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【つの版】度量衡比較・貨幣265

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

三重県

◆兄◆

◆弟◆


清洲会議

 天正10年(1582年)6月2日、織田信長と嫡男信忠は明智光秀の謀反により自害に追い込まれます。信長の次男・北畠信雄は伊勢から近江へ向かいますが伊賀衆らの反乱で撤退し、光秀討伐の総大将となったのは、信長の庶子で三男の神戸信孝でした。実際は羽柴秀吉ら家臣の働きによるとしても、大きな功績を挙げたに違いはありません。とはいえ、織田家の家督は信長から信忠に譲られており、信忠の次は嫡男三法師が継ぐと定められていましたから、信雄や信孝がいきなり家督を継ぐわけにはいきません。

 三法師はこの時数え3歳で、本能寺の変に際し家来によって美濃国岐阜城から尾張国清洲城に移されていました。そこで6月27日、織田家の宿老たちは清洲城に集まり、三法師を織田家の家督相続人とすることで合意し、今後の支配体制について会議を開きます。集まったのは羽柴秀吉柴田勝家丹羽長秀池田恒興の4人で、信雄と信孝は会議に呼ばれませんでした。

 この結果、信忠の領地のうち尾張は信雄、美濃は信孝が相続し、三法師は祖父信長が領していた近江のうち20万石を領有し、堀秀政が傅役として代官に任じられました。後見人は信雄と信孝がつとめ、秀吉・勝家・長秀・恒興の4宿老が輔佐し、家康ら諸大名がこれを支えることとなります。また信長の弟信包は伊勢安濃津15万石を与えられ、諸将にも領地が分配されました。

 羽柴秀吉は播磨・但馬に加えて山城・河内を領有し、信長の四男で秀吉が養子としていた秀勝には光秀の領有していた丹波が与えられます。代わりに柴田勝家は越前に加え、秀吉の所領であった北近江3郡12万石を受け取り、信長の妹・お市の方と再婚することとなりました。また池田恒興は摂津12万石を獲得し、丹羽長秀は若狭に加え津田信澄の所領であった近江国高島郡、光秀の所領であった滋賀郡を授かりました。代わりに佐和山城など近江東部の所領は勝家・秀政に譲っています。

 この時に割を食ったのが滝川一益です。本能寺の変の時に上野国にいた彼は主君の仇討ちに参加することもできず、信長の死を聞き侵攻して来た北条氏の軍勢と戦って大敗を喫し、各地から集めていた人質を利用しつつ信濃・木曽・美濃を経由して、6月末に清洲城まで戻りました。秀吉は清洲会議の前日には一益に対して「家康と連携して北条を防ぐように」と求める書状を出しており、彼が戻って来ること自体が想定外だったようで、所領の再分配を求める一益の要求は受け入れられず、7月1日には伊勢に帰還しました。

兄弟対立

 信雄は南伊勢5郡・伊賀3郡に加え尾張を獲得して清洲城に移り、信孝は伊勢国河曲・鈴鹿2郡5万石に加え美濃を獲得して岐阜城に入り、ともに織田氏を名乗ります。三法師は近江国安土城に移ることになっていましたが、信孝は織田家中を牛耳ろうと三法師を岐阜城に留め置き、畿内・伊勢・尾張などの所領や寺社領に対して安堵を約束する多数の文書を発給し、公家・門跡・寺社から信長の後継者として認められようとしました。しかし秀吉は山城を領有していたため両者の利害がぶつかり、美濃と尾張の国境線についても木曽川の流路変更を理由に信雄と信孝が対立します。

 こうした中で池田恒興は秀吉に接近し、次男の照政(輝政)を秀吉の養子とし、次女を秀吉の甥・三好孫七郎信吉(秀次)に嫁がせます。丹羽長秀や堀秀政も秀吉に接近し、織田家中の政治バランスは秀吉に大きく傾きます。信孝はこれに反発して柴田勝家・滝川一益らと手を結び、秀吉・信雄を排除して自らが織田家を差配しようとしました。

