【つの版】度量衡比較・貨幣255
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江商人の続きです。

◆日◆
◆野◆
日野商人
近江国蒲生郡日野(現日野町)に拠点を置いて全国各地で活動したのが、近江商人のうちの日野商人です。日野は鈴鹿山脈の西麓、湖東地方の南端、甲賀郡の北にあり、鈴鹿山脈を水源とする日野川が貫く山あいの地であり、東は伊勢に通じています。平安時代には「檜物庄」と表記されており、檜などの木材を加工して器とする「曲物(まげもの)」の製造が行われていたことをうかがわせます。天喜4年(1056年)に東大寺使神成則請文の中で藤原摂関家の法成寺領「日野御牧」とあるのが日野の初出で、馬牧も置かれていたようです。
室町時代後期から戦国時代にかけて、この地には藤原秀郷の末裔を称した蒲生氏が割拠しました。応仁の乱の頃には蒲生貞秀が音羽城を築いて根城とし、足利義材が六角高頼を討伐すると義材に味方して所領を安堵されています。のち義材が失脚し高頼が復権すると六角氏に従い、貞秀の次男高郷が甥の秀紀と家督を争って音羽城を攻め落とすと、高郷の子定秀は天文年間に日野城(中野城)を築いて居城としました。蒲生定秀と子の賢秀は六角氏の宿老として日野を治め、六角氏が衰退すると織田信長に仕えるようになり、その城下町には多くの商人が集まって来ます。
蒲生賢秀の子・氏郷は、織田信長を烏帽子親としており、信長の娘婿でもありました。小牧・長久手の戦いの後、秀吉は彼を伊勢国飯高郡松ヶ島城(現三重県松阪市松ヶ島町)に封じて12万石を授けましたが、4年後に氏郷は手狭であるとして南に4㎞ほど離れた地に松坂城(現松阪市殿町)を建設し、ここに移ります。松ヶ島への転封時、旧領日野の商人の多くがその城下町に移っていましたが、氏郷は彼らを全て松坂城下町に移住させ、楽市楽座としました。ところが氏郷は天正18年(1590年)に陸奥国会津郡に国替えされ、松坂の日野商人も彼に従って会津に赴いています。
子の秀行は下野国宇都宮へ国替えされたのち会津に戻され、孫の忠郷は26歳で夭折し、出羽国上山に封じられていた弟の忠知が家督を継ぎ、伊予国松山に国替えされましたが、彼も嗣子なく早世して蒲生氏は断絶します。しかし各地に移住した日野商人らは各々人脈と販路を築き上げ、奥羽から九州まで全国に展開する行商圏を形成することとなりました。また関ヶ原の戦いに際して日野商人は鉄砲300挺を徳川方に献納し、江戸幕府から諸役免除の朱印状を授かっていたため、幕府お膝元の関東に進出しても有利でした。
遅くとも元禄3年(1690年)には、地縁に基づく商人組合「日野大当番仲間」が組織されました。これは同業者組合(座)ではなく、業種を問わずに掛銭(会費)を支払えば誰でも加入でき、加入している行商人は行く先々の定宿で便宜を払ってもらうことができました。行商人が運べる量は小売店に見本として提示する程度しかなく、大量に販売するためには定宿が拠点となりますし、周辺各地の情報を収集することも可能です。
また日野商人の特色として、八幡商人などのように大店を大都市に構えず地方に多数の小さな支店を展開し、各地の産物を輸送して商売する「産物廻し」の手法をとったことがあります。彼らは日野に本拠地を置いての行商から商売を開始し、親類縁者を分家・別家させて出店を任せ、あるいは複数の商家が資金を共同出資(乗合商い)して出店を経営しました。それぞれの規模も大きくはないものの全体としては巨大で、1000両(1両を現代日本での20万円相当として2億円)の資金を蓄えれば出店を出したことから「八幡大店、日野千両店」と呼ばれました。
初期の日野の名物は漆器(日野椀)でした。前述のように平安時代から檜物製造は行われていましたが、天文2年(1533年)蒲生氏が日野城下町の町割を行い、木地師・塗師を住まわせたことで盛んになり、千利休が好んで用いていたとも伝えられます。しかし蒲生氏郷が国替えされると職人を会津に招いたため、日野での漆器製造は衰退しました。元和年間に復興し、庶民が使うための素朴な椀を行商しますが、主力商品の変化や競合商品の展開、宝暦6年(1756年)の日野大火で打撃を受け、天保年間(1830-43年)には断絶します(近年に復興)。それでも初期の日野商人の活動を支えたことには違いなく、日野大当番仲間も日野椀が主力商品の頃に組織されています。
