隠岐、池田、青木、山中は大身で、観音寺城の在番を務めています。

二十一家
 柏木三家:山中、伴、美濃部
 荘内三家:鵜飼、服部、内貴
 南山六家:大原、和田、上野、高峰、多喜、池田
 北山九家:黒川、頓宮、隠岐、大野、大河原、岩室、佐治、神保、芥川

三十二家
 望月、小泉、夏見、杉谷、針、小川、大久保、上田、野田、岩根、
 新城、青木、宮島、杉山、葛城、三雲、牧村、八田、高野、上山、
 高山、守田、嶬峨、鳥居、平子、多羅尾、土山、山上、相場、
 長野、中山

 彼らは甲賀郡に在住する地侍=国人衆であり、「忍びの者」という職能集団や百姓ではなく武士と自認しています。これより甲賀衆は六角氏に仕え、永禄年間には甲賀郡中惣という自治組織を結成し、六角氏が織田信長に敗れ没落すると信長に仕えました。天正伊賀の乱では信長に従って伊賀を攻め、本能寺の変の時は徳川家康が河内から山城・甲賀・伊賀を経て伊勢へ抜ける手助けをしています(後述)。羽柴秀吉は中村一氏に甲賀郡6万石を授けて水口岡山城主としますが、この時に甲賀郡の地侍たちは多くが改易され、一部は一氏に仕えて武士となったものの、多くは百姓となって帰農しました。

 のち長束正家が水口岡山城主となり、関ヶ原の戦いに際しては西軍に与しました。彼は甲賀の地侍たちに所領を安堵するから味方につくよう持ち掛け人質を取りますが、牢人化していた甲賀衆100余名は家康につき、西軍に攻められていた伏見城に駆け付けて玉砕しています。戦後、家康は水口岡山城を攻略した山岡道阿弥に9000石を授け、伏見城で戦死した甲賀衆の子弟から与力10名、同心100名を選び、道阿弥に4000石で養わせました。これが江戸幕府の百人組のひとつ「甲賀組」で、大坂の陣でも鉄砲足軽や砲兵として活躍しました。また家康の伊賀越えを助けた多羅尾氏らは武士として所領を安堵されています。しかし多くの甲賀衆は百姓や牢人にとどまりました。

 水口岡山城は廃城となり、周辺は幕府領となって代官が置かれ、東海道の宿場町・水口宿が設置されます。その近くに水口御殿が築かれ、将軍が上洛する際の御宿となりましたが、寛永11年(1634年)家光が上洛する際に新たな「水口御茶屋」が建設されて宿館となり、旧来の御殿は廃されました。その後は半世紀ほど城番が置かれ、天和2年(1682年)加藤明友が2万石で封じられて城主となり、明治維新まで続く水口藩が成立しました。

 寛永14年(1637年)、肥前国で島原の乱が勃発します。この時に甲賀古士(元武士)の望月与右衛門は甲賀郡水口を通りかかった幕府上使・松平信綱を出迎え、自分たちも参陣したいと申し出ました。信綱は大勢は連れて行けないと断り、与右衛門ら10名が代表として加わります。信綱は島原に着くと一揆勢の籠城する原城の見取り図を作成するよう彼らに命じますが、大半が50歳を超えた老人で、4人が侵入に成功したものの落とし穴に落ちたところを石礫を浴びて重傷を負い、任務は失敗しました。しかし信綱は彼らを見限らず、海側から城に潜入させて兵糧米13俵を奪い取らせ、城内を偵察させて旗を奪い取らせるなどの手柄を挙げさせています。

 それから30年後、寛文2年(1667年)には甲賀古士らが武士身分への復帰を目指して嘆願運動を行い始めます。彼らは自らの先祖が「甲賀五十三家」「甲賀二十一家」など六角氏に仕えた由緒ある武士であるとし、徳川家康の伊賀越えを助け、伏見城や関ヶ原、大坂の陣や島原の乱などで功績を挙げたことを主張しましたが、幕府には認められませんでした。有名な忍術書『万川集海』なども、この頃に伊賀や甲賀の郷士たちが作成したものです。

 彼らの嘆願は実を結びませんでしたが、忍術書が流布されたことで庶民の間には神出鬼没の「忍者」のイメージが広まり、歌舞伎や黄表紙などのエンタメ作品に忍者が登場したりするようになっていきます。また忍術はもともと兵法・武術の一分野でもあり、敵を足止めして逃げおおせたり、偽情報を流して混乱させたり、情報を収集したり医薬や毒薬を作成するなどの技術を総合したものでしたから、各地の武芸者も忍術を学んでいます。その源流は各地を放浪した山伏(修験者)にあるともされ、隣接する日野の商人らも全国各地を行商して医薬を販売し財を成したことから、忍者と近江商人には何らかの関係があるのではないかとも言われています。