 10月には勝家とお市の方の婚礼が岐阜城で行われ、信孝・勝家から諸大名に対して「秀吉が清洲会議の決定に違反している」との書状が送られます。これに対し、秀吉は養子の羽柴秀勝を喪主として京都大徳寺で信長の葬儀を執り行いました。次いで丹羽長秀・池田恒興と協議して清洲会議での決定を反故とし、三法師が成人するまで暫定的に信雄を織田家当主として擁立、この決定を宿老連署の書状として諸大名に送りつけました。清洲会議を持ち出すのであれば、三法師を岐阜城に留め置いている信孝こそ、宿老たちの意向に従わず織田家中を混乱させている元凶のはずです。しかし信孝は「弌剣平天下」の印文を用いた黒印状を濃尾国境付近の土豪に発給し、信長の跡継ぎたる天下人として宿老指導体制に歯向かう意志を示しました。

 同年11月、柴田勝家は前田利家・金森長近・不破勝光らを秀吉のもとに派遣して和睦を交渉させます。しかし秀吉は逆に彼らを調略し、高山右近・中川清秀・筒井順慶・三好康長ら畿内の諸将から人質をとり、山陰道に宮部継潤、山陽道に蜂須賀正勝を置いて毛利氏を牽制させました。12月2日、秀吉は三法師の奪還を大義名分として兵を挙げ、近江長浜城に攻め寄せます。城を守るのは勝家の養子勝豊でしたが、すでに調略済みで、越前にいた勝家は雪のため援軍を送れないこともあり、わずかな日数で降伏しました。秀吉らはそのまま美濃に侵攻して岐阜城を包囲し、信雄も伊勢から北上して包囲に加わり、12月20日には信孝を降伏に追い込みます。

 信孝は三法師を秀吉に引き渡し、実母・乳母・娘らを人質として供出することで和睦します。信孝は所領を失いませんでしたが、美濃の諸大名や国人衆、家老らも信孝を見限って秀吉や信雄につき、信孝が発給していた安堵状なども政治的効力を失い、秀吉が改めて安堵状を発給することとなります。

 なおこの時、北畠具教の弟具親が5年ぶりに伊勢に戻り、信雄が美濃に出陣して不在の隙に挙兵しています。北畠家旧臣らもこれに呼応し、反乱軍は大河内城に迫りますが、留守居役の家老・津川義冬田丸直昌らが反撃して伊賀に追いやります。伊賀の信雄領を守る滝川三郎兵衛は蒲生賦秀(氏郷)の助けを得て反乱を鎮圧し、具親は最終的に蒲生家の客人として迎えられています。彼にも跡継ぎの男子がおらず、北畠家は断絶しました。

一益挙兵

 天正11年(1583年)正月、滝川一益が信孝・勝家を支持して北伊勢で挙兵します。まず関盛信らが秀吉への年賀の挨拶で不在の隙に亀山・峯・関・国府・鹿伏兎の各城を調略し、亀山城に佐治新介、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を入れて鈴鹿峠を守らせ、自らは桑名の長島城に籠りました。一益は勝家の妹婿で、娘らを勝家の養嗣子勝敏および織田信孝に嫁がせており、当初から勝家派と目されていました。陰暦正月は立春で太陽暦2月にあたり、勝家軍が越前から南下するにはまだ雪深いため、まずは南で乱を起こして敵軍をなるべく引きつける算段です。河曲・鈴鹿の2郡は信孝領ですし、信雄領南伊勢との間には信包が領する安濃津15万石があるとはいえ、美濃と北伊勢は接しているのですから、東の尾張と西の近江・畿内を分断できます。