初期の日野商人は集団で隊列を組み、東山道/中山道を利用して関東・奥羽にまで行商に赴きました。東海道は平坦ですが河川の増水による「川止め」が起きやすく、関所も多くて日数を無駄にするのに比べ、中山道は道が険しくとも関所や大河が少なく、規定の日数で確実に踏破できました。そのため行商人はなるべく軽い荷物を運ぶことにしています。
日野売薬
正野玄三家
万治2年(1659年)、のちの正野玄三が近江に生まれました。正野家は百姓ですが旧家で、初代玄友は永正・大永年間(1504-28年)頃より東国へ商いに赴き、鎌倉にも店舗を持っていました。のち近江国神崎郡佐生村(現東近江市能登川町)に居住して製茶業を営み、天文2年(1533年)には禁裏に茶を献上、翌年正六位下の官位を賜っています。能登川は近江守護六角氏の居城・観音寺城の北麓にある町で、当時は名君六角定頼のもと繁栄していましたから、玄友もその庇護を受けていたのでしょう。
三代目の友斎までは引き続き製茶業を営み、禁裏へ献茶を行っていましたが、四代目の宗悦は六角氏が織田信長に攻められ劣勢となると近江を離れ、天正年間(1573-92年)大坂で眼医者となり、名声を博しました。五代目の丸右衛門は近江国愛知川(現愛荘町)に移住して農民となり、子の源左衛門を儲けたのち万治2年に65歳で没しました。源左衛門は玄三の父ですが、数人の子を儲けたのち早世し、家計は豊かではありませんでした。
玄三は幼名を萬四郎といい、三男ゆえ家督は継がず、延宝4年(1676年)18歳の時に源七と名を改め、次兄丸右衛門にならって行商を始めました(越後に丁稚奉公に出たとも)。貞享元年(1684年)26歳で行商人として独立が認められた時、彼の元手は32両(江戸前期の1両を現代の20万円として640万円)ほどでしたが、母や兄弟から資金を借り入れて商売の拡大をはかり、京都・大坂・堺で木綿や古着、中古の装飾品や衣料品を買い込みます。
彼はこれを担いで中山道沿いに信州へ向かい、さらに越後にも足を延ばして売り捌きます。そして売上で縮緬や煙草など現地の商品を安く仕入れ、上方に戻って売り捌くという方式で富を蓄えました。さらに東海道を進んで桑名や江戸まで足を延ばし、独立から8年後の元禄5年(1692年)には資産が16倍以上の530両(1億600万円)にも増えています。またこの年には3年前に娶った妻が長女を産んでいます。
翌元禄6年(1693年)、35歳の源七は母の病気を治した京都の医師・名古屋丹水の腕前に感銘を受け、彼の下で医者の修行を始めます。それまでの売掛金の回収や貸付金の利息収入があり、修行中でも充分妻子を養うことができました。また手代2名を雇って行商を行わせたため自分が行商をする必要もなくなり、元禄11年(1698年)には出家して玄三と称します。
元禄14年(1701年)、43歳の玄三は日野に戻り、製薬卸業を始めます。薬種は堺で仕入れ、日野で調合して合薬とし雇い人に行商させ、他の行商人や各地の薬売りにも卸売りを行いました。木綿や古着に比べ、薬は軽く小さく持ち歩きやすく、利益率も通常の品が1-2割のところ3-4割に及び収益性も高いことから、玄三の収入はこれより飛躍的に増大することとなりました。茶も薬の一種ですから本家帰りと言えなくもありません。
宝永2年(1705年)、玄三は「法橋上人位」という僧位を賜ります。これは当時は医師や絵師、連歌師や儒者などが授かる名誉称号で、それなりの金銭を各方面に上納する必要はありますが、名声を高め信頼を保証する程の役には立ちます。同年玄三は12条の家訓を定め、相場取引を禁止し、大名貸しは身代の2割以内とするよう命じました。相場取引は博打同然ですし、大名へ資金を貸し付けることは元禄時代には流行したものの、踏み倒されて多額の負債を被り廃業に陥る商人が大勢いたため、これを戒めたものです。
しかしこの頃、玄三は日野城跡に陣屋を置く仁正寺藩主・市橋家からの申し出を断り切れず、大名貸しを行っています。果たして宝永6年(1709年)には返済困難に陥り多額の損失が生じますが、正野家が傾くことはなく、享保10年(1725年)には8200両超(1両20万円として16億4000万円)もの資産を持つに至りました。また玄三は法橋より上の法眼の僧位も得ています。
享保17年(1732年)、73歳の玄三は、資産を長男の名古屋伯由と次男の猪之五郎に生前譲渡しました。長男には京都の屋敷や貸家など不動産13ヶ所と資金2200両(4億4000万円)、次男には日野の本宅と店、商売上の資産および資金2000両(4億円)余を与え、貸付金などの別途資産4700両(9億4000万円)余を共同で管理させています。合計すると資金だけで4200+4700=8900両(17億8000万円)あり、不動産などを加えれば1万両(20億円)はゆうに超えていたでしょう。