多羅尾氏

 甲賀衆のうち、甲賀郡西部の信楽荘多羅尾を治めたのが多羅尾氏です。家伝によれば、先祖は鎌倉時代後期の公卿で関白となった近衛家基で、近衛氏の荘園であった多羅尾に隠居した後、永仁4年(1296年)に没しました。その次男経平は多羅尾の地侍との間に庶子を儲け、初め高山太郎と名乗りましたが嘉元元年(1303年)多羅尾師俊と改名し、信楽を治めるようになったといいます。しかし家基が多羅尾に隠居した様子はなく、没した時には36歳で次男経平は8歳、嘉元元年でも15歳でしかないため無理がある話です。また南北朝時代には近隣の鶴見氏と結託して南朝側についたといいます。

 応仁の乱の前年の文正元年(1466年)2月、多羅尾三河入道玄頴という人物が信楽荘から上洛しており、同年8月には玄頴の子の四郎兵衛嗣光が上洛している記録があります。翌文正2年(1467年)8月に足利義視が京都から伊勢へ出奔した時、この多羅尾氏が随行したといい、伊勢から京都に戻る際にも随行しています。応仁2年(1468年)8月に近衛政家が信楽に下向した際、玄頴が信楽荘の支配を任されるようになったといい、先祖が近衛氏というのはこの頃に創られた話でしょうか。その後は六角氏に仕えて京極氏や幕府軍と戦い、鶴見氏を駆逐して信楽を制圧、近衛家を後ろ盾として六角氏からも自立した独自の勢力を築き上げました。

 天文16年(1547年)頃、細川氏綱に近侍して書状の取次ぎを行っていた「多羅尾孫十郎」という者が記録に現れます。天文18年(1549年)には左近大夫と名乗り、氏綱から偏諱を賜って綱知と称しました。甲賀郡信楽の多羅尾氏の一族と思われますが、系譜は定かでありません。氏綱が三好長慶に奉じられて上洛すると、綱知は山城や摂津の行政に関与し、永禄6年(1563年)氏綱が山城国淀城で没すると事実上の淀城主となりました。翌年長慶も没すると、松永久秀とともに長慶の子重存(義重、義継)を擁立し、義継の妹を正室に迎えて三好三人衆と戦っています。のち信長に降って義継を自害に追いやり、若江城に移って北河内を統治しました。子の光信が家督を相続しますが子孫は定かでなく、松永久秀の養子となった子は早くに戦死し、義継の妹が生んだ生勝は三好宗家を相続し、子孫は広島藩士となっています。

 系譜では多羅尾師俊の13代の末裔を光吉といい、その子・光俊は永正11年(1514年)の生まれと伝え、嗣光と同じく四郎兵衛を名乗っています。六角氏が没落すると織田信長に仕え、本能寺の変の時に徳川家康が三河へ帰国するのを手助けしました。これは家康に同行していた信長の寵臣・長谷川秀一が多羅尾光俊の五男山口甚介光広(信楽西隣・宇治田原城主の山口氏の養子)と旧知の仲であったためで、秀一から連絡を受けた光広が父に連絡し、光俊は一族を挙げて家康を歓迎、支援しています。

 家康の逃走経路については諸説ありますが、有力な説では泉州堺から京都へ向かう途中河内国四条畷に来たところで本能寺の変について知らされ、生駒山地を北東へ駆け抜け興戸(現京田辺市興戸)から木津川を渡りました。そこから宇治田原城を経て信楽に入り、桜峠を越えて伊賀国丸柱から柘植に赴き、加太越えで鈴鹿山脈を抜け、伊勢に出て船で三河に戻ったとします。

伊賀越え

 家康は多羅尾氏に大いに感謝しますが、羽柴秀吉と徳川家康が対立すると秀吉に所領を没収され、多羅尾氏は家康につきます。秀吉と家康が和睦すると秀吉に従い、秀吉の甥秀次が南近江を領するとこれに従い、光俊は孫娘を秀次の側室として所領を回復しています。ところが秀次が失脚して一族郎党が処刑されると、多羅尾氏もこれに連座して没落し、再び家康を頼ることとなりました。家康は多羅尾氏を旗本に取り立て、会津征伐や関ヶ原の戦いで活躍したことから信楽領を安堵され、近江・畿内の幕府領の代官職を世襲しています。多羅尾光俊はこれらを見届けた後、慶長14年(1609年)95歳の高齢で没しました。

◆忍◆

◆殺◆

【続く】

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