 これに対し、京都にいた秀吉は2月に一益討伐の兵を挙げ、近江の野洲川を遡り、甲賀郡土山から東海道間道の安楽峠を越えて伊勢に侵攻しました。ここは標高490mと南の鈴鹿峠(標高357m)より高いものの、関所がなくて地形の凹凸も比較的少なく、越えるのに安楽だというのでそう呼ばれます。峠を越えると鈴鹿川の支流の安楽川があり、平野に出るあたりに峯城があって、南西の亀山城や関城、南東の国府城との連携を絶つことが可能です。南の信包も信雄・秀吉に味方し、兵力の上では圧倒的に優勢となります。

 秀吉は峯城の包囲を弟の小一郎長秀と筒井順慶・蒲生賦秀(氏郷)に、亀山城の包囲を細川忠興に任せ、自らは国府城に向かいます。峯城の包囲は2月12日に始まり、16日には城下が放火されますが、難攻不落の要害を攻め落とすには時間がかかり、亀山城からは城兵が打って出て反撃を行いました。秀吉は国府城を包囲させつつ長島城へ向かいますが、攻め落とせずに取って返し、20日に国府城を開城させ、亀山城攻めに加わります。28日には織田信雄も加わり、猛攻の末3月3日には亀山城が開城しました。しかし峯城・関城・長島城は頑強に抵抗を続け、勝家は2月末(太陽暦4月下旬)に越前から南下を開始します。

 勝家は敦賀から北近江の賤ヶ岳に到達して布陣しつつ、備後に亡命していた足利義昭、西国の大大名の毛利輝元に出兵を要請し、土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆にも働きかけ、秀吉の背後を牽制させました。これに対し秀吉は越後の上杉景勝と和睦して勝家の背後を牽制させ、若狭の丹羽長秀に敦賀を脅かさせつつ、織田信雄と蒲生賦秀に伊勢方面を任せると、自らは小一郎らとともに5万の兵を率いて勝家と対峙します。睨み合いが続く中、4月12日には峯城が開城しますが、16日には岐阜城で織田信孝が再び挙兵し、秀吉の背後を突こうとはかりました。

 秀吉は本陣を小一郎に任せ、翌日には美濃に進軍しますが、大雨で長良川と揖斐川が増水し、大垣城で足止めを食らいます。勝家はこれを好機として兵を動かし、甥の佐久間盛政が中川清秀を討ち砦を奪うなど優勢となりました。しかし20日には丹羽長秀が琵琶湖を渡って小一郎の援軍に駆け付け、時を同じくして秀吉が大垣から取って返し、盛政の弟の柴田勝政率いる部隊へ攻めかかります。この時に前田利家が猛攻を受けて兵を引いたため、これをきっかけとして勝家勢は総崩れとなります。勝家は越前北ノ庄城に逃れますが包囲され、4月24日にはお市の方とともに自害しました。

 頼みの綱の勝家が敗れた信孝は絶望し、岐阜城を包囲していた信雄の説得に従って降伏しますが、彼の母や娘ら人質たちは秀吉によって処刑されていました。信孝自身も伊勢に戻れず尾張へ連行され、知多郡野間大坊の安養院において4月29日(5月2日とも)に自害させられます。野間大坊はかつて源義朝が暗殺された場所であり、なにか含みがあったのかも知れません(同時代の軍記『天正記』では岐阜城で自害したとありますが)。

 滝川一益は孤軍奮闘しますが7月3日までには降伏し、京都妙心寺で剃髪・出家します。織田信雄はこれにより信孝・一益の所領であった北伊勢7郡を併合し、家臣の林与五郎正武に神戸城を与えて神戸氏を継がせ、佐久間信栄に峯城を、天野雄光に長島城を、土方雄良(雄久)に菰野城を与えました。亀山城は蒲生賦秀に与えられ関盛信が家臣として入り、美濃の信孝領は池田恒興に与えられたものの、尾張・伊賀および伊勢の大部分を領有し、信長の嫡出の次男である信雄は、事実上の織田家当主として申し分ない実力者となります。しかし織田家中の実権を握る秀吉とは間もなく対立し、徳川家康ら諸大名を巻き込んで再び大乱が勃発することとなりました。

◆兄◆

◆弟◆

【続く】

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