玄三は翌年逝去し、日野に製薬業と薬の行商という巨大な産業基盤を遺しました。元文・寛保年間(1736-43年)に日野では薬関連の業者が増加し、寛保3年(1743年)4月に書かれた合薬仲間の掟書には102人の売薬業者の名が記され、売薬の箱を製造する職人だけで28人を数えています。売薬の販売網は蝦夷地から薩摩まで日本全国に及びました。
玄三の後、正野家は繁栄を続けて2人の法橋を出しますが、明治維新後の西洋医学の普及に押されて不振に陥り、八代目の当主が江州日野製剤株式会社を設立して日野の売薬を守り抜きました。これは太平洋戦争中に日野町にあった製薬業者が合併して設立された近江日野製薬株式会社、戦後の日野薬品工業の母体のひとつにもなり、現在まで存続しています。
日野屋:中井源左衛門家
享保元年(1716年)、日野に中井源左衛門が生まれます。中井家は代々六角氏に仕え、蒲生郡岡本村におりましたが、天正11年(1584年)日野に移住して日野椀の製造・販売を始めました。源左衛門は享保19年(1734年)18歳で家督を継ぐと合薬の行商に精を出し、15年間に販路を広げ資金を蓄え、寛延2年(1749年)下野国大田原に店を開いて近江屋源三郎と名乗り、奥州から紅花や生糸を仕入れて上方へ売り捌きます。また奥州の蚕種と桑苗を日野へ持ち帰り、日野の養蚕の基礎を築きました。
さらに製紙・酒造・金融などにも幅広く手を広げ、明和6年(1769年)には資産7500両(この頃の1両を10万円として7億5000万円)に達し、奥州は仙台や相馬、畿内は伏見や京都、西は石見にまで支店を置きます。寛政12年(1800年)には仙台藩への資金貸付により名字帯刀を許され、文化2年(1805年)90歳の長寿で没した頃には5万6000両(この頃の1両を24万円として134億4000万円)もの資産を有していたといいます。天保4年(1833年)には資産額は11万余両まで増えましたが、明治維新後に大名貸しの貸し倒れに遭い、その後も存続したものの、生糸不況によって昭和17年(1942年)廃業に追い込まれました。
近江屋:武田長兵衛
大坂道修町で薬種商を営んでいた近江屋喜兵衛は日野出身でしたが、不正唐物取引に連座して株(営業権)を没収されてしまいます。しかし番頭の武田長兵衛(大和国広瀬郡出身)が養子の形で経営権を引き継ぎ、天明元年(1781年)薬種仲買商の近江屋長兵衛となります。これが現代まで続く大手製薬企業「武田薬品工業」のルーツとなりました。
日野醸造
蒲生氏に従って伊勢や下野、会津などへ移住した日野商人のうち、下野に土着した者は味噌や醤油、酒などの醸造業を始めました。当時の経済の中心は米であり、江戸のある関東には全国から莫大な米が流れ込んできますが、武士は札差(金融業者)に俸禄米を換金してもらい、都市生活を送っています。必然的に米が余るため、安く大量の酒米を仕入れることができました。酒造は古来上方が主流で、関東の地酒業者は全国的な販路を持たず、上方とのルートを持つ日野商人が参入するにはうってつけです。
しかし酒造業を生業とするには多額の資金と一定の株(商業権)が必要であるため、日野商人はまず地方の酒蔵に雇われて手法を習得し、酒蔵と酒造株を譲り受けていきました。地元の酒蔵や杜氏(酒造職人)にとっても堅実な経営ノウハウと販路を持つ日野商人に仕入れや販売を任せれば安心です。また酒蔵は古来金融業者でもあり、資金を運用して多額の金銭を稼ぐことも日野商人には可能でした。こうして下野のみならず、常陸・武蔵・上野・遠江など東国各地に日野商人系の酒蔵が出現しました。
明治39年(1906年)の日野商人の営業種別出店数調査によると、日野から全国に出店していた252店舗のうち3分の1(84店)が酒造業で、醬油醸造も加えれば全体の5分の3(151店)を占め、その多くが栃木・群馬・埼玉の北関東3県に集中していました。また彼らは本宅を日野に置いたまま他国に出店しており、出先で家業が傾けば本宅へ戻ることができたのです。現在でも北関東では10数軒の日野出身者による酒造業者が存続し、百貨店などに業種転換した店もいくつかあります。
◆日◆
◆野◆